25.  磔にされて(序1)

文字数 23,061文字

これは「磔にされて」におけるその序章としてのもの。

あれを初稿のまま、書き散らかしたばかりのあのまんまで、放置するのは申し訳ないので、(誰に対して?)、今ここに、改めて、

ましになるかなっと…思いますっと。さて、いきなり本題に入らないで、少し毛色の違うお話を、少し、させていただいてからに、しよっかな〜っと、思います。二題は、とりあえずはやりたい。これらは、

としてのもの。

この導入部においての構想も、実は盛りだくさん。ごめん..。既に書き散らかしてある他のテーマにおいても、それらを、再登場させようかなって思う。また違った切り口において語ることでできるのでないかな?と…。

とりあえず、忘れない内に、自分が今回対象とせずにはおられないものをあげておこう。
①は、やはりシュミラークルにおいてだ。②は、AIたるものにおいてのその限界。
題材としてドラゴンを取り扱う。*これらは大変に重要なのだ!。

さて、ここで、皆様には考えていただきたいことがある。自分の論考を読む前に、
皆様としての、されてのお考えを、ご用意しといていただきたい。

考察においてのテーマは、それらはいったいなんなのか?、あれらは果たして実体あるものとしての存在なのか?、命あるものなのか?、どうして、どこから、あれ等としての形象は、生まれて来たるのか?、そもそもからして、両者においては、違いたるものが、あるのか?。

先に、これらの問に対しての自分の見解、問いにおいての回答を、提出しておこう。

両者は確かに存在してる。実在としてのもの。だが、まったく違う存在にはなる。命あるものかと問われれば、これに答えることは難しい…。ガイア、自然が、生きているものだとするならば、龍はイエスになる可能性が

。ドラゴンこれは、一種のプログラムだ。

だとすることもまた可能だと思う。だが、これの制作者は超越存在になるので、ある種のブラックボックスとしてのものにしかならないのだと思う。少し、乱暴な話しをしてしまうと、ドラゴンは、あのネフィリムやゴジラに、限りなく等しい存在なのだ…。

ちょっと脱線:
表現ってのはなぜされる、行われてしまってあるのか?。世に他者に伝えられるべきだと思うから、思ったからだ。それが、常識としてのものの、その範疇に収まるのであれば、こういった衝動が起こることはまずない。自分においてもなにがしらかのショック、新鮮!と、受け取られていたからこそ、それを表現せざる得なくなる…。まず最初に、なにかの了解、理解、その認識ってのがその個人においてあったんだ。これが表現におけるその対象。

次に、これこそがその個人においての難関になるのだが、如何に、

他者が理解できるような形にて、表現することができるのか?。どんな形を、描写をそれにおいて与えればいいのか?。つまりは翻訳、変換としての作業、もの、こと。この作業の精髄、その真髄極意を語るのであれば、それは、自動性に、無意識においてのその奮闘に、任せるにしかない!。自分では、これはできないんだ。できっこないんだ。(常日頃の日常の意識としてはの意味)。それ自らが、いでたらんとするそのままに、そのまんまに、任せてあるばかり…。つまりは自分を

明け渡してあること。憑依されてしまってあること。これがまた難儀でリスキーなることにはなるんだ…。また、このことができうる、適ひうるってひとも、珍しいんだ。いくつか条件はあるのだが、その内の最たるものは、この社会としての現実から、常識からは、遊離してしまって、あること、乖離してしまってあること。そ〜成りやすいってことでもいい。つまりは、常識としてのその頭の固さに、あまり、強固に、縛られては、

ってこと……。

補記:単にここは情報処理のことを云ってる。

問題は、定型化を特徴とする、それをして、されてあるマインドとしての場が、そこにおいての機能が、まったくの役に立たずと、に〜、なってしまってるんだ。CPUによっての演算は所詮は規定の既定の、ある意味、常識としての、共有コンセンサスたるものに基づいての機械的な処理にすぎない。杓子定規な〜処理、だ……。

つまりは、これは既知だ。

でありその

。明確に共有されてあるとろこのそのロジックにおいて、過不足なく、完璧にまとめられてあるもの。つまりは、

ってことになる。確実に、あとで、検証ができる。できなきゃならない。再現性が間違いなく

伴ってあるってこと。

これが制限なのだ。この制限限界において取り残されてしまう、扱うことが不可能になってしまうその領域の幅は、その量は、どれほどになるのか?。既知たるものとしてのその分量を、砂粒ひとつとするならば、地球上の砂のそのぜんぶ、その総量だってことに、なるやもしれないではないか!?。だからね〜くれぐれもそれにあれらに万能としてのイメージを投影しないようして頂きたいっと。

既知たるものにおいても、ことの連続性を支えてあるもの、ものらにに関しては、まったくの未知なんだ。なぜにプラス電荷であるとおころの陽子が、複数、強固に、ギッチギチのぎっちりとで一体化されてあるんだ?!。これはそもそもからしてありえない話しなんだ。それを「強い力」によってなんだって説明する理解することは、ごまかし、詭弁、取り繕いとしての話しでしかない!。ことの原因は、その場そのものによってことでしかない。では、その場たるものは、どうして形成されてあるのだ?。そのいろんな場としてものが、そこの、その世界における物理法則を決定し、また成り立たせている。あまりにも言葉足らず、理解不足。科学も、そしてこの自分も……。

電子は雲状となって遥か離れた空間にて所在している。ならばだことのすべての成り立ちの原因は地球そのものと大気圏との関わりをモデルとして考察するのがいい。だがだ、このことにおても太陽系、ひいては宇宙全体のその成り立ちをも考慮にいれてある必要が、ある。

よって、真に希有にして未知なる情報に接してのその際には、処理機能自体が止む、沈黙してあるまでとなる。なので

せざるを得なくなる。ではそのモードとはなんだ?。なにがことにおいての情報処理を担う、賄っている?。この場合は、ことの主体は本質魂だ。真に十全なる自己だってことにすぎない。それの彼のガイディング、ガイダンスに、日常としての機能のすべては、従ってあらねばならない…。日常としての自分をこれに明け渡してしまってある必要があるのだ。*ことにおいての定点を穿ってあるのはプルシャ、アートマンとして語られてある自己の本質なのだ。だが、これは、これの特質は、主体なき観察であるってことなんだ。ならばだ、ある条件がどうしても伴ってくる。この姿なき、正体不明の自己との関係が

必要がある。このことはどれだけ自分としての本質その魂を、人格としての自分は愛して評価してあるのかってことに関わるのだ。どうだけ恒常的に関わりが持てているのか?。それはね〜背後において、マインドとしての場の

