第3話 鳶が鷹を生む 前編

文字数 1,833文字


 うちの息子は小学五年生。
 だれに似たのか、彼は読書が大好きだ。もっとも、わたしが彼の歳のころは、どちらかというと、絵を描くほうが好きだった。少なくともそうである以上、どうも、彼はわたしに似たのではないらしい。
 だとしたら、旦那、それとも……。
 えー、ま、それはさておき、読書が嫌いよりは、好きに越したことはない。まして、近年、子どもの読解力が低下していると言われ、その要因が読書離れによるところが大きいと聞けば、なおさらだ。
 といって、何事もほどほどがいいのは言うまでもない。
 ほら、だって、先人も言ってるでしょ。
 過ぎたるは猶……えーと、あれっ、その次はなんだったっけ。はは、それは、まあ、後で調べることにして、とにかく、なんにせよやり過ぎはよくない、ってことよ。
 それなのに――。近ごろ、息子の読書好きが、そのことわざ通りになってきたから、さあ、大変。
 息子はまだ、小学五年生。それにもかかわらず、彼は最近、大人顔負けの本にまで、触手を伸ばすようになった。しかも、そうした難しい本を、深夜遅くまで一心不乱に読みふけっている。
 いまでは、それが嵩じて、ながらスマホならぬ、ながら読書で、四六時中、本を手放さなくなってしまったのだ。いまからこれでは、行く末が空恐ろしい……。
 あ、でも、ちょっと待って――ふと、わたしは疑問を覚える。
 だって、わたしは彼ほど根気強い質ではない。それより、性来すぐにめげてしまうタイプなのだ。
 だとしたら、彼がだれに似たのか、いよいよ、真剣に調べる必要がある……ような、ないような。
 
 ただ、そうはいっても、さすがに難しい本だけのことはあるみたい。それだけに、いまの彼にはまだ理解不能な言葉が、頻繁に、出てくるらしい。彼はそこでいつもつまずいて、立ち往生してしまうのだと。
 これには、さすがに彼も嫌気がさしてきたようなのだ。なにしろ、近ごろでは「こんな難しい本は、ぼくにはまだ無理なのかなぁ」と弱音を吐くようになったのだから。
 ふふ、でもこれは、いい兆候だわ、とわたしは密かにほくそ笑む。
 だから、そうやって彼が弱音を吐く度に、わたしは「身の丈に合った読書をすればいいのよ。あんまり背伸びしなくてね」と諭して、彼がなるべく暴走しないようにと努めてきた。だが――。
 彼の性分は、そんなにひよわに出来上がってはいなかった。わたしの都合のいいようには……。
 というのも、石ころにつまずくたびに、今度はその言葉の意味を、それも、やたら難解な言葉の意味を、毎晩のように、わたしに尋ねてくるようになったのだから。これにはわたしも、ほとほと困り果てている。
 だって、わたしは悲しいくらい、語彙力が乏しいんだもの。だから、こんな難しい言葉をいくら尋ねられたところで、適切な答えがわたしの口をつくことは到底ない。それよりむしろ、つくのはため息ばかり……。これでは、親の面目は丸つぶれだし、なによりきまりが悪い。
 わたしはそれで、息子の読書好きを手放しで喜ぶ気にはなれずにいた。
 ま、それはそれで、自己嫌悪なんだけど……。
 
「ねえ、ママ」
 ほら、噂をすれば、えーと、なんとかがさすだ。
 それはともあれ、今夜も、息子が本を片手にやってきた。
「どうしたの、またなにか意味の分からない言葉があるの」
 憂鬱ながらも、わたしはそう訊かざるを得ない。
「うん。これ」
「どれどれ、え〜と、『雨だれ石をうがつ』って、あんた、これ、いったい、なんの本を読んでんのよ」
 ちょっと、こっちに寄越しなさい、というふうに、わたしは息子から奪いとるようにして、その本を取り上げる。
 背表紙を見て、思わずわたしは目をむいた。なんと、そこには金箔で『漢書』という文字が型押しされているではないか。それも、眩しいくらいに、仰々しく……。
 か、かんじょって……なによ? 
 わたしは口をポカーンと開ける。文字通り、開いた口が塞がらない。
 いままでわたしが目にしたことのない、その意味不明な言葉は、この本の『枚乗伝』という章に記されていた。
 あのねぇ、きみ。わたしに、こんな難しい言葉の意味がわかるわけがないでしょ……だいたい、わたしはね、語彙力に乏しい女として、昔から、ジモピーの間で有名だったんだから――あ、これは自慢げに語ってる場合じゃないのか、えへへ。
 ともあれ、今夜もまた、親としての面目が丸潰れ……。
 わたしはため息をつきながら、息子を目の端で覗く。
 うん⁈ なに、その目⁇
 
 
つづく
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