第9話  「朗読者」  ベルンハルト・シュリンク作  松本美穂 訳

文字数 2,548文字

 一言で言うとこの物語は大変美しくて悲しい物語です。

 作者のベルンハルト・シュリングは1944年、ビーレフェルトというドイツの西部に位置する都市で生まれました。
1945年4月にナチ総統のヒトラーが自殺をしてドイツは同じ年の5月7日、9日に西側連合国に、序でソ連に無条件降伏をしました。
 その少し前に作者は生まれたのですね。
その後の東西分裂時代を経て、ドイツは1990年に統一されました。

 物語は大学で哲学を教える教授の息子 「僕」の15歳の時の出来事からスタートします。

 「僕」は病気で黄疸になってしまい、何か月も病床にありましたが、それも回復して学校へ通えるようになりました。ところが学校の帰り道で気分が悪くなって道端で吐いてしまったのです。その時「僕」を助けてくれたのが「ハンナ・シュミッツ」という女性でした。

「僕」は母親ほどに年の離れたこの女性に恋をしてしまうのです。


 物語は二部に別れていて前半部分は若くて幼い「僕」と大人の女性である「ハンナ」の恋愛について書かれています。「僕」はハンナに夢中で熱烈にハンナを恋い慕います。そんな「僕」を「坊や」と呼んで、時に、優しく情熱的に、時に冷たく無慈悲に「僕」を扱い、(正に、扱いだと思う)「僕」は彼女に翻弄されます。でも、好きでしょうがないから「僕」はハンナに逢うために色々と画策をするのです。それが裏目に出て喧嘩する事もしばしば。
「僕」にはどうしてもハンナを理解できない所があります。
実はハンナは誰にも言えない秘密を抱えていたのでした。

 後半部分は「僕」が成長して大人になって思わぬ場所でハンナと再会することから話が展開します。

 この物語の柱は「朗読」です。「僕」はハンナの為に「朗読」をするのです。「僕」はハンナの「朗読者」です。それは途中、途絶えた時期もありましたが、生涯をかけての朗読者と言って差支えは無いと感じます。
ハンナは朗読を全身で聴いています。物語を心から楽しみ、ドキドキしたり笑ったり、悲しい話では泣いたりもします。物語を聞いてハンナが漏らす感想は思いも寄らない程深いものであったり、天真爛漫な子供が思ったままを伝える様な、純真なものでもありました。

 そしてもう一つの柱は戦争です。
 当時の時代背景が深く暗く物語を覆っています。これは戦後ドイツが抱えたユダヤ人問題、所謂、ホロコースト、アウシュビッツの戦犯という根深く解決不可能と思われる課題を、
戦後に生まれた者達はどうやって背負って行くのかという事を問い掛けています。
 もしも本を読まれましたら「訳者あとがき」を読まれる事をお薦めします。そこにはシュリンクが過去とどう向き合うかについて述べている文がありますので。

 戦争の怖い所は、国のプロパガンダに扇動され、「そう言われたから」という理由で、間違った事をしてしまう所だと思います。国がそう言うから、世間がそう言うから、だからそうする。
誰も反対など出来ない。間違っていると分かっても反対など出来ない。
 そういう人々がいる反面、心からそれは正しいと思う人々もいます。
 多分、それが大多数です。
 それについての善悪を考える事など考えず、そもそも後になって、あれは間違いだったと考えたにしろ、その時はそれが正しいことだと頭から思い込んでしまう。純粋だから、素直だから、そう思ってしまう。国を信じているから。そういうものだと思っている。自分で善悪を判断する事をしない。判断など出来ない。
それは自分と自分の家族に危機をもたらすものだから。
「そういう決まりだから」
「みんながそう言っているから」
「偉い人がそう言っているから」
「国がそう言っているから」
戦争が終わって裁かれた時に「一体、何が悪かったのだろう? 私は言われた通りにやっただけなのに・・・」と不満に思う。
 思考は途中で止まってしまっている。その先には行かない。
権力者はそういう民衆が好きなんでしょうね。自分の意のままに動くから。
ハンナは無教育で、ある意味その様な大多数の民衆の一人でした。

 日本とドイツは似ています。どちらも戦争の負の遺産を抱えて戦後を生き延びて来ました。その問題は常に国の発展と伴に在りました。
 日本では夏になると一年分をまとめて放出するように戦争関連の番組や戦争の話題がテレビで放映されます。それはもう夏の風物詩と化している様に思えたりもします。

 今年は戦後78年。
ウクライナとロシアの戦争が勃発した時には「何故、今の時代に戦争?」と思いました。
酷く時代遅れの旧世界の出来事に感じたのです。戦争は問題解決の手段として最悪で最低の方法だと誰もが学んだはずなのに、人間はまた同じ事を繰り返して、そして解決できないで長引かせています。
 戦争を見ると「人間はやはり動物だな」と感じます。
縄張り争い、どちらがより多くの富を得るか。どちらが相手を屈服させるか。どちらがマウントを取るか。
 それはきっと本能なのでしょうね。
 戦争の手段が高度になり、様々な兵器や戦略が生まれても、結局は動物と同じ。
闘争本能でしょうかね。闘争本能を戦争じゃない、別の手段に置き換える事は出来ないのでしょうか? 
 せめて考える事を止めない人にならなくてはと思います。

 この本が出版された時には世界的なベストセラーになって39か国で翻訳されたとAIは言っています。読まれた方も多い事と思います。最近、読み返しましたが、何度読んでもしみじみとした思いが心に残る良い本だと思います。
「僕」とハンナみたいな恋人を運命の人というのだろうなあと感じます。

因みに2008年に映画化もされました。「愛を読む人」という映画です。ちょっと古い映画です。
PG12です。寧ろ15だと思う。
偉そうな言い方で恐縮なのですが、なかなかいいなと思います。
ただ、原作の方が数倍いいです。
終末については「それじゃない!」と感じます。





写真はドイツの田舎風景です。
物語の中で「僕」とハンナがサイクリング旅行に行く場面があります。
昔風の武骨な自転車でスカートを膨らませながら走るハンナ(多分、30~35歳位)と、後ろから高校生程の「僕」が行く様子を想像してみてください。




*写真はACフォト様からダウンロードしました。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み