第3話
文字数 8,472文字
夏の光が強くさす。
今日は特に暑い日になるという話をラジオで聞きながら、三笠は運転席の後ろに座ってシートベルトの首の所を気にしていた。
やはりカバーが無いのはダメだ。
そんな事を結論付けたのは、家から二時間ほど走ったところの店で出している借り物の車だ。
昨日のうちに祖父が用意してくれたらしい。
なぜ、そんなものが必要なのかと言えば、祖父母の持つ車は軽トラック一台だけで二人しか乗ることが出来ないからだ。一昔前は速度を出さなければ気にせず荷台に人を乗せていたらしいが、今のでは危険であるからと禁止されているため大人しく借りる事になったのだった。
「何か食べますか? 距離があるし朝ごはんが早かったからお腹が空いているでしょう?」
助手席に座る祖母が膝に載せている包みの中からマンジュウを取り出した。
考えないようにしていた事も指摘されれば気になってしまう。一度でも気になってしまえば忘れることも出来なくなり、正直な体は『ぐ~。』と音を鳴らした。
たまたまではなく、祖母にはきっと分かったのだろう。
似たような事は以前にも何度かあり、その度に何か特別な能力でもあるのだろうかと疑ったものだが、それだけよく見てもらえているのだろうと今では思っている。
受け取ったマンジュウは小ぶりなもので、中の餡は栗だった。
半分ほど一回で齧り、二度目で口の中に全部を放り込むと祖母がお茶を渡してくれる。揺れる車の中で器用に一滴も零さず水筒から蓋兼カップへお茶を注ぎ、一方で渡された三笠の方はピチャピチャと跳ねる液体を慌てて口の中に流し込んだ。
祖父母は怒らないだろうが、借り物の車を汚すのはなるべく避けたい。
祖母にお礼を言って空のカップを返し、落ち着いて静かになったお腹を軽くさすってからトン理の窓に視線を移す。
見慣れない道が続いている。
車はそれなりに走っているが街中とは言い難い程度に木々は生い茂り、山肌を押さえる土砂崩れ防止のブロックが広めな道の左右に並んでいる。しかし、山奥かと言えば確りと舗装された綺麗な道が似合わない。歩道まで整備が行き届いており、歩いている人の姿も多くは無いが疎らにはある。
何処へ向かっているのか。
その質問を出かける前にしてみたのだが、祖父母はただニッコリと笑顔をつくるだけで教えてはくれなかった。
進むほどに車の数は多くなり、ナンバープレートを見てみると明らかに遠い地方を主張しているものもある。福森家からでも結構な時間を走り続けていると言うのに、車だけではその倍はかかるであろう場所からわざわざやってくるなど、驚き以外の何物も浮かんでこない。
「着いたぞ。」
慣れた様子で駐車を車と車の間に行った祖父は、一番に外に出て三笠の扉を開けてくれた。
手を貸そうとする祖父に問題ない事を伝えてアスファルトの上に自力で立ち、それから杖を手に取る。
今日は体調が良いので杖はいらないような気もしていたが、何事も油断は危険だと不思議と説得力のある祖父の言葉に従うことにして持ってきたものだ。テープでぐるぐる巻きになっているものではなく、どこも壊れていないしっかりとした物。
せっかく気分が良いのに、嫌な出来事を思い出す杖を持ってくるわけにはいかないだろう。
既に車から降りていた祖母の持っていた荷物を祖父が受け取る。
ここが目的地なのだろうかと三笠は周囲を見回してみたが、同じように車から降りた人々の姿は、とてもこれから遊楽施設を回るようには見えない。人によっては物凄く重厚な、これから大冒険にでも出かけるつもりなのではないかと疑いたくなるような恰好をしている者もいる。
少しの不安と、未知への好奇心の混ざり合った言葉にしがたい感情を抱えつつ、三笠は歩き出した祖父の後ろを祖母と共に追いかけた。
時間はそろそろ正午になろうかという頃合い。
晴れた空に輝く太陽が大地を焼き尽くさんとせっせと働いている様子が見られるというのに吹く風はヒンヤリと心地よく、周囲には軽く薄手の服を羽織る者もいた。
橋のような木造の道は緑に覆われた水面を突っ切るように伸びている。
深い場所からは水草、浅い泥地からはまた違う草、ツルのようなものもあれば真っすぐ伸びる太い茎のもの、大きな葉っぱや赤みがかった葉など、よくよく見ればどれも千差万別の様相をしている。
一つ残念な点を挙げるなら、きっと花の咲き乱れる季節では素晴らしい絶景となっているだろうというところだ。
青々とした姿も清涼感があり悪くないが、一風変わった花畑と言うのは一度経験してみたい。
そんな事を考えながら、時折備え付けられているベンチで休憩を取りつつ三笠は祖父母と共に先へ先へと進んで行った。
最初は土が剥き出しで、物々しい装備に身を固める人たちの姿を見るたびに、これから何か辛く苦しい事が待ち構えているのではないかと身構えていたものだが、こうして歩いていると何とも恥ずかしい思い込みだったと言わざるを得ない。
そもそも祖父母を見れば想像のような事などありえないと容易に察せられたはずなのだから。
