第37話 台風一過 最終章
文字数 2,450文字
どこか遠くを見るような目をして、久美子さんは「あれは、夏の陽射しの名残がようやく見られなくなったころだったわ」としみじみと言って、こうつづけた。
「そんなとき、季節外れの台風が発生してさ、意地悪く、進路を列島の方に向けてきたの。それも、きわめて強烈な勢力を伴ってね。いよいよそれが、あたしたちの街に上陸するっていう、その前日のホームルームのときだったわ」
久美子さんはそこでことばを区切ると、テーブルの上のマグカップに手を伸ばし、注がれているコーヒーを美味しそうにすすった。
そんな久美子さんを見やりながら、雄太は、やれやれ、と苦い顔をしてため息をつく。
さもありなん。なにせ、久美子さんの創作意欲にいっそう拍車がかってきたようなのだから。
やっぱ、さっき、何を措いてもさしあたり洗車しに行っとけばよかったんだ、と雄太は心底、後悔する。
そのときには、なかなか、気づかない。むしろ、いつもあとになってから気づくことの方が、多い。でも、気づいたときには、もう、遅すぎる……。
もちろん、雄太もその例外ではない。
そんなふうに、後悔している雄太を尻目に、久美子さんは泰然自若として、ことばを、こう継ぐ。
「そのとき、担任の先生が難しい顔をして言ったの。『強烈な台風の影響で、電車がふつうになってしまう懸念があります。われわれ職員一同はいま、その一報を受けて、急遽会議を開きました。結果として、あすはきゅうこうにしようということになりました』ってね。それを聞いとたん、クラスのみんなは、やったぁ!! って歓声あげたの。でも、あたしだけがきょとんとして、心中穏やかでいられなかったの。ほら、だって、あたし、てっきり台風とか地震とかの自然災害の影響で、電車の『急行』が『普通』になってしまうっていうふうに、小さいころから信じていたでしょ。それなのに、『ふつう』になったら『きゅうこう』になるってなぜか倒錯するようなこと言うんだよ。そりゃあ、もう、あたしパニックなんてもんじゃないわよね」
久美子さんはそう言うと、どう? あたしの、この話。ユウタの話よりもっと間抜けで、だから、すごく面白いでしょ、とでも言いたげに上目遣いで、いたずらっぽく雄太を見るのだった。
ち、ちくしょう。
案の定、雄太は口惜しそうに歯噛みする。
なんだよ、それ、と目くじらを立てて――。
けれどすぐに雄太は、それにしても、あれだな、と思い直して、目元をゆるめる。
こんな短時間に、こういう面白い話を創作しちゃうんだから、ある意味尊敬しちゃうよなあ、と感心して。
そんなふうに、畏敬の念すら覚えて久美子さんを眺めていたら、雄太は、もう、つぶやかずにはいられなかった。
「よくもまあ、こんな短時間にさくさくと創作できちゃうよなあ、おまえ。オレ、脱帽だよ」
あくまでも、台風一過の空は、清々しく青くキレイに澄んでいる。
雄太はふと、久美子さんから目を離して、その空に眼差しを向けながら、しみじみと思う。
空は、こんなに一点の曇りなく晴れ渡っているのに、オレの心はどうだろう。むしろ、どんよりとよどんでいやしないか。
けれど、それも無理はないか。
あんまり空が青いものだから、つい衝動に駆られて、しなくてもいい遠い昔の間抜け話を披露しちまった。久美子のやつを笑わせて、優越感に浸ってやろうと思ってしまったばっかりに……。
でもそれはとても、浅はかだった。なんのことはない、久美子のやつが短時間にこしらえた創作話の方が、オレのより、よほど面白かったんだからな。
これじゃあ、オ久美子のやつが優越感に浸ってるだけの話じゃないか、こんちくしょうめが……。
そんなふうに、自己嫌悪に陥っている自分に対して雄太は内心こう毒づく。
結局のところ、おまえって子どものころから、全然進歩してねぇじゃん、とつまらなそうに笑って。
