第6話

文字数 12,948文字

 「感謝の気持ちを伝えたい?」
 黄蘗はあからさまに嫌そうな、面倒ごとに直面したというような、片眉を吊り上げたご機嫌とはお世辞にも言い難い表情を作っていた。
 時間はまだ太陽が日課となっている空の頂に挑戦している最中。
 いつも涼しい森の中を吹き抜ける風はカラっとしており、揺られて音を奏でる木々の葉も元気を十分に残しているようだ。
 黄蘗はいつものように社の上に座り、いつもと違う気乗りしない顔で三笠を見ている。
 耳が興味なさげにソッポを向いている事から演技でないのは確実だ。
 「そういうのは自分で考えるものだろ。なんで妾が一緒になって考えなければならんのだ?」
 「それはそうですけど、お爺ちゃんやお婆ちゃんとは年が離れすぎてるから、何なら喜んでくれるのかとか分からなくて。」
 「分からぬなら本人たちに聞けばよかろう。」
 「それじゃダメなんです。」
 「何がダメなのかさっぱり分からんな。人間というのは時に回りくどくてイカンと妾は思う。心からの気持ちを伝えたいのならば、まっすぐ相手の目を見てハッキリ言うのが一番に決まっておろうに。」
 「それだけじゃ十分じゃないと思うから相談してるんですよ。」
 「小僧、十分かどうかを決めるのはお前ではなく相手だ。お前が満足したいがために回りくどく大仰な事をしたいと言うのなら、止めておけと助言しておくぞ。」
 呆れ顔でそう黄蘗は言う。
 確かにそれは真実なのだろうが、やはり感謝をちゃんと伝えられたという実感が無い事には本当に気持ちが届いたとは中々思えないものだ。
 だからこそ大げさにならない程度で、かつ自分も納得のいくような感謝の示し方というのを共に考えてもらえないだろうかと相談しているのである。だと言うのに黄蘗はそっぽを向いて退屈そうに大きく口を開いて欠伸をするだけ。
 とても協力してくれそうには見えない。
 「時に――。」
 「なんです?」
 「時に、お前の祖父母が無理をして何か高いものを買って来たとして、それは嬉しいか?」
 「嬉しいけど、素直には喜べませんね。」
 「では、目にクマを作りながら服か何かを仕立ててもらった場合はどうだ? それも今の流行りとは大きくかけ離れていたなら。」
 「正直に言えば困ります。」
 「そうだな。そういうものだろう。そこを無暗矢鱈と“喜ばしい”と言う者だったなら一つ説教でもしなければならないが、お前はそこまで愚かではない。自分で見つめ直しながら考えれば良い方法と悪い方法くらいは分かるだろう。」
 「……やっぱり協力はしてくれないんですね。」
 「協力してやるための意義がまず無いからな。神託を受けたいと言うのであれば相応のお供え物を用意するが良い。流石に饅頭と茶ばかりでは飽きるというものだ。」
 カカカ、と笑う黄蘗に仏頂面の三笠。
 仕方なく森から出て、とりあえず適当に近くを歩き回って見る。
 カラッと晴れた空から降り注ぐ太陽の光は真夏の力強さをまだまだ見せつけてきているが、湿気が少ない今日においては暑くはあれど辛いと言う程ではない。
 帽子をしっかりと被っておけばそれほど問題は無いだろう。
 森の外、小川に沿って歩いているのも辛さを和らげるのに一役買っていると見える。
 水の流れる音で気分が涼やかになるなどと古い歌人のような感覚は無いが、水辺と言うだけで気温は下がるものであるから、熱せられたアスファルトと乾いた側溝しかない道を歩くよりかは幾分かマシのようだ。
 暫く歩けば分かれ道に差し掛かる。
 一方はもう一つの森の出口がある道。さらに歩いて行けば黒服たちに始めて出会った場所に辿り着けるだろう。
 もう一方は余り入ったことのない住宅街への道だ。
 住宅街と言っても都会のように建物が密集して立っているわけではなく、家と家の幅はそれなりに離れており代わりに庭が広くなっている。しかし、庭も含めた土地を囲むコンクリートブロックの壁は高く隙間なく詰められている事から圧迫感はそれほど都会と変わらないように感じた。