「どうかしたか?」
浮かべた苦笑いに気が付いた祖父。
「なんでもない。」そう答えたのは、正直に話すのが恥ずかしいからだ。
進む先には、木々がトンネルのように枝を伸ばした道があり、豪快な滝が雫を飛ばした滝つぼがあり、写真撮影でにぎわう何故か人気の岩場が待ち受けていた。
どれもこれも見ごたえのあるものではあるが、じゃあ目的地なのかと言うとまだまだ続く道のりが正確に否定してくる。もうすでに三笠が足で歩いた距離は過去最高の倍に差し掛かろうかという具合だ。
「着いたぞ。」
そう言い祖父は三笠へ道を譲るように脇に一歩避けた。
緑の大海原。
青々とした空という下地の上に書き上げられた一枚絵。
小さな山、大きな山、山嶺のうねり、木々の濃淡、光の有無、風に吹かれ飛ぶ葉は船のように虚空を舞い、人々の話す声は打ち付ける雨の音のよう。
祖父母に連れられながら、張り出した足場の先端に進んで手すりに体を預ける。
下をみれば断崖絶壁で、誘うように待ち構えている木々の一本一本は伸ばした指とさほど変わらない大きさに見えた。
「ここは……。」
「気に入ったかい?」
隣に並ぶ祖父。
「うん、とってもいい場所だと思う。」
「そうかそうか、それは良かった。」
「お爺さんが、ずっと三笠と来たいと言っていた場所ですよ。」
「こら、それは言わない約束だっただろ!」
祖父は恥ずかしさから顔を赤くし祖母に抗議する。
祖母はというと、特に悪びれる様子もなく飄々と「そうでしたか?」と笑顔だ。
そんな二人のやり取りを見て三笠は笑う。
祖父母は笑う三笠を訝し気に見たが、やがてつられるように笑いだす。
爽やかな三人の笑い声は雑踏の音に負けることなく、山々にこだまして空に上がっていった気がした。雲一つなく晴れた心地よい空だった。
気分が落ち着いた頃、体が空腹を訴えだしたので端の方にあるお誂え向きの小さなテーブルを一つ占領し準備に取り掛かる。
準備と言っても、単に持ってきた物を広げるだけだが。
ご対面となった祖母お手製のお弁当は非常に気合が入っており、入りすぎた結果として花見の宴会の時に振舞われるような量となってしまっていた。三笠も祖父母のそれほど大食らいというわけでもないから中々減らず苦労するだろう。
全てを食べなくても構わないと言われたが、せっかく用意して貰ったと言うこともあるし、料理は時間が経つほどに味は落ちるのが基本だ。なるべく沢山食べておきたいと言う気持ちになるのは当然である。
祖母の隣に座った祖父の顔を見ると、どうやら同じことを考えているらしい。
「ふう、……。」
一息ついて三笠は空を見上げる。
ふと、昨日の祖母との話を思い出した。
黄蘗は昔、子供たちと一緒に村のあちこちで遊んでいたという。
きっと、今の自分のように楽しくご飯を食べた事だってあったのだろうか。
それなら――、今はどんな気持ちでいるのだろうか。
多くに忘れられ、祖母でさえ姿を消したと思っていた。お供え物も無く祠の手入れすら行われることが何年も無かったということは、誰もあの場所を訪れていないと言う事の証拠に他ならない。
ずっと一人でいたのだろうか。
あの時、黄蘗はどんな気持ちで空を見上げていたのだろう。
『なんだ、また来たのか。』
その言葉は、二度と訪れる事の無かった多くの者たちを知っていたから自然と出てしなっただけで、ただの憎らしい言葉では無かったのかもしれない。
「三笠君、どうかしたか?」
「え?」
「いや、随分ボーっと空を見ていたから何か気にかかる事でもあったのかとな。」
「ううん、なんでもない。凄く澄んだ空だと思ってただけ。」
「そうかそうか。うん。確かに今日はとても気持ちの良い日だ。」
「お爺さん、ご飯を口の中に入れたままお話しはしないでください!」
祖母の注意を受け、祖父は叱られた子供のように両肩をすぼめた。
「三笠君、あまり無理をして食べなくても良いですからね?」
何度目かの祖母の言葉。
三笠はゆっくり首を横に振って「無理はしていないよ。」と答えた。
その後、一時間ほどかけて食べたが困ったことに人間は量が少なくなると欲張りになりだすようで、「無理をするな。」の言葉も忘れて腹に詰め込みだしてしまうものだ。そのおかげで弁当の全てを食べ切ったはいいが、しばらく身動きが取れそうなかった。
幸いなのは、食べすぎ具合は三笠よりも祖父の方が酷かった為、それほど迷惑をかけていると言う気持ちにならなかった事だ。
もしかしたら、祖父は分かっていてわざと食べ過ぎたのかもしれない。
椅子に体をすっかり預け、祖父のために飲み物を用意する祖母を目の端でとらえながら思い思いにこの場を堪能する人々を撫でるように見る。
改めて見てみると観光客と思われる人々も恰好は様々だ。