ため息交じりに、雄太は力なく首を振って、空に向けていた眼差しをふと、部屋の中に戻した。
久美子さんをチラ見する。
彼女は何事もなかったかのような顔をして、ふたたび、料理のレシピ本とにらめっこしていた。
そんな久美子さんの横顔をぼんやりと眺めながら、口惜しいけど、美しいよな、と雄太は思わずため息をつく。
鼻筋の通ったキレイな鼻。長いまつ毛。そして何より、扇情的な唇――。
そればかりではない。
機知に富んでいて、如才なくて、でもそれでいて、ちょっと意地っ張りで、可愛げがなくて、そういうふうに矛盾していて……。
それと、あれだ――久美子さんの見事な胸をチラ見して、雄太は思う。
こんなにコケティッシュで、オレなんかにはちょっともったいないくらいの、美しい奥さん。最近、ちょっと肉づきが良くなったところが、玉に瑕だけれど、と。
さらにまた、こんな久美子に勝って優越感に浸ろうなんて、そう思っていること自体が不遜なんだろうな、とも。
すると突然、久美子さんが壁の時計に目をやって、「あら、いけない、もうこんな時間だわ。さっさと、お掃除とお洗濯とをすまさなきゃ。午後から、お友達と上野の美術館に行く予定だったわ」と慌ててソファーから腰をあげた。
久美子さんが、部屋からいそいそと出ていく後ろ姿を目で追いながら、それでも、まあ、と雄太は自分で自分に言い聞かせる。
家庭が円満な秘訣は結局、旦那の方が、奥さんに、はいはい、って素直に従っているのにかぎるんだろうな。だから、あれだ。ここは負けるが勝ちってことでいいんじゃないの、というふうに。
でも、それって、あれだよな――けれどすぐに、雄太は顔をしかめる。
ただ単に負け惜しみってやつかもしれないよなあ、とため息交じりに。
ため息は、繰り返されるたびに、だんだん、深く長くなる。
は〜〜あ……。
「台風一過」の清々しい青空が、雄太の心までもすっきりと澄み渡らせた――とはならず、それよりむしろ、ふたたび嵐を呼んで気が滅入ってしまったという、そんな間抜けなおはなし。
おしまい、おしまい
「そんなとき、季節外れの台風が発生してさ、意地悪く、進路を列島の方に向けてきたの。それも、きわめて強烈な勢力を伴ってね。いよいよそれが、あたしたちの街に上陸するっていう、その前日のホームルームのときだったわ」
久美子さんはそこでことばを区切ると、テーブルの上のマグカップに手を伸ばし、注がれているコーヒーを美味しそうにすすった。
そんな久美子さんを見やりながら、雄太は、やれやれ、と苦い顔をしてため息をつく。
さもありなん。なにせ、久美子さんの創作意欲にいっそう拍車がかってきたようなのだから。
やっぱ、さっき、何を措いてもさしあたり洗車しに行っとけばよかったんだ、と雄太は心底、後悔する。
そのときには、なかなか、気づかない。むしろ、いつもあとになってから気づくことの方が、多い。でも、気づいたときには、もう、遅すぎる……。
もちろん、雄太もその例外ではない。
そんなふうに、後悔している雄太を尻目に、久美子さんは泰然自若として、ことばを、こう継ぐ。
「そのとき、担任の先生が難しい顔をして言ったの。『強烈な台風の影響で、電車がふつうになってしまう懸念があります。われわれ職員一同はいま、その一報を受けて、急遽会議を開きました。結果として、あすはきゅうこうにしようということになりました』ってね。それを聞いとたん、クラスのみんなは、やったぁ!! って歓声あげたの。でも、あたしだけがきょとんとして、心中穏やかでいられなかったの。ほら、だって、あたし、てっきり台風とか地震とかの自然災害の影響で、電車の『急行』が『普通』になってしまうっていうふうに、小さいころから信じていたでしょ。それなのに、『ふつう』になったら『きゅうこう』になるってなぜか倒錯するようなこと言うんだよ。そりゃあ、もう、あたしパニックなんてもんじゃないわよね」
