紀和の戦争   1

文字数 4,420文字

 この国は江戸から近代国家となった明治に入って、わずか二十七年で他国との戦争を経験している、日清戦争である。それから十年後には日露戦争もあった。四十年足らずで二回の戦争が起きたのだ。日本の近代化は、軍事国家への道でもあった。
 昭和二年、日本の国内では銀行への取り付け騒ぎが起きた。後に「昭和の金融恐慌」あるいはただ「金融恐慌」と呼ばれるものである。これもまた戦争が影響した出来事で、第一次世界大戦後、日本は一時的な好景気の後に深刻な不況になった。その不況の時期に、時の大蔵大臣が中小の銀行の貸し付けが放漫だと注意したのがきっかけで起こった。
 そんな年に東村紀和(とうむらきわ)は生まれた。
 病弱だった母親は紀和を産むとすぐに亡くなった。そのため、紀和は本所区錦糸町に住んでいた祖母に預けられ、そこで七歳まで育てられた。
 祖母の蟹江トミは近所で「世話焼きトミさん」と呼ばれていた。明治の初めまであった貧乏長屋の出身で、隣近所が助け合った生きていたせいか、結婚でそこを離れ錦糸町に来てからも何かとご近所の世話を焼くようになっていた。トミは「縁は貧乏人の財産」というのが口癖だった。
 トミは紀和の父親である東村治孝(はるたか)を女手一つで育てた。父親はよそに女を作り治孝が生まれる前に出ていったのだ。治孝が十八になる頃にトミは再婚をし、その相手は錦糸町の家に入った。苗字は相手に合わせて蟹江と変えたのだ。治孝はその人と馴染めるはずもなく、二十歳になる頃に家を出て一人暮らしをはじめた。
 治孝は明治三十三年(1900年)の生まれで紀和が生まれた時は、二十七歳になっていた。その頃、治孝は光化学研究所(通称、光化研)という名前の民間会社に勤めていて、営業の仕事をしていた。
 光化研は写真関係の製品を製造販売する会社だった。主力製品は印画紙や、いわゆる青写真といわれる設計図などの複写使う感光紙だった。他に、ドイツから輸入したカメラも扱っていた。
 昭和九年六月、その光化研が大陸への足掛かりとして、満州国の首都ハルビンに営業所を開設した。光化研の満州での主な顧客は、関東軍とその影響下にあった南満州鉄道、いわゆる満鉄だった。
 治孝は、その営業所に転勤を命ぜられた。転勤に際し、七歳になった紀和を祖母から引き取り、ハルビンに連れて行くことにしたのだ。
 紀和は出来ることなら、ハルビンに行きたくなかった。トミもまた、たった一人の孫を手元に置いておきたかった。そんな二人はハルビンに向かう前の晩、肩を寄せ合い一緒の布団で眠った。
 翌日の朝には、錦糸町の駅から旅立つ紀和をトミは涙なみだで見送った。紀和も涙で手を振りトミに別れを告げた。
 汽車で新潟まで一日、そこから船で朝鮮半島まで一日、後は大陸を汽車で一日の旅である。ハルビンまでは丸三日がかりだった。
 ハルビンに着き疲れ果てた紀和は、一時的な宿泊場所だったホテルで丸一日、泥のように眠った。初めて寝るホテルのベッドはふかふかで、紀和を深い眠りへと誘った。眠っている間、何度か薄目を開け周りを見たが、夢との区別がつかなかった。紀和はすぐに瞼を閉じ、寝返りを打って眠った。トイレには夜中に一回だけ起きたが、治孝の手を借り、夢遊病者のようになって何とか用を足した。
 夢の中では、まだトミの家にいた。小学校の友達もたくさん出てきた。楽しい夢は一転、怖い夢に変わる。ハルビンまでの列車の中で初めてみたロシア人の男の顔だ。紀和には赤鬼の顔に見えた。怖くて座席を立って逃げ、父親を捜した。トンネルに入ったのか、車内は暗くなった。だが、赤鬼の顔だけは闇に浮かび前からやってきた。紀和は引き返し逃げようとしたが、足が前へと進まなかった。もがいた。突然、紀和の体は闇のさらに深いところに落ちた。