ツアーなのか小さな旗を持って声掛けをしている硬いスーツ姿の人もいれば、明らかに場違いな南国のような恰好で友人と思しき人物とお喋りをしている海外出身に見える人、汗だくで上の方から降りてきては一息ついている人、携帯で風景をパシャパシャと写真に収めていく人、スケッチブック片手に鉛筆を動かしている人、小さな子供を肩車しながら歩いて来た体の大きな人、景色そっちのけで会話に夢中な人。
本当に角様々だ。
誰もがこの光景を見に来たとは到底思えないが、しかし不思議と不快な気持ちが無いのはきっとこの場所が彼らを受け入れているからなのだろう。
どんなに似つかわしくない人でも、どんなに無関心な人でも、この大海原にとてっては風景を構成する一つの部品のようなものなのかもしれない。だから、そんな部品の一つである自分が不快な気持ちになる必要など無いのだろう。
「いや、ちょっと張り切り過ぎたな。」
お腹の具合が落ち着いて喋れるまでに回復した祖父は、お茶の入ったカップを両手で包み込むように持っている。
「さっきお節介な婆さんが言っていたが――。」
「誰の事でしょうね?」
「ゴホン、兎に角ここはいつか三笠君と訪れたいと思っていた場所なんだ。」
おどける祖母にはあえて何も言わず、祖父は話した。
「ここはな、お前の両親が出会った場所なんだよ。」
「お父さんとお母さんが?」
「ああ。あまりワシの口から細かい事は言えないが、ここはそれだけお前たち一家にとって思い出深い場所なんだと言う事を知って欲しくてな。」
「お爺さんもここで私に告白をしたんですよ。」
こっそりと小声で祖母が付け加える。
祖父は気恥ずかしさを誤魔化すように再び咳払いを行った。
「とにかく、ここはとても大切な場所なんだと言う事を憶えておいて欲しい。――いつか、三笠君が一緒に来たいと思える相手が見つかった時のためにも。」
「気が早いですよ。」
「そんな事あるもんか。子供の成長は早いんだぞ?」
「ええよく知っていますよ。知っていて、まだまだ早いと言っているんです。」
むぅっと祖父は口を閉じる。
子供に関する事では祖母の方が一枚上手なのだろう。
もう一度三笠は賑やかな人々を、そして人の手では決して作ることの出来ないだろう自然の姿を瞳に写す。
カメラを構えていた一人が、シャッターを切ることなく射影機を降ろしたのは、きっと写真には納めきれない何かを感じてしまったからなのかもしれない。
帰りは少し早めに出た。
日が暮れ始めてからのライトアップも幻想的で美しいらしいが、足腰に不安のある三笠達には暗くなると厳しい道がいくつかあったからだ。
夕焼けに照らされた赤い人の流れに逆らうようにして駐車場へ戻る。
途中、祖父母がトイレへ寄ると言う事になって三笠は一人、適当な位置のベンチに座って待っていた。
来た時ほどではないが、それでも人の流れは尽きそうにない。
比較的若い年齢が全体を占める割合を増やしてきている気がしたが、その多くが異性同士の組み合わせであったからきっと気のせいではないだろう。
時計は一八時。
夏場とはいえ、そろそろ太陽も仕事を終えて眠りにつく頃合いだ。
「あ、お土産買ってないや。」
ふと、何か足りないと思っていた事の真相に気が付く。
座ったまま首を回して、売店と思わしき場所が見つかったので向かってみた。それほど混んでいる様子でもないため、祖父母が戻ってくるまでには買い物を済ませられるだろう。
電灯で明るく照らされた店の中は、よくある土産屋のようだった。
クッキーあらマンジュウやら飴やら煎餅やらチョコレートやらキーホルダーやら玩具やら旗やらタオルやら置物やらパンやらお握りやら水やらジュースやら。
これと言って特別珍しいものが置かれているわけでもなく、強いて言えば包み紙にこの地の何らかのシンボルが描かれているという部分は、やはりよくある観光地の土産屋と共通している特別な物と言えるかもしれない。
あまり実用的でない物は後々かさばるようになって困る。しかし食べる物というのも消費期限から、後から思い出として懐かしむというのは難しい。実用的でも立派過ぎたり高価だったりすると中々もったいなくて使うのに躊躇してしまうだろう。
考え出すと難しい。
むむむ、と眉間にシワを寄せ、三笠は普段なら絶対に迷うわけのない木製の猿の置物を睨んでいた。
「おいおい、それはねーだろ!」
ふと、誰かが言った。
自分に言われたのか、咄嗟に顔を上げると棚を挟んで向こう側に楽しそうに会話をしている四人組がいた。
若い男女でそれぞれ二人ずつ。
降りて来るときに見かけた恋仲と思われる人たちとは纏っている空気がまったく違うので、おそらくは友人関係なのだろうと三笠は思った。
「なにそれ、お前そんなの買うの?」
「はあ? コレの良さが分からないとかマジセンス無いわ。」
「いやお前、さっきクソダサいって自分で言ってただろ。一度冷静に戻れって、絶対後から後悔する奴だからそれ!」
「うるせぇ! お前らこそ後から買ってなくて後悔するなよ!」
そう言って女性の一人は、何故か黒塗りの木刀を持ってレジへと向かう。
持ち手の所には竜の紋様が描かれており、刀身部分にはいくつか文字が彫り込まれており、『唯我独尊』というのだけは読み取ることが出来た。
