文化祭の視察【先生のアノニマ 2(上)〜8】

文字数 41,952文字

 秋の盛りを【盛秋】というが、それは旧暦八月の異名でもある。が、新暦に置き換えればそれは九月から一〇月頃の事であり、今のカレンダーとはまるで合わない。シンプルに、今年の夏が長過ぎたせいだ。そんな盛秋を迎えた一一月の第一週末。世間ではようやく
 過ごしやすくなったってぇのになぁ——
 学園内の熱気は異常だった。
 週休二日が導入された世において、半ドンを貫く私立の進学校の事。土曜日の午前中である今、静粛に授業が行われている筈が、
 ——何故俺は?
 やたら愛嬌のある黒猫の着ぐるみのような物を着せられながらも、校内を哨戒させられているのか。周囲にも制服姿や私服姿の中に仮装している者達もウヨウヨ練り歩いているというのに、何故か俺だけわざとらしく指差されては、
「あれってシーマ先生?」
「着ぐるみ好きよね絶対。体育祭でも弾けてたしね」
 などと。あからさまに失笑されている。
 ——好きで着る訳ねぇだろが!
 体育祭の再来といわんばかりのこのザマはまさに、魔の文化祭だった。
 何でも毎年この時期に行われている太史学園文化祭は、一〇月末のハロウィンに近接している事もあってか仮装も認められており、好き好きな格好の仮装好きで溢れている。もっとも、やりたいヤツがやる事に異論はない。問題は、教職員が仮装させられるという訳の分からない風習がある事だった。
 これは被服部が文化祭で主催するファッションショーの絡みだ。昔は地味なもので集客力もなかったそうだが、ある時部員がハロウィンに絡めて仮装コンテストの乗りで教職員にモデルを頼んだところ、これが大当たり。以来それが継承され、文化祭前になると被服部が仮装させたい教職員とそのキャラクターを学園内で調査してはその腕を奮っている、という事で今日に至り。今の俺のザマに繋がっているという訳で。
 要するに——
 体育祭同様これもまた、教職員に対する体の良い日頃の鬱憤晴らしを兼ねているようだ。何せ多くの来場者の中で一際目立つのは、突飛で嫌味な仮装をさせられている男の教職員とくれば、腹いせ以外の何物でもない。俺以外にも先程来、蛙や熊の着ぐるみなどとすれ違うその中身はよく見ると俺と同職の哀れな男性教職員であり、やはり失笑の的にされている。
 ——ひでぇなこりゃあ。
 つまるところ俺達(男職員)など、この程度の支持しか得られない能なしの先達という訳だ。そんな中、
『正門前からSOSだ。ゴロー、向かってくれ』
 こんなイベント事では、必ず主幹教諭室(司令部)で優雅に腰を落ち着かせつつも全体を指揮している紗生子から、イヤホンに御下命が届いた。
「何です? 一体?」
 周囲の喧騒にかこつけて鼻を擦る振りをしながらも、ガジェットキーを兼ねる指サックのマイクで紗生子に尋ねると
『チケットを持ってないヤツが、中に入れろの一点張りで言う事を聞かんそうだ』
「はあ」
 との事らしい。
『拗らすようなら応援を回す。とりあえず行ってみてくれ』
「了解です」
 毎年、一一月第一週末の二日間で開催される文化祭は、体育祭より入場制限がゆるい。体育祭の時同様、在校生家族が六名まで入場可能である事に加え、卒業生、市民、本校受験を予定している小中学生とその保護者、特別招待者等々。来場有資格者の分類は多岐に及ぶ。が、昨今の物騒な世の事もあり、来場希望者は基本的に学園のホームページ上で、住所・氏名・連絡先などの人定事項を入力する事前申請が必要だ。それによりナンバリングされたチケットを印字の上持参しなくては入場出来ず、正門前でチケットの番号とリンクさせたリストバンドを事務局員から受け取り、それを手首につける事でようやく入場が許可される。体育祭の時の混乱の教訓により、この入場システムを徹底した学園事務局の奮闘もあって入場トラブルは激減。不正入場を試みる不届き者の殆どは正門前であぶり出され、すっかり落ち着いたものだった。
 また、正規入場者の悪巧み対策についても、校務の佐川先生のオートロックシステムが炸裂。渋々ながらも本社(CC本部)に頭を下げたらしい紗生子の応援要請により、極秘裏に入場配置しているCCエージェント達のお陰もあって楽々対応出来ている。のだが、全くトラブルがない訳
 ——じゃねぇかぁ。
 という事で、体育祭の時程の混乱はないものの、やはり油断は出来ない状況だというのに、早速正門前に駆けつけるとそんな密かなシリアスさなど吹き飛ばす状況というか、異様というか。
「え? シーマ先生何ですそのカッコ?」
「のら○ろ二等兵です」
 日本漫画の黎明期を支えた偉大な作品の、その栄えある主人公は大変な愛嬌を帯びたもので、俺も子供の頃学校の図書室で読んだ事があったものだ。
「着ぐるみ好きなんですか?」
「嫌いって言ったら許してもらえるんですか?」
 応援を呼んだ割に悠長な事務職員なのだが、その俺を含めた学校職員を前に、黙して居並ぶ威圧感が凄い。
「で、応援の内容は?」
「説明がいります?」
「はあ」
 相手は三人。日本が誇る世紀末漫画の金字塔【北○の拳】の仮装をしている事が一目で分かる。その
 す、凄まじい——
 までの威圧感。
 横並びの三人のうち両脇の二人は従者然としており、登場人物の誰をイメージしたのか分からないが、その世界観に代表される実に屈強そうな黒人だ。一九〇はありそうな上背に加えて厳ついサングラス。シャツがはち切れんばかりの筋肉の盛り上がり具合は、筋骨隆々たる巨漢の具現で。デニムの着衣にロングブーツのパンクスタイルが嫌に板についており、精悍この上ない。
 一方で、その中央に主らしき男は一七四の俺よりは背が高いようだが、流石に脇の二人よりは目線が一段低い。こちらは赤いシャツに濃紺のデニムを着用しており、どうやら主役ケ○シロウのつもりのようだ。身体つきは従者のようにムキムキではないが胸板はそれなりに厚く、サングラスをかけているその向こう側から滲み出る覇気というか渋さのようなものが只ならない。コスプレをしていなければ恐らくは
 ——結構な紳士なんだろーなぁ。
 という壮年の迫力にしてその異様。お陰様で、開場間もない正門前の人通りの中、俺の間抜け振りが随分と薄まったような気がする。一目で海の向こうからやって来た事が理解出来るその三人は、
「英語なのよ。私、よく分からないので——」
 という事で、そのALTたる俺の出番という事らしい。
「はあ」
 学園の英語使い(・・・・)は何も俺だけではないのだが。そもそもが教職員はおろか、生徒の多くは日常英会話に不自由しない者ばかりだ。つまりこの屈強そうな三人を前に、米軍人(俺独自)の肩書きを当てにしたのだろう。
 ——やれやれ。
「What did you do with the ticket?(チケットはどうしましたか?)」
 と、とりあえず英語で尋ねてみると、
「Je ne l'ai pas.(持っていない。)」
 真ん中のケ○シロウに仏語で返された。実に流暢な発音は
 ——フランス人だったか。
 そのネイティブを疑う余地がないレベルだ。ならば、
「Si c'est le cas, vous ne pouvez pas entrer à l'intérieur.(そういう事でしたら、中に入る事は出来ません。)」
 今度は仏語で説明する。と、
「那可不行。我是来看女儿的。(それは困る。娘に会いに来たのだ。)」
 お次は中国の普通話だ。これまた見事な発音で、
 ——何か国語を使うんだこのケ○シロウは?
