第45話

文字数 3,504文字

 四月二日の三回目の月命日には、私は穏やかな心で母の仏壇に手を合わせることができた。悲しみが薄れることなど決してなかったが、「母は、いずれ誰もが逝く場所に少し早く逝っただけだ」、「父も私も、いつかは必ず母のところに逝けるのだ」、そう自分に言い聞かせることで、心を保っていた。仏壇の前で涙が止まらなくなることもままあったが、そんなときでも最後には「鼻垂れちゃったから鼻かんでくるね」などと、母に笑いかけてからその場を離れられるようになった。
 四月中旬、父と私は市内にある納骨堂の見学に向かった。霊園は自分が手配しようかと言って都内の霊園を見て回ってくれていた兄には申し訳なかったが、やはり私たちは、母には少しでも私たちの近くに眠ってほしかった。
 初夏を思わせるような陽射しの下、平年よりずいぶん遅く開花した桜はやや緑混じりになりながらもまだまだ綺麗に咲き誇っており、国道下の河川敷はお花見をする人々で賑わっていた。
 「花見の人多いな」
 「お天気いいもんね」
 「まだけっこう咲いてるな」
 「この間の雨でもう散っちゃったかと思ってたけど、全然そんなことなかったね」
 母の入院中に何度も無言で通った国道を、父と私は和やかに会話をしながら通り過ぎた。桜以外にもツツジなどの花々がそこかしこを彩っており、そういった風景には人の気持ちを明るくする力があるのだろうと思った。虚な目をした母が日に日に痩せ細っていたあの頃であれば、そんな力など私には届かなかっただろうが、今は届いていることが不思議でもあった。
 納骨堂は、車で三十分ほどのところにあった。父もそろそろ運転について考えなくてはいけない年齢なので、駅からのアクセスがあまりよくないことは気掛かりではあったが、私が免許を取得すれば問題ないだろう。そういったセンスのない自分がすんなり免許を取れるとは思えないが、いつまでも父に頼るわけにもいかない。
 納骨堂の建物自体はこぢんまりとしたものだったが、十分な広さのある駐車場は青々とした木々に囲まれ、敷地内の合同墓の脇には花々が咲き誇っていた。すぐ近くに学校があるので平日にはある程度の音は届くのだろうが、休日だったこの日は、新緑に囲繞された空間には静寂が満ち、穏やかな時間が流れていた。
 建物に入ると、事前に見学の予約をしていた私たちは職員の女性から簡単な説明を受けただけで、すぐに実際の納骨檀に案内してもらえた。私たちが希望したのは四人分の骨壷が置ける家族向けのタイプで、今後四人をオーバーする場合は、指定した遺骨を合同墓に移してもらえるとのことだった。兄夫婦がどうするかはまだわからないが、もし兄夫婦も入るのなら、父と母と私は一足先に合同墓に移してもらおうなどと考えた。兄と私は年子で、義姉は私より四つ年下。年齢順にいけば兄、私、義姉となるが、かなりの痩せ型で持病もあり、運動など一切しない私はきっと、兄夫婦よりも先に母の元に逝くだろう。いや、案外私みたいなのがずるずるとしぶとく生きるのだろうか。考えても先のことはわからないが、いつかは誰もが母のいるところに逝くということは確かで、その事実だけが私の拠り所でもあった。
 家族向けの納骨檀には金色の煌びやかなタイプと白地を基調としたタイプの二種類があり、案内してくれた女性は金色のほうが人気のようなことを言っていたが、父と私は白地がいいという意見で一致した。母はあまり派手なものは好まなかったので、母も絶対に白を選ぶだろうという自信があった。
 軽く見学させてもらうだけのつもりだったが、人気のある段はもう空きがあまりないとのことだったので、私たちはちょうど目線の高さの一箇所を仮予約させてもらった。建物内には法要を行える斎場もあり、父は一周忌に納骨することを考えているようなことを案内してくれた女性に話していたが、私はそんなに焦らなくてもいいのではないかと思いながら黙ってそれを聞いていた。実際に契約するかどうかは兄とも相談しなければならないので、十日間の仮予約期間中に決めさせてもらうことにして、私たちは納骨堂を後にした。