「あーあ、ミキっちムキになってるじゃん。」
「何でもいいけどさ、そろそろバスだから買うものがあるなら早くして欲しいんだけど。」
「うおマジか。えーっと、俺は何にするかな――。」
「早くしてくんなーい? アタシらもう買い終わってるから先行っちゃうよ?」
「おまえは木刀しか買ってねーじゃねえか!」
「ああ? なんか文句あんのか?」
「ミキっち、財布のお札全部出してたね……。」
「バス、往復で勝っといてホントよかったよ。」
「おう、お前らなんだその目は。さっそくこいつの錆にすんぞ?」
人間とは不思議な物で、その場の空気と気分に流されて暴走している人を見ると一気に頭が冷静になり、かかっていた靄が晴れていくものだ。
そんな真理に達しつつ三笠は冷めた頭でお菓子の箱を一つ買うことに決めた。
会計を終え外に出ると祖父たちが既に戻ってきており、不安そうに周囲を見回していた。店の中から紙袋を手に持った三笠の姿を見ると目に見えて分かるほどホッとした様子で、少し早歩きで近寄ってくる。
「やっべ、マジでもう時間じゃん!」
祖父母に気を取られていて声に対する反応が遅れた。
そして慌てて店から飛び出してきた男が背中にぶつかる。
決して強くと言う程ではなかったが、それでも予想だにしていなかった事であり、また三笠の体はまだ咄嗟に反応できるほど十分な能力を取り戻せてはいなかった。
杖は氷を滑るようにガリガリと音を立てて流れ、まるで世界がゆっくりになったかのように、体は徐々にレンガを敷き詰めた地面へ突き進む。祖父母の顔が安堵から驚愕、そして恐怖の色に変化していくのが見える。何か怖いものを見たと言うのではなく、大切な何かが傷つくことへの恐れ。
ボンヤリとしかし鮮明に己の身に起きようとしている事とは無関係なものばかりよく見える。
そして――。
「せぇぇぇぇぇえふっ!」
ガクン、と唐突に体は衝撃と共に止まり、三笠は続いてその場にへたり込むように座った。
振り返ると息を切らした女性が手首を赤くなるほど強く掴んでいる。
「君、大丈夫? 怪我とかない?」
「え、あ、はい。大丈夫です……。」
「マジでゴメン! 俺、急いでて前見てなかった。」
女性の後から慌ててぶつかった男も頭を下げに来た。
見れば先ほどの四人組の二人で、残りも何事かと慌てて駆け付けてくるところだ。
「あー寿命縮まったホント。受け身もなくこんな硬いとこに顔ぶつけたら歯とか鼻とか折れてたかもしんないし、間に合って良かった。」
まだ状況が完璧には飲み込み切れていない三笠に対し、今この場で一番ホッとした様子の女性はニカっと笑った。
残りの二人組と祖父母が三笠の元へたどり着いたのはほぼ同時。
健康な若い人はあんなに早く走れるんだな。
そんな事を考えつつ、平謝りする四人組と自分の身に怪我が無かった事と寸でのところで助けてくれたことに感謝する祖父母の姿を見る。
「ホンっトに、申し訳ありませんでした。このバカが周りを見ていないばっかりに怪我をさせるところで。」
「いえいえ、怪我はありませんでしたし、助けてもらいましたから。」
「君、大丈夫? 必要なら救急車呼べるけど?」
「あ、はい。大丈夫です。こっちも邪魔してしまってスミマセン。急いでいたみたいなのに。」
「ミキっちも言ってたけど気にしなくていいよ。それに見てたバスの時刻表、よく見たら休日のやつで平日の今日はあと三十分あるのにさっき気が付いたから。」
「え、じゃあ俺が急いだ意味なくね? めっちゃ損した気分なんだけど。」
「本当に反省してんのかお前。」
良い音で頭を叩かれ、スイッチが入ったかのように再び謝りだす男。
少しおかしく思って、失礼だと分かっていてもクスリと笑う。
その後、お詫びのしるしに発端となった男の負担で菓子を一箱買ってもらう流れとなったのだが、助けを求める子犬のような顔をされたので周囲の「一番大きい奴。」という提案は受け取らず、小さめの物を受け取る事にした。
延々と受け取る受け取らないのやり取りを繰り返した末の妥協案だ。
「それじゃ、私たちはこの辺で。君も元気でね。」
「はい、えっと……ありがとうございました?」
「あっはは、こういう時は普通にさようならで良いと思うよ。」
バイバイと手を振って騒がしかった一団がバス停へ向かっていく。
丁度ブレーキランプを光らせてバスが入ってくると小走りになり、一見すると無秩序に見える列の最後尾と思われる場所に並んだ。かなり多くの人がたむろしていたので、もしかしたら入りきらないのではという予感が、ただの間違いであった事は間もなく証明される。
「それじゃ、ワシらも帰るか。」
重たそうに動き出したバスから視線を三笠に移した祖父はそう言ってお土産を持っていない方の手で、杖を持っていない方の手を握った。
硬くザラザラした手は石のようで、しかし暖かなぬくもりが伝わってくる。
三笠は「うん。」と頷いて、しっかりとした足取りで車へと向かった。