 すると密かに驚く俺を悟ったのか、鼻で笑ったケ○シロウが小さく舌を出して惚けてみせた。
 ——んんっ!?
 その愛嬌といい爽やかさといい、今頃見覚えがある事に気づく。俺が使える言葉を知っていてそれを繰り出す余裕振りは、流石の一言だ。
「君も凄い格好をしたモンだが、星の数(・・・)が少な過ぎやしないかシーマ少佐? あ、そういえば今は無星(・・)のゴロー・ミナモトだったか」
 止めは日本語を繰り出すこの多言語話者(マルチリンガル)を知らない米国人がいるのか。
「髪が、違うような気が——」
「当然カツラだよ」
 俺の目の前でケ○シロウが少し髪をめくって悪戯っぽく笑ったかと思うと、
『三人まとめて理事長室にお通ししろ。理事長命だ』
 イヤホンの向こう側でぼやいた紗生子が盛大な溜息を吐いた。

 五分後。
 異様な三人組を理事長室に案内すると、黒服に身を包み長い金髪のカツラの上にロシアンハットを被った紗生子が応接の議長席(定位置)に深々と座っていた。
"メー○ル!?
「やかましい!」
 思わず叫んだ俺を含めた入室直後の四人に対し、居丈高に長い足を組んで鋭い眼光を飛ばしていた紗生子がまとめて一喝する。どうやら紗生子も、俺が校内哨戒に出た後で学園の悪習の餌食にされたらしい。それにしても、紗生子がよくそれを受け入れたものだ。
「す、すげぇ。生メー○ルだ」
 宮沢賢治の【銀河鉄道の夜】を着想に作られた宇宙物の長編冒険アニメのヒロインのそれは、まるでアニメからそのまま出て来たかのような仕上がり具合だ。マニアが見たら泣いて喜ぶだろう。俺以下仮装四人衆が口々に感嘆を上げるそんな中で、紗生子の機嫌は見るからに急降下している。
「いーから座れ!——って何だその格好は!?
「え? のら○ろ二等兵ですが——」
「ケ○シロウに決まってるだろう?」
 お前はもう死んでいる、などと、いらぬ決め台詞をつけ加えてくれた偽ケ○のせいで、
「そんな事を聞いてるんじゃない!」
 益々怒れるメー○ルだ。
「貴様ら揃いも揃ってどうなんだその形は——」
 紗生子の仮装からすれば、俺を含めた四人のチグハグな間抜け振りは文字通り異様以外の何物でもない。それでいて各々おずおずと着座するものだから、流石の紗生子も呆れ果てた様子で一瞬絶句だ。が、その前に対面して座る俺と、下座で相変わらず柔らかく掛けている理事長に促されて上座に座る三人組が異様を誇っていたのはそこまでだった。
「だいたい貴様は自分の立場が分かってるのかっ!? ミユキブラザーズがついていながら何の真似だこれは!?
 と端を発した紗生子の説教は、理知的で物静かな筈のメー○ルらしからぬ激情家振り。
「そう言う自分も似たようなモンじゃないか」
 と、完全無欠の洋顔のケ○が、見事な日本語でぼそぼそと刃向かおうものなら
「そう言う事で怒ってるんじゃない!」
 当然の如くの落雷だ。そこへ、
「ダッド!」
 ピンク色のワンピースを着た可憐な仮装をしたアンが乱入して来た。真っ赤なカツラを被っており、ピンクのバンダナをつけているそれは、劇中でケ○に憧れる少女リ○の仮装のようだ。それを目の当たりにした紗生子もそのマッチングの意味が分かるらしく、
「貴様ら絶対に示し合わせていただろう!」
 油を注がれた火炎の如く、更に怒鳴り散らす。それが理解出来るのが甚だ意外だが、流石に今の状況では口を挟む気にもなれない。
「アン! じゃなくてリ○! 大きくなったな!」
「ケー○!」
「やかましい! 聞いてるのか貴様らっ!?
 勝手に成り切り大会が始まり、紗生子の怒号もスルーされる程の賑わい振り。当然、しばらくの間室内は再会を祝う喧騒に占拠され、紗生子は盛大に顔を歪めてそっぽを向いた。いつもならこれで出て行くところだが放置出来ない事を理解しているらしく、忌々しそうに部屋の角を睨みつけている。その代わりのようなものなのか、
"もう知らん!"
 俺にメッセージを送りつけてきた。
"久し振りの再会ですから仕方ないですよ"
 と、とりあえず宥めておく。今声を張り上げたところで無駄に声を枯らすだけだ。
 アーサー・ブラッドリー・クラーク。五五歳。今春まで圧倒的な人気で米国副大統領を務めた米国政界の大物にして現野党【盟主党】の重鎮。前職時代は「大統領よりも大統領らしい副大統領」と称された実質的なリーダーで【ミスターABC】の略称は抜群の知名度を誇る。気さくな人柄で人気を博するが、仕事振りは大変シビアで勤勉実直にして大変な切れ者。加えてその男振りから【ケネディの再来】と持て囃されるナイスガイでもある。
 前職辞任後に政界を引退する筈が、地元選挙区の下院議員がそれを許さず身代わり辞任する程の頼られ振りで、結局間もなく行われたその特別選挙( 補選 )に担ぎ出されて当然当選。本人の意に反して再び泣く泣く下院議員をやらされている異色の元副大統領(VPOPUS)、とは既に取り上げ済みの話。
"こんなスチャラカだから()副大統領なんだコイツは!"
