第19話 虹
文字数 3,530文字
晴れ渡る空の下。新橋の停車場で、汽車の出発時刻が迫っていた。
強い風が吹き、飛ばされそうになるつばの広い純白色の西洋帽子を、トモは両手で押さえた。
トモを迎えに来た三郎、見送りのためについて来た栄達 、ウメ、番頭の一助 が、青い洋服 に身を包んだトモとの別れを惜しむように、話し込んでいた。
「もう、ウメは泣かないの。手紙を書きますから」
「だ、だってぇ。こんな、こんな小 っちゃな時から一緒だったんですよぉ。あっしはお嬢様のこと、妹みたいに想ってました」
「俺なんか、生まれた時から知ってるんだぞ。ずっと可愛らしかった。皆で、宝石みたいに大事にしてましたよ」
「あら、そんな風におだてても、もう何もしてあげられませんよ」
「おだててなんぞいません。俺はトモさんのこと……ぐほぉっ!」
「馬鹿。三郎さんの前で何を言うつもりよ。もっと気配りなさいな」
三郎が失笑すると、トモも笑う。
しかし栄達が何度も駅舎の外を見るので、トモは首を傾 げた。
「どうなされたの? お父様」
「ミヨがなぁ、途中で忘れ物をしたと言って引き返したんだよ。風邪のハルは仕方ないとしても、あいつは何を考えとるんだか」
「ハルは、……早く治ると良 いですね。ウメ、手紙を書くと、ハルにも伝えてくださいな。あと、できればハルからも……」
「分かってます。ハルが手紙を書くの、手伝います」
「うん。ありがとう」
蒸気機関車が、煙を噴き上げた。黒い煙は、空へ向かい立ち昇っていく。
三郎がトモにそっと囁 く。
「さ、そろそろ出発の時刻だ。話の続きは客車に乗ってからにしよう」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ハルは、火鉢の横で丸まっている長助 の背を撫 でた。
「今頃、トモは汽車の中でやんしょか……」
「にゃあ」
そわそわして、身体を起こしたり、寝転んだり。この数日、せっかくトモが見舞いに来てくれたのに、咳が止まらず会えなかった。無理して会って、大事な時であるトモに風邪をうつしたら大変だと怖くて断ってしまった。食事や着替えを持ってきてくれたウメにはうつらなかったのだから、会っても良かったのではないかと少し後悔している。今日だって、無理したら行けたはずだ。でもしばらく洗っていない身体が臭うのと、例えば見送りに行ったとして、何を言ったら良いか分からず、ふてくされて布団を被って寝ているうちに皆 が出て行ってしまった。
「いいんでありんす。どうせもう会えないんだから」
寝転んで横を向いた時、鬼のような形相のミヨと目が合った。
「ひぃぃいぃぃいいいい!!」
ハルは飛び退 り、ミヨとの距離を取った。ミヨは木階段の最上段から畳に手を置き、今にも女中部屋へ這い上 ろうとしている。
「失礼な子。人の顔を見て悲鳴を上げるなんて」
「だって、あまりに怖い顔……奥様、なんでここに?」
「決まってるじゃない。あなたを連れて行く為よ」
ミヨは部屋に入り、ぴんと正座の姿勢を取った。
つられてハルも、その場に正座した。
「駅ならきっともう間に合わないでごじゃ、ございます。風邪をうつすわけにいきません。だから行きません。あとあちき臭いし」
「まだ間に合う。今から急げば間に合うわ。いいの本当に? あなたの気持ちは良く分かっているつもりだよ。風邪なんてもう治っているでしょう。さっきから一度も咳をしていないもの。臭いのは、……そうね、とっても臭いわね。獣みたい」
「何を言ったらいいのか、分からないんです。だって、あちきはトモと別れたくない。ずっと一緒にいたかった。お元気で、なんて言えません。さよならなんて……言いたくありません」
「言葉なんて必要ない。トモはあなたの顔が見られたらそれで十分なの。私は……」
ミヨは、きっとハルを見つめた。蛇に睨まれた蛙の如く、ハルは動けなくなった。
「……私はここに嫁 ぐ前、もっと大きな家に暮らしていたわ。家族が多かったから、女中ももっとたくさんいてね」
ミヨは、少しだけ俯いて、それでもう一度ハルを見た。