今日は特に暑い日になるという話をラジオで聞きながら、三笠は運転席の後ろに座ってシートベルトの首の所を気にしていた。
やはりカバーが無いのはダメだ。
そんな事を結論付けたのは、家から二時間ほど走ったところの店で出している借り物の車だ。
昨日のうちに祖父が用意してくれたらしい。
なぜ、そんなものが必要なのかと言えば、祖父母の持つ車は軽トラック一台だけで二人しか乗ることが出来ないからだ。一昔前は速度を出さなければ気にせず荷台に人を乗せていたらしいが、今のでは危険であるからと禁止されているため大人しく借りる事になったのだった。
「何か食べますか? 距離があるし朝ごはんが早かったからお腹が空いているでしょう?」
助手席に座る祖母が膝に載せている包みの中からマンジュウを取り出した。
考えないようにしていた事も指摘されれば気になってしまう。一度でも気になってしまえば忘れることも出来なくなり、正直な体は『ぐ~。』と音を鳴らした。
たまたまではなく、祖母にはきっと分かったのだろう。
似たような事は以前にも何度かあり、その度に何か特別な能力でもあるのだろうかと疑ったものだが、それだけよく見てもらえているのだろうと今では思っている。
受け取ったマンジュウは小ぶりなもので、中の餡は栗だった。
半分ほど一回で齧り、二度目で口の中に全部を放り込むと祖母がお茶を渡してくれる。揺れる車の中で器用に一滴も零さず水筒から蓋兼カップへお茶を注ぎ、一方で渡された三笠の方はピチャピチャと跳ねる液体を慌てて口の中に流し込んだ。
祖父母は怒らないだろうが、借り物の車を汚すのはなるべく避けたい。
祖母にお礼を言って空のカップを返し、落ち着いて静かになったお腹を軽くさすってからトン理の窓に視線を移す。
見慣れない道が続いている。
車はそれなりに走っているが街中とは言い難い程度に木々は生い茂り、山肌を押さえる土砂崩れ防止のブロックが広めな道の左右に並んでいる。しかし、山奥かと言えば確りと舗装された綺麗な道が似合わない。歩道まで整備が行き届いており、歩いている人の姿も多くは無いが疎らにはある。
何処へ向かっているのか。
その質問を出かける前にしてみたのだが、祖父母はただニッコリと笑顔をつくるだけで教えてはくれなかった。
進むほどに車の数は多くなり、ナンバープレートを見てみると明らかに遠い地方を主張しているものもある。福森家からでも結構な時間を走り続けていると言うのに、車だけではその倍はかかるであろう場所からわざわざやってくるなど、驚き以外の何物も浮かんでこない。
「着いたぞ。」
慣れた様子で駐車を車と車の間に行った祖父は、一番に外に出て三笠の扉を開けてくれた。
手を貸そうとする祖父に問題ない事を伝えてアスファルトの上に自力で立ち、それから杖を手に取る。
今日は体調が良いので杖はいらないような気もしていたが、何事も油断は危険だと不思議と説得力のある祖父の言葉に従うことにして持ってきたものだ。テープでぐるぐる巻きになっているものではなく、どこも壊れていないしっかりとした物。
せっかく気分が良いのに、嫌な出来事を思い出す杖を持ってくるわけにはいかないだろう。
既に車から降りていた祖母の持っていた荷物を祖父が受け取る。
ここが目的地なのだろうかと三笠は周囲を見回してみたが、同じように車から降りた人々の姿は、とてもこれから遊楽施設を回るようには見えない。人によっては物凄く重厚な、これから大冒険にでも出かけるつもりなのではないかと疑いたくなるような恰好をしている者もいる。
少しの不安と、未知への好奇心の混ざり合った言葉にしがたい感情を抱えつつ、三笠は歩き出した祖父の後ろを祖母と共に追いかけた。
時間はそろそろ正午になろうかという頃合い。
晴れた空に輝く太陽が大地を焼き尽くさんとせっせと働いている様子が見られるというのに吹く風はヒンヤリと心地よく、周囲には軽く薄手の服を羽織る者もいた。
橋のような木造の道は緑に覆われた水面を突っ切るように伸びている。
深い場所からは水草、浅い泥地からはまた違う草、ツルのようなものもあれば真っすぐ伸びる太い茎のもの、大きな葉っぱや赤みがかった葉など、よくよく見ればどれも千差万別の様相をしている。
一つ残念な点を挙げるなら、きっと花の咲き乱れる季節では素晴らしい絶景となっているだろうというところだ。
青々とした姿も清涼感があり悪くないが、一風変わった花畑と言うのは一度経験してみたい。
そんな事を考えながら、時折備え付けられているベンチで休憩を取りつつ三笠は祖父母と共に先へ先へと進んで行った。
最初は土が剥き出しで、物々しい装備に身を固める人たちの姿を見るたびに、これから何か辛く苦しい事が待ち構えているのではないかと身構えていたものだが、こうして歩いていると何とも恥ずかしい思い込みだったと言わざるを得ない。
そもそも祖父母を見れば想像のような事などありえないと容易に察せられたはずなのだから。