"まぁ色々思うところがおありなんでしょう"
 ()と言う場合は、通常過去にその職に就いた事がある者に対して使われ前職者も含む。が、前職者とは、単座(・・)の副大統領職にあってその時々で必ず一人だ。よって普通、元職と前職は呼び分けるものであり、ミスターABCにそれを使わないのは単に「前職者ではない」という理由からだったりする。
 副大統領時代にタカ派の型破りな大統領を支え続け、それに疲れた人気者の切れ者は文字通りキレたのだ。任期が迫り再選を目指すお騒がせ(・・・・)大統領のお守り(・・・)を誰もやりたがらず、またしても引き続きその役目を党に押しつけられると、とりあえず同職(副大統領)再選を目指して出馬。が、多忙(・・)を理由にろくに選挙活動をせず、当然の如く大統領諸共敗戦が決まると、残務処理をして任期満了約二週間前にさっさと引責辞任してみせた。それ程色々と(・・・)業を煮やしていた、という事のようだ。その現代の政治家にあるまじき権力欲の淡白さが、紗生子に言わせればスチャラカ(・・・・・)という事らしい。
 ——分かるなぁ。
 破茶滅茶な上役に仕える身の辛さは、何となく理解出来る今日この頃の俺だ。因みに、現政権に取って代わられ一下院議員に転落したにも関わらずミスターABC神話は根強く、厳然たる支持で現与党に俄かな重圧となり続けている、とはまた別の話。
"つまらんところで肩を持ってもろくな事はないぞ!"
"もう来ちゃってるモンを、今更どうしようにも出来ませんよ"
 他ならぬアンの父親にして、理事長の出自高坂家とも繋がりのある御大尽とくれば、文化祭の入場券云々で追い返せる訳もない。
 で、喧騒が収まってきたところで、
「大体貴様、下院は今頃歳出法案(予算決議案)で揉めてる頃だろうが? こんな所にいていいのか?」
 呆れ顔の紗生子が事情を確かめ始めた。年末に近づくと米国政府機関が閉鎖される事がある、その元凶と成り得る予算案の事だ。それが未決だと基本的に各機関が本当に閉鎖されるため、この場においては
「議員たるもの国家国民のため粉骨砕身するものだろう?」
 という紗生子の言う通りなのだが。
「別に議員なんてやりたくてやってる訳じゃないんだ。休みぐらいとるさ」
 なんならクビにしてもらっても全く構わない、と言って憚らないアーサーの話では、木曜日の議会終了後にワシントン・ダレス空港から飛行機に飛び乗り、日本時間の昨夜午後一〇時前に羽田に到着。そのまま空港内のホテルで一泊したらしい。金曜日の議会は休んだ、とか何とか。
「相変わらずのやる気のなさだな」
「私一人がいたところでどうにもならない事はどうにもならないんだ。いい加減、それを理解してもらわんとな」
 一般的に政治学者として分類され名を馳せる孤高の学者は、その実国家観に通じるあらゆる学問に親しみ、それ故に現世の未成熟な有様を大いに嘆く悩み多き哲学者でもある。
「【今プラトン】たるモンがそんな弱気でどうする。国の吾子()が泣くぞ」
「だから私一人で何とかなる程国家は小さくないし、独裁者に祭り上げられるのも御免被ると言っているんだ」
「毎度毎度、よくこれで選挙に勝てるモンだな」
「毎度毎度勝手に奉戴されて、いい加減うんざりしてるんだよ」
 国を語る前に己を良く知るこの異才の淡白さは有名で、選挙で全く選挙戦を展開しないという徹底振りだ。唯一やるといえば、討論会に出席して国の問題をつぶさに説明するという、実に啓蒙的手法のみ。それすらも、ちょうど良い機会だから国家の在り方に関心を持ってもらうためにしているだけ、という呆れた変人だ。再選がかかった前回の副大統領選で何もしなかった(・・・・・・・)のは何もこの時に始まった事ではなく、あの折は姿もろくに見せず雲隠れしたため健康不安説が飛び交い敗戦に繋がった訳で、もっともそれすらも本人が流したとさえ噂される程の食わせ者でもある。
「流石は【無欲の帝王】だな」
「その名は好まぬ」
 何をせずとも周囲が放置を許さず、その知名度が独り歩きするという
「じゃあ【静かなるカリスマ】か」
「今は北○の拳のケ○だ」
 とにかく二つ名に尽きない巨人である。が、
吾子(・・)は我が子だけで十分さ」
 と言い切る男は、愛妻家で子煩悩としても有名だったりする。
「夏は直接謝辞を述べる事が出来なかったからな。それもあるんだ。ハイジャック事件の折は本当にご夫妻(・・・)には救われた。改めて謝辞を述べさせていただくよ」
その形(ケ○)で言われてもな」
「そう言うな。変装の意味合いもあるんだ」
「そう言う割には、嫌に板についているな」
「変装は得意(・・)だからな」
「まさか他にもレパートリーがあるのか?」
「それは内緒だ」
 そう言いながらも、背後からじゃれつくアンと実に仲睦まじいものだ。然しもの才女も、親愛なる父の前ではまだまだ子供という事だろう。と油断して、理事長が出してくれたお茶を啜っていると
「紗生子がねぇ、ちょっと結婚したからって調子に乗ってるのよぉ」
 いきなり一番突かれたくない事を抉られ、思わず噴き出しそうになった。
「学生の本分を忘れて小官(ゴロー)を困らせるからこんな事になったんだろうが」
「なぁに言ってんのよ、私に取られそうになったから無理矢理奪ったくせに」
「マイクの前ともなれば随分とわざとらしいな?」
 紗生子のその一言で、ケ○の両脇に控える片方が小さく痙攣した、ような。
「知らないわよ。こんな意気地なしなんか」
「——らしいぞマイク? 折角のバ○トの格好だってのにな」
「そうなんですか!?
 ザコキャラか何かだと思っていたのだが。
「黄色のデニムなら、誰が見たってそうだろう?」
「詳しいですね」
 まさか漫画の世界の中まで情報(ネタ)の網を張っている、とでもいうのだろうか。素直に感嘆していると、
「面目ありません」
「んぐ」
 屈強な黒人バ○トの、まさかの流暢な日本語に、今度こそ少しむせてしまった。
「どうした?」
「い、いや、見事な日本語だなぁと思いまして」
 その外見から、極東の島国の言葉が出てくるとは。俺でなくとも普通想像出来ないだろう。
「ミユキブラザーズはこう見えて日本にもルーツがある日本通だ」
 日系三世の双子らしく、確かに完全な黒人の肌よりも少し色味が薄い。その肌色云々を問題にしない男振りは、まるでハリウッド俳優のようだ。
 ——だから?
