アティーク・ラヒーミー『悲しみを聴く石』

文字数 2,996文字

「アル・カッハール、アル・カッハール、アル・カッハール……」
 ある部屋に一人の男が横たわっており、その傍らで妻が祈りの言葉を唱えている。男は戦争で負傷し、意識を取り戻さない状態が続いていて……。

 作者アティーク・ラヒーミーは一九六二年、アフガニスタンの首都カブールに生まれた。ソ連によるアフガニスタン侵攻のさなか、一九八四年に二十二歳でフランスに亡命。フランス語で執筆する彼の作品は、亡命文学あるいは移民文学に位置づけられる。

 アフガニスタンは多民族国家であり、多数派のパシュトゥーン族、タジク族、ウズベク族、トルクメン族、ハザラ族の五つの民族が隣り合って暮らしている。公用語は二つあり、ダリー語(アフガン・ペルシア語)とパシュトゥー語である。
「アフガニスタン」とはダリー語で「アフガンたちの土地」を意味する。「アフガン」とはダリー語で、パシュトゥー語を話すパシュトゥーン人のことを指している。

『悲しみを聴く石』の原題である"Syngué(サンゲ) Sabour(サブール)"とは、ダリー語で「忍耐の石」を意味する言葉である。その石に向かって、人には言えない苦しみや悲しみを告白すると、石はその人の言葉や秘密を吸い取り、ある日、粉々に割れる。「忍耐の石」が砕けるとき、語りかけていた人は苦しみから解放されるという。(※1)
 語り手である「女」にこの言い伝えを教えたのは、嫁ぎ先で彼女に唯一優しかった義父(夫の父)だった。義父は亡くなる前日、「忍耐の石」とはメッカのカーバ神殿にある黒い石のことだと言う。

 この石は、地上に生きるあらゆる不幸な者たちのためにあるのだ。そこに行きなさい。そして、石が砕けるまでおまえの秘密を告白しなさい。苦しみから解放されるまで。(※2)

 何世紀も前から、何百万という巡礼者たちがメッカに行って、その黒い石の周りを祈りながら回っているが、

石は砕けない。
 語り手の「女」にとって「忍耐の石」の役割を果たすのは、昏睡状態の夫の身体である。彼女は今まで自分が耐え忍んできたさまざまな不満を、もの言わぬ石と化した夫にぶつけていく。

「石の名前を思い出した。サンゲ・サブール、忍耐の石、神秘の石!」男の傍らにしゃがむ。「あなたは私のサンゲ・サブールよ」女は男の顔に軽く触れる、本当にその石に触れているかのように。「あなたにすべてを話すわ、全部、私のサンゲ・サブール! 私があらゆる苦しみから、不幸から解放されるまで、あなたが……」(※3)

「忍耐の石」の役割は、声を発する者の「身代り」であると言える。これは日本にも古来からある、けがれやわざわいを負わせて捨てる人形の文化と共通しているように思う。

 家の外では銃撃の音と戦車の地響きが聞こえている。銃を持った兵士たちが家に押し入るが、語り手の「女」は「売春婦」だと嘘をついて、なんとか彼らを追い返す。

「ああいう男にとって、売春婦を抱いたり犯したりは自慢になるようなことじゃないのよ。(中略)だから、売春婦を暴行するのは、暴行に当たらない。若い娘の処女や、女性の誇りをうばってこその暴行、それがあなたたち男の誇りなんでしょう」(※4)

 追い返した兵士たちのうち、ひとりの少年兵が彼女の家を再び訪れる。まだ声変わりの途中で十六歳の少年兵を「気の毒な子」だと感じて、「女」は彼の身体を受け入れたのだった。

「そういえば、私が娼婦だと言ったとき、あの下司野郎は私の顔につばを吐きつけたのよ! (中略)ねえ、この間、あの気の毒な子と一緒にここに来て、私をありとあらゆる言葉でののしったやつだけど、あいつ自身、何をしてたか知ってる?」女はカーテンの前でしゃがみ込む。「あいつはあの子を自分の快楽のために使っていたの。まだあの子が小さかったときに誘拐して。(中略)あの子の身体はすっかり傷つけられていた。やけどの痕が至るところにあった、太ももに、おしりに……」(※5)

 少年兵はそれから何度も「女」のもとを訪れるようになり、彼女のためにこっそり菓子や果物や装飾品を置いていくようになる。
 語り手の「女」は、夫の身体が物理的に「物言わぬ石」になるまで、彼女自身が精神的に「物言わぬ石」にさせられていた。
 昏睡状態にある夫に一日中語りかける「女」と、年長の兵士から性的に虐待されて育った少年兵との間のひそやかな交流は、虐げられ、声を奪われた者同士の共感があると言える。

 本書のエピグラフ(前書き)には「アフガニスタンのどこか、または別のどこかで」と書かれている。したがって作者は、この物語をどこででも起こりうる物語として読者に提示していると言える。たしかに作中でも、語り手の「女」が属する部族は明かされていない。「野蛮なターバンを巻いた男、抑圧されたスカーフを被る女」という先入観で読んではいけないだろう。
 家庭内や夫婦間や、力関係に差がある間柄において、抑圧された側が声を奪われて、だれにも助けを求められないというテーマは、西欧でも非西欧でも変わらないのだ。

「そう、サンゲ・サブール……神の九十九番目の異名、つまり最後の異名はなんだか知ってる? それはアッ・サブール、つまり、忍耐。あなた自身を見て。あなたは神なの。あなたは存在するけどれど動かない。あなたは聞くけれど話さない。あなたは見てるけれど目には見えない。神のように忍耐強く、身動きもしない。そして、私はあなたの使い、あなたの預言者、あなたの声! あなたのまなざし、あなたの手! 今、あなたに本当のことを教えるわ。アッ・サブール!」(※6)

 夫が昏睡状態になって十六日目に、「女」が十六番目の神の異名「アル・カッハール」を唱える場面から、この物語は始まる。彼女は毎日、朝から晩まで九十九の数珠玉を繰りながら、神の異名を九十九回唱えつづけていた。(※7)
 そしてついに九十九日目、九十九番目の異名「アッ・サブール」までたどり着く。その日、「女」は夫に最後にして最大の秘密を告白する。彼女は「私の秘密があなたを生き返らす」と信じるが……。

 二〇〇八年に発表された『悲しみを聴く石』は、フランスで最も権威ある文学賞であるゴンクール賞を受賞した。
 密室を舞台とし、女性が秘密を打ち明けるにつれて緊張感が増していく構成は、演劇の一人芝居に向いている。二〇一二年には、作者自身が監督を務め、イラン出身のゴルシフテ・ファラハニ主演で映画化された。(※8)日本でも、二〇一五年にシアター風姿花伝によって舞台公演されている。


※1 本書は最初からフランス語で執筆されているが、"Syngué Sabour"(サンゲ・サブール)はダリー語に由来する言葉である。二十世紀のペルシア文学における重要な作家サーデク・チューバクの同名の小説『忍耐の石』(1966年)があり、その影響を受けていると言える。

※2 アティーク・ラヒーミー『悲しみを聴く石』関口涼子訳、白水社、82頁
※3 同書、84頁
※4 同書、93頁
※5 同書、132頁
※6 同書、147頁

※7 イスラム教では神(アッラー)には99の美名があるとされる。16番目のアル・カッハールは「世を統べる者」の意味。

※8 映画の公式予告編はこちら。https://youtu.be/PnBh7bO3caI?si=ZqqPj8pZ8Rxtd80Z
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