、察するにしかありえない、叶わないもんなんだ。だが、いる、確実に在る。最後に、ではそれを察することにできてある自分は、どうしてそれができる?できているのか?。それが可能となるのは唯一、この自分もマインドとしての場の、その外に、立脚していなければならない。つまりは回答とすべきなのは、全体の統合において唯一出現することが適うこととなる自分だ。この自分と魂はほぼコインの裏表としてのその関係になるっと…。

一種の解脱者である必要性があるってことを云ってるまで…。半端モン、社会からの脱落者だって云ってもいいんだけどね。なかなかにそれとしての事態状況は起こり得ない。だれがそうなることを、自ら積極にて求むるって云うんだい?。すべてはお導きの、定めの、ままにだ……。

差し込み:
以前に同じ内容のことを文章にしてた。でもそれはまだ未公開であった。でした。
繰り返しにしかならないであろうが、それも、掲載しておく。

極性は電子(-)と陽子(+)にしかない。中性子は無極としてのもの。電子は原子核からすればかなり離れた状態で雲状としての存在としてあるらしい。ここにおいて自分が”場”として語ってあるものを、理解をしておいて頂こうかなっと。現在語られてあるのは陽子を固くきつくしっかりと結びつけて一体化してあるのは「強い力」と命名されてあるもの。でも、これは、インチキだ。分からんXに対して新たなる代数を放り込んだまでのこと。謎なんだ。未だ。お互いに反発することを余儀なくされてあるものたちが、一体としての状態に、封じ込められている。片や、接着、融着、合一が避けがたくしてある電子は、遥か彼方にて雲状、霧状の状態にて、原子核のまわりを取り巻いてあるばかり。距離が保たれてあることの理由は、簡単には遠心力によってだってことしか、自分においては思い浮かばない。スケールにおいてではこの力学的な話しは有効ではないかも知れない。たぶん不適合…。でもだ、この自分においての流儀ともなれば、手前誂え用意の訳の分からん新たなる代数を持ち込むことはしない。こりゃ〜詭弁にしかならず、問題の、謎の先送りでしかない。発想としてこの地球そのものをモデルにすることを選択するわけさ。電子雲としてのものは当然に地球を取り巻いてある大気圏としてのものになる。まっ、こう考えてみてもなにも問題は解決しなのではあるが、なんらかの発想の起点ぐらいにはなるではないだろうか?。原子核においての謎を解くために、地球圏としてのものを、なにが、いかに、支えているのかを解くことが正解への近道なのではないだろうかって思うのさ。すると、この宇宙としての構造そのものが、地球圏としてのものを生み出し、これを支えているって話しになってくるんだ。地球が単独で誕生し存在し続けているわけでもないし。これを、これのすべてを、”場”だってことにしてるわけなのさ。空間だっていってもいい。ならば、これの中をどうして、途方もないエネルギーによっての運動が果たされて、続いてしまっているのか?。真空であるが故に、エネルギー保存の法則が目一杯、最大限、無限なるの加減にて働いているんだよってことになるのかも知れなが、やはり、ここにおいてはトロゴとしての発想を、究極の要因だと捉えてあることのほうが大事なんではないだろうか?。

とにかく、領域を区切ってある、その境界、バウンダリー、

ことのすべてをそう、そのように成り立たせているものなんではないだろうか?。たとえば、今貴方が読んでいるこの文章だ。これは白地としての領域が保たれていてこそ、発現しうるものになる。では、この白地をそれとして成り立たせているもののその正体はなんだ?。サーバーでは当然ない。プログラムだってことになれば少し、かなり正解にちかづいてきてはいるが、これもまた本丸としてのその正解ではない。極論的には、この宇宙そのものがだ。だが、そうなってくるともう一層、神だってことにしてしまった方が、スッキリすることに、なるのかもしれないが…。

終わり

つぎに、

ってことにおいても、これにも難関が課題がある。材料がなくてはならない。それと成りうるべきものを、

持ち合わせていなければならない。それが自身としての体を外形を形作る為にさ...。でもこのことにおいて材料がマテリアルが間に合うなんてことはまずない。あり得ないのさ。そこで、エラーが、妥協においての産物が異物が、折衷案としての偽物が、贋作、まがいものが、登場してくることになる。翻訳においての失敗ってことでしかない。ことの、その表現の背後においては、未処理としての情報が、ほんと山のように眠ったままになっているってことなんだ。

もしその表現者が誠実であれば、この彼はすべてを求める目指すのではなくて、対象における、その全体すべてではなくて、骨子として結ぶことができるであろう、その要諦、精髄のみを、選択する、選択してあることになる。ここにも、このことにも課題たるものはある!。彼の獲得してあるその

すべてはかかってくる。この知性ってのか、精神ってのか、良心ってのか、いや、おそらくは意志力ってことにすべては還元されうるんだろうが、その彼においての誠実性たるものを支えてあるそのすべてって云ったほうがいいのか…、その彼の人間性ってやつにすべてはかかってくる!。かなりにキツイ、しんどい、苦痛にみちみちた、その過程、その作業になるのだから。

この表現においての翻訳作業において、真に優れた実績を残したものが、それらのみが、芸術家としての称号を獲得するに足りることになるのであろう。とにかく、それは、ある程度においては、までは、無事に、現界化を、析出を、顕現を、果たしたものになる。本体を鑑みるならば、それはあくまでも本一部としてのものでしかないではあろうが…。

ことは世界創造と似てる。遥か彼方の実体が、つまりはイデアやらシニフィエだ、これが我々生存してある生活してあるこの世界に、その世界の言語として、実体化を果たしただ。結果、エイドス(形相)やらシニフィアンとしてものを獲得することになる。両者は基本、分けられるべきものではない!。

コインの裏表としてのものでしか、

のだから…。

かって提出されてあった、提出することが適ってあった、その奇跡としての翻訳体、表現を、それらとしての

して、つまりはイデア状態にある

、理解賞味感知をせずして、それが与えてあった

価値として、ただ単に

だけのことを、これもまた偶像崇拝としてのものだと、自分なんかは考えるわけだ。ルッキズム、形式様態信仰、

きれいごとのみ、体裁づくろのみにてですべては足りる。中身としてのものは、なんにも、ありゃしない…。もしこれで足りる、足りてであれるのであれば、皆はすべて等しく、眠りにありってことでしかなくなる。習慣において培われてしまってある、その単に「機械的なる」にて語られるべき、パターン反応にて、すべてが、為され、また行われて、