 急転直下、機嫌を損ねたらしいアンが、今度は父の横に座るバ○トの方の首を裸絞にし始めた。が、バ○トは目立った抵抗をせず、その腕に手を添えるのみだ。憂いを帯びる精悍な顔のその頬に、どさくさ紛れのアンが唇を添わせているかのような。まるで北○の拳の役柄そのままの二人だ。同じ空間にいる事が気まずくなりそうな程の仲、とでも表現したものか。人には人それぞれの事情がある事を、改めて再認識させられる。
「そういう事はよそでやれよそで」
 それをあっさり紗生子が遠慮なく指摘してぶった切った。
「暑苦しくて敵わん」
「まあまあ、よろしいじゃありませんか」
 そこへ満を持して理事長が割って入る。
「数か月振りに再会したのですから。募る想いもございましょう」
「しかしなぁ。官邸が聞いたら驚くどころの騒ぎじゃないぞ」
 何せ時期大統領の最右翼だ。それ故のアンの警護でもあり、近い将来の対米政策を左右し兼ねない爆弾親子のその首魁。米国内では野党に転落したとはいえ、一挙手一投足に尾ひれはひれがつくような注目度の、
「何かにつけて人騒がせなヤツだってのに」
 それが、まさかの極秘来日とは。
「これでもこっそり抜けて来たつもりだ」
「その形で言う事か?」
「お互いにな」
 ——何せメー○ルとケ○だしな。
 こういうのは恥ずかしがってはダメなもので、そういう意味では見事なまでの成り切り具合というか、全く意に介していない二人だ。そんな軽口の応酬を繰り広げる二人に限らず、同室者でまともな格好をしているのは理事長だけという異様揃いというか、現状のシリアスさに徹し切れないコミカルさというか。
「官邸に報告しますの?」
 理事長のその柔らかな一言に、
「わざとらしく言ってくれるな全く」
 盛大に嘆息した紗生子ががっくり首を垂れると、トレードマークのロシアンハットで目を覆ってふてた。

 結局、紗生子と俺が専属で北○の拳(・・・・)ファミリー(・・・・・)に張りつく事になった。理事長の知り合い(・・・・)という事で【特別招待者】扱いでの入場だ。体育祭以上の入場者で盛り上がりを見せる校内は、家族に加えて市民の入場も可能なだけに、当然生徒以外の大人も多い。世界企業の高坂の街の事ならば、来場者の中にもそれなりに外国人の姿が散見されるが、
「そうは言っても、これは浮いてません?」
「仕方ないだろうが。理事長室に缶詰で納得する訳もないんだ」
 アンの友人の位置づけで張りつくワラビーに引率される北○の拳ファミリーは、明らかに目立っている。加えて、その後衛がメー○ル紗生子にのら○ろの俺というパーティーは、誰一人としてまともな格好の者がいないという真面目なふざけっ振りだ。
「精々後で盛大に見返りをふんだくってやるしかないだろう」
 前後衛の布陣は夏休みの文芸部の旅行でも経験済みであり、警護のフォーメーションに問題はないのだが、
 ——何のチンドン屋なんだか。
 好奇の目が、流石に痛い。にも関わらず時計を確かめると、何とまだ午前一〇時過ぎではないか。
 こりゃあ——
 一人で晒されるよりも痛いかも知れない。
「しかし、どうやって潜り込んだモンかあの拗らせ男は」
「え?」
「あれ程の身柄なら、空港でヒットした情報が届く筈なんだがな」
 まあ嗜み程度の手管は持っているようだ、と紗生子が苦虫を潰していると
「ねぇねぇ、フランクフルト食べてもいい?」
 満面の笑みのリ○(アン)が駆け寄って来た。その姿に自分の仮装を再認識させられると見え、瞬間で苛立つリアルメー○ルが、
「校内の屋台はチェック済みだ」
 然も煩わしげに吐く。
「何の問題もな——」
 と畳みかけると、
お客様(・・・)は流石に現金の持ち合わせが少ないからさぁ」
「ちっ」
 メー○ルらしからぬあからさまな舌打ちが飛び出した。確かにとんぼ返りするであろう御一行様が、日本円の現金など一々用意する訳もない。
「——払ってやるから好きにしろ」
「わーい、やったぁ!」
 で、間もなくすると【ア○レちゃん】のワラビーが、
「ゴチになりやす」
 とこっそりウインクをかましてくれながらも、はしゃぎつつ全員分のフランクフルトを配り回る。ワラビーは共犯(・・)ではないらしく、好きで仮装をやっているようだ。
「ったく。アイツ(蕨野)もよくやるな」
 実は二〇代という真の潜入警護員(エージェント)である蕨野(ワラビー)は、相変わらずハイティーンにしか見えない。加えてメー○ル紗生子ばりに見事なまでの仮装振りでデニムのショートオールを履き熟し、実際のキャラクターの溌剌さとは違った只ならぬ愛くるしさと色気を醸し出している。
「にしても、やれやれだな全く」
 と早速フランクフルトを口にする紗生子も、人の事を言えたものではない姿だと思うのだが。
「しかし、よくその格好をする気になられたモンですね」
「不幸にも被服部の生徒達が必死こいて作ってるのを知ってたからな。余程ひどい物でもない限り、むげに出来んだろう」
「その仕上がりなら作った子も原作者もマニアも、みんな喜ぶでしょうね」
「君の方こそひどくないかそれは? 体育祭の時もそうだったが、相変わらずナメられ過ぎだろう?」
「俺に限らず、男の職員は滅茶苦茶ですよ」
 まあそいつ(のら○ろ)は大尉まで出世するといってもだな、と呆れる紗生子が
本国(米軍)の将官が見たら嘆くぞ?」
 と失笑する。
「いや、それはないでしょ」
 むしろ余計でもバカにされるのが落ちだ。それよりも
「ホント詳しいですね」
 まさか紗生子が、その漫画の内容を知っているとは。
「子供の頃に読んだのを覚えているだけだ」
「はあ」
 それがまた、甚だ意外だ。
「サブカルに関してはアンに洗脳されたからな」
「そうなんですか?」
「私に限らず、あのひ○ぶ(・・・)御一行様もそうさ。それにしてもアイツら——」
 絶対どっかで元取ってやるからな、などとメー○ルばりに謎めいている紗生子の口から、まさか彼の有名な断末魔が出てくるとは。
 ——ホント。
 人は見かけによらないものだ。
 そんな紗生子の視線上では、何かにつけて興味をそそられているアポなしVIPが目を皿にしていた。然しもの日本通の御大尽も、学校の文化祭は初めてのようだ。その視察のようなものの全責任を負う格好でアーサー御一行様を受け入れる事にした紗生子は、それに当たって当然条件を出した。
 一つ、目立った行動を慎む事。
 一つ、理事長の知り合いの体を崩さない事。つまり来賓の扱いはしないため、秩序を乱す時は容赦なく追い出す。
 一つ、それに当たり英語のみで会話する事。これは無駄に賢しさを振りまいて、身分を察知されないためだ。アーサー(ミスターABC)は一〇を超える言語を使い熟すポリグリット(多言語使用者)で知られる。
 一つ、理事長の代理で主幹教諭(紗生子)を案内役とするので、この指示をよく聞く事。
 一つ、アンとの親子関係を表に出さない事。これが最も重要だ。仮に身分が知れようものなら、蜂の巣を突いたどころの騒ぎでは収まらない。何せ近い将来の日米関係に多大な影響を及ぼし兼ねない爆弾だ。
 ——それにしても。
 先程来、紗生子のアーサーやその御付きの者に対する言葉遣いがいつも通り過ぎて(・・・・・・・・)驚かされる。外相(高千穂)の時もそうだったが、
「よくご存じ、なんですか? やっぱり?」
「ああ。腐れ縁だ」
 と言う紗生子は、どう見てもアラサーだ。御付きの二人は今一つ年が分かりにくいため置いておくとして、主のアーサーはどう見ても紗生子より年上だろうに、それを公然と面罵するとは。
 ——この女は一体?