 どちらの道もそれほど歩きたいと思えなかったが、つい最近の出来事で考えれば足が住宅街の方を向いたのは当然の事なのかもしれない。
 道幅は歩行者などがいなければ小さな車でスレ違える程度。十分に広いとは言えないが、人も車もたいして通らないこの辺りならば問題ないのだろう。ただすっかり掠れて見えなくなっている白線は落ち着かないので書き直して欲しかった。
 相も変わらず子供の声一つ聞こえない。
 庭に植えられた木の枝が風に揺れて時折音を奏でる以外には何も無い静寂の道。壁が高いため家の中の様子を伺い知る方法は何も無いが、誰も彼も出かけてしまっているのではないかと思ってしまうほどに、人の出す音というのが自分のもの以外聞き取れなかった。
 あまり居心地の良いところではない。
 これが或いは、大自然の中であったならばこのような感想は出てこなかっただろう。
 自然の中に人が住めるようになった領域と、人が住むために整備された土地に自然を埋め込んでいる領域。この辺りは明らかに後者であるから、濃い人の気配に満ち溢れているわけで、そこで人の実感が湧かないというのは違和感を強く覚えるのも仕方のない事だ。
 三笠は歩いては立ち止まって休み、休んでは足を動かして歩いた。
 歩けば歩くほど景色と言うのは変わるものだと思っていたが、世の中には例外というものがあるのだと言う事を、延々と続く高いコンクリートの壁が語って聞かせてくる。
 いつまでもそんな眉唾な話を聞いてはいられない。
 少し足を速めてしまえばなんてことはなく、あっという間に壁の幻は消えていった。
 代わりに現れたのは広大な畑だ。
 一つでまるまる同じというわけではなく、ところどころに区切りのように車の轍などで固められた土が剥き出しとなっている道が走っている。まるで畑を飾る粗雑で質素な額縁のように見ようによっては見えるのかもしれないが、三笠にはただの囲いのようにしか見えない。
 区切りごとに育てている作物は変わり、右がキャベツでも左は玉ねぎであったり、奥に赤かとしたトマトの姿が見えたかと思えば、その隣は収穫を終えたのは掘り返された土だけの空間が広がっていたりする。
 一つ一つの畑がその辺の大型商店の駐車場に負けないほどの広さがあった。
 「そういえば、まだ手伝いとかしたこと無かったな。」
 ふと己の普段の生活を思い出してそんな事を呟く。
 祖父母の朝は非常に速い。
 日によっては太陽が姿を現していない、一足先に辿り着いた光が照らす暗い時間にもう畑に出ている事もある。三笠よりも遅く寝ることもあると言うのに、目覚まし時計も使わず正確に起きられるのだから凄いものだ。
 「よし!」
 日頃からの感謝のために仕事を手伝う。
 悪くない発想のように思った。
 始めてとなると、それなりに手際の悪い事も多いだろうから迷惑にならないよう注意をしなければいけないだろうが、それでも人手と言うのが祖父母の二人から自分も含めた3人に増えれば効率はかなり変わるはずだ。
 早く仕事が終わればそれだけ休める時間も増えるし、起きるのもご飯を食べるのも今よりゆっくりすることができるようになる。
 どうせ自分には特にやらなければならない事というものが無いのだから丁度良い。
 決意を一つ、踵を返す。
 帰りの足どりは軽く不思議と疲れは全くないような気がする。
 両脇に立ち並ぶ灰色の壁も、その向こう側で控えめに葉を擦っている木々も、まるで自分を応援しているかのように感じた。唯一、この件を話した黄蘗だけは呆れ顔を作って肯定も励ましも何も無かったが、止められなかったと言う事は決して悪い考えではないという事の証だろう。
 それから三笠が計画を実行に移したのは三日後だった。
 朝、中々起きる事が出来なかったのだ。

