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文字数 3,070文字

 昭和十一年、二・二六事件が日本で起きた。翌年には北京郊外で盧溝橋事件が起き、日中戦争がはじまった。そして、世の中が重苦しい空気に包まれ始めた。それでも、紀和の周りでは平穏無事な生活が続いた。
 異国での刺激に満ちた生活で、紀和にとってはあっという間の三年間だった。紀和は十歳、小学四年生になった。身長も伸び、女性らしい体つきにもなり始めた。鼻つまみが功を奏したのか鼻筋の通った顔は誰もが将来は美人になるだろうと言ってくれた。
 その年、東村親子に大きな変化が起きた。それは治孝の再婚だった。再婚相手はハルビンで日本人が経営するキャバレーで女給として働いていた里田虹子(さとだこうこ)という三十歳の女性だった。治孝が通いつめて、ついに口説き落としたという感じの結婚だった。
 当然、紀和は彼女になじめなかった。できるだけ会話は避けるようにしていた。仕方なく呼ぶときも名前は呼ばず「あのー」と言ってから要件を短くぶっきらぼうに話した。そして、学校から帰って虹子が一人でアパートにいると、紀和はすぐにランドセルを置いて香保子の部屋に行った。そこで宿題をやったり、おしゃべりをしたり、おやつを食べたりして治孝が帰るまで過ごした。虹子は根っからのからっとした性格なので、そんな紀和の態度を気に留めることもなかった。結局、紀和の生活は虹子がやってきてもほとんど変わらなかった。
 翌年の昭和十三年、日中戦争は終結の目途がたたず泥沼化していた。紀和が通う小学校でも何人かは、兄や父親に召集令状が届いていた。紀和は父親にも届くかもしれないと心配みなっていた。
 紀和の周りでも戦争の影が色濃くなりはじめた昭和十四年、治孝と虹子の間に男の子が産まれた。その子は正治と名付けられた。紀和は出産には立ち会わなかった。紀和が正治を初めて見たのは、虹子が産院から退院してアパートに帰ってきた時だった。
 紀和が目を輝かせて赤ちゃんを見ていると、虹子が「紀和ちゃん、抱いてみる」と笑顔で言った。
「うん」
 紀和は小さく頷き、虹子から赤ちゃんを手渡されると恐る恐る抱いた。
「紀和、落とすなよ」
 治孝にそう言われ、紀和は少し手が震えた。
 初めて抱いた赤ちゃんの重みと温もりが不思議だった。可愛いという気持ちとは別に、はかない小さな命が怖いとも思った。
「正治ちゃん、紀和ねえちゃんだよ。よろしくね」
 虹子が正治の小さな頬をつついて言った。すると、正治が笑顔になった。紀和はその笑顔を見て、なぜかこの小さな命を守らなければと思った。
 十二歳差の弟である。紀和は自分が産んだ子供のように正治を可愛がった。それがきっかけで紀和は虹子とも仲が良くなった。
 戦争の影は、そんな東村家族にも確実に忍び寄っていた。その年の暮れ、木藤に召集令状が届いたのだ。出征する前の晩、上坂夫婦は木藤の激励会を開いた。その会には、紀和も虹子も同席した。正治は長椅子に座った虹子の傍に寝かされていた。
 その場で木藤は努めて明るく振舞った。しかし、会の終盤は話が続かず、しんみりとした雰囲気になってしまった。
「上坂所長、東村さん、今まで大変お世話になりました。私はお二人と仕事ができて幸せでした。それに、香保子さん、東村さんのご家族と、まるで本当の家族のように生活できて嬉しかったです。ありがとうございました」
 木藤は立ち上がり頭を下げた。目は涙であふれていた。
「木藤君、必ず元気で帰ってこいよ。そして、また皆で仕事を頑張ろう」
 上坂が立ち上がり木藤の手を握って言った。笑顔を作っていたが、その目には涙があった。治孝も立って、握り合っている二人の手に自分の手を重ねた。香保子も虹子も紀和も立ち上がり、口々に「無事に帰ってきてね」と泣きながら言った。
