第15話

文字数 2,068文字

 十二月二日。
 この日も兄夫婦が面会に行ってくれたので、父と私は病院には行かなかった。病院は駅からのアクセスが悪く、車を持たない都内暮らしの兄夫婦が行くのは一苦労だろうが、父の休息日を作るために毎週二人が面会を引き受けてくれていた。本当にありがたいことだった。
 夜、その兄からメッセージが届いた。今日は目がしっかり開いていたこと、酸素飽和度は、痰の吸引後や体を動かした直後以外は99パーセントくらいで安定していたことを報告してくれ、そして、「もう少し落ち着いたら家に帰れるのかもしれないと思った」とも書いてくれていた。
 正直、兄はこの状態を長引かせることを良くは思っていないだろうと感じていた。「本人にとってこれがいいのかってことも考えなきゃね」というようなことは常々言っていたし、母を助けられなかったという罪悪感を持つ父と私とは、状況の受け止め方が違っただろう。
 だがそれでも、とにかく母を家に連れて帰りたいという私たちの気持ちを汲んで協力してくれていた。兄が結婚してからは疎遠というほどではないものの、当たり前に距離はできていたが、このような状況になってからは兄、そして私より年下の義姉の存在に本当に感謝していた。
 そしてもう一人、その存在に助けられている人がいた。高校時代の友人だ。彼女が結婚してからもしばらくは一緒にライブに行ったり食事をしたりしていたが、仕事に家庭にと忙しい友人といつまでも気ままな独身の私は、いつの間にか連絡を取らなくなっていた。
 だが、こういった事態に陥ってから久しぶりに連絡をして以来、彼女はずっと私の話を聞いて優しい言葉をかけ続けてくれていた。私の誕生日も覚えてくれていて、メッセージをくれた。友人付き合いすら碌にしてこなかった私にも、まだ「友」と呼べる人がいることをありがたく思った。
 この日も何度も何度も声をあげて泣いたが、私にはまだ希望もあった。母がまだ生きてくれているおかげで、「母を家に帰らせる」という目標が持てていた。そして、家に帰って来てもらって毎日ずっと声を掛け続けたら、いつか母が笑ってくれるのではないかという夢もひそかに描いていた。
 虚ろな目をした母を見るのは辛く、このまま私の中にいる以前の母の姿が薄れ、痩せこけた母に置き換わってしまうのが怖いと思うこともあった。だが、元気だった頃の母も、認知症が進んで子供のようになっていた母も、そして今病室で一人戦っている母も、全部が私の大切な母なのだと思えるようになっていた。

 十二月三日もいつも通り、午後から父と二人で母に会いに行った。
 母は仰向けでやや左に首を向けた体勢のことが多かったのだが、この日はベッドの上で正面を向いていた。両目が開いていたが、ベッドが水平に近いところまで倒されていたためその視線は天井の方を向いており、私は母の視界に入ることはできなかった。
 右目尻に付いていた目脂を化粧水でふやかして拭い、顔にクリームを塗り、唇にリップクリームを塗った。口は常に半開きなので舌が乾いていて可哀想だったが、口内は素人が下手に手を出すと危険かと思うので、何もできなかった。口腔ケア用のスポンジは何個も買い置きしているので、定期的に看護師さんがケアしてくれているはずだ。
 母の右耳と自分の左耳にイヤホンを挿れ、母が昔着信メロディーにしていた洋楽や、母の好きなアーティストの曲を流した。気のせいかもしれないが、曲をかけるとほんの少しだけ目がより開いたように見えた。
 この頃には顔馴染みになった看護師さんが明るく話しかけてくれることもあったし、父と二人で軽く笑い話をするようにもなっていた。私は母が頑張ってくれているおかげで少しずつ前を向けるようになっていたが、それがベッドで虚空を見つめるだけの母を置き去りにしているようにも思え、申し訳ないという想いもずっと胸の中で燻り続けていた。
 「お母さん、頑張らせてごめん。でももし私がベッドに眠る側だったら、お母さんも『とにかく生きてほしい』って思うでしょ?」
 心の中でそう許しを請いながら、浮腫んだ母の手をさすり続けた。
 食欲が戻った私はなるべく野菜をたくさん使うよう意識しており、この日の夕食はキムチ鍋にした。父と私が体調を崩してしまったら母に会いに行けなくなるし、母を家に帰らせることも難しくなってしまう。そう思ってきちんと食べるようにしていたが、食べることが大好きだった母が何も食べられずに過ごしているのにと考えると、また罪悪感で押し潰されそうにもなった。
 母がまだたくさんご飯を食べていた頃。ほんの一、二ヶ月前までだと思うが、私は常々「お母さんがご飯食べなくなったらいよいよ心配するよ」と笑っていた。そのくらい、母はご飯をよく食べていた。
 そんな母があまり食べなくなっていたのに、なぜ私はそのことをもっと重く受け止めなかったのだろうか。
 「母が頑張ってくれているのだから」と前向きになる一方で、私の中に降り積もる後悔が消えることもなかった。
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