 東の空が白み始め黒い空は徐々に青色に染め上げられだす。
 星々は瞬く間に暴力的な日の光りになすすべなく飲み込まれて姿を消し、一足先に逃げた月の姿はもう山の影に隠れかけていた。
 偶然にもトイレからの誘いを受けて目を覚ました三笠は、ガラガラと玄関の扉が開かれる音を聞き寝ぼけた頭へと血が流し込まれ急激に覚醒状態へと移行した。もっとも頭がいくら目を覚ましたところで体の方がそれについて行けるかと言えば、必ずしもそうとは言えないようで鉛の詰まったような重そうな動きで体を起こすのが精一杯だ。
 外から車の唸る声が聞こえたところでようやく着替えを終えて部屋から出る。
 すっかり車の音が遠くなり家の中がシンと静まり返った中、三笠はただ一人ガラガラと音を立てて家から外へと出た。
 空を見上げても太陽はまだ輪郭の一部すら出していない。
 些か御寝坊さんではないかと再び押し寄せた眠気と戦いながら三笠は文句の一つでも言いたくなるが、普段の己など太陽が全身を露わにしてもなお目を覚ましていないのだから、偉そうなことは言えないだろうと思い留まる。
 夏と言ってもここまで早ければ暑くない。
 夜中一杯空は晴れていたのだろう、むしろ昼間来ているような薄い服装では少しばかり肌寒さも感じる。
 三笠は体を伸ばし、それから車の後を追うように歩き出した。
 饅頭をいつもより多めに噛みながら飲み込む。
 お土産の余りなので、まだまだある。
 困ったことに黄蘗にお供えをおこなっても数は減ることなく、そのまま置きっぱなしでは「腐ってしまう。」とか「獣どもが喰い荒らす。」などの理由から持ち帰っている。傍から見れば、お供え物を置いたかと思えばそのうちに回収するのだから、さぞ奇妙に見えるだろう。
祖父も祖母もそれほど甘いものがと言うわけではないので一向に減らないのだ。
 「こんな事なら、あの人たちにも出せばよかった。」
 そうこの間家を訪れて来た四人組を思い出す。
 もっとも彼らに買ってもらった物も中にはあるし、顔を合わせた場所のお土産を客として訪れた相手に出すのは如何なものかと思わなくもない。
 考えれば考えるほど、結局は自分で食べるしか無いと言う結論に至る。
 そんなこんなで、日持ちしない物から順にこうして三笠が率先して食べているのだ。
 朝という時間、普段よりも短い睡眠時間。
 この二つが重なると、饅頭の中にドンと構えている大きく甘く薫り高い餡は些かどころではないくらいには重く感じる。熱いお茶の一つでもあればもう少し軽く食べられるのだろうがあいにく外で、歩きながらでは難しい注文だろう。
 たった一つの饅頭に苦戦しつつ何とか全てを飲み込んで胃の中に流し込んで、口の中に残る甘い余韻が薄れてくる頃、目的地にたどり着いた。
 今の時期は夏キャベツの収穫が一番の仕事で、その後他の作物の手入れを行っている。
 最近だと機械を使った収穫を行っている場所も少なくないが、祖父は機械が必要なほど広くも無ければキャベツだけを育てているわけではないからという理由で、今でも手作業で一玉ずつ収穫を行っていた。
 中腰で屈みながらの作業、キャベツそのものもギッシリと身が詰まっている事からそれなりに重いので腰が痛くなりそうなものだが、顔色一つ変えずに籠に入れていくのだから凄い。
 三笠は道路の脇、畑の入り口の地面に腰を下ろして暫くその様を眺めて待った。
 収穫は時間が重要なのだとよく祖父が言っているのを聞いている。
 もしも三笠が力持ちだったなら、キャベツの詰まった箱をトラックの荷台に乗せるくらいの手伝いが出来たのだが、杖を使わなくてもそれなりに歩けるようになった程度ではまだまだ力不足というものだ。
 今は邪魔にならないようにしておくのが一番だろう。
 持ってきていた籠の全てが一杯になった頃には流石の太陽も半分ほど姿を出していた。
 一通りトラックに積み終えたのを見計らって三笠は姿を現す。
