第18話 河岸

文字数 3,045文字

 この週が明ければ、トモは汽車に乗る。横浜にて書類手続きをしたあとすぐに、船で長崎へ向かう予定だ。冬でも夏の花が咲く不思議な山から戻って以降もハルは、あまりトモと話さなくなっていた。トモが話し掛けると、ぎこちない微笑みを浮かべ、当たり障りのない態度を取って距離を詰めないようにしている風だった。

 曇り空の下、水野家の中庭で、ハルは何かを探している。

「長助ぇ。やい、長助やい」
「あら。女中の部屋にもいなくって?」

 ブリキの皿に猫の餌を乗せて歩いて来たミヨへ、ハルが駆け寄る。

「どこにも見当たらないんでござりんす。こっちの部屋にも台所にもいません。いっつもなら、台所の火の近くで丸まってるんでごじゃりますが」
「おやおや。(うち)火鉢(ひばち)の傍に居なかったから、てっきりそっちにいるもんだと思ったんだけどね」
「長助……」

 ミヨの後ろ盾を得て、ウメや他の女中にも探してもらうことにした。ハルはもう一度屋敷の中と、商店の中を探すが、どこにも白い猫の姿はなかったし、鳴き声も聴こえなかった。

 ウメらがミヨのもとへ集合し、報告する。

「天井裏にも居ませんでした。これだけ探してもいないんじゃあ、外に出てったか、(からす)に持ってかれたか」
「もう探す所なんてないよね」
「全部探したけどいなかったね」

 ミヨは白い息を吐いて、空を見上げる。分厚い灰色の雲から、ちらちらと雪が落ち始めていた。

「近頃、(うち)の雰囲気が暗かったからね。嫌になったのかも知れないねぇ」
「ハルもぼんやりしてました。そういうのを嗅ぎ取ったんでしょうか」
「全然笑わなかったものね」
「悲しそうだったものね」

 それでウメは中庭を見廻すが、ハルの姿もない。

「あいつ、外に行っちまったのかな。こんな寒いのに……」

 景色はさらに翳り、雪の勢いが増してきていた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 栄達(ひでたつ)と共に女学校での退学の挨拶を済ませたトモは、ひと足先に帰され、力車(リキシャ)の赤い座席の上で揺られていた。降り来る雪が真正面から着物にぶつかってくる。頭上の(ほろ)は移動中、まったく役に立っていなかった。

 大きな河川の、橋の(たもと)から欄干(らんかん)に沿うようにして、人が(たか)っているのを目にした。車夫(しゃふ)がちらちらと顔を向けているのが分かり、トモは声を掛ける。

「停まってくださいまし。何があったか訊いてみましょう」
「へぇ! オイラが行ってまいりやす!」

 トモを力車(リキシャ)に置いて、車夫だけが集団に近付いて行った。
 数人に話を聞いて、欄干にもたれて様子を窺っていた車夫は、首を軽く横に振りながら戻って来た。

「猫でやした。白い猫が川の平瀬(ひらせ)から出てる岩に乗ってるんでさ。あすこに行くには深いところを泳がねぇとならねんですが、この時季の川に入ってまで猫を助けようって命知らずは……」

 力車(リキシャ)を飛び降りたトモは、橋の(たもと)へと走った。邪魔な野次馬を掻き分け掻き分け、最前列に出て目を凝らす。幅広い河川の、まさに真ん中あたりに長助らしき猫。どうやってそんな所へ行き着いてしまったのか、長助は戸惑い、震えている。

「長助! 舟は? ねぇ誰か、舟は出せませんか?!」

 トモが振り返り大声を出すも、(みな)そっぽを向いたり、首を捻ったりしている。

「嬢ちゃん、この時季に舟なんて出ねぇよ。あすこじゃ長い棒でも届かねぇ。可哀想だが、ありゃどうにもなんねぇよ」
「ではこのまま見ごろしにしろと? あの猫は……」
「お、おい! あすこ!」