「どうかしたか?」
浮かべた苦笑いに気が付いた祖父。
「なんでもない。」そう答えたのは、正直に話すのが恥ずかしいからだ。
進む先には、木々がトンネルのように枝を伸ばした道があり、豪快な滝が雫を飛ばした滝つぼがあり、写真撮影でにぎわう何故か人気の岩場が待ち受けていた。
どれもこれも見ごたえのあるものではあるが、じゃあ目的地なのかと言うとまだまだ続く道のりが正確に否定してくる。もうすでに三笠が足で歩いた距離は過去最高の倍に差し掛かろうかという具合だ。
「着いたぞ。」
そう言い祖父は三笠へ道を譲るように脇に一歩避けた。
緑の大海原。
青々とした空という下地の上に書き上げられた一枚絵。
小さな山、大きな山、山嶺のうねり、木々の濃淡、光の有無、風に吹かれ飛ぶ葉は船のように虚空を舞い、人々の話す声は打ち付ける雨の音のよう。
祖父母に連れられながら、張り出した足場の先端に進んで手すりに体を預ける。
下をみれば断崖絶壁で、誘うように待ち構えている木々の一本一本は伸ばした指とさほど変わらない大きさに見えた。
「ここは……。」
「気に入ったかい?」
隣に並ぶ祖父。
「うん、とってもいい場所だと思う。」
「そうかそうか、それは良かった。」
「お爺さんが、ずっと三笠と来たいと言っていた場所ですよ。」
「こら、それは言わない約束だっただろ!」
祖父は恥ずかしさから顔を赤くし祖母に抗議する。
祖母はというと、特に悪びれる様子もなく飄々と「そうでしたか?」と笑顔だ。
そんな二人のやり取りを見て三笠は笑う。
祖父母は笑う三笠を訝し気に見たが、やがてつられるように笑いだす。
爽やかな三人の笑い声は雑踏の音に負けることなく、山々にこだまして空に上がっていった気がした。雲一つなく晴れた心地よい空だった。
気分が落ち着いた頃、体が空腹を訴えだしたので端の方にあるお誂え向きの小さなテーブルを一つ占領し準備に取り掛かる。
準備と言っても、単に持ってきた物を広げるだけだが。
ご対面となった祖母お手製のお弁当は非常に気合が入っており、入りすぎた結果として花見の宴会の時に振舞われるような量となってしまっていた。三笠も祖父母のそれほど大食らいというわけでもないから中々減らず苦労するだろう。
全てを食べなくても構わないと言われたが、せっかく用意して貰ったと言うこともあるし、料理は時間が経つほどに味は落ちるのが基本だ。なるべく沢山食べておきたいと言う気持ちになるのは当然である。
祖母の隣に座った祖父の顔を見ると、どうやら同じことを考えているらしい。
「ふう、……。」
一息ついて三笠は空を見上げる。
ふと、昨日の祖母との話を思い出した。
黄蘗は昔、子供たちと一緒に村のあちこちで遊んでいたという。
きっと、今の自分のように楽しくご飯を食べた事だってあったのだろうか。
それなら――、今はどんな気持ちでいるのだろうか。
多くに忘れられ、祖母でさえ姿を消したと思っていた。お供え物も無く祠の手入れすら行われることが何年も無かったということは、誰もあの場所を訪れていないと言う事の証拠に他ならない。
ずっと一人でいたのだろうか。
あの時、黄蘗はどんな気持ちで空を見上げていたのだろう。
『なんだ、また来たのか。』
その言葉は、二度と訪れる事の無かった多くの者たちを知っていたから自然と出てしなっただけで、ただの憎らしい言葉では無かったのかもしれない。
「三笠君、どうかしたか?」
「え?」
「いや、随分ボーっと空を見ていたから何か気にかかる事でもあったのかとな。」
「ううん、なんでもない。凄く澄んだ空だと思ってただけ。」
「そうかそうか。うん。確かに今日はとても気持ちの良い日だ。」
「お爺さん、ご飯を口の中に入れたままお話しはしないでください!」
祖母の注意を受け、祖父は叱られた子供のように両肩をすぼめた。
「三笠君、あまり無理をして食べなくても良いですからね?」
何度目かの祖母の言葉。
三笠はゆっくり首を横に振って「無理はしていないよ。」と答えた。
その後、一時間ほどかけて食べたが困ったことに人間は量が少なくなると欲張りになりだすようで、「無理をするな。」の言葉も忘れて腹に詰め込みだしてしまうものだ。そのおかげで弁当の全てを食べ切ったはいいが、しばらく身動きが取れそうなかった。
幸いなのは、食べすぎ具合は三笠よりも祖父の方が酷かった為、それほど迷惑をかけていると言う気持ちにならなかった事だ。
もしかしたら、祖父は分かっていてわざと食べ過ぎたのかもしれない。
椅子に体をすっかり預け、祖父のために飲み物を用意する祖母を目の端でとらえながら思い思いにこの場を堪能する人々を撫でるように見る。
改めて見てみると観光客と思われる人々も恰好は様々だ。
ツアーなのか小さな旗を持って声掛けをしている硬いスーツ姿の人もいれば、明らかに場違いな南国のような恰好で友人と思しき人物とお喋りをしている海外出身に見える人、汗だくで上の方から降りてきては一息ついている人、携帯で風景をパシャパシャと写真に収めていく人、スケッチブック片手に鉛筆を動かしている人、小さな子供を肩車しながら歩いて来た体の大きな人、景色そっちのけで会話に夢中な人。