 「み、三笠君かい!?」
 「こんな時間に……何かありましたか?」
 驚く祖父に、心配そうな顔をつくる祖母。
 まだ寝ているはずの孫が姿を現したのだから無理も無いだろう。
 ここで目的である「日頃の感謝を伝えるために手伝う。」など言おうものなら、祖父母は気を使って直ぐに三笠を家に送り届けるだろうことは想像に難くない。
 だから――。
 「いつも寝てる時間だけど、その時にお爺ちゃんとお婆ちゃんが何をやってるのか気になってて。丁度目が覚めたから来てみたんです。」
 「でもこんな時間に、しかもこんな場所まで歩いてくるなんて……。」
 「大丈夫ですよ。おかげ様で最近は体の調子も良いですし、むしろいい運動になりますから。」
 「本当か? 無理はしちゃイカンぞ?」
 「はい。心配してくれてありがとうございます。」
 そう言って見せても祖父母は心配そうな顔のままだ。
 意を汲んでか、帰ろうと言う話が出ないだけ良しとするべきか。
 「それで、これから何をするんですか?」
 話を変える目的半分、好奇心半分で三笠は尋ねる。
 「これからはキャベツの検品と箱詰めですね。良かったら見ていきますか?」
 「はい。」
 祖母の言葉に頷くと、トラックの助手席に乗せられた。
 運転席に祖父、祖母は荷台で籠を押さえている。
 道を走る車の数は非常に少ないので、祖父はゆっくりとした速度でトラックを動かした。道中尋ねたところによると、収穫量が多い場合は前々からこのような形で運んでいるから、祖母を追いやったのだというような考えは持たなくて良いと言うことだ。
 安全面も考えれば往復する方が良いのだが、祖母曰く「お爺さんは面倒臭がりだから。」とのことだった。
 世界が色づき始め木々が目を覚ましたように青々と輝きだした頃、三笠は二つのキャベツを見比べて唸り、一方を右、もう一つを左の箱へ入れようと動いた。動いたが最後まで終えることなく元の位置に戻して再び唸りだす。
 繰り返しだ。
 一方で祖父母は淡々と余計な葉を落とし形を整えては、機械以上の正確さを持って重さごとに分けて箱へと入れていく。無駄なく短時間で大量に処理するため計量器などは使わない、というか使う必要がないと言った方が正しい。
 何十年と繰り返してきたからこそできる技だろう。
 当然、つい先ほどこの場にやって来た青年がマネできるはずもない。
 ずっと使っていなかった計量器が正常に動作しなかったのも当然だ。
 つまり、今三笠に何かできることは一つも無いのである。
 二つの新芽のように鮮やかで黄色味を帯びた緑色の塊にかかりっきりになってどれほどの時間が経過したのか。
 「三笠君。」そう呼びかける声を聞き顔を上げて見れば、既に山のようにあったキャベツは綺麗に箱詰めされ終えておりトラックの荷台を綺麗に占領している。上からシートをかけ、それからロープを使うことでまとめて固定しており、乗れそうな場所は何処にもない。
 「私たちは卸売さんの所に行ってきますから、ちょっと奥の方で待っていてくれますか。」
 「あ、はい。」
 「ああ、あとそのキャベツは家で食べる分だから、そのままでも良いですよ。」
 「はい。」
 間に合わなかった、というわけではないという気遣いだろう。
 いきなり手伝いが上手くいくとは思っていなかったが、それにしても何の役にも立てなかったというのは、不甲斐なさを自覚せざるを得ず少しだけ気持ちが沈む。
 それを気取られないよう元気に言葉を返して祖父母を見送る。
 トラックがすっかり見えなくなって、ようやく体にずっと込められていた緊張が解放されて全身から力が抜けたような気がした。
 足や手だけではない。腰や腹、肩、首、もしかしたら頭の中までかもしれない。
 その場にへたり込みそうになるが、流石にそれは他人の目が怖いので持ちこたえる。いくら敷地の中だからと言って、田舎の早朝で歩く人が殆どいないからと言って、もしもと言うこともある。
