文字数 5,312文字

   二
 磐余彦とその仲間が日向の港を出航したのは前年の旧暦十月。木枯らしが高千穂の峰から吹き降りる寒い朝だった。
 彼らが乗った船は、楠の大木をくり抜いて造った丸木舟である。
 ただし普通の丸木舟とは異なり、船首と船尾には堅板(波切板)、船縁には舷側板(げんそくばん)を付けている。両舷に立てた柱の間に(むしろ)を張れば、風を受けて進むこともできる。
 長さはざっと四十尺(約十二メートル)、この時代では珍しい大型船である。

 磐余彦たちが速吸之門(はやすいのと)(豊予海峡)を北上し、九州北部の岡水門(おかのみなと)に着いたのは出発から一月後の十一月のことである。
 そこで補給を済ませると、反転して東に舵を切った。
 冬の海は波高く冷たく、大嵐に遭って丸木舟は何度も沈みかけた。
 ドーン!
 左舷から見たこともない大波がひっきりなしに押し寄せる。
「今度のは大きいです!」来目が叫んだ。
「分かってる!」五瀬命が叫び返す。
「わあ、転覆する!」
 稲飯命と三毛入野命は悲鳴を上げるばかりで、ものの役に立たない。
 さすがの磐余彦も「もう駄目か」と観念しかけた。
 ところが椎根津彦は顔色ひとつ変えず、右に左に舵を切り、大波の上に乗り上げるように船を操っていく。みごとな操船術である。
 一刻(二時間)後、さしもの嵐も過ぎ去り、薄日が差してきた。
「なんとか乗り越えたな」
 みなほっと息をつく。疲労は極に達し喋る元気もない者も多い。
「あなたのお蔭で命拾いした。感謝している」
 磐余彦は椎根津彦の手を強く握り、頭を下げた。
 その言葉に嘘はなかった。椎根津彦が巧みに操船しなければ、みな海の藻屑と消えていただろう。
 しかし椎根津彦は静かに微笑んで言った。
「これしきの嵐、さほどのことはありません。私はこの何倍もの波を越えて命からがら倭国に渡ってきたのです」
 椎根津彦は、唐土から戦乱を逃れて日本列島にやって来た一族の末裔である。祖先は代々軍師の家柄だったという。
 航海術に()けているだけでなく、見聞が広く智略に優れていることも磐余彦には心強かった。

 嵐を乗り越えた一行は、瀬戸内海に入って安芸の埃宮(えのみや)(広島県府中町)に着いた。ここで仮の館を建て、水や食料を調達したのち翌年三月にふたたび東を目指した。
 日向を出てから約五か月が過ぎていた。
 瀬戸内海は太古の昔より海上交通の幹線航路として多くの船が行き交った。点在する大小さまざまな島には簡単な船着き場もあり、海が荒れているときは避難して陸で休むこともできる。
 そうした港(のようなもの)を整備し、通行する船から通行料を取る一族も古くからいた。水軍、つまり海賊である。ただし金さえ払えば水先案内人を務めてくれる者もいる。
「なあに、海賊どもを蹴散らしてやる」
 と五瀬命は息巻いたが、海上での戦闘は不慣れである。
 ことに瀬戸内海は島と島との間が狭く、流れも複雑でどこに暗礁が潜んでいるか分からない。
「通行料を払ったほうが得策です。ここで惜しんではなりません」
 椎根津彦の進言に従い、貴重な鉄鋌(てつてい)(鉄の延べ板)で通行料を払うとともに、芸予(げいよ)水軍の中から水夫(かこ)を雇うことにした。
 ここから磐余彦たちは水軍の船一隻を加えて四人ずつ二隻の舟に分乗することにした。雇う水夫も一隻につき四人である。
「何をくれるってんだ?」
 年嵩(としかさ)の水夫頭が訝し気に聞いた。後ろに控えるのはいずれも芸予諸島の逞しい男たちである。
 それに比べこちらは磐余彦を筆頭に、垢で汚れた見すぼらしい「若造」ばかりである。“料金”が払える筈がない、と嘗めてかかったのも無理はない。
 そのとき来目が横から口を出した。袋から黒い小さな塊を出して水夫頭の掌にのせた。
「舐めてみろ」
 口に含んだ水夫頭が目をむいた。
「こりゃあ、噂に聞いてたウージってやつじゃねえか!?
 ウージとは沖縄の方言でサトウキビのことである。熱帯原産のサトウキビで作った黒糖、つまり砂糖を舐めるのは水夫頭も初めてだった。
 来目がにやりとした。
 水飴なら水夫頭も舐めたことはある。水飴は大麦麦芽があれば簡単に作れる。だが、砂糖(黒糖)の甘さとは比べ物にならない。
 しかも甘味といえば果実か水飴しかないこの時代、砂糖は黄金と同じ重さで取り引きされるほどの貴重品だった。
「案内料として全部やるぜ」来目が袋を高く掲げて言った。
 男たちは色めき立ち、歓喜して水夫を引き受けた。
 来目は熊襲、隼手は隼人の出身で、ともに九州南部に古くから暮らす縄文の民である。
 二人とも目の周りに成人の証である入れ墨をし、小柄だが運動能力に優れ、狩りや魚採りが得意である。
 彼らはまた有能な交易商人でもある。
 琉球産の夜光貝は、豪族たちの装飾品として高い値で取り引きされる。
 倭国では未だ生産することができない鉄製品の素材となる鉄鋌も、朝鮮半島から対馬海峡を越えて運び武器や農具に作り変えるのである。さらに(やじり)や小刀の刃先となる黒曜石も、豊後の姫島や伊豆・神津島産の石が海を渡って取り引きされている。
 来目や隼手はこうした貴重な交易品を、各地に散らばった縄文人のネットワークを通じて仕入れてくる。貨幣が流通する以前にも、日本列島全体に交易ネットワークが広がっていたのである。