満足しているーでしかなくなる〜。これが眠りとしての最たる症状だ。つまらん人間ばかりが幅を効かす、利かしているの状況になんのだ。大勢としてそれとしてのものへと向かうべくしての操作が、プロモーションが、喧伝が、洗脳が、オペレーションが、企てられてしまってる…。

*たとえば、怪獣八号これのベースはワンパンマン。原点、起源、オリジナルとしてのものはドラゴンボールだっと。売れることが、売れなきゃならない、稼げれなくちゃならないってのが創作においての第一命題となっている。ならばだ、売れたものをパクりゃ〜いいだけの話しになる。結果、どれもこれも不完全燃焼。ときの試練練磨に曝されりゃ〜だれもそれのことを覚えちゃいない。エヴァがまさにそれ。

*基本、動物であるところの生命である以上、こんなことで、こんな創作物においてでは、
 満足ができるわけがない。長くは保たない続かない。満足ってものが。
*結果、どっかで反動が、間違いなく、確実に、起こってくる…。
 短気には、なっていってしまうではあろう…

閑話休題、まずは、奇跡的なるまでに達成されてしまってある、表出されるが適ってあるものにおいての、その意味を遡らなければならない。それを入口として、背後にて控えてある本体たるものに。あらためて、後人たる我らは、肉薄する、その努力を、しなければならないのだ!。

追記:
自分が強く主張せんとしているポイントにおいて、ひとつ良い題材がある。衣食住のそのすべてをモデルとして語ることも可能だが、衣服においてのみを取り上げてみよう。ことのミニマムとしての課題は、着心地の良さ、そして動きやすさ、着やすさ、脱ぎやすさになる。見てくれも確かに大事だが、服は、着て、動いて、脱いでこそのものなのだ。この実利面においての進歩は実は余りないんだ。見てくれと外部、外からの感触、タッチ感のみの進歩となっている。なってしまっているのだ。ならばだ、なにが欠ける?、どういった視点が、おざなりになって、されてしまうのか?。着る者、その当人にとっての評価だ。実はこのことこそが難しい。主観評価のみに堕ちてしまうので。また構造と着心地の関係は、読めない、読みにくい面がある。でもよ、この課題領域においてのみ、衣料たるものの進化発展はもうない。これもまた確実に必要とされてある。二重ガーゼ構造ってのはある意味新機軸だった。だがだ、芯がなさすぎる、破れや過ぎるとしてのデメリットもまたあった。ならば、更に、どうすればいいのか?。エルゴノミクスにおいての視点と、コンピューターシュミレーションによっての構造解析、その新たなる発想、着目点ってやつはまだ色々とあり得るだろう。和装和服してのものの新たなる評価っても、実は大いに有り得るはなしなのだ。特に骨としての考案において…。とにかく、上辺のみにおいての研究発想考案のみにてではだめだ。極論的にはそんなもん、ことは、どうでもいいことなのだ。着てみてからの生存活動においての着心地、動きやすさこそが真の主課題なのだ。終わりっと…したいのだけれど、それらとしての真に新機軸をもってしての衣料が市場に出てきたとしても、最初は売れないは。買うのは奇特な方々のみ。ひとは見てくれにおいて判断するからね。じゃ、どうするのか?。時間がことを解決するのを信じるまで。真に良いものは間違いなく売れる。終わり。

ありがたいことなのだ。その先人たちによっての誠実なる努力においてのその成果の上に立って、我々は更に本体たるものを理解するべく努力、奮闘が、できるのであるのだから。その上で、未処理、未消化として、とりあえすその場においては捨て置かれてあった、その意味を、その実体たるものの片鱗を、託されて残されてあるだけの、その残務としての作業に、我らは手を伸ばすことが適うこととなるのだから。下手な焼き回しばっかしやってる場合ではないのだ。

その一)ドラゴンと龍

「なにが、どこが、違うのか?、そして、そららとしてのものは、果たして実在なのか?」。

今回もいつもの如くして、主観オンリー、独断と偏見、

いくからねっ!

さて、簡単なのは龍の方だ。これは、これを知る、理解するには、しかるべくしての環境の整いがいる。おそらく絶対となるのは雲と水だ。雲は分厚くしての暗雲ってやつ。これらしての群れが、恐ろしくたくさん上空にてなくては、いなくてはいけない!。そして、こてもまた必須のものであろうが、大量の水が、身近において、留められていなくてはならない!。つまりは、海か、大きな湖か、池だ。そしてまた、風の動き具合を視覚的情報へと置き換える為の、大小とりまぜての木々があった方がいい。場所としてはやや平地としてのものになるはずなのだが、山間の開けた場所であってもかまわない。でも忘れないよう、繰り返して云っとくけど、大量の水としてのものは必須だから。いらぬ、不必要なるものは……、そりゃ〜雨だ。そこに雨が降ってきてしまうと、一切分からんようになってしまう、それとしての状態へと切り替わってしまう。みんな雨に濡れるのは嫌でしょう?。眉間にシワ寄せて、縦縞立てて、濡れないようする、家路を急ぐに心中はそのことだけになってしまう。つまりは、印象感受の窓口が、極端に狭くなってしまう。それは万全かつ鋭敏で、想像力ってやつを援用してこそなる、現実の統合作業ってやつが、どうしても必要になってくるのだ。



おそらくは、それ、それらそのものではないが、台風、ハリケーン、サイクロンって呼ばれている気候現象が、この龍に大きく関わってくる。雨を伴わない、それが振り始める前の、暴風タイフーンてのがあるにはある。序章、序幕としてのその期間、その状態。それは突如到来し、突如にしてそれらとしての状況へと突入することになるんだ。台風としてのものの移動速度は早いからね。また、台風、つむじ風、竜巻としてのものらにおけるスケールは、点でバラバラだから。でも一つ云えるのは、その渦中にて所在していた人間にとっては、激変としての環境変化を目の当たりにすることになる。ふっ飛ばされることはなではあろうが、押し流される、すっ転ばされる、ことぐらいは、ありうるかもしれない。なにかに掴まっていないその限りにおいては…。

結局は、荒れ狂ってある暴風としてのものが、龍の正体だってことには、なるのだが、少〜しばからりポイントが違ってる。まずね、風の動きは人の目には見えない。なにか目に見える変動変化を助けにlそれを読むにしかないんだ。視覚情報へと変換するにおいて、その仲立となってくれるのが、木々の枝や葉、上空のって云うかから、低く大地にのしかかってくるかのような、重く垂れて込めてきてある分厚くしての雲だ。それらがまるで走るかのようにして流れっていってる様子。それもだ、千切れ千切れて、塊は右往左往しているかの様子ではないか!。気流の流れが大変にややこしいなってことなのがよく分かる。いたく、驚異、驚きにて感じてしまう。