 へたり込んでいる姿を誰かに見られて話しかけられても面倒だ。
 箱詰めや加工を行っている倉庫を改装したような建物の奥には小さな座敷がある。一通りの仕事が終わった後はここで一息入れたりもするそうだが、最近は祖父も祖母も他所から応援を頼まれることが多くなっているため、あまり使っていないらしい。
 少し痛んではいるが、まだまだ井草の香りの残っている緑の薄くなった畳みに上がり三笠は力尽きるように倒れた。
 いつもより三時間以上も早く起きれば、体が寝不足を訴えても何も可笑しくは無い。
 少し埃っぽい畳の上で、暖かな光が降り注ぐ部屋。押し寄せて来た睡魔に抗う精神力も湧き上がってこない三笠は、ゆっくり歩くような速さで優しい闇の中へ入っていった。

 相も変わらず退屈そうな顔で大きな欠伸が一つ。
 黄蘗はいつもと何も変わらない態度で空を見上げている。
 目の前に落ち込んだ様子で座っている青年など眼中に無いと言うようにも傍目には見える事だろうが、実はその耳がピンと立って青年の方を向いているという、つまり話ぐらいは聞いてやろうという気持ちがあることを態度に出していないだけであるだけなのである。
 「ふん。」
 笑うような、呆れるような、知っていたと言わんばかりに黄蘗は鼻を鳴らす。
 気まぐれな狐ではあるが、お供え物の力もあってか助言をくれるらしい。
 「だから言ったであろう。お前が満足するために回りくどい事はするなと。」
 「はい……。」
 「勝手について行き役に立つことも出来ず、それどころか途中で寝てしまい、運んでもらっている最中に車の揺れで目が覚めたか。余計な世話を増やすのがお前の感謝の示し方なのか?」
 「すみません。」
 「妾に謝っても仕方なかろうに。……はぁ、呆れて叱る気にもならんな。」
 ヒョイっと団子を一串手に持って、一気に二玉を頬張りながら黄蘗は言う。
 「うむ、偶にはこういうのも悪くない。――さて、それで小僧はどうしたいのだ?」
 「どう、したいですか?」
 「おいおい、これはお前が勝手にやりたいと言い出した事だろう。まさか始まった時と同じように、これで勝手に終わらせてしまうつもりなのか? 妾はそれでも構わないが――。」
 お前はどうなのだ。
 黄蘗は口では言わずとも目で問いかけている。
 どうしたいか。このままで良いのか。そんなわけがない。まだ何も成し遂げていない。しかし、そうは言っても何が出来ると言うのだろうか。自分に出来る事などたかが知れている。たかが知れている事で何が伝えられるのだろう。
 「いつまでウジウジと悩んでいるつもりだ?」
 黄蘗の、珍しくイラついた様子の声に三笠は顔を上げる。
 「これで良いのか?」
 「……いいわけないじゃないですか。」
 「うむ、そうだろうな。して、どうする?」
 「どうすると言われても、何も思いつかなくて。」
 「そのようだな。」
 何を言いたいのだ。
 少し口端を上げた、にやけた顔。全てお見通しだとでも言うような言葉。どこか偉そうな態度。そこにいるのはいつもの黄蘗だ。だと言うのに、何故か頼りになりそうだと思えてしまうのが不思議でたまらない。
 「では妾から一つ提案だが――」
 もったいぶった様子で黄蘗は一度言葉を切る。
 「――小僧、今度何か助かった時、普段は気にも留めぬほど些細な事でもよいから感謝の言葉を継げるようにして見ろ。つまり“ありがとう”と言うようにするのだ。」
 「そんな事で良いんですか?」
 「そんな事か。その、そんな事こそ案外難しいものかもしれないぞ?」
 自信満々に黄蘗は言うが三笠は些か納得がいかない。
 何か特別な場所を教えてくれるとか、祖父母の喜ぶ話の一つでも教えてくれるのか、と思えばいつでもどこでも出来る事ではないか。
 そんな日常的にいくらでも機会のある行動で本当に感謝の気持ちが伝えられるのか。