「その中の一人、ヤエさんという人のことが大好きだった。優しくて、忙しくても手を止めて私の話を聴いて、楽しそうに笑ってくれた人。だけど甘やかされて育った私は、なんにでも反抗的で、素直に気持ちを伝えられなかった。そのうちヤエさんに悪戯 したり、嫌味なことを言ってしまうようになった。そんな自分が嫌で、嫌で、家出をしたこともあった。それもヤエさんの所為 にして、たくさん傷つけてしまったの」
「奥様は、酷い人だったんでありんすね」
「……で、あの人との縁談がまとまって、結納も済ませて、今日みたいに家を発つ日がきた。あの時は馬車だったわね。私は今までのことを、ヤエさんに詫びようとした。でも」
ミヨは、左の目からすぅっとひとすじの涙を流した。
「会ってくれなかった。どんなに嫌なことをしても、笑い飛ばす豪傑と思っていたヤエさんは、部屋から出てきてくれなかった。何度も戸を叩いた。でも声すら聞かせてくれなかった。だから、水野家から手紙を出したわ。ごめんなさい。ごめんなさいって幾つも手紙を書いた」
ミヨの唇が震える。ハルは身を乗り出し、聞く。
「それで、……どうなったんで?」
「私がトモの出産のために家に戻った時、ヤエさんは結婚して居なくなってた。……ヤエさんは、家 の人に一枚の便せんを託していったの」
ハルは黙って、ミヨの次の言葉を待った。
「あの時は申し訳ありませんでした。離れるのが嫌で、会えませんでした……って」
ミヨに飛びついた。ハルはミヨに抱きついて、強く抱きしめる。
「いきます! あちき、トモに会いに、いきます!」
ミヨもハルを抱きしめ、そのまま立ち上がった。
「よく言った! さあ、行くよ!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「なかなか出発しないですね」
「どこかに不具合があって、点検しているそうだ」
ウメと栄達がやきもきしていると、蒸気機関車から、ポーッと大きな音が発された。
「動くぞ」
「それじゃお嬢様、くれぐれもお達者で。手紙、書きますからね」
「うん。ウメも、一助さんも、お父様も。ウメ、ハルに……皆によろしくとお伝えください」
「分かりました」
ウメは歩きながら、トモの手を握った。
少しずつ速度が増していく。
やがて、歩くより速くなった列車を追うことを諦めたウメは、その手を離した。
「……モぉ! ……って!」
遠くからの声。
「……ハル?」
ウメと、車窓から頭を出したトモが、声のする方を見遣 る。
馬が、駆けて来る。
馬上にはミヨ、その背に張り付くハルの姿があった。
ハルがひときわ大きな声を発する。
「ちょっと待ってぇぇぇえええ!!」
栄達が大きな声を出す。
「おい、汽車を停めろ!」
「旦那様、そんなことしたら新聞沙汰ですよ」
「私なんぞどうなってもいい! おい! 汽車を停めてくれ!」
しかしその声は届かず、もうもうと出続ける煙、回転を速める動輪。
もう停められない。
ミヨは、馬の勢いを落とさずにトモの居る客車へ迫っていく。
これ以上近付くと、馬が敷石に足を取られるぎりぎりまで近付く。
「ハル、ここまでよ! トモに声を掛けてあげて!」
「トモぉ! 聞こえる?!」
トモは窓から身を乗り出した。帽子を吹き飛ばされながら、ハルに向かって叫ぶ。
「……! ……ッ!」
「……聞こえてない! おりゃッ!」
ハルは馬から飛び降りた。
着地の瞬間つんのめるも、歯を食いしばり耐え、動輪のように足を回転させて客車の速度に合わせる。
「トモ! これを!」
ハルが右腕を思い切り伸ばし、棒のように丸めた紙を渡そうとする。トモも落ちる寸前まで車窓からはみ出す。トモの腰を、三郎が必死に支えている。トモの長い髪がばたばたと靡 く。
ちぎれるくらい伸ばしたトモの手に、ハルからの贈り物が渡った。
「完成してないんだ! 待ってる! いつまでも、待ってる!」
「ハルぅ! わたし、あなたのことが大好き! 大好き!」
「あちきも……うあっ!」
ハルは敷石につまづき、ごろごろと転がった。
トモが離れていく。
「あちきも、大好き! 大好きぃぃぃいいい!!」
倒れたまま叫び続けた。遠ざかる列車に向かい、何度も、何度も。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
三郎が引っ張って、トモを客車の中へ戻した。