 我が妻ながら、本当に得体の知れない不気味さだ。
 と、そこへまたアンが愛嬌を振りまきながら近寄って来た。
「ねぇねぇ、フライドアイス——」
「一々聞きに来るな。買えばいいだろうが」
「紗生子が小面倒な条件を出してるせいじゃないの」
「一々確認しろとは言っていない。何かあれば蕨野経由で伝える」
「やったあ」
「くれぐれも羽目を外し過ぎるな!」
 と言った時には、既にまた屋台に消えている。
「楽しそうですね、クラークさん」
「まぁな。アンにとっては、今や父より大事なヤツなのさ。あのマイク(バ○ト)は」
 やはりそんな事も分かるらしい紗生子だ。
「俺に懸想してたって話は?」
「君はあくまでも二番手だったんだよ」
「はあ」
 つまりそれは日本滞在中の慰み物、
「——って事で?」
「いや、結構本気だったようだぞ。でもやっぱり一番はバ○トだったって事だ」
「じゃあ、俺を使ってバ○トさんの心中を推し量ったって事で?」
「それもあるし、実家の出方も見たかったんだろうし、何よりアン自身も推し量ってたんだろう」
 という事で、結局俺はピエロだった訳だ。
「まぁそう拗ねるな。大らかな君なら許してくれると思ったんだろう」
「拗ねてませんよ。むしろ安心したというか」
 何せ小面倒臭い家柄の娘だ。変に絡まれると、天涯孤独の代わりに得た自由な人生が失われ兼ねない。
「代わりに私が拾ってやっただろう? それで許してやれ」
「いやだから拗ねてませんって」
「分かった分かった」
 俺と二人の時は、こんな調子で軽口を叩く事が多くなった紗生子だ。が、ふらふらと一人気楽に生きてきた俺にしてみれば、例え偽装といえども妻という存在はやはり重い。それがメー○ルの仮装が似合う程の美女とくれば尚更だ。まさに今の仮装ではないが、擬人化されたドジ猫二等兵がメー○ルを娶るような、それ程の格差婚など。
「どうした?」
「え?」
「フランクフルトは嫌いか?」
 気がつくと、既にワラビーによって持ち寄られた次のフライドアイスを、俺の分まで紗生子が持ってくれていた。
「あ、すいません!」
「慌てんでいい。無理に掻き込むな」
「いえ、ぼさっとしてただけですから」
 ゴチになりやすよ、とワラビーを真似て頬張ると、
「遠慮はいらんからな」
 失笑した紗生子が、不意に漏らす。
「飛び込みのVIP対応も、こんな役得ばかりなら悪くないんだがな」
「え?」
「校内を堂々と、夫婦水入らずで練り歩けるだろう?」
「また——」
 最近の紗生子はこの手の悪ふざけが多い。ただ実情として水入らずとは言えたものではなく、逆に水は入りまくっているのだが。豪胆にして経験豊富な紗生子にしてみれば、こんな警護は物の数にも入らないのだろう。
「油断しているつもりはないが、それなりに手は尽くしている。ヤツ(アーサー)の事だ。どうせ日本側の具合(警護)の視察も兼ねてるんだろう」
「——そう、ですね」
 言われてみれば、愛娘を預けているその具合を肌で感じるまたとない機会ではある。
「盤石振りを見せつける意味合いでも、気張らず余裕で行かんとな」
「はあ」
「だから少しは協力しろ」
 とはつまり、偽装夫婦振り(バカップル)
「——見せつけるって事で?」
「まぁそう言う事だ」
 と言うなり、フランクフルトを捩じ込み終わったばかりの俺の口に、続けて紗生子が手にしていたアイスを突っ込んできた。
「んが」
「どうだ? 上手いか?」
 慣れない事で危うくその玉手を咥えそうになり、自分でも分かる程背筋が硬直してしまったところで、
「ちょっとぉ、何気に二人の世界に浸ってんじゃないわよぉ!」
 次なるフライドポテトを持って来たアンに突き上げられる。
「そう言うな。これはこれで作戦なんだ。文芸部の研修旅行の時と同じでな」
「あの時と同じなんなら、また何か不埒な事でも企んでる訳!?
「そうかも知れんな。そこんとこどうだろう、旦那様?」
「え? 俺ですか?」
 旦那様などと同意を求められても困るのだが。そこへ更に、
「新婚さんらしく、仲良さそうで安心したよ」
 B級グルメに頬を膨らませるアーサーが割って入って来た。
「我が家の恩人には、是非にも幸せになってもらいたいからな」
 それが何処まで本気か知らないが、
「我がクラーク家は、必ずや君達の功績を末代まで忘れはしない」
 もう少し待ってくれ、とだけつけ加えると、今度は焼きそばを見事な箸捌きで啜っている。そこは流石の日本通だ。
 ——って。
その格好(ケ○シロウ)で焼きそば食いながら言われてもな——」
 本国の御大尽の言う事ならば信じたいところだが、思わず苦笑した紗生子に頗る同意の俺だったりする。

 小一時間程食い歩くと、
「何処で一休みしようかなぁ」
 引率のアンとワラビーが座る所を探し始めた。歩き疲れたらしい。何せ広い校内にして屋台も多く、加えてとにかく
「人が多いですね」
 真っ直ぐ歩けない程だ。体育祭の時よりも明らかに多い気がする。で、それまで気にしていなかったコンタクト内に展開させている各種データ欄の入場者カウントを見てみると、既に一万に肉薄していた。
 ——いつの間に。
 多い筈だ。
「既に体育祭の入場数を超えてるからな」
「毎年こんな調子なんですか?」
 と紗生子に聞いたところで、紗生子も今春赴任したばかりだが、
「多い年は軽く万を超えるらしい」
 俺と違ってこの女はやはりそれを知っている。
「高校の文化祭で、ですか?」