 確かに「ありがとう。」は感謝を直に示す言葉ではあるが、いくらなんでも考えが安易にすぎないかと思う。しかし、せっかくの提案を無下にも出来ない。無視しようものなら、今度はどのような供え物を持って機嫌を伺わなければならない事になるか。
 「分かりました。」
 渋々といった様子で三笠は了解する。
 ダメならダメなりに行って、意味が無かったと素直に答えればよい。
 当たって砕けたなら黄蘗もへそを曲げるようなことは無いだろうし、もう少しまともに相談を受け付けてくれることだろう。
 暫くは黄蘗の話し相手を務め、それから三笠は家に帰った。
 そろそろ夏も折り返しを始めたようで、昨日よりも太陽の顔が赤くなる時間が早くなったように感じる。ほんの些細な変化なので、そんな気がするだけかもしれないが夕暮れに鳴き始める虫たちの声にも多少なりとも変化が生じているようだったから、あながち間違いでもないだろう。
 祖父母は居間にいた。
 ほつれた服を見事な手捌きで縫う祖母と、湯気の立つお茶をテーブルに置いたまま存在を忘れてしまっているかのように本を読む祖父。
 祖父は年のわりに目が良く、老眼鏡などの矯正器具を必要としない。
 日頃の生活が影響しているのか、それとも生まれながらにそういう体質なのかは知れないが、テレビもネットも無い環境において暇な時間を弄ばずに生活できるのは良い事だ。
 あまり暇では脳にもよくないと言う話も聞く。
 三笠が居間に入ってくると祖母が立ち上がろうとしたので、それを一言断って止める。
 お茶ぐらいは自分で注ぐべきだろう。
 湯呑を流しから持ってきて、未だ熱の冷めない急須から淡い草色の液体で満たしていく。
 唐牛で火傷をしない程度の熱い茶を一口、口の中に含んだところで茶葉の香りの効力か黄蘗の言葉が思い出された。
 『些細な事でもよいから感謝の言葉を継げるようにして見ろ。』
 今、祖母に「ありがとう。」と言うべきだったのではないか?
 確かに結果としてお茶を注いだのは自分であるし、そういう意味では祖母は何かを自分に対して行ったわけではない。しかし、感謝というのは何かをしてもらった時にだけ言うものなのだろうか。気を使ってくれたのなら、それに対しても言うべきなのではないか。
 考えてみればその通りだろう。
 祖父も祖母も、三笠が何か手伝いを申し出れば、例え結果として何もしなくて良いとなってもしっかり「ありがとう。」と言うではないか。
 今から言うのは流石に襲い。
 感謝の言葉はその時に言わなければ何に対しての言葉なのか分かりにくいだろう。
 勿論、事と次第によっては後から言うのも説明を行えば悪くない事かもしれないが、今回はそこまでやるのは些か違和感があるような気がした。
 せっかくの機会を逃したことが残念で、それを気取られないようにお茶を一気に口から喉、そして腹の中へと流し込んで気持ちを切り替える。まだまだ今日の内だけでも言える機会はいくらでもあるだろうし、明日も明後日もあるのだから焦る必要は何も無い。
 「そろそろお夕飯の支度に入りましょうかね。」
 祖母はそう言って立ち上がる。
 「あ、僕も手伝います。」
 「ありがとう。でもいいのよ。今日はお魚を焼くだけですから、手伝って貰えるような事は何も無いの。」
 ニッコリと笑い祖母は居間から出ていく。
 三笠はその後に続こうと立ちかけて、立ちかけたまま何が正しいかを考えた。
 勝手について行って邪魔になってはいけない。自分に出来る事、出来ない事がしっかりと分かってから手伝いは行うべきだ。気持ちだけではかえって迷惑になることもあるのだから。
 それを見極める為にも、まずは祖母の仕事をする姿を見ておくべきだ。
 考えがまとまり、体を縛っていた鎖が外れたような心の軽さで立ち上がる。