*ここにおいて重要なことは、それを誰が観てるのか?ってことなんだ。日常においての普通の意識ではないんだ。モード、シフトが変わって変ってしまっていなければならない。それはただ気づいて観てる観てるがままに流れとして全体として察知してあるばかりなんだ。そして日常の意識としての私は、そのことを新鮮に、面白がって観てる、魅せられてしまっている。だがだ、そこには、その状態には大いなる恐れをも同時に感じてる。よって、ことは長くには続かない、その状態としてのものを恒久的なるものとして構えて持つ、備え持つには至らない……。自分で自分からそれをシャットダウンしてしまうんだ。

そんな大気の動きなど生まれてこの方、見たこともないと。そして、水だ、それがどうしたものなのか、大量に渦を描きながら、上空へと登ってゆく、巻き上げられていってではないか!。これは竜巻が海上か湖上において発生しているからでしかない。まるで一本のふっといふっとい綱のようにして、水が上空へと登って消えてゆく。


ここでまた脱線:また、

話しをしよう...。



これらはみんな正しいとは思うのだが、アプローチのあり方、そのやり方が間違ってる。あくまでも

マインドベースにおいての、その総括、その整理になってる。ネーミングとしてのその

理解するべきことがある。これは、単なる紋切り型の言葉の当て込み、はめ込みに、

ー!としての…。既に、文化用語としてのコードに、つまりは言葉、概念に、最初から、ことの始めっから、支配されて、しまって、ある、あったでしかない…。

真ん中のモデルを取り扱う。



人間を、生かしてある、急かしてある、Urge してしまってあるのが動物としての衝動だ。疲れたなら眠れ休めで眠気を催させる。マテリアルの不足が、定期的補充が、必要となってきたならば飢えを覚えさせる。体内に水分が減ってきたなら喉乾くだ。気に食わないことがあったら怒ればいいってことで、怒気が湧く。種を増やすべくしての時宜がきたなら異性への魅力が倍増してくる。これに逆らえなければ、逆らうつもりがないのなら、ただやっちまうまで…。

ここで云いたいんのは、我々の生存の行為は基本、

まで
なんだってこと。でもこのことには問題はない。問題となってくるのは、これらUrgeされるにおいて意識にて、結ばれて、連結、連続されてきてしまっている思い、思考、観念の方なのだ。

莫大なるファンタジー空間領域を人間は

。美食としての、それたるもの、アイドル群像、トレンドワード。文化っていや〜それまでなんだが。文化において人間自らによって習慣づけられて有効なるは、

ってことだけ。

その人間の成熟度を測るにおては、あとのひとのことを考えて考慮して、ことを進めること、また片付けることができているかを着目すればいい。できてないひとは、できないひとは、依然動物止まりであるのがその真実さ。未来の自分の子らのこと、日本に生まれてくる未来の子孫達のこを…。できてたら人口動態、人口動向ってやつが、今みたいなことになるわけがない。

脱線:あの最近流行りの「アタッチメント」ってやつ。NHKでやってた。笑かすなっ!。ひとが一人立ちできるまでには、愛情を伴っての庇護がいるってだけの話しじゃないか…。そんなことはあったりまえの常識のコンコンチキとしての話しでしかない。ことの最重要なることは、自立してのその後には、今度は、その自立できたひとが、他存在を庇護して導いて行かねばならないってこと…。愛を受けたなら、今度はお前が、他者に愛を施せってことでしかない。言葉をもってあったりまえを弄ぶんじゃないって!。*なんらかの危機感、不安としてのものが起こってきており、それをなんとかしたい、せねばとしての思いがUrgeされてしまってるんだろう。で、観念を弄ぶしかできないんだ。

新鮮に響く言葉を、プロモーションしたい、してるだけ!。なんの結果も残さないよ、あれは…。

これらとしての衝動のコントローラーは誰なんだろう?。それは誰がプログラムしたのだ?。ほんとそれらはよくできでるんだ。自然としての意味において、ことが果たされた完了したならば、そのUrge としての衝動(comannd)は、完全に消え失せてしまってる。切れてる。よって更なるを、よりもっとを、要請してくることはないのだ。本来ならば…。ただ単に動物としての生き物であれば……。

Re: マインド。

人間独自が獲得してあるもの。それは構造上は大脳新皮質だって見なすこととなる。間違いなくそうだろう、これが確実に関係してくる。ことの原因はエデンにおけるあの事件のせいなんだろうが、それはおいといて。魂のみが下層階層におけるこの世界に移された落とされた。そこの原生動物の中に生きることを余儀なくされた。これが進化作用の原因。まっ、そうしておいて…。



             この絵に対比させたいのがこの絵。



そう、皆様ご存知ご承知の、そしてまた大好きな、ロボットにおけるコックピットの状態様子だ。なにが上のモデルと相似なのか?。大脳新皮質としてのものがマインドとしてのその場をけいせいしているものが、下の絵においても確認することが出来る。こっちの方は人工物としてのテクノロジーってやつによって達成されてあるものにはなってはくるのだが……。

でも、これとしてのものはまだダメだ。不自然に過ぎるし、邪魔なノイズとしての要素が多すぎる。もっと自然なものとしてあってくれないと。とくにこれでは身体感としてのものが活かされず、死蔵としての事態を迎えてしまうではないか。やはりロボットとしてのものの操縦は、ジャンボーグAとしてのものの様式で、あってくれないと…。

    自分が使う絵においては、ノイズの除去において、かなり手間をかけてる。
         これは、皆様読者のことを考えてのことさ……。




さすがアメリがさんだ、不合理的精神、プラグマティズムをもってしての発想ってやつを、ちゃんと心得てくれている。これが嫌なら不可能なら、主体としてのその意識、精神のみを、機体おいて宿らせるしかなくなる。そんで機体とのインターフェイスのは亡霊たちに任せるってって選択だ。でもその場合は、確実にそのその存在としてのものは、その亡霊たちってやつに、