 ところが二隻の船に分乗し芸予諸島の東端、向島(むかいしま)(広島県尾道市)まで来て、水夫頭がここから先は進めないと言い出した。
「この先の潮の流れは複雑で、わしら芸予衆でも簡単にゃ読めないんでさ」
 苦り切った顔で言い訳をする。
 瀬戸内の潮流は、満潮時には紀伊水道から西に向かって入り込む潮と、豊後水道から東進する潮が激しくぶつかり合う。干潮の時はまたここから東西に分かれ、島の配置や海底の地形とも相俟って海流が複雑に変化する。
 それが笠岡諸島の海域の特徴である。
 海が荒いぶん、笠岡の漁師たちは気性が荒く独立心に富むことでも知られる。
 だからこそ、この海を知り尽くした笠岡衆は芸予衆と塩飽(しわく)衆の二大勢力に挟まれても、しぶとく生き残ってこられたのである。
 この海域にこっそり忍び込んで魚を獲り、舟を焼かれ袋叩きにされた芸予の海賊も少なくない。
 ちなみに平安末期(磐余彦より約八百年後)になると、笠岡諸島のひとつ真鍋島には藤原氏の一族真鍋氏が水軍の根拠地を置き、付近の島をことごとく支配下に治めたという。
 さらに数百年後の戦国時代には村上水軍が名を馳せた。

 芸予の水夫たちが単に潮流を恐れているだけではないのが分かったので、磐余彦は無理に引き留めなかった。
 笠岡を越えて塩飽諸島まで行けば、ふたたび水夫を雇うことができるはずだ。
 備後灘や水島灘は広々として波も大きいが比較的単調である。潮流さえ読めれば、自分たちだけでもなんとか行けると踏んだのである。
 ただしひとたび横波を受けて転覆すれば、岸まで泳ぎ着くことは難しい。そこで磐余彦たちは陸沿いに慎重に船を操って進んだ。
 今日から船は一隻で、漕ぎ手はすべて日向から来た仲間たちだった。
 さいわい春の海は()いでいる。
 向島を早朝に出発し、夕方になって吉備との境にある小さな浜に上陸した。浜に人が住んでいる気配はなく、五瀬命が中心になって簡素な小屋を建て、火を起こした。
 磐余彦と日臣の二人は森の奥に分け入り、若い鹿を仕留めた。
 まず日臣が風上から鹿に近づき、注意を引き付ける。そして気配を消した磐余彦が風下から矢の届く距離まで近づき、射る。矢は鹿の心臓に命中し、鹿はかん高い声を上げて倒れた。
「不思議ですね。磐余彦さまと一緒に狩りをすると必ず獲物が取れます」
 興奮覚めやらぬ顔で日臣が言った。
 それはあながち嘘ではない。磐余彦と日臣は幼い頃から子犬がじゃれ合うように共に遊び、狩りを学んできた仲だ。息がぴったり合っている。
「いや、そなたの囮がうまいのだ」
 磐余彦もまた日臣を誉めた。実際、日臣が本気になれば完全に気を消すこともできる。剣の達人である日臣にして初めて可能な境地である。
 ただし集団での狩りの場合は、わざと微小な気配を漂わせて獲物の注意を惹き付ける技も有効だ。獲物がその「何か」に気を取られているうちに、射程距離に入った磐余彦がただの一射で仕留める。
 見事な連携プレーである。