 厨房は主婦にとって戦場だと、何処かで話していた人がいた気がするが祖母に関してはあまり当てはまらないように感じた。
 流れるような動きで野菜を刻み、味噌を溶かし、魚を七輪で焼いて行く。全てを的確に並行して行っていて迷いは感じられず間違いのようなものも、少なくとも三笠の知る範囲では一つも見られない。
 その滑らかな動きは戦場と言うよりは演武のようだ。
 もちろん、それほど派手に動いているわけでもなく、祖母の握った包丁は武器でもない。
 それでもどこか美しさのようなものさえ感じられるほど洗練されているように感じた。
 「あら、お塩は何処でしょう?」
 祖母の動きが止まった。
 どうやら焼いている魚にかける塩が見当たらないらしい。
 いつも置いている調味料の並べられた領域には確かに塩は見当たらず、三笠も首を回して探して見た。
 三笠の脇ぐらいの高さの食器棚、その上に置かれていた。他にもかたずけ先を決めあぐねている買い物類もまとめておかれている事から、買ってからそのまま一緒に置きっぱなしにしていたのだろう。
 祖母は決して身長は高くなく、ピンと背筋を伸ばしても食器棚の天井に届くのは鼻だ。
 調理場の付近を探していると下の方に目線が生きがちの為、中々見つけられないのは当然だろう。
 「あったよ、お婆ちゃん。」
 「ああ、助かりました。ありがとう。」
 三笠から塩を受け取って祖母はニッコリ笑う。
 このくらい自然と感謝の言葉を言えるようにならないと。
 そう考えれば考えるほどに、緊張で喉はつっかえてしまうもののようだ。
 料理が完成し、食卓に並べ、そして食べる。
 食べ始める時も、食べている最中も、食べ終わった後も、いくらでも「ありがとう。」を切り出せる瞬間はあったのに、三笠は何も言えなかった。「いただきます。」も「ごちそうさま。」も言えたのにだ。
 何か言おうとするたびに喉で言葉が堰き止められ、不自然な間で祖父母が不思議そうな顔をするたびに適当な事を言ってはぐらかしてしまった。
 なんとも情けないものだ。
 一番に熱い湯舟を頂き、肩まで浸かって天井を見上げながら込み上げてくる後悔に落ち込む。
 今だって譲ってもらったのだから言えるはずだったのに。
 黄蘗に偉そうに「そんな事。」と言った自分が目の前にいたなら、一つ叱ってやりたい気持ちになる。お前が思っているよりも遥かにそれは難しい事だぞ。いざ、その瞬間になるとお前は怖気づいて何も言えないぞ、と。
 グルグル嫌な気持ちが頭の中をかき回し、積もっていく不快な気持ちを押し流すよう湯船に頭を沈めた。息を止めて、我慢して、我慢して、我慢して、それから苦しい気持ちと一緒に何もかも吐き出すように元の世界に戻って大きく深く息をした。
 寝床は祖父母とは別になっている。
 祖父母の寝ている部屋はそれほど広くなく、小さな子供ならまだしも既に身長だけは大人に近い三笠が一緒に眠るのは厳しい。
 眠るときまで二人に気を使わせるのも気が引けるので、三笠には丁度良かった。
 扉をピッチリ閉めると部屋の中は一瞬だけ真っ暗になる。真っ暗になってから少しすると目が慣れてきて、僅かな壁や扉の隙間から星のような光の粒が部屋の中へ降り注いでいるのが分かるのだ。
 夏物の温かくも熱や湿気のこもりすぎない布団に挟まり三笠は天井を見上げる。
 結局、帰ってから一言も感謝の言葉を言えていない。
 簡単だと思ったし、じっさい言うだけなら何も難しい事の無いものだろう。
 しかし、いざ誰かに気持ちを伝えるために言おうと思うと気恥ずかしさや相手がどう受け取るかという恐怖から、どうしても音を出すことが出来なくなる。
 「まだ、明日もあるし。」
 晴れない気持ちに眠るための言い訳をした。
 だが言い訳をするほど、頭の中で自分を慰めるほどに目は返って冴えていき、睡魔はまだ仕事の時では無いと言わんばかりに近づいて来ようとしない。
 本当に明日になれば言えるようになるのか。