、なるであろう…。

前提となるのは、それと

、やはり自然なるものとして覚えられていること。操縦士、使用者において、親和性が、なによりも尊ばれてしかり。







先の大脳新皮質においては右脳と左脳の役割についての説明が欠けている。これにおいての自身としての定義を述べておくと、左は確かにロジックとしての、言語表象やら記述としてのものと、密接に関係がある。問題は右だ。これにおいての最たる特徴は、形、構造において理解する、表現するに関わってくるのだと思う。意味や、自分として表出したいその思いやらメッセージを、そのメッセージが、形をもってしてのその構造において、表されてきてる。これが流れやら展開としての形を必要とするならばそれは音楽だ。ある意味、言語によっての変換、そのルートを経ずしての、非常にダイレクトな、生な、自己においての認知を、その感慨を、表現するにおいて変換、機能する部位。*両者、相持ちあってことの構成になってるわ。

かっての、以前の、あのジアースのコックピットにおける全天スクリーンと同じくして、このコックピット自体が、人間のみに備わってあるマインドとしての機能のモデルとなっている。





ことにおいての問題、ことにおいて事態を、

してしまっているのは、それは、このコックピットとしてのものは、

とでも呼ぶべきもので、あるってことなんだ。ことを下手に、余計に、ややこしく、

してしまっている。結果、便利なように見えて、思えても、質的なる劣化は、甚だしいこととなってしまう。いや実際に

!。テレビやYOUTUBEのことを思えばいい。ツイーターやXに関してのことは自分は知らないっと。やってないのでっと。

自分としての自然としての世界内に、人工的なテクノロジーによっての新たなる世界、その地平が広がってしまってあるのだ。そんで、どっちの世界にての生活が、主軸と、メインとなってしまっているのか!。おそらくは習慣性において、あくまでも暇潰しを目的として形成されてあるその習慣上においては後者になるのではないだろうか?。

ならばだ、結果は、より矮小にして、自然なるものからは切り離された、かけ離れてた世界において現在の人間は生きているってことになる。



この絵は、一見するとなにやらあるべきものとしての素晴らしい夢、理想、夢想するに足りるビジョンに見えるが、だがだ、センター下部の奥の方に、地球を足場としてジ・アースが立っているのを見ると、なにやらおぞましいとしてのビジョンであるともおもはゆるんだ…これは置いておこう、みなさんが独自にて考えるべきことでもある。

ことの絶対的な真実は、すべてはこの宇宙全体にとってのシステムになってる。これが進化、持続するためのもの。そこに人間風情の夢や願望や理想などの観念の立ち入る場所など基本ないのだ。人間もまたこのシステムにとっての一つの微小なる歯車群でしかない。勘違いしてはならない。この地球という場所はその世界は、お前たち単独の為にあるものなどではないのだ。夢や理想などの浮ついた語択に溺れている、溺れてある前に、お前たちが為すべきことを成してあれよ……。*極論としては、他の生き物、在来種等の面倒を、ちゃんとみていてあげなさいだ。進化へと、導いて、いて、あげなさぁ〜〜〜いっ!。

さて、ラストスパート。

マインド内マインドってやつにおいては、もう一つ別の形態があるのでは?って自分なんかは思うんだ。こっちの場合はさしたるテクノロジーやら科学の助けはいらない。共同幻想をもってなりたつ社会やら世間ってことさ。グループ意識、仲間同胞意識ってことでいい。私は日本人だ。日本としてのこの国を愛している。私はクリスチャン、キリスト教徒だ。これでもいい。

     これとしての世界を、その創立、創出を表しているのがこれだ。





                 そしてこれも…



テクノロジーをもってしての、人工のマインドとしての

、複数の人間が、それを共有のものとして存在、生存してしまってある。これは共有幻想においての

でしかない。

幻想の意味は、それはあくまでも概念、ことば、観念でしかなく、真実には、現実には、そんなもんまったく存在してないってこと。あくまでも主観的なイメージ。これを造り生み出しまるで本当であるかのように思う、思うようして、しまって、あるのが人独自が獲得してあるマインド。

共同幻想ってネーミングはよくしたもので、それは本来は、

のことでしかなく、下手な注釈、下手な文化差異、貴賓に

成立して

なのだ。単なる同胞意識、信頼を元にしての博愛の精神。単に誰に対しても親切に、仲良く、助け合って、暮らすが普通、自然であったまで。キリスト教においてともなれば、汝は吾なり、袖触れ合うのも多少の縁、向三軒両隣のつき合をしらねへもんはとんちきだってことだけで足りるもの。

ここに、所属する組合、組織、会社としてのものが、その概念観念、幻想としてのものが、共同体意識ってのが、割り込んでくる。そして、会社ともなれば、昨年対比においてのアップのみが組織としてのその、それの存続目標となる。より多く、よりたくさんにだ。そんで、組織への裏切り、それに対しての応酬報復は当たり前になる。騙されるもんが悪いんだと。生き馬の目を抜く世相、その世界ともなる。国対国においても同じ。結果、軍事に頼る、これを増強進歩させることと、ことしかなくなる。資源の奪い合いは、現在は既にその対象を、月やら火星にまで伸ばそうとしている。飽くなき野心とそれを掻き立ててある強欲、傲慢さよだ…。

*幻想の意味は、まったく実体なきものを、さも現実にあるかのように考えて思い込んでしまってあるってこと。この思念、思い込みとしてのものは、同族同種間においては伝染性があるんだ。そんで、だれも彼もが夢の中っとしての事態ともなる。だから、重心を現実の中に、実体あるものの中に持たないと…。それはいつも目の前にちゃんとあるんだから…‥。

*おっと、この幻想においてもメリットと云っちゃ〜メリットたるものはある。みんな身だしなみに気をつけるようになるから。他人に実際本当に見られる観られないに関わらず、無意識にて気を使ってる。見かけ上の景観が小綺麗になるのがいいわ。他にもいろいろあるだろさ…。株価のあがり下がりに一喜一憂する、してあるのも、この幻想としての場が、あったればこそさ。

*人の世の世間におけるその価値観において成功したとしても、それだけでは幸せになれない。生来からその身に備わってある本能的なニーズがまた満たされてあるってことがどうしても必要になってくる。簡単にその枢要を表すのなら、子を生んで、儲けて、ちゃんと成人になるまで面倒見るだ。生命はリレー方式になってるからね。調和バランスが確実にいる、それが必要になってくる幸せなる人生を歩む、歩みたいのであれば。このことにおいて

世界もまた…、世界からの庇護も、また与えられて、くることになるのだ。役立たず、無責任なるもの、職務を果たさぬものは、当然読者のみなさんも無視する、ただ切り捨てて、あるでしょう?。