 下手な遊園地より多いのではないか。
「今年はアンもいるからな。出歯亀の類いのせいで何割か増すんだろう」
 やれやれだ、という愚痴を聞いていると
「まぁた! いい加減にしなさいよ!」
 何割か増しの原因になりそうな、その張本人に食いつかれた。
「今度は何だ?」
「VIPの接遇を人に投げっ放しで、夫婦でイチャイチャしてもいい訳?」
「やるべき事はやってるんだ。文句を言われる筋合いはない」
 確かに、佐川先生のオートロックシステムと応援エージェントの暗躍も相まって、校内の平静は盤石だ。
「今なら一個中隊規模で襲撃されても勝てるぞ」
「こんな事言ってるし! ダッ——」
 アンともあろう者が、その存在が認定された瞬間に爆弾と化すその名詞を口走りそうになり、慌てて口を閉じる。
「構わんさ」
 それをアーサーが英語(・・)で答えた。
「紗生子の事は信用している。それに無理を言っているのは私の方だしな。——それよりあそこで腹ごなしを兼ねて一息ついてはどうかな?」
 その視線の先にあるのは、校舎内の教室を丸々一つ使った囲碁将棋部の自由対局コーナーだ。
「まぁいいだろう」
 責任者の紗生子がそれを許可すると、早速中に入った一行が目の当たりにしたのはオセロ盤だった。
「囲碁将棋部なのにぃ?」
 ワラビーが遠慮なく口に出すと、部員の一人が、
「ボードゲームに親しんでもらうためだ」
 と慇懃に答えてくれる。会場はそれなりに賑わっているようだが、流石に仮装した人間はいなかった。やはりそこは、少し地味なコーナーという事なのだろう。
「お、あそこの彼が現チャンプのようだぞ?」
 と悪戯っぽく笑んだアーサーが早速対局を始めると、あっと言う間に勝ちを攫った。で、立ち所に連戦連勝で
「何か、目立ってません?」
 気がつくと、異様な強さに人集りが出来つつあるではないか。
「あのバカが。加減を知らんのか」
 頭を使う事はやはり得意のようで、負けず嫌いらしく大人気ない強さをひけらかしては悦に浸っている。しかもその背後に水戸○門の助角コンビというか、金剛力士像の如きマッチョな二人が控えているのだ。その形が世紀末スタイルの異様とくれば、周囲が怖い物見たさで沸きに沸いてしまっていた。
「それにしても、人の心をいとも簡単に掴むところは流石ですね」
「感心してる場合か」
 と、教室の片隅で一休みしていた俺達のうち、メー○ルの方( 紗生子 )がツカツカと近寄り移動を促す。が、俄かに何やら言い争いが勃発した。ピンポイントの集音機能があるイヤホンのボリュームを上げるまでもなく、「貴様!」とか「約束が違うだろうが!」などと口汚く罵っているそれは、どう考えても客人に対するものではない。
 その(客人の)体でうろついてるってのに——
 何処までいってもやはり紗生子は紗生子だ。そんな演技など出来る筈もなく、すっかり堪忍袋の緒が弾けてしまっている。
 ——あちゃあ。
 密かに理事長に助けてもらおうと思っていると、脈絡もなく突然荒々しい手つきで紗生子に手招きされた。
「どうしました?」
「負けるまで動かんと抜かしおってなこのバカ殿様が!」
「主幹、声が大きいです」
 流石に周りが驚いている。仮にも教職員の一人の紗生子だ。部外者に対するあるまじき接遇を、生徒達の前で晒すべきではない事ぐらい理解出来る筈なのに。
「殿ではない。北○神拳伝承者だ」
「くっ! 調子に乗って訳の分からん事を抜かすなこのあ○し(・・・)が!」
「一子相伝の無敵の拳法に、負けの二文字はない」
「自分に秘孔でも突いて脳味噌が破裂寸前なんじゃないのか!?
 謀るアーサーにまんまと乗せられる紗生子は、たまに驚く程単純に見えてしまう。が、口が裂けてもそんな事を吐ける訳もなく。とりあえず、俺がとるべきスタンスは
「主幹」
 窘めるのみだ。
「ちっ!」
「ほう。旦那さんの言う事は聞くとみえる」
 どういうつもりか知らないが、
 一々まあ——
 面倒臭い事を呟いてくれる。アーサーも紗生子と同類で、地球人類の中では明らかに特別分類レベルの明晰な頭脳の保有者だというのに、だ。凡人代表として言わせてもらうならば、天才と呼ばれる人達の言う事なす事は、たまに驚く程素直で戸惑いを覚える事が少なくない。それは極限られた一面を勝手にクローズアップした大多数の凡人が、つい全てにおいて天才であると錯覚する事にも問題があるのだろう。要するにこの二人といえども、今この瞬間の自我の抑制に関していえば、少なくとも俺よりレベルが低い。只、それだけだ。
 つまり、
 ——わざわざ子供染みた口喧嘩をするんじゃねぇ。
 という事に尽きる。ぶっちゃけ、たまにアホに見えるのはそういう事だ。が、やはりそれも口が裂けても口に出来る訳もなく。
「この減らず口を必ず封じろ。上司命令だ」
「え? 俺が? ですか?」
「この場の何処に君以外の部下がいる!? 一々確かめるな!」
 俺に対する激昂は慣れているから別に良いのだが、
「まぁたやってるぅ」
「かかあ天下だよねぇ絶対」
「何かさ、もうわざとらしくない? 楽しんでやってるっていうかさぁ」
 と周囲から上がる囁きに、紗生子は耐えられないだろう。
「影に隠れてこそこそと!」
 と、その紗生子が人垣を掻き分けて根源を辿ってみると、
「——あ、バレた」
「ヤバ!?
 それがアンとワラビーだったりするものだから、また面倒臭い。
 ——こいつらホントはバカなんじゃねえのか!?