 集団の一人が指差した先。
 対岸を走って来たハル。

 ハルは勢いそのままに、着物のまま川へ飛び込んだ。

「ハル! ハルぅ!」

 トモの呼び掛けも及ばず、ハルは水面をもがく。川の流れはそれほど速くないが、濡れた着物に引き摺られる様にして徐々に長助との距離が開いていく。

「ぬがぁっ!」

 ハルが手の動きを速めた。一気に長助が立つ岩まで近付く。
 なんとか到達し、岩にしがみついたはいいものの、それでどうなるわけでもない。川の真ん中に取り残され、みるみるうちにハルの身体から色が失われていく。

「誰か……ハルを、あの子を助けてください! お願い誰か……」

 人が溺れるとあっては大変だと、何人かが派出所や火消組へ向かい走った。
 しかし、それを待っていられるほどの余裕はなさそうだ。
 トモは泳げない。ただ足を竦め見ていることしかできない。

「うおらぁぁああ!!」

 大きな声に、対岸へと視線を移す。
 平太が、ふんどし一丁でさかさまになって川へ落ちた。
 盛大な水飛沫(みずしぶき)を上げたあと、平太は飛沫の中から這い出るように泳ぐ。あっという間にハルのもとへ到達し、長助を頭の上に乗せ、ハルの腕を自分の肩へ回した。

 トモは対岸へ急ぐ。きっと平太は長助とハルを連れて来てくれる。

 (たもと)から河岸へ降りると、あとから数人の男たちも救助のために続いた。

「平太! こっち!」
「先にハルを上げてやってくんさい! こいつ力が入らねぇみたいだ!」

 トモと男たちは、ハルの着物を掴んで岸へと引っ張り上げた。男たちはそのままハルを抱え上げ、(あか)毛布(ゲット)を持って駆け付けた火消し隊にハルを渡した。

 長助は平太の頭を蹴るようにして、岸に飛び移った。
 自力で岸に上がろうとして、しかしそれほどの力を残していなかった平太が流されかける。トモが川に落ちそうなくらい身を乗り出して平太の腕を取る。
 川へ引き込まれそうになるトモを引っ張ったのは、ミヨとウメだった。

「トモ、そのまま平太を掴んでなさい!」

 後ろからぐいっと強く引かれたトモと一緒に、平太もずるりと岸へ上がった。

「はぁ、はぁ……。ハルは? ハルは無事でやんすか?!」

 寒さに手足を震わせながら、平太はミヨに問うた。

「水野家に運んでもらうようお願いしたわ。平太、あなたは問題ない?」
「さ、さむ……、へーっくしょい!!」
「平太、わたしの肩に、さぁ。すぐに戻りましょう!」

 トモは平太の冷たくなった左腕を持って肩に回し、彼が立ち上がるのを助けた。
 ウメの支えを受けて、川辺をたどたどしく(のぼ)るふたり。

 トモは平太を連れ、うっすらと雪の積もった道の上、水野家へ歩き出した。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 栄達は深くお辞儀をして、町医者を見送った。
 夜、すでに雪はやんでいたが、いつもより吐く息は白くなった。

 通用口から中庭へ戻ると、トモが雪を踏みしめ歩み寄る。

「お父様、ハルはどうでしたか?」
「心配要らん、ということだ。早めに温めたのが良かったらしい。だがこのあと風邪の症状が出るかも知れん。お前は女中部屋に近付くな。看病はウメたちに任せよう」
「平太も随分ぐったりしていました。風邪を引かせたかも知れません」
「トモが何かしたわけじゃない。お前は気にせんでよかろう」

 トモは唇を噛んで、俯いた。

「何もできなかった。大切って想ってたはずなのに、足が動かなかった。泳げないから。川の水は冷たいって分かってるから。でもハルは長助のために飛び込んだ。わたしは……飛び込めなかったの……ハルのために……」

 栄達は、トモを引き寄せた。

「どうにもならないことだって、この先いくらでもある。解決できないことも、何かを失うことだってあるだろう。それでもお前の人生は続いていくんだ。一日、一日を大切にしなさい。大切な人と過ごす(とき)を、決して無駄にしてはならんよ」
「……はい」

 父からもらったその言葉を勇気に変え、トモは連日、ハルと話そうとして女中部屋に近付いた。しかし、咳が酷いからと断られて会えず。下階の土間でじっと、ハルの咳と長助の鳴き声を聞いて過ごしていた。

 そうして、横浜へ()つ日がやってきた。
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