第1話

文字数 2,815文字

 夫の啓介の帰りの遅い日が続き、ついにはどこかで泊まってそのまま出社という日まで現れた。
 沙耶香がママ友の優香に愚痴ると「絶対女がいるね!」なんて言われてしまう。初めは優香はブログのサレ妻ジャンルを読み過ぎなだけだと相手にしていなかった沙耶香だったが、こうも続くといよいよ気になって「絶対社内の女だね!」という優香の言葉を鵜呑みにして、探偵よろしく会社まで行って確かめずにはいられなくなってしまった。一番すぐのパート先の休みに合わせてこっそり様子を見に行くことにする。
 問題は二歳になったばかりの息子の寛太をどうするかだった。この春から保育所に通い出したが、例に漏れず集団生活の洗礼を受け、病気のデパート状態がまだ終わりそうにない。保育所の37.5度ルールで、熱が上がるとすぐにお迎えの要請がかかるから、沙也香としてもそんなに遠出はできないのだ。
 仕方なく保育所には休みの連絡を入れ、寛太も一緒に連れていくことにした。
 浦安駅から地下鉄東西線の快速に乗る。東京メトロと銘打っていても東西線はしっかり千葉まで走っている。さらに地下鉄といえどもこの辺りは地上を走り、橋梁まで越えるのだ。
 車内は平日の昼前だというのに混んでいた。つま先にスワロフスキーが光るネイルを施した女の子に譲ってもらった席に寛太を抱いてありがたく座り、人と人の間から見える車窓の景色をぼんやり眺めていた。窓の外にはのどかな住宅街が広がっており、地下鉄にしては早いスピードで進む車体は沙耶香を乗せて、いつもと変わらぬ日常を置き去りにして進んでいくようであった。
 南砂町駅を通過し、次の停車駅の東陽町駅に向かうまでに電車はいよいよ地下に潜り、ようやく沙耶香の気持ちに外界が追いついた。今は真っ暗なトンネルの中、深い闇の方が自分の心にしっくりくるようで、沙耶香はやけに明るく感じる駅に停車するたび息を詰めていたことに気付いて大きく息を吐くのだった。
 啓介の職場へ行くには大手町で千代田線に乗り換えて日比谷駅で下車する。浦安から乗車してすぐに沙耶香の膝の上で寝てしまった寛太を抱えての移動とはいえ、到着した頃には沙耶香はすっかり精魂尽き果ててしまっていた。
 啓介の職場の入る目当てのビルに到着するも、高層の威圧感に圧倒されて沙耶香は中に入ることさえできない。ようやく目を覚まし、エントランスの回転扉の横に造られた噴水に興奮する寛太を腕から下ろすと、恐る恐る周りを観察した。十二時をまわったようで、エントランスから人が弾き出され始めていた。厳かな建造物からは思いの外ラフな服装をした男女がぱらぱらと連れ立って出てくる。沙耶香は若い女性が出てくる度に、疑心暗鬼にかられ、居ても立っても居られない心持ちがした。
 オフィス街にはそぐわないかもしれないが、単なる子連れの散歩だ、堂々としてればよい。しかし沙耶香は、夫の不貞の証拠を押さえるために来ましたと自分の顔に書いてあるような気がして、まともに顔を上げられなかった。
 ふいに寛太に近づいて声をかける者がいた。「かわいいー。こんにちは」女性ファッション誌の特集、オフィスカジュアルの一週間コーデ、の水曜日か木曜日みたいな格好をした可愛らしい女性が寛太の前にしゃがみ込んでいた。「なんさいですか?」寛太が覚えたてのピースサインをして二歳を示すと、その女性はまた「かわいいー」と微笑んで、同意を得るように母親の沙耶香の顔を見上げた。
 「おなまえは?」尋ねられて寛太が首を傾げながら「はっとりかんた」ともごもごしていると、女性は助けを求めるようにまた沙耶香の方を見上げる。
 「かんたです」沙耶香が代わりに答えると「かんたくん、こんにちは」女性は嬉しそうに寛太に話しかけ、ふとあれ、という顔をした。立ち上がると沙耶香の方に向き直り、「もしかして寛太くんですか?」と言った。そして確かにそう言ったはずだと不審がる沙耶香に続けて「服部さんの、奥さまと寛太くん?」と聞いてきた。沙耶香が肯定すると女性は憧れのTikTokerかYouTuberに会った時かのように喜びの声をあげた。「服部さんのデスクの上に写真が飾ってあるんです。三枚も!」
 水曜日か木曜日コーデの彼女が言うには彼女はやっと仕事に慣れてきた入社三年目で、啓介と同じ部署で働いているとのことだった。今年に入ってから編成が変わり、落ち着くまで激務の日々が続いていること、啓介が家族のことをいつでも得意げに自慢してくることを手短かに説明してくれた。
「ご本人登場! やー、今日はいい日だ」
 何度も振り返り寛太に手を振りながら満足そうにランチへと向かった彼女の後ろ姿を見送ると、沙耶香は何故だか今ここにいることを啓介に絶対に見つかってはいけないような気がした。慌てて寛太を「ガタンゴトン見に行こっか」と誘惑すると逃げるようにその場を離れた。
 日比谷線にのって茅場町駅まで行く。普段車移動ばかりの寛太は車両に喜んで、ずっと揺れる吊革を見つめていた。茅場町駅で下車すると、こぢんまりした和食屋さんで、魚好きの寛太と分け合い煮魚定食の遅めの昼食を取り、再び東西線に乗ると帰路に着く。
 よっぽど沙耶香が思い詰めた顔をして悲壮感を漂わせていたのか、今日乗った全ての路線で寛太を抱えて乗り込んですぐに、沙耶香は席を譲られた。今度ばかりは沙耶香は先頭車両の一番前に乗車し、前面展望を望める位置を目指した。先客の眼鏡をかけた少年は寛太を認めると場所を譲ってくれた。沙耶香は寛太を抱き抱え、寛太は暗闇を進む前方を見つめ続けた。
 ふいに視界が明るくなり、車両は地上に出た。夕刻が迫ろうとしていた住宅街からは、まもなく仕事や学校を終えて帰宅してくる住民の帰りを待つ、ひとときの休息の気配がした。
 あの窓一つ一つの中に、悩んだり戸惑ったりしながらも暮らす人たちの営みがある、私は今ここにいるけれど、過ぎ去って行く景色の中にいくつものそれぞれの人生があると思うと、なんだか寂しいような、愛おしいような、そんな気持ちになる。
 まだ籍を入れる前、車窓に流れる景色を見ながらそう言った沙耶香に、それは神様の視点になってるんだよと教えてくれたのは啓介だった。自分の通勤時間が増えても、毎年ワースト上位に入る激混みの沿線であろうとも、子育てによい環境をと今の住まいを決めたのも啓介だ。
 沙耶香は啓介のその感性や行動力に惹かれたのだ。慣れないパートとワンオペで、すっかり忘れそうになっていた。
 今や沙耶香は帰ってこようとこまいと、啓介の愛を感じられた。早く会いたくてたまらない。沙耶香は重みで痺れそうになる両腕に力を込めて寛太を抱き直すと、真っ直ぐに我が家へと続いている線路を、枕木の一つも見落とすまいとするかのように見つめ続けた。高鳴る沙耶香の鼓動に合わせるかのように車両はガタゴトと揺れ、まもなく浦安駅に着こうとしていた。
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