どっかで、自然なるものが、あくまでも人工的なるものオンリーへと、切り替わってしまっているのだ。

木を育てる、豊かにその実をならせてあるあるのは自然だ。直接的には大地と光と水だ。それに風、これの通しの良さだ。これの、これらの背景には、しかるべくしての自然循環ってやつが控えてある。

なんだ。もし人間が結果において善きものを引き出そうとするならば、これら、目には見えない全体システムにおいてまで考慮して、適切に、作用、干渉するにしかない。バクテリア菌類等の細菌が鍵だ。窒素リンカリをぶち込んどいてやって防虫剤定期的に散布しとけば、いいってだけじゃ、ないんだ。

自分が云っていることは至極当たり前のことだとは思うのだが、この善く働くことを、慮って、ことを進めているひとってはどれほどいるのか?。ことはね〜やはり、後人としての子孫のことを慮って、考慮してでしか、行い、得ない!。自分の子供達の未来をも念頭に置いてだ。これ、このことを行政としてはなんも考えきてはいないからね。自民党は当然として、他の野党も、一考だにしてない、してきてないし、出来るわけがないんだ…。クズとしての人間しか政界に、進出しようなどとは思わないんで。中学校における生徒会長として、立候補したいって思う、そんな未熟な考えしか持っていない勘違いしてある子供ばかりしかいないのさ。これは、大阪のはなしか……。

ことの証拠は、金がいる、かかるのなら、国庫からだしゃ〜いいと、短絡的に考えてしまう、そんな輩ばかりなんだ。ならばだ、お前の懐から、まず出せよって、云いたくもなるよ〜……。

蛇足:
あの知事においてはあることが如実なるまでに観測、観察することができる。それは知先センターメインにおけるその融通の効かなさだ。方向転換、姿勢変更すべき状態状況においても、そうとなっても、従来の方針、路線を変えようとはしないことだ。堅き頭において、それのみにおいて差配を振る。これはよく男性においては確認される傾向だ。身体感覚経由の感情センターにおいて状況感知が必要なそういった局面もあるわけさ。あれは、あの万博は、元から祝福賜われていなきものであった。あのキャラがそのことと如実に語ってあった。だから、どっかで中止する、逃げるべきもんだったのだ。丁度、能登半島の震災があったことにより、中止する口実は、ありがたいことに用意できてあったのだ。だが、それはしないようだ。先と同じくしての弁になるのだが、ドボンすんのなら、お前とお前の取り巻きのみにてで、かってにドボンしてろっていいたくもなるよ…。ことの結果において、他の人々を巻き込むんじゃないって、ことは既に国庫に手を付けるにしかない規模にまで膨らんでききてしまっているではないか!。水道ガズ下水等の配管、また配線の取り替えにこれからどれほどまでの金がかかるって思ってるんだ!。なんもそんなこと考えちゃいないさ。能登の人々の大変さなんてしったこちゃ〜ないと。俺の知事としてのメンツが、プライドが、なによりも一番、大切、重要なんだと!。維新の会も、もうすぐ崩壊……。



脱線が長引いて、本論がまだ未完成なのですが、ここまでで一旦公開する。

ドラゴンと龍においてはまた書き足します。


ここの余白において...。  草々



両者はよく似ている。なにがだ?。その圧倒的なるまでの力、暴威の力の所有者であるってことにおいてだ。そして、巨体、巨大なる存在であるってことも。あれらは共に、超越存在だってことになる。

ところでこの超越的な、Trans-cendental としてのこの言葉の正確な意味はなんだ?。「超越的な」は所詮は漢字をもってしての当てはめでしかない。この語が孕んであるその意味、コードはなんだ?。

とりあえず辞書引いてみた。「超越」とは、

、あるいは普通に考えられる程度のことや常識とされることから

、ずば抜けているということを意味する。また、

にあり、問題にしないことを指す。

飛び越えて高い地位につくことも「超越」という。

ドイツのTranszendenz哲学においてでは、
㋐人間一般の経験や認識の範囲(次元)外に、超え出ていること。
㋑カント哲学では、あらゆる可能的経験を超えた、超感性的なものについての認識を、
 超越的といい、超越論的(先験的)と区別した。超絶。
㋒現象学では、意識内在に対し、

いう。

ざーと観て、総括するならば、前提に階層としてのものがある。この階層は、各存在がその生存を適えてある場所としての意味だ。上層にあるものは、下層にある者たちに対して、自然と、支配力を持つ。支配権ってやつを持っている、もしくは、それが、その権威が、宇宙全体から付与贈与されてある。なぜか?。より高次、高度なる存在であるからだ。こうゆうこと…。


人間としての領域から二コマ右に行って、上へ同じく二コマ上がれば、そこはもう神たるものの存在次元となる。ことの理解をたやすくするのであれば、上位存在たる神ができることと、人間が出来ることの違いを思えばいいまで。上位は下位に対して、圧倒的にして完全なる支配力を持つ。これは、このことは、自然なることなのだ。超えることのまったくできない格差ってのが間違いなく存在している。それら上位としての存在には、従ってある、それもただ盲従してあるまで、崇拝敬愛畏怖してあることが、また自然な姿、態度になる。

ここの権威ってのものに関してなんだが、「社員は社長に、かれの方針に、ただ従ってあるまでだ」っとことと、これってあくまでも自然なことでしょう?、カリズマってのもののその正体は、なにがしらかの上位ものとしてのなにかと、リンクがあるってことで、その人間は、他の人間に対しては、どうしても影響力を、囲ってしまってて、振るってあることと、なるのだ。ことは法理に基づいての

支配されてしまってあるまでなのだ。従ってしまってあるってことがだ。しかしだ、云っておくべきことは、その彼が上位そのものなんかではないんだ。彼を通して、その彼を、

、上位が、この次元に干渉してきてるまでなのだ。ただしだ、それは

の、その可能性もあるわけさ。この場合も同じく、普通の人間に対しては、カリズマティックな影響力を、振るう、振りまくことと、なってしまう。それも悪しくしてのものを…。麻原彰晃なんかがまさにこれ。

龍は、時たま現れる、極端に異常なる気象現象において、伴に顕現出現するもの。また逆に、出現するに当たっては、それを引き連れてくるんだって云ってもいい。それは、ことの内部にて確認したものにしか視えない、察知し得ない。非常にダイナミックにして複雑な挙動、まるで