 ドサッ
 紀和の体はベッドから落ちた。
「おい、大丈夫かい?」
 治孝の声だった。紀和は床から上体だけを起こし、父親の方を見た。父親は部屋に備え付けの机で書類のようなものを書いていた。
「ここ、どこなの」
 紀和は眠そうに目をこすりながら、立ち上がった。
「ハルビンだよ」
「ハルビンって?」
「まだ寝ぼけているな。無理もないか、昨日の夕方から今まで寝ていたからな」
 治孝は微笑んだ。
「窓の外を見てごらん」
 治孝は紀和を窓のところに誘って薄いレースのカーテンを開けた。紀和は一瞬、外のまぶしさに目を閉じた。そして、ゆっくりと目を開くと、目の前には見たことのない街並みが広がっていた。
 帝政ロシアが作った都市で「極東のパリ」とも評される街並みだった。ただ、本家のパリと違うところは、バロック様式の建物が建ち並ぶ中、ところどころに中国風の建物や屋根がネギ坊主のように見えるロシア風の建物があることだ。
「本当に来てしまったのね」
 紀和はうなだれながら窓を離れ、またベッドに戻り座った。
 時間は午後四時を過ぎていた。昨日の三時頃にハルビンの駅前でラーメンを食べたきりで、その後は何も口にせずに眠っていたのにお腹は空いていなかった。というよりも、気が滅入って食欲が湧かなかったのだ。
 紀和は風呂だけ入り、またベッドにもぐりこんだ。
 あくる日は、さすがに空腹で早朝に目を覚ました。
「ベッドの脇のテーブルにパンがあるから食べなさい。お腹空いているだろう」
 治孝は隣のベッドから、寝たまま頭だけを上げて言った。
 紀和は皿に置いてあったパンを食べた。硬くなっていたが、空腹の紀和には最高に美味しいパンだった。
 その後、紀和は八時過ぎに治孝と一緒にホテルの食堂で、改めて朝食を食べた。それから二人は部屋に戻って荷物をまとめ、ホテルのロビーに向かった。
 ホテルの廊下も食堂も異国の言葉が飛び交っていた。紀和には赤鬼青鬼に見えるロシア人もいた。紀和は怖くて治孝にぴったりとくっ付き、床ばかりを見て歩いた。
 ロビーに着くと、先にハルビンに来ていた営業所の所長である上坂英世が待っていた。上坂は四十五歳で、二十歳と二十四歳の兄弟を東京に残し、奥さんと二人だけでハルビンに来ていた。
「おはようございます。ほら、お前も挨拶しなさい」
 治孝は紀和の頭を押さえ、お辞儀をさせた。
「おはようございます」
 紀和はぼそっと挨拶をした。
「おはようございます」
 上坂が微笑みながら挨拶を返した。
「眠り姫ちゃん、ようやく起きたかい。昨日の昼過ぎ、君たちの部屋に伺っても紀和ちゃんは目を覚まさずずっと寝ていたからね。かわいい寝顔で」
 上坂は笑顔で紀和の顔を覗き込みながら言った。紀和は恥ずかしそうにして下を向いた。
 三人はホテルを出た後、すぐ近くにあった営業所に立ち寄った。営業所は四階建ての雑居ビルの二階にあった。そのビルの隣には四階建てで雑居ビルよりもはるかに床面積の広いビルが建っていた。その最上階には、大きく「明治キャラメル」という看板が掲げられていた。その他にも、各階にロシア語や中国語の看板もあった。そのビルだけでなく通りを挟んで建ち並ぶ建物には同じようにロシア語、中国語、日本語の看板が混ざり合っていた。
 東村親子は営業所の場所を確認した後、こんどは上坂の案内で親子がこれから住むアパートに向かった。アパートは営業所から出て隣の明治キャラメルのビルの角を曲がり、そこからさらに歩いて五六分のところにあった。石造りの二階建てで、東村親子の部屋は一階だった。間取りは今でいう2LDKで、和室はなく、全部洋式の造りだった。