 その時、なぜだか正治が笑い声をあげた。そして、泣いている皆の顔を不思議そうに眼で追った。
「まあま、正治ちゃん起きたの」
 虹子は正治を抱き上げた。
「そうだ、明日の朝は木藤君が無事帰ってこられるように、正治ちゃんのように笑顔で送ってあげよう」
 上坂は涙を手で拭って言った。
「そうね、笑顔で送ってあげましょう。絶対、大丈夫よ、木藤君なら」
 香保子は自分に言い聞かせるように言った。
 それに対して、木藤は「ありがとうございます。必ず生きて帰ってきます」と皆に頭を下げた。だが、木藤は帰ることがなかった。
 そしてついに、東村家族にも戦争が襲いかかった。
 木藤が出征して間もなく、年が明けた昭和十五年一月、治孝が出張で奉天に向かうことになった。仕事は奉天にある関東軍の部隊に納入したドイツ製のカメラの修理だった。
 虹子と紀和は凍てつく寒さの朝、ハルビン駅で治孝を見送った。二人にとって汽車の中から笑顔で手を振って見送りに答える治孝の姿が、最後の見納めとなってしまった。
 治孝は奉天に着くと、そこからさらに満洲と中国との国境を越え、日中戦争の最前線近くまで連れていかれた。関東軍の兵士の護衛付きで、治孝は目的地に着くまで目隠しをされた。連れていかれた場所は関東軍情報部の秘密部隊が使っていたアジトだった。そこでカメラの修理を終えると、治孝はまた護衛の兵士とともに帰途に就いた。しかし、途中で中国軍との戦闘に巻き込まれ、護衛の兵士とともに治孝は殺されてしまった。
 一泊二日の予定の出張から帰らぬ治孝を心配して、三日目に上坂は奉天の関東軍司令部に問い合わせた。それに返ってきた答えは、ただ東村治孝は死んだということだけだった。事情もわからぬまま、そんな答えをされても上坂は納得ゆかず何度も問い合わせをしたが同じ答えだった。
 心配している虹子と紀和になんと伝えればいいか、上坂は重い気持ちのまま二人の部屋を訪ねた。
「えっ?!どうゆうことですか、東村が死んだなんて、なぜですか」
 虹子は震える声で上坂に問いかけた。
「すまない、関東軍からはそれ以上なにもないのだ。俺も必死に食い下がってみたが、本当に何も教えてくれないのだ」
 上坂は肩を落とし答えた。
 紀和は言葉もなく呆然となって傍に立っていた。
「信じられません!きっと何かの間違いです。私は死んだなんて信じません。きっと帰ってくると信じています」
 虹子は毅然として言った。
「俺も関東軍にいる知り合いをつかまえて事情を聞いてみるよ。俺も絶対、東村さんは生きていると思う」
 上坂は力強く言った。
 しかし、その後も事情はわからなかった。虹子と紀和は帰ってくることを、ただ信じることしかできなかった。
 大黒柱を失った一家は収入を断たれてしまった。上坂の援助もあったが、虹子は働く決心をした。そして、また女給の仕事に復帰した。
 仕事用のフリルの付いた洋服に着替え、鏡の前で化粧をしている虹子の姿を紀和は正治をあやしながら見ていた。普段の虹子から化粧によって美しく変わってゆく姿を紀和は感心しながら眺めていた。そして、自分も化粧をしてみたい好奇心が湧いた。
 何日か後、虹子が仕事に行き正治が寝た後に紀和は虹子の真似をして鏡の前で化粧をはじめた。紀和は化粧をしながら虹子が働く秘密めいた大人の夜の世界を想像していた。子供の紀和でもそれがどんな世界か大体の知識があった。男と女が酒を飲みながら歌い踊る華やかな世界だ。平和な世ならそんな世界に憧れを感じてもいいだろう。だが、今はこんなご時世なのだ、紀和は虹子のやっている仕事が良いこととは思えなかった。そして、父親が帰ってこないこんな時に自分は何をやっているのだろうと思った。紀和は慌てて化粧を拭き落とした。
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