思える程までの動きが蠢いているんだ。いろんな目には視えない竜巻としてのその多くがたくさんが相互に絡まりあって、捻じれあって、干渉しあってる。そうした複雑怪奇なる

において、その核部に、どうしても一体の龍たるものを感知、察知してしまうのだ…。複数のユニットのその絡まり合いの中、一個の大きな気象現象のものであるとの臆見から、

、リアルなるものとして幻視してしまってある…。それは沖にその所在を移しては、海水を、まるで啜り飲み干すかのように海から一本の綱かのようにして海水を巻き上げていってた…。これは竜巻によるその現象だ。だが滅多なことにはこういった現象を引き起こしたりなんかしない。非常に局所的な範囲において、超強力な小型の竜巻が発生していたから

にしかならない。それらとしての現象は一箇所に留まることはない。あちらへこちらへ短時間において右往左往をダイナミックにしてしまっている。行っているんだ。このこともまた、生物としての挙動を連想させてある。まったくもって生々しいとまで覚えるその動き、その挙動なのだ…。自分は一度アメリカで、この手のタイフーン、ハリケーンに出会ったことがある。それは未だまだ、雨を伴わない風のみ、強風のみの状態だったんだけどね。まったく日本ではお目にかかることのなかった気象現象だった。風が踊りまくり強弱をやけにつけながらにこの自分の周りを駆け巡ってる…。なにかが「居るなって」自分も感じたわけさ…。そんでもう心はワクワクの、イケイケだった。大陸の、その内部における気象ってのは、おっそろしきダイナミックなのだ。風が活動できるその空間がめっちゃ広いってことも、あるんだろう…。

まっ、とにかく、体感のすべて、つまりは

メインなんだが、そこに物の動きと風の動きを直感において把握してあるを徹底するならば、なにか超自然なる存在が、ことの一切を為してあるのだって捉えてあることの方が正解になるのだ。それとしての実体を、直接観ることもできるのかもしれない。だがだ、それは、高次の次元にて自分の視座を持てたならの話だ。視えること観たことが必ずしも良いってことでもないとは思うのだが。だが、より上位としての次元に気付けた、触れることは、吉兆なることではあるのかもしれない。その次元たるものの実在を、確信することになってしまったので。以降は、そういった超越存在を崇めることが自然な態度にもなる。

一個だけ追加:
可能性のひとつとして、上位においてのその変化、その活動は、下位にも反映するって事実がある。そしてまた、

望めば

意のままに移動顕現活動することができる。基本、これは不自然としての異常事態にはなるのだが…。龍としてのものは、とにかく我々人間にとっては超越存在なのだ。これにおいての上位界における活動が、そのまま

反映して、されている…。これがどうしたものなのか人間界において顕現し、活動をしている…、この二つのケースが想定されうる。当然にその姿その様子は人の目においてでは確認できない。感知識別ができるのは、ことにおいての環境変化

。唯一、

、それ本体を、観ることは、可能なのかもしれないが…。

龍に関してはこれぐらいにして、今度は、最後は、ドラゴンにおいてだ。これがまた厄介なのだ。これにおいての統一見解を上げてってみよう。基本それは地下にいる。そこにねぐらをもっている。そんで、宝物を守ってある。口から火を吹く。コウモリの翼の巨大なのを二対もっていて、空を飛ぶことができる。美しくしてまた高貴なる

好きだ。これをよくさらう。鱗は金属のような出来栄えで、簡単には剣が通らない。高い知性を備えてる。まっ、こんぐらいで十分だろう…。

ちょっとティーブレイク。




    このひとりでドラゴンと対峙しているヒーローは、イエスの暗喩でしかない。







                聖ゲオルギオスと竜退治


ここにばらまかれているコード群において、連想を働かせるなら、そんで直感するならば、これは戦争、

におけるその破壊、強奪、殺人、戦火放火の様子の、その擬人化でしかない。基本的にゴジラと一緒。ただ時代的に爆薬、大砲、爆撃機等の科学技術の関与はまでない。だから非常にスケールダウンしたゴジラだってことになる。

違いは空を飛ぶのか、飛ばないかの違いだ。三位の内の一体としての形象なので、ゴジラは飛ぶ必要はない。結局は、天空を馳せることができる、かってできてあったものが本体、起源、母体としてのものなのだ…。

ならばだ、結論としては、前と、先と、同じくして、それは、あれは、サタンの分身としての残虐無慈悲非情なることを特徴とした三位の一体だってことになる。アーリマンって言葉はあまり使いたくないんだ…。それは、あれは、地下に落され封印されてあるもの。大切に自分のものとして固く守ってある宝物は、人類全体としてのその良心、魂、もしくは神よりの分け御霊そのものの例え。それが、あれが、どうしたものなのか、いたく執着してある美して高貴なる姫は、マリア様、もしくはイエスの母体となる可能性のある、まだうら若くして、非常に特別に、尊い魂の持ち主であるところの女性。おそらくはこの伝説としての幻獣はバビロン以降にそのイメージが構成されたものだと思う…。

追記:
ことの

、もう永遠に、物語世界において、リフレーンされて

って

、そのときの彼においての思いが、その執念が半端なかってってことになる。その思いが激烈であったがあまり、うら若くして美しく、また高貴なる魂の持ち主である女性、その少女が、狙われ、攫われるとしての物語パターンが再帰されてきてしまってるのだ。時空にてあの思いの刻印が残されて刻まれてしまっているのだ。当然に、その役を担うものにおいては、変奏が、企てられてはしまっているのだが。…だが。本当の核心部は、イエスのこの現実世界においての出現を、どうしても阻みたかっただ…。だから、もう

、この舞台が、自分ならばどうでもできる、なんだって叶う場所であったのにも関わらず!、

。その慚愧としての思い悔しさ怒りの残響、その反響において、ことは繰り返されてしまっているのが、本当のところなんのかも?w。(つまりは、これにおいてもおなじことになるのだが、制作者らはみな、そう

のだ)。ストーリーメイクにおける、その仮想現実の世界中ともなればで…。クッパとピーチ姫の関係ってやつにおいても、実は、そう。あれなんだ。クッパはジャイアンなんかではない。

           では、「マリオは?」。それはもう

なのだ。


            「なんの

いま、しているんだ?」
                     読者













最後の聖ゲオルギオスについてだが、伝承をざっと読むと、スサノオノミコトとヤマタノオロチが連想される。もしかした、オリジナルとしてのものなのかもしれない。では、このお話しにおいては