「はぁ、はぁ。門出の日を、命日にするつもりかい?」
「ごめんなさい。どうしてもこれを受け取りたくて……」
トモは、ハルから渡された紙を広げた。
それは虹色の、トモの像だった。
花の色。うすくて七色で、所々に花びらの欠片が付着している。
花飾りが鮮やかに彩 られており、着物の一部にも色を着けてあった。
「いつか、その続きを描いてもらわないとね」
三郎の言葉に、トモは言葉なく頷いた。
絵に落ちた水滴が、じんわり染みとなって広がっていった。
強い風が吹き、飛ばされそうになるつばの広い純白色の西洋帽子を、トモは両手で押さえた。
トモを迎えに来た三郎、見送りのためについて来た
「もう、ウメは泣かないの。手紙を書きますから」
「だ、だってぇ。こんな、こんな
「俺なんか、生まれた時から知ってるんだぞ。ずっと可愛らしかった。皆で、宝石みたいに大事にしてましたよ」
「あら、そんな風におだてても、もう何もしてあげられませんよ」
「おだててなんぞいません。俺はトモさんのこと……ぐほぉっ!」
「馬鹿。三郎さんの前で何を言うつもりよ。もっと気配りなさいな」
三郎が失笑すると、トモも笑う。
しかし栄達が何度も駅舎の外を見るので、トモは首を
「どうなされたの? お父様」
「ミヨがなぁ、途中で忘れ物をしたと言って引き返したんだよ。風邪のハルは仕方ないとしても、あいつは何を考えとるんだか」
「ハルは、……早く治ると
「分かってます。ハルが手紙を書くの、手伝います」
「うん。ありがとう」
蒸気機関車が、煙を噴き上げた。黒い煙は、空へ向かい立ち昇っていく。
三郎がトモにそっと
「さ、そろそろ出発の時刻だ。話の続きは客車に乗ってからにしよう」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ハルは、火鉢の横で丸まっている
「今頃、トモは汽車の中でやんしょか……」
「にゃあ」
そわそわして、身体を起こしたり、寝転んだり。この数日、せっかくトモが見舞いに来てくれたのに、咳が止まらず会えなかった。無理して会って、大事な時であるトモに風邪をうつしたら大変だと怖くて断ってしまった。食事や着替えを持ってきてくれたウメにはうつらなかったのだから、会っても良かったのではないかと少し後悔している。今日だって、無理したら行けたはずだ。でもしばらく洗っていない身体が臭うのと、例えば見送りに行ったとして、何を言ったら良いか分からず、ふてくされて布団を被って寝ているうちに
「いいんでありんす。どうせもう会えないんだから」
寝転んで横を向いた時、鬼のような形相のミヨと目が合った。
「ひぃぃいぃぃいいいい!!」
ハルは飛び
「失礼な子。人の顔を見て悲鳴を上げるなんて」
「だって、あまりに怖い顔……奥様、なんでここに?」
「決まってるじゃない。あなたを連れて行く為よ」
ミヨは部屋に入り、ぴんと正座の姿勢を取った。
つられてハルも、その場に正座した。
「駅ならきっともう間に合わないでごじゃ、ございます。風邪をうつすわけにいきません。だから行きません。あとあちき臭いし」
「まだ間に合う。今から急げば間に合うわ。いいの本当に? あなたの気持ちは良く分かっているつもりだよ。風邪なんてもう治っているでしょう。さっきから一度も咳をしていないもの。臭いのは、……そうね、とっても臭いわね。獣みたい」
「何を言ったらいいのか、分からないんです。だって、あちきはトモと別れたくない。ずっと一緒にいたかった。お元気で、なんて言えません。さよならなんて……言いたくありません」
「言葉なんて必要ない。トモはあなたの顔が見られたらそれで十分なの。私は……」
ミヨは、きっとハルを見つめた。蛇に睨まれた蛙の如く、ハルは動けなくなった。
「……私はここに
ミヨは、少しだけ俯いて、それでもう一度ハルを見た。
「その中の一人、ヤエさんという人のことが大好きだった。優しくて、忙しくても手を止めて私の話を聴いて、楽しそうに笑ってくれた人。だけど甘やかされて育った私は、なんにでも反抗的で、素直に気持ちを伝えられなかった。そのうちヤエさんに
「奥様は、酷い人だったんでありんすね」