本当に角様々だ。
誰もがこの光景を見に来たとは到底思えないが、しかし不思議と不快な気持ちが無いのはきっとこの場所が彼らを受け入れているからなのだろう。
どんなに似つかわしくない人でも、どんなに無関心な人でも、この大海原にとてっては風景を構成する一つの部品のようなものなのかもしれない。だから、そんな部品の一つである自分が不快な気持ちになる必要など無いのだろう。
「いや、ちょっと張り切り過ぎたな。」
お腹の具合が落ち着いて喋れるまでに回復した祖父は、お茶の入ったカップを両手で包み込むように持っている。
「さっきお節介な婆さんが言っていたが――。」
「誰の事でしょうね?」
「ゴホン、兎に角ここはいつか三笠君と訪れたいと思っていた場所なんだ。」
おどける祖母にはあえて何も言わず、祖父は話した。
「ここはな、お前の両親が出会った場所なんだよ。」
「お父さんとお母さんが?」
「ああ。あまりワシの口から細かい事は言えないが、ここはそれだけお前たち一家にとって思い出深い場所なんだと言う事を知って欲しくてな。」
「お爺さんもここで私に告白をしたんですよ。」
こっそりと小声で祖母が付け加える。
祖父は気恥ずかしさを誤魔化すように再び咳払いを行った。
「とにかく、ここはとても大切な場所なんだと言う事を憶えておいて欲しい。――いつか、三笠君が一緒に来たいと思える相手が見つかった時のためにも。」
「気が早いですよ。」
「そんな事あるもんか。子供の成長は早いんだぞ?」
「ええよく知っていますよ。知っていて、まだまだ早いと言っているんです。」
むぅっと祖父は口を閉じる。
子供に関する事では祖母の方が一枚上手なのだろう。
もう一度三笠は賑やかな人々を、そして人の手では決して作ることの出来ないだろう自然の姿を瞳に写す。
カメラを構えていた一人が、シャッターを切ることなく射影機を降ろしたのは、きっと写真には納めきれない何かを感じてしまったからなのかもしれない。
帰りは少し早めに出た。
日が暮れ始めてからのライトアップも幻想的で美しいらしいが、足腰に不安のある三笠達には暗くなると厳しい道がいくつかあったからだ。
夕焼けに照らされた赤い人の流れに逆らうようにして駐車場へ戻る。
途中、祖父母がトイレへ寄ると言う事になって三笠は一人、適当な位置のベンチに座って待っていた。
来た時ほどではないが、それでも人の流れは尽きそうにない。
比較的若い年齢が全体を占める割合を増やしてきている気がしたが、その多くが異性同士の組み合わせであったからきっと気のせいではないだろう。
時計は一八時。
夏場とはいえ、そろそろ太陽も仕事を終えて眠りにつく頃合いだ。
「あ、お土産買ってないや。」
ふと、何か足りないと思っていた事の真相に気が付く。
座ったまま首を回して、売店と思わしき場所が見つかったので向かってみた。それほど混んでいる様子でもないため、祖父母が戻ってくるまでには買い物を済ませられるだろう。
電灯で明るく照らされた店の中は、よくある土産屋のようだった。
クッキーあらマンジュウやら飴やら煎餅やらチョコレートやらキーホルダーやら玩具やら旗やらタオルやら置物やらパンやらお握りやら水やらジュースやら。
これと言って特別珍しいものが置かれているわけでもなく、強いて言えば包み紙にこの地の何らかのシンボルが描かれているという部分は、やはりよくある観光地の土産屋と共通している特別な物と言えるかもしれない。
あまり実用的でない物は後々かさばるようになって困る。しかし食べる物というのも消費期限から、後から思い出として懐かしむというのは難しい。実用的でも立派過ぎたり高価だったりすると中々もったいなくて使うのに躊躇してしまうだろう。
考え出すと難しい。
むむむ、と眉間にシワを寄せ、三笠は普段なら絶対に迷うわけのない木製の猿の置物を睨んでいた。
「おいおい、それはねーだろ!」
ふと、誰かが言った。
自分に言われたのか、咄嗟に顔を上げると棚を挟んで向こう側に楽しそうに会話をしている四人組がいた。
若い男女でそれぞれ二人ずつ。
降りて来るときに見かけた恋仲と思われる人たちとは纏っている空気がまったく違うので、おそらくは友人関係なのだろうと三笠は思った。
「なにそれ、お前そんなの買うの?」
「はあ? コレの良さが分からないとかマジセンス無いわ。」
「いやお前、さっきクソダサいって自分で言ってただろ。一度冷静に戻れって、絶対後から後悔する奴だからそれ!」
「うるせぇ! お前らこそ後から買ってなくて後悔するなよ!」
そう言って女性の一人は、何故か黒塗りの木刀を持ってレジへと向かう。
持ち手の所には竜の紋様が描かれており、刀身部分にはいくつか文字が彫り込まれており、『唯我独尊』というのだけは読み取ることが出来た。