 本当に気持ちを伝えられるのか。
 芽生えた疑惑はどんなに気を紛らわせようとしても払拭できない。
 今日できなかった事が急に明日できるようになるなんて、都合の良い事は何処にもないのだ。
 『今日できさえしたなら明日も出来るのではないか?』
 誰かの声が聞こえた気がした。
 恐らくは気のせいだろう。
 周囲に動く者の気配は無ければ、見慣れない影も見当たらない。これだけ暗闇の中にいれば夜目も聞くようになる為、誰かが側にいれば直ぐに分かるはずだ。
 三笠は体を起こす。
 きっと、心の内から出て来た言葉なのだ。
 ウジウジ悩んで何も進まないよりは、どんなに怖くても思い切って一歩踏み出すべき時というのが必ずあるのだと。
 布団から出て、部屋の扉を開く。
 廊下は寝室と同じかそれ以上に暗く、いくら目が慣れても壁に触れながらでなければまっすぐ歩けている自信が無い。それなりに各部屋の配置は憶えているので、あまり大きな物音を立てないように注意しつつ三笠は目的の部屋へと向かった。
 こういう時、変に二階建てなどになっていない事に感謝する。
 登りは良くとも、この暗さで階段を降りるのは流石に危なすぎるだろう。
 明かりを付ければ良いのかもしれないが、もしかしたら祖父母はもう寝てしまっているかもしれないのだ。その時に起こしてしまうような事は避けたい。明日も早いのだろうから。
 
 祖父母の部屋は居間から一つ、親類が沢山来た時に客間を広げるために使う空き部屋を挟んで隣にある。
 毎日のように通る道を間違えるわけもなく、三笠は居間に辿り着いた。
 そして風を通す以外では開かない扉を開けて、あまり大きな物音を立てないようにしつつ更に奥の部屋へと向かう。
 扉に手をかけ、手が止まった。
 開く勇気が無かったと言えばその通りだ。
 不甲斐ない自分に溜息を吐き、それから三笠はその場で深呼吸を繰り返す。
 「お爺ちゃん、お婆ちゃん。起きてるならそのまま聞いて。起きてないなら――まあ、これは独り言だから。」
 「――。」
 「始めここに来た時、とっても心細かった。お父さんもお母さんもいなくて、それは仕方のない事だけど捨てられたような気がして、自分が普通じゃない事がどうしようもないほど辛くて、それで八つ当たりみたいな事を沢山しちゃってゴメンナサイ。」
 「――。」
 「でも、ここに来て今は良かったって思うんだ。何でかってのは言葉にし辛いんだけど、でもハッキリ良かったって思うんだ。本当は、もっとちゃんとしたところで言いたいんだけど、臆病だから、直接言う勇気が無くて、だから……だから聞いてなくても良いから、言わせてほしいんだ。――ありがとう。いつも、いつも、気にかけてくれて、辛くても平気な顔をして励ましてくれて、立ち直る手伝いをしてくれて、ありがろう。」
 祖父母はもう眠ってしまっているのだろう。
 何も返事のない扉に向かって、それほど大きくないハッキリした声で、顔が熱くなるのを我慢しながら三笠は言った。
 「それだけ、お休みなさい。」
 舌を噛みそうなほどの早口で切り上げ、着た時よりも慌ただしく部屋へと戻る。
 途中で夕食を食べたテーブルに足をぶつけそうになりながら、でもあまり音を立てないように注意して。
 寝室へ戻り布団の中に戻ると、心臓の音がハッキリ聞こえるほど煩い事に気が付いた。
 こんなに煩くては祖父母を起こしてしまうのではないかと杞憂を抱えるほどだ。
 これほどの緊張と興奮の中にあっては眠れようはずもない。そう思っていたのはどうやら自分だけだったようで、待ってもいないのに待っていたとばかりに睡魔は重い腰を持ち上げて猛烈な速さで迫って来た。
 頭の中は押し寄せる感情でグチャグチャなのに、あっという間に全部が無事に無へ変わった。
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