「……で、あの人との縁談がまとまって、結納も済ませて、今日みたいに家を発つ日がきた。あの時は馬車だったわね。私は今までのことを、ヤエさんに詫びようとした。でも」
ミヨは、左の目からすぅっとひとすじの涙を流した。
「会ってくれなかった。どんなに嫌なことをしても、笑い飛ばす豪傑と思っていたヤエさんは、部屋から出てきてくれなかった。何度も戸を叩いた。でも声すら聞かせてくれなかった。だから、水野家から手紙を出したわ。ごめんなさい。ごめんなさいって幾つも手紙を書いた」
ミヨの唇が震える。ハルは身を乗り出し、聞く。
「それで、……どうなったんで?」
「私がトモの出産のために家に戻った時、ヤエさんは結婚して居なくなってた。……ヤエさんは、
ハルは黙って、ミヨの次の言葉を待った。
「あの時は申し訳ありませんでした。離れるのが嫌で、会えませんでした……って」
ミヨに飛びついた。ハルはミヨに抱きついて、強く抱きしめる。
「いきます! あちき、トモに会いに、いきます!」
ミヨもハルを抱きしめ、そのまま立ち上がった。
「よく言った! さあ、行くよ!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「なかなか出発しないですね」
「どこかに不具合があって、点検しているそうだ」
ウメと栄達がやきもきしていると、蒸気機関車から、ポーッと大きな音が発された。
「動くぞ」
「それじゃお嬢様、くれぐれもお達者で。手紙、書きますからね」
「うん。ウメも、一助さんも、お父様も。ウメ、ハルに……皆によろしくとお伝えください」
「分かりました」
ウメは歩きながら、トモの手を握った。
少しずつ速度が増していく。
やがて、歩くより速くなった列車を追うことを諦めたウメは、その手を離した。
「……モぉ! ……って!」
遠くからの声。
「……ハル?」
ウメと、車窓から頭を出したトモが、声のする方を
馬が、駆けて来る。
馬上にはミヨ、その背に張り付くハルの姿があった。
ハルがひときわ大きな声を発する。
「ちょっと待ってぇぇぇえええ!!」
栄達が大きな声を出す。
「おい、汽車を停めろ!」
「旦那様、そんなことしたら新聞沙汰ですよ」
「私なんぞどうなってもいい! おい! 汽車を停めてくれ!」
しかしその声は届かず、もうもうと出続ける煙、回転を速める動輪。
もう停められない。
ミヨは、馬の勢いを落とさずにトモの居る客車へ迫っていく。
これ以上近付くと、馬が敷石に足を取られるぎりぎりまで近付く。
「ハル、ここまでよ! トモに声を掛けてあげて!」
「トモぉ! 聞こえる?!」
トモは窓から身を乗り出した。帽子を吹き飛ばされながら、ハルに向かって叫ぶ。
「……! ……ッ!」
「……聞こえてない! おりゃッ!」
ハルは馬から飛び降りた。
着地の瞬間つんのめるも、歯を食いしばり耐え、動輪のように足を回転させて客車の速度に合わせる。
「トモ! これを!」
ハルが右腕を思い切り伸ばし、棒のように丸めた紙を渡そうとする。トモも落ちる寸前まで車窓からはみ出す。トモの腰を、三郎が必死に支えている。トモの長い髪がばたばたと
ちぎれるくらい伸ばしたトモの手に、ハルからの贈り物が渡った。
「完成してないんだ! 待ってる! いつまでも、待ってる!」
「ハルぅ! わたし、あなたのことが大好き! 大好き!」
「あちきも……うあっ!」
ハルは敷石につまづき、ごろごろと転がった。
トモが離れていく。
「あちきも、大好き! 大好きぃぃぃいいい!!」
倒れたまま叫び続けた。遠ざかる列車に向かい、何度も、何度も。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
三郎が引っ張って、トモを客車の中へ戻した。
「はぁ、はぁ。門出の日を、命日にするつもりかい?」
「ごめんなさい。どうしてもこれを受け取りたくて……」
トモは、ハルから渡された紙を広げた。
それは虹色の、トモの像だった。
花の色。うすくて七色で、所々に花びらの欠片が付着している。
花飾りが鮮やかに
「いつか、その続きを描いてもらわないとね」
三郎の言葉に、トモは言葉なく頷いた。
絵に落ちた水滴が、じんわり染みとなって広がっていった。