「貴様らぁ——」
 堪忍袋が弾けた後の上乗せ激昂で、流石に血管が切れそうな勢いだ。
「うわぁ待った待った!」
 いつも以上の噴火レベルに慌てた俺がその背後から手を回してその口を塞ぐと、目に見えて瞬間的に感電したかのような紗生子の身体が俄かに硬直した。
「うぐ」
 と、俺が塞ぐ手の中で、普段聞き覚えのない唸り声のようなものが一瞬漏れたかと思うと、小刻みに震え出した玉体が肩で息をし始める。
「君といる紗生子は、我々が知る彼女とは随分違っていて非常に興味深い」
 そこへまた、アーサーのアホな追撃だ。
「見せ物では——。少々人目を引き過ぎですので自重願います」
「流石の冷静さだな。真の強者はこのように一々激昂しないものだよ紗生子」
「何を——!」
 侮辱に対するレスポンスの早さも折り紙つきの紗生子を
「まあまあまあ!」
 今度は両肩を押さえつけて近場の椅子に座らせてやった。
「やはりな。旦那さんだけは食い止める事が出来るようだ。周りも関心しているぞ?」
「はあ?」
 言われて見渡してみると、確かにそう見えなくもないが。単に日本語禁止令のせいで、英語でがなり立てているためだろう。その口喧嘩を見る機会は、優秀な生徒達といえども流石に多くないと見える。それに加えて、
「この格好のせいでしょ?」
 何せ素の者が一人もいない奇天烈御一行様だ。
「まあ一局、御手合わせ願おう。紗生子が推すような男だ。腕に覚えがあるんだろう?」
「いえ、それ程ではないと思うんですが——」
「何を歯切れの悪い事を言っている。遠慮なく凹ませればいいんだ」
 いつの間にか平生を取り戻していた紗生子が、腕組み足組みで鼻息荒く発破をかけてきた。
 こりゃあ——
 また妙な事になってきた、ような。
 ——参ったな。
 実は、オセロに代表される抽象戦略ゲーム(アブストラクトゲーム)が得意だったりする俺だ。
「ほう、やるな」
「子供の頃こればっかりやってましたから」
 運の要素がなく、二人のプレイヤーが互いに知恵を絞り、実力だけを頼りに勝敗を決する。しかもルールが単純にして明快。そんなところが気に入ったというか。
「勉強が嫌いで、よく言えば情熱を傾けられる物がこれだけだった、と言いますか——」
「そうか。にしてもこれは——」
 互いにぶつくさ言っている間に一局が終わった。俺の勝利だ。
"おおぉ——"
 ——しまった。
 相手(アーサー)が結構強いものだからつい乗せられて、結構本気で打ってしまった。俄かにどよめきが起きて王冠を被せられ、【私が王様】と書かれた襷をかけられる。
「——驚いたな。この手のゲームで負けるのはいつ以来だろうか」
 ブツブツ言いながらもアーサーが大人しく席を立つと、
「先生タノモー!」
 勝手に目の前に別の生徒が座ってきた。
「いや俺は——」
「まぁいいじゃないか。少しぐらい相手をしてやれ」
 俺の隣に座っている紗生子が、途端に何故か得意気な顔をしている。さっきまでの噴火が嘘のようだ。
"要するに、た○ば共(御一行様)が目立たなければいいんだ"
た○ば(・・・)? ですか?"
"ザコの断末魔だ。知らんか?"
"そこまで詳しくは"
 それからは、間抜けな仮装以上に思わぬ事で注目の的になった俺を目当てに、人集りが出来始めた。
「マジで強過ぎるんだけど」
「バカそうなのになんで?」
「おい、誰か強いヤツ呼んでこいよ!」
 などと。気がつくと、とっくに昼も過ぎて入れ替わり立ち替わり。何局つき合わされたものか分からなくなったが、その中で懲りないアーサーが紛れ込みながらも
「手を抜くなよ」
 と言う紗生子の下知で、つい誰彼構わずコテンパンにしてしまった俺だ。しまいには、
「オセロの腕に覚えのある方! 囲碁将棋部主催のオセロコーナーで何十人も勝ち抜いているチャンピオンが待っています! 是非、ご来場ください!」
 などと、校内放送までされる始末。
「あ、あのう」
「ん? 何だ?」
 それでも飽きもせず俺の隣に座っている紗生子は、少し前までの不機嫌面が嘘のような上機嫌振りだ。
「これはこれで、ちょっと目立ち過ぎじゃありません?」
「そうか?——まぁこれぐらいで堪えてやるか」
 よしベルト返上だ、とその紗生子が宣言するなり、何かに取り憑かれたようなオセロ大会は夢から覚めるように終了した。
「終わってみれば、何やってだったんだろうね」
「何か狐に摘まれた感じだな」
 アン(リ○)アーサー(ケ○シロウ)が、腑に落ちない様子ながらもまた買い食いを再開する。
「何か、怪しくないですか?」
 また何か、企んでいるような気がする。
「そうか? まぁその時はその時さ」
 紗生子はオセロでの機嫌そのままに、鼻歌でも出そうな軽やかさだ。
「先生、少しは部にも顔を出してくださいよ」
 そこへ袖を引く者が現れた。剣道部の高千穂隆太だ。
「相変わらず変な格好させられてますね」
「やかましい」
 文化祭は中高合同で、中三の隆太も当然参加している。先月の事件(濡れ衣)の真相が明らかになった剣道部は、主将を除きお咎めなしで活動を再会していた。
「それに俺はもう顧問代行じゃない」
 問題が解消された部内は不穏な空気が解消したため、紗生子の判断で俺は早速その役目から退いている。
「真純さんは来てないのか?」
「いきなりは無理でしょ? そんなの」
 高校にも行かず、高一の年で司法試験を突破したその鬼才は、早速この一一月から司法修習に入っている。剣道部OBでもあるため、余裕がある時には指導を依頼していたのだが、
「まぁそうか」
 隆太の言う通りだ。
「で、何やってんだ? 剣道部の文化祭は?」
「腕相撲ですよ?」
「文化祭でか?」
「ええ」
 あ、呼ばれたんで、と近くにある剣道部のブースに足取り軽く戻って行く隆太の後ろ姿に、以前の陰険さは皆無だった。
「随分と懐かれたじゃないか」
「相変わらずナメられてるだけですよ」
あの親(ボンクラ大臣)を持つ子にしては、まともな事を口にするようになったと思ってな」
「それは、そうですね」
 出自由来の陰険さに加えて理解されない事に対する僻みが、風体を著しく損ねていただけなのだ。
「あの年なら取り戻すのも早いですね」
「やはり君に任せて正解だった」
「はい?」
「真純の異母弟の事だしな」
 そしてそれは、
「そのフィアンセ(理事長)の懸念でもあったんだ」
 それを俺に任せた紗生子の思惑は、今となっては単なる裏づけではなかったように聞こえる。
 と、何かに浸っているうちに、
「いででででっ!」
 隆太本人の悲鳴が聞こえてきた。
「ありゃ?」
 混雑を縫ってその声の元に寄ってみると、バ○トの片割れのもう一人が腕相撲で隆太を打ち負かしている。中三ながら既に一八〇超にして校内有数の巨漢でもある隆太は、何でも文化祭開幕後から昼下がりの今の今までチャンピオンの座を守り続け、中々の剛力振りを披露していたそうだったが、
「王座陥落か?」
「流石にこりゃないよ」
 猛者を具現化したような御付きの片割れにしてみれば、赤子の手を捻るようなものだろう。
「HAHAHA!」
 当然それからしばらくは、得意気な片割れ(・・・)の王座が続いた。
 ——それにしても。
 嫌に爆弾親子が大人しいような気がしてならない。腕相撲で一緒に盛り上がっているのは分かるが、何処か
「素直過ぎやしませんかね?」
「何だ?」
「いや、だから——」
 昼前後から上機嫌の紗生子は、気のせいか会場の熱に飲まれているような注意散漫というか。かと思うと、
「ねーねー、隣でeスポーツ部がゲームの催し物やってるよ?」
 と言うアンの示唆で、人気を博している戦闘機シミュレーションゲームのコーナーに連れ込まれそうになった瞬間、
「ここはダメだ!」
 突然、目をひん剥いて覚醒してみたり。
「ここの部長がドッグファイトで無敵らしくてさぁ。これがまた鼻につく嫌なヤツなのよねぇ」
 シーマ先生なら得意かなと思って、などと迫るアンにも、
「やっぱし、企業秘密?」
「当然だろうが!」
 さっきまでの上機嫌は何処へ行ったものか。実ににべもない。が、紗生子がダメでも周りが放っておく訳もなく、
「あっ!? 本職が来た!」
 などと声が上がり始めると、後に引けなくなってしまった。
「何だ? 身分がバレてるのか?」
 それを訝しんだアーサーが、小声でそれとなく俺に尋ねてくる。
「実はアメリカ側の要員は、軍人だとバレてまして」
「そういえば君は三人目だったな」
「ええ」
「紗生子の我儘の弊害だな」
「米側がヘタレばかり送り込んでくるからこんな事になったんだろうが!?