 東村親子の部屋の隣が上坂の部屋で、廊下をはさみ向かいが同じ営業所で働くことになる木藤という二十五歳で独身の男の部屋だった。その時、木藤は一人で営業所にいた。
 上坂がそのアパートや部屋の説明をしていると、そこに女性が入ってきた。上坂の妻だった。
「紹介します。うちの家内の香保子といいます」
「東村治孝です。こいつは紀和といいます。よろしくお願いします」
 治孝はまた紀和の頭を押さえてお辞儀をさせた。
「東村さん、こちらこそよろしくお願いします」
 香保子は品のいい笑顔を浮かべ会釈した。
「紀和ちゃんね、かわいいわね。うちは男兄弟だからこんな女の子が欲しかったわ」
 香保子はかがみこみ、紀和の顔を見ながら言った。英世とは違い、紀和は恥ずかしがりながらも香保子には笑顔を見せた。
「東村さん、お昼は私が作ってごちそうしますので、お昼になりましたら私たちの部屋においでください」
「それはすいません。でも、大変では、私たちは外で・・・・・・」
「遠慮なさらずに、おいでください」
「そうですよ、これから私たちはこの異国の地で木藤君も含み協力して生活や仕事をしなければならないのです。もう、家族も同然と思って遠慮なく仲良くしなければ、ここではやってゆけないですよ」
「すですね、それでは遠慮なくご馳走になります。ありがとうございます」
 治孝は頭を下げた。
 上坂夫婦が部屋を出た後、東村親子は持ってきた荷物を開け、作り付けのクローゼットに服などを入れた。そして、改めて部屋の中を確認した。部屋には、親子が当面暮らすには困らない調度品が揃っていた。
 お昼になると、木藤も上坂の部屋を訪れ、五人で食卓を囲んだ。
 上坂たち三人は、営業所設立の準備のため一年前から一緒に仕事をしていた。その間、上坂は何度も三人での酒の席をもうけた。そして、三人の仲は親密になった。そのため、五人の昼食はまるで、本当の家族のように和気あいあいとしていた。その雰囲気に、浮かない気持ちでいた紀和の心も少しは晴れた。
 昼食を終えると、上坂と木藤は仕事のため営業所に戻った。東村親子はハルビンの小学校に編入のための手続きに行った。
 その晩、上坂は二人を連れて夜の街に飲みに出かけた。紀和は上坂夫婦の部屋で香保子と父親の帰りをまった。それ以降、紀和は父親が残業や出張、お客の接待のために部屋を空けている時は香保子と一緒に過ごした。香保子はまるで自分の子供のように紀和の世話をした。
 その翌日から紀和は、小学校に通い始めた。
 学校への通学は、家が近い子供どうしで組みになって通った。紀和が入った組には六人の子どもがいた。その組の一番年上の五年生の男の子が毎朝、紀和のアパートに迎えに来てくれた。
 その組には、紀和と同い年の女の子が二人いた。二人とは、すぐに仲良くなった。紀和は子供の足で三十分ほどかかる学校までの道のりを、その二人とおしゃべりしながら通うのが楽しかった。
 一週間もすると、すっかり紀和は学校にもハルビンの街にも慣れた。鬼の顔のように見えたロシア人にもなれた。それどころか、若いロシア人の男性を見るのが好きになった。青い目や高い鼻が、かっこよく思うようになったのだ。また、街中を颯爽と歩くロシア人の若い女性にも憧れた。アパートの部屋で時々、紀和が一人になると鏡を見ながら高くならないかと、自分の鼻をつまんでいた。
 







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