要点となっているのか?。おそらくは、人身供犠、生贄等の儀礼、これらの習慣をもって、多くの共同体は、そのまとまりを、その団結を、強固なるものとして獲得してきて、保って、きて、いたんだろう。日本においても人柱としての、人身供犠の風習があったではないか…。罪を、汚れを(みそ)ぐとしての磔刑はどうだろう?。切腹は?!、死をもってことを償う、ことの始末をする。こういった血生臭くしての習慣、儀礼は、少し前までは、至極当たり前、日常としての、もので、あったのだ……。




















                     バール…



                   拾い物

タイでは数ヶ月全然雨が降らないので、雨乞い儀式が行われた。本当は猫を入れないといけないけど、可哀想なのでドラえもんにしたそうです。早く雨降るといいね。

このことは未だ救いの到来なくしての未開にして迷妄、胡乱なるままの、そのままでの、その当時の、その時代の人々にとっては、

沼地、そのことに対しての、

復帰回帰リカバリーを目的とした、

行為でしかなかったのだ。ここにも「罪深くしての行いに染まってあった」が観測確認できる。

今の時代においても、この生理現象は、この社会システムは、存在してる。

って形で。でもことは大ぴらにはできなくなってしまっているので、わからないように、影でってことになってはいるけどね。会社組織内においてもことは同じさ…。誰かが犠牲にされる。その犠牲としての残虐行為、それ自体が、実は必要にして、必須でもあるんだ。とにかくこれとしての感情体験が経験が必要なのだ。組織運営においては。それを健全に保つためには。

ことにおいての決定的な、またクルーシャルなる出来事として、イエスの来臨があった、起こってしまってあったってことだ。ことは昔、太古から面々と引き継がれてきている、生贄、人身供犠の儀礼にまで、その対象は、その影響は及んでしまってたーなのだ。そういった馬鹿げた、愚かな、罪深くしての習慣儀礼等に、引導を渡すべくして、彼は来臨した、されたのだって、いうこともまたできる。その為には、人類の皆が、全員、全部が、また救われなくちゃならないっていう核心的にしてドラスティックな課題ってのもまたあったんだけどねっ!。

その事実、その事態において、大きな大きな変化が、刻印が、人類の精神史において果たされたのだ。簡単に言えば迷妄、蒙昧なる状態からの脱却、罪に囚われてあるのが当たり前としてのそのあり方に、真に往くべき道としてのものを、その方向が、彼、イエスによって、指し示されたのだ。愛を最上級の価値とせよ、隣人を愛せよ、汝を吾と見做せ、見倣してあれよ、自分がして欲しいことを他人に施せ、等のことね。

スサノオノミコトはヤマタノオロチへの

あったクシナダヒメを救うべく、あれと戦い勝利するんだったよね。上の絵に表されてあるゲオルギオスにおいても、話しはおんなじさ。

Re: テューポーンもしくはテュポーエウス

ドラゴンにおいての、その由来、原点、オリジンは、コイツなんだらしい。ギリシャ神話にて語られ表現されている。紀元前9世紀から8世紀頃に、「体系的なギリシア神話」がギリシア世界において成立したと考えられている。だから、キリスト降臨の遥か以前、その大昔において、それにおいての、ついての、コードは、既に確立されてあったんだってことになる。バビロン捕囚の第一回目が紀元前597らしいから、どれだけ前に、なのかは、察せれるでしょう?。

テューポーンは、ギリシア神話に登場する、神とも怪物ともいわれる巨人。同神話体系における

の怪物
で、神々の王

、その

でもある。



テュポーエウスは、テューポーンとも呼ばれ、恐ろしい怪物であり、ゼウスの最後の挑戦者でした。 彼の母親は通常、地球の原初の女神であるガイアであると言われていますが、彼がゼウス自身の妻であるヘラの息子であるという他の伝承もありました。

テューポーンの外見の描写は大きく異なります。 ほとんどの伝統では、彼は信じられないほどの大きさと力を持ち、火を吐くことができる多頭または多肢の怪物とされていました。 テューポーンは、もう一人の凶暴な怪物である仲間のエキドナとともに、ケルベロス、ヒュドラキメラなど、定命の者にも神にも同様に恐ろしいいくつかの生き物を生み出しました。

*「キメラ」ってものも核心的に重要なコードだ。いろんな動物が混ぜ合わされた、混ぜ合わされてあるその出来上がりだってことがだ。これは何を意味しているのか?。デビルマンにおける悪魔の合体脳力ってのもこれに関係してる。その相手の能力を取り込むが要諦か?。神が自然が定めてあるその秩序からの逸脱、脱却、恣意的な、自分かってな利用?、つまりは調和の、我欲によっての破壊行為ってことになるのか?。遺伝子工学がこれに関係してくるのだと思う…。
*古来よりそれとして、それらとしてのものだと表されてきてる。モンスターたるものはだ。

テューポーン自身も、オリュンポスの支配者である

生まれました。 この怪物は最終的には敗北しましたが、いくつかの記述では彼はゼウスをほぼ圧倒し、ゼウスを麻痺させることにさえ成功しました。 敗北したテューポーンは

、エトナ火山やヴェスヴィオ火山から降り注ぐ火と煙は、解放されようともがき苦しむ彼の体当たりによって引き起こされたと言われることもあった。



巨体は星々と頭が摩するほどで、その腕は伸ばせば世界の東西の涯にも達した。腿から上は人間と同じであるが、

という。底知れぬ力を持ち、その脚は決して疲れることがない。

、火のように輝く目を持ち、

。またあらゆる種類の声を発することができ、声を発するたびに山々が鳴動したという。古代の壷絵では

姿

が描かれている。




もう一回あそこの箇所を…
同神話体系における最大最強の怪物で神々の王ゼウスに比肩するほどの実力をもち
そのゼウスを破った唯一の存在でもある

Typhon: The Father Of All Monsters
あらゆるすべての怪物モンスター達にとって、これは、父なるもの、父なる神に、あたる。


この情報においての問題は、やけに核心としての情報が散見されてあるってこと。
ただし、ミスリードを誘うべくしての操作もここには含まれてしまってる。
物語作者自身がそれを企ててあったのだろう。この地球としてのガイアがこれの母のわけないじゃん。真実してのこれのオリジン、起源は遥か上位界であることに間違いはない。もし場としてのそのすべてを、大地として、つまりはフィールド、平板なるフィールドとして留め置くのであれば、ガイアとの表現も、あながち間違いではなくなるが…。

知るべきものだけが、真実、事実を、分かれば

と、なっているんでしょう…。



本稿、「磔にされて−0番」は、ここまでとする。

これ以上は、細かに説明することは、既に、野暮だ。


草々











    ほぼ

ガイアーはやり合うんです。敵方としてのその次鋒なんだけど…。









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