久美子さんはそう言うと、どう? あたしの、この話。ユウタの話よりもっと間抜けで、だから、すごく面白いでしょ、とでも言いたげに上目遣いで、いたずらっぽく雄太を見るのだった。
ち、ちくしょう。
案の定、雄太は口惜しそうに歯噛みする。
なんだよ、それ、と目くじらを立てて――。
けれどすぐに雄太は、それにしても、あれだな、と思い直して、目元をゆるめる。
こんな短時間に、こういう面白い話を創作しちゃうんだから、ある意味尊敬しちゃうよなあ、と感心して。
そんなふうに、畏敬の念すら覚えて久美子さんを眺めていたら、雄太は、もう、つぶやかずにはいられなかった。
「よくもまあ、こんな短時間にさくさくと創作できちゃうよなあ、おまえ。オレ、脱帽だよ」
あくまでも、台風一過の空は、清々しく青くキレイに澄んでいる。
雄太はふと、久美子さんから目を離して、その空に眼差しを向けながら、しみじみと思う。
空は、こんなに一点の曇りなく晴れ渡っているのに、オレの心はどうだろう。むしろ、どんよりとよどんでいやしないか。
けれど、それも無理はないか。
あんまり空が青いものだから、つい衝動に駆られて、しなくてもいい遠い昔の間抜け話を披露しちまった。久美子のやつを笑わせて、優越感に浸ってやろうと思ってしまったばっかりに……。
でもそれはとても、浅はかだった。なんのことはない、久美子のやつが短時間にこしらえた創作話の方が、オレのより、よほど面白かったんだからな。
これじゃあ、オ久美子のやつが優越感に浸ってるだけの話じゃないか、こんちくしょうめが……。
そんなふうに、自己嫌悪に陥っている自分に対して雄太は内心こう毒づく。
結局のところ、おまえって子どものころから、全然進歩してねぇじゃん、とつまらなそうに笑って。
ため息交じりに、雄太は力なく首を振って、空に向けていた眼差しをふと、部屋の中に戻した。
久美子さんをチラ見する。
彼女は何事もなかったかのような顔をして、ふたたび、料理のレシピ本とにらめっこしていた。
そんな久美子さんの横顔をぼんやりと眺めながら、口惜しいけど、美しいよな、と雄太は思わずため息をつく。
鼻筋の通ったキレイな鼻。長いまつ毛。そして何より、扇情的な唇――。
そればかりではない。
機知に富んでいて、如才なくて、でもそれでいて、ちょっと意地っ張りで、可愛げがなくて、そういうふうに矛盾していて……。
それと、あれだ――久美子さんの見事な胸をチラ見して、雄太は思う。
こんなにコケティッシュで、オレなんかにはちょっともったいないくらいの、美しい奥さん。最近、ちょっと肉づきが良くなったところが、玉に瑕だけれど、と。
さらにまた、こんな久美子に勝って優越感に浸ろうなんて、そう思っていること自体が不遜なんだろうな、とも。
すると突然、久美子さんが壁の時計に目をやって、「あら、いけない、もうこんな時間だわ。さっさと、お掃除とお洗濯とをすまさなきゃ。午後から、お友達と上野の美術館に行く予定だったわ」と慌ててソファーから腰をあげた。
久美子さんが、部屋からいそいそと出ていく後ろ姿を目で追いながら、それでも、まあ、と雄太は自分で自分に言い聞かせる。
家庭が円満な秘訣は結局、旦那の方が、奥さんに、はいはい、って素直に従っているのにかぎるんだろうな。だから、あれだ。ここは負けるが勝ちってことでいいんじゃないの、というふうに。
でも、それって、あれだよな――けれどすぐに、雄太は顔をしかめる。
ただ単に負け惜しみってやつかもしれないよなあ、とため息交じりに。
ため息は、繰り返されるたびに、だんだん、深く長くなる。
は〜〜あ……。
「台風一過」の清々しい青空が、雄太の心までもすっきりと澄み渡らせた――とはならず、それよりむしろ、ふたたび嵐を呼んで気が滅入ってしまったという、そんな間抜けなおはなし。
おしまい、おしまい