「あーあ、ミキっちムキになってるじゃん。」
「何でもいいけどさ、そろそろバスだから買うものがあるなら早くして欲しいんだけど。」
「うおマジか。えーっと、俺は何にするかな――。」
「早くしてくんなーい? アタシらもう買い終わってるから先行っちゃうよ?」
「おまえは木刀しか買ってねーじゃねえか!」
「ああ? なんか文句あんのか?」
「ミキっち、財布のお札全部出してたね……。」
「バス、往復で勝っといてホントよかったよ。」
「おう、お前らなんだその目は。さっそくこいつの錆にすんぞ?」
人間とは不思議な物で、その場の空気と気分に流されて暴走している人を見ると一気に頭が冷静になり、かかっていた靄が晴れていくものだ。
そんな真理に達しつつ三笠は冷めた頭でお菓子の箱を一つ買うことに決めた。
会計を終え外に出ると祖父たちが既に戻ってきており、不安そうに周囲を見回していた。店の中から紙袋を手に持った三笠の姿を見ると目に見えて分かるほどホッとした様子で、少し早歩きで近寄ってくる。
「やっべ、マジでもう時間じゃん!」
祖父母に気を取られていて声に対する反応が遅れた。
そして慌てて店から飛び出してきた男が背中にぶつかる。
決して強くと言う程ではなかったが、それでも予想だにしていなかった事であり、また三笠の体はまだ咄嗟に反応できるほど十分な能力を取り戻せてはいなかった。
杖は氷を滑るようにガリガリと音を立てて流れ、まるで世界がゆっくりになったかのように、体は徐々にレンガを敷き詰めた地面へ突き進む。祖父母の顔が安堵から驚愕、そして恐怖の色に変化していくのが見える。何か怖いものを見たと言うのではなく、大切な何かが傷つくことへの恐れ。
ボンヤリとしかし鮮明に己の身に起きようとしている事とは無関係なものばかりよく見える。
そして――。
「せぇぇぇぇぇえふっ!」
ガクン、と唐突に体は衝撃と共に止まり、三笠は続いてその場にへたり込むように座った。
振り返ると息を切らした女性が手首を赤くなるほど強く掴んでいる。
「君、大丈夫? 怪我とかない?」
「え、あ、はい。大丈夫です……。」
「マジでゴメン! 俺、急いでて前見てなかった。」
女性の後から慌ててぶつかった男も頭を下げに来た。
見れば先ほどの四人組の二人で、残りも何事かと慌てて駆け付けてくるところだ。
「あー寿命縮まったホント。受け身もなくこんな硬いとこに顔ぶつけたら歯とか鼻とか折れてたかもしんないし、間に合って良かった。」
まだ状況が完璧には飲み込み切れていない三笠に対し、今この場で一番ホッとした様子の女性はニカっと笑った。
残りの二人組と祖父母が三笠の元へたどり着いたのはほぼ同時。
健康な若い人はあんなに早く走れるんだな。
そんな事を考えつつ、平謝りする四人組と自分の身に怪我が無かった事と寸でのところで助けてくれたことに感謝する祖父母の姿を見る。
「ホンっトに、申し訳ありませんでした。このバカが周りを見ていないばっかりに怪我をさせるところで。」
「いえいえ、怪我はありませんでしたし、助けてもらいましたから。」
「君、大丈夫? 必要なら救急車呼べるけど?」
「あ、はい。大丈夫です。こっちも邪魔してしまってスミマセン。急いでいたみたいなのに。」
「ミキっちも言ってたけど気にしなくていいよ。それに見てたバスの時刻表、よく見たら休日のやつで平日の今日はあと三十分あるのにさっき気が付いたから。」
「え、じゃあ俺が急いだ意味なくね? めっちゃ損した気分なんだけど。」
「本当に反省してんのかお前。」
良い音で頭を叩かれ、スイッチが入ったかのように再び謝りだす男。
少しおかしく思って、失礼だと分かっていてもクスリと笑う。
その後、お詫びのしるしに発端となった男の負担で菓子を一箱買ってもらう流れとなったのだが、助けを求める子犬のような顔をされたので周囲の「一番大きい奴。」という提案は受け取らず、小さめの物を受け取る事にした。
延々と受け取る受け取らないのやり取りを繰り返した末の妥協案だ。
「それじゃ、私たちはこの辺で。君も元気でね。」
「はい、えっと……ありがとうございました?」
「あっはは、こういう時は普通にさようならで良いと思うよ。」
バイバイと手を振って騒がしかった一団がバス停へ向かっていく。
丁度ブレーキランプを光らせてバスが入ってくると小走りになり、一見すると無秩序に見える列の最後尾と思われる場所に並んだ。かなり多くの人がたむろしていたので、もしかしたら入りきらないのではという予感が、ただの間違いであった事は間もなく証明される。
「それじゃ、ワシらも帰るか。」
重たそうに動き出したバスから視線を三笠に移した祖父はそう言ってお土産を持っていない方の手で、杖を持っていない方の手を握った。
硬くザラザラした手は石のようで、しかし暖かなぬくもりが伝わってくる。
三笠は「うん。」と頷いて、しっかりとした足取りで車へと向かった。