 大きく切り分けられた鹿の赤い肉が火に掛けられ、目の前で(あぶ)られている。溶けた脂がじゅうと垂れて焚火に落ち、そのたびに煙が立ち昇る。
 味付けは山椒の実と塩だけだが、口の中に肉汁が広がってすこぶる旨い。みな夢中でほおばった。
 ぶつ切りにした魚と貝、海藻を入れた汁から磯の香りが漂った。魚は隼手が釣り、貝は来目が両手にいっぱい採ってきたものである。隼手は「記紀」神話の海幸彦を祖とする隼人の男らしく、釣りや素潜りが得意だ。
 この汁に干飯を入れて煮ると何杯でも食べられる。
「この国は実に豊かです。森に行けば獣が獲れ、海に行けば魚や貝が取れるのですから」
 食事のあと、椎根津彦がしみじみと言った。
「私の国では生まれた時からずっと戦いが続き、村人の多くが飢えて死にました。食べるものがなく、ネズミですらご馳走でした」
 劉備玄徳や諸葛孔明、関羽、張飛、曹操など英雄たちが活躍した三国志の時代は、庶民にとっては地獄だった。
 一説にはこの時代の大陸の人口は五千万人から五百万人に激減したという。実に十人のうち九人までが命を落としたのである。
 そうした悲惨な経験をしているからか、椎根津彦の平和な国づくりに賭ける思いは人一倍強かった。
「そういえば塩土老翁も言っていたな。倭国は四方を海に守られた平和な国だと」
 磐余彦がうなずく。
 塩土老翁の故国、蜀は唐土の内陸国である。しかし良質の岩塩が採れることで知られ、中国四川省の山菱岩塩は今なお名高い。
「でもよ、岩の塩なんて不味(まず)そうだな」五瀬命が顔をしかめる。
「いえ、吾は塩土翁から岩塩を舐めさせてもらいましたが、旨みの深いものでしたよ」
 磐余彦の次兄、稲飯命が諭すように言った。稲飯命は塩土老翁から米作りや塩作りの技術を学び、心から崇敬している。
「それにしても瀬戸内の海は干満の差が激しいから、塩作りにはもってこいだな」
 稲飯命は塩作りがしたくてうずうずしているようだ。

 日本列島では、古くから海水から塩を採ってきたことが知られている。
 縄文時代には塩の付いた海藻を燃やして灰(灰塩)を採った。やがてその灰に海水を混ぜて塩分濃度の濃い塩水を作り、さらに煮詰めて塩を作ったと考えられている。
 磐余彦の時代になると、塩分の濃い水を土器で煮詰めて作る「藻塩焼き」と呼ばれる方法が発達した。とくに瀬戸内海沿岸では弥生・古墳時代の製塩土器が数多く出土しており、製塩が盛んだったことがうかがえる。
「今日もいい桑の葉があったから、カイコも死なせずに済んだよ。良かった」
 ほっと胸をなで下したのは三兄の三毛入野命である。三毛入野命はこの旅に数十匹のカイコと一匹の猫を連れて来た。猫はオスの三毛猫「ミケ」である。
 三毛猫はほとんどがメスで、オスは非常に珍しい。そのためミケは神猫として崇められてきた。
「三毛入野兄は生き物を連れているから苦労をかけますね」
 磐余彦が労わるように言った。
 三毛入野命はさまざまな薬草を作って病人に与える薬剤師であり、医者の役割も果たしていた。さらに養蚕も担当しているが、カイコを育てるためにはその餌となる桑の葉の採取が欠かせない。
「なあに、今までのところ桑の木はどこにでもあるようだ。これなら心配ない」
 中国の史書『魏志倭人伝』にも、邪馬台国では「養蚕を行い絹を紡ぐ」とあり、女王卑弥呼が魏の皇帝に「倭錦(わきん)(絹)」を献上したと記されている。三世紀の倭国では養蚕と絹織物がすでに行われていたのである。
 焚火が赤々と燃え、ふかふかの熊の毛皮の上でミケが丸くなって眠っていた。
「ミケも長旅で疲れていないといいんですが」
 磐余彦が愛おしそうになでた。
「大丈夫だ。こいつも毎日新鮮な魚が食えて嬉しいだろう」
 近くにはミケが食べ終えた小魚の骨が散らかっていた。
 
 猫は古代エジプトの頃から収穫した穀物をネズミの害から守ってきたことが知られている。そして実は養蚕においても猫が重要な役割を果たしてきた。ネズミはカイコの大敵で、貴重なカイコをネズミの食害から守るためにも猫が不可欠だったのである。
 つまり猫を飼い養うことも、三毛入野命の大事な役目なのである。
 ただし猫は日本列島には元々おらず、米作りが本格的に始まった弥生時代に大陸から連れて来られたと考えられている。二〇一四年、長崎県壱岐市のカラカミ遺跡(弥生後期)で日本最古のイエネコの骨が発掘され、大きな話題となった。
「今は苦労を掛けますが、吾は大和で必ず良い国をつくります。それまでの辛抱です」
 三人の兄、五瀬命も稲飯命も三毛入野命も、そして仲間たちも一斉にうなずいた。
 磐余彦が言うと、根拠はないのに何故か皆がその気になる。だからこれまで厳しい旅を続けながら、一人も脱落せずに付いて来たのだろう。
 磐余彦とは、不思議な魅力の男だった。
                                     (つづく)
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