 納骨堂は兄と私が通った高校の少し先にあったので、帰路では「よく私、こんなところまで自転車で通ってたよね」だとか、「ここの病院立て替えて綺麗になってるんだね」だとか、「お母さんがこの近くの定食屋さんが美味しいって聞いたらしくて、お父さん何回かお母さんを連れて来たんだよ」など、こんなにも悲しい別れがくることなど知らなかった頃を懐かしんだ。たわいない会話をできるほどに、母のいない日々が「日常」になっているのだと実感し、それが寂しくもあった。
 私はスーパーに立ち寄って所用を済ませ、ついでにペットボトル入りのメロンソーダとカップ入りのバニラアイスを購入した。そして足早に帰宅すると、すぐにメロンソーダをグラスに注いでバニラアイスを乗せ、それを母の供物台に置いた。母が大好きだったメロンクリームソーダ。こんな暑い日には、母はきっと飲みたがっているだろう思った。漆黒の供物台に、鮮やかなグリーンがよく映えた。
 夜になってふと、私は自分が街行く人々を嫉視しなかったことに気がついた。花見をする人たちは明るい日差しの下で眩しくこそ見えたが、彼らを眺める自分の中に嫉妬心は芽生えなかった。
 母の意識が戻ることはないと知ったあの日から、当たり前の日常を暮らしているであろう周りのすべての人々を、私は知らず知らずのうちにやっかんでいた。仲睦まじく歩く高齢のご夫婦、小さな子供を連れた幸せそうな家族、友達と笑い会う学生たち、犬を連れてジョギングをする男性、日用品を積んだ自転車を漕ぐ女性。私の目には自分たち以外の誰も彼もが幸せそうに映り、私は自分で自分を憐れまずにはいられなかった。「普通」を「普通」に過ごしている人々の世界から私たちだけが追いやられ、大きな壁の外から彼らを見ているような気分になっていた。
 だが、最近になって私は、端からそんな壁など存在しなかったのだと悟った。
 母が意識を失ってからも私は歯医者や皮膚科に通い、日用品の買い出しに出掛け、人生最大の絶望を抱えるその一方で、普段通りの日常も送っていた。そんな私と対面したりすれ違ったりした人々には、私という人間もまた、「普通」の世界に生きている「普通」の一人にしか見えなかっただろう。私が羨望の眼差しを向けていた人々の中にも、悲しみを背負いながら生きている人はたくさんいたはずだ。
 私が知らなかっただけで、この世界は悲しみに満ちていたのだ。
 四十年以上も私がその真理に触れることなく生きてこられたのは、ひとえに私が幸せだったからだろう。
 翌日の夜、父と兄が電話で会話していた。納骨堂について調べてくれていた兄は、「変なところじゃなさそうだから、そこでいいんじゃない」と言ってくれたという。私は兄の考えももっと尊重したほうがいいだろうと思っていたのだが、兄は「お父さんが決めることだから」といった風だったらしい。父はそれから数日のうちに振り込みを済ませ、近いうちに正式な契約をすることになった。
 母の眠る場所が決まったことを受けて、私は久しぶりに佐賀の伯母にメッセージを送った。その日がたまたま誕生日だったという伯母は、「Kちゃん(母のこと)より長生きしてごめんねって思いながらお寿司を食べたよ」と返してくれたので、私は「私はこれからもずっと、母の日もお母さんのお誕生日もお祝いするつもりだから、おばちゃんはお母さんに気を遣わないで大丈夫だよ」と返信した。そう、私は四月の頭にはすでに、母の日用のカーネーションのブーケを予約していたのだ。
 伯母は、「実は母の日頃に、白いカーネーションの寂しい母の日になったねって連絡するつもりだったの。でも、Kちゃんはかなちゃんの心の中にいるから大丈夫ね」と返してくれた。
 白いカーネーション。
 亡くなった母親にそれを送るという風習を知らなかっただけだが、私は四月の頭にはすでに、ピンクの華やかなブーケを予約していた。もし白いカーネーションの風習を知っていたとしても、私はきっと明るい色の花を選んでいただろう。これからもずっと、今まで通りに母の日を祝おう。そう決めていたから。
 これまでは毎年、洋服や帽子などのファッションアイテムをプレゼントしていたが、肉体という容れ物を脱ぎ捨てた母にはもうそれらは不要なので、これからは毎年、花とケーキが主体になるだろう。
 私はもう大丈夫だ。
 そう思っていた。
 この頃は。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み