 周囲の喧騒の中で密かに交わしている会話に割り込んでくる紗生子は流石だが、何故かまた既に頭が煮えており。
 ——ひそひそ話の意味がねぇ。
「そもそもが、君がいつも生徒達にナメられまくるのがいけないんだ!」
 いつの間にか、何故か全て俺のせいになってしまっている。
「『米軍人は脳筋だから大した事ない』ってバカにしたバカがいてね」
 と言うアンも、挑発されて鼻息が荒い。
「それはいただけんな」
「私は平気ですが」
「流石は真の強者だな。無駄な喧嘩を買わないところは流石だが——」
「やっぱし許せないよねぇ、あからさまにバカにされると」
「まぁ私達に代わって君の妻が買ってくれるらしいぞ」
「え?」
 言われて見ると、早速紗生子が3Dゴーグルをつけていた。
「主幹!?
 慌てて近づくといきなり耳を引っ張られ、
「仮にも米国の賓客(アン)を預かる学校だ。例え一生徒の戯言とはいえ、ここでのノーリアクションは日本側の姿勢が疑われ兼ねん。下手をすれば国際問題だ」
「そんなモンですか?」
 捲し立てられたその声が耳の奥まで突き刺さって痛い。
 それをいうなら——
 紗生子がアーサー主従にやっている事こそ、一発で国際問題になるような気がするのだが。紗生子の中ではそれは問題外らしい。
「そもそも私に絡む人間の中傷は私がバカにされたも同じだ! これが我慢出来るか!」
 とはいえ、
「君のスキルは安易にひけらかせないだろう」
 だから紗生子が代行で相手になる、とまあ見事に担ぎ出された格好だった。
 ——やれやれ。
 結局、いつも決まって制御が利かなくなるのは、俺なんかより遥かに頭が良くて理知的である筈の紗生子の方だ。
"警護に抜かりはない。周りは気にするな。双子もいる。それよりも今はこのゲームをとっちめるぞ!"
 例によって器用にもメッセージを送りつけてくるそれによると、
"コンタクトを共有するから映像を見て、後は君が操作しろ!"
 と言う事だ。
 ——操作?
 映像は共有出来ても操作はやりようが、と思っていると
"密かにゲームのジョイスティックを私のスマホとシンクロさせた。これを使え"
 と、紗生子のスマートフォンを手渡された。
「そんな事が出来るんですか?」
 見ると、スマートフォンの画面に黎明期のゲーム機のコントローラーを彷彿とさせる十字キーやボタンが表示されている。これで操作するようだが、平べったくて感覚が伝わってこない。
「何ですか? このファ○コンみたいなのは?」
「いいからやれ!」
 小声で怒鳴られた後は、然も煩わしげに手で退けられた。
 ——この言い種。
 で、こそこそお遣いに行くような格好で、一人密かに近場のトイレのボックス席に潜り込んで戦闘態勢に入る。
 ——それにしてもなぁ。
 ゲームなどいつ以来だ。勿論飛行シミュレーターの操作経験がない事はないが、それは基本的に正規パイロット育成ための設備だ。俺のような特殊な(・・・)テストパイロットなどは、育てる必要も大事する必要もなければ注ぎ込んだ金の分だけこき使わなくては損なのだから、シミュレーターなどまるで縁遠い存在だったのだが。それが、
 ——こんなのっぺらぼうのコントローラーでかよ。
 実際に対戦するのはプライドの固まりのような紗生子であるからして、無様な事は出来ない。
「機種はどうしますか?」
"君が操縦するんだ。全部任せる"
 一対一のドックファイトであり、紗生子は素人と認識されているだろうから、
「じゃあ無難にラプター(F-22)にしときますか」
 紗生子は人前でありメッセージだが、俺は一人だしマイク経由でやり取りする。もっとも実際に操作するのは俺だし、紗生子はその振りをするだけてよいのだから、そのぐらいでちょうどよい。
"相手はユーロタイフーンだな"
 とくれば、普通に考えて負けはないだろう。単純にどれを取っても、一回り凄いのが前者だ。後者は仏軍時代、馴染みのあった機体で懐かしくもあり、ゲームがリアルであればある程、実機のスペックに近ければ近い程俺に有利だ。
"ナメられてないか? これは?"
「そうとも限りませんよ」
 地上マップや気象条件によりけりだ。実戦で絶対的優勢など神話に過ぎない。
"それは実戦の話だろうが"
「まぁそうですが、最近のゲームは中々良く出来てるようなので」
 三次元的な重力と気配を気にする必要がない分、機体性能の差が物を言うだろう。もっとも二次元世界では気にする必要がないステータスの中にこそ俺の持ち味があり、それが活かせないのは実は辛いのだが。
 で、実際にやってみると、
 ——そ、操作しづれぇ!
 何という一体感のなさだ。
"おい撃墜王、大丈夫か!?
「やっぱり立体感のないファ○コンのコントローラーじゃあ難しいですよ!」
 せめてゲーム用のジョイスティックがあればよいのだが、それは操作している事になっている紗生子の手元にある。
「三次元と二次元はやっぱり——」
"つべこべ言ってる場合か!? 私が撃墜される事になるんだぞ!? 負けは許されん!"
「俺はこう言うのはどうもダメのようですね」
"冷静に分析してる場合か!"
 機械との相性は悪くない方だが、仮想世界には馴染みがない分まるで感覚が掴めない。その事に思い至って今更ながら、自分のスキルは根拠に乏しいあやふやな感覚に頼っていた事を思い知らされた。
 でも——
 二機の事は良く知っている。マップは起伏が大きく気象条件は雷雨。つまりは障害物だらけ。渓谷とゴツい雲の下に挟まれた辺りに気配を感じる。そこはレーダーの守備範囲外だが、ゲームとはいえ索敵の感覚は湧くらしい。特に相手が人間ならば、やはり基本的に場数の多さが物をいう
 ——らしいな。
 それに基づいた予測と検証。その正誤をもって次なる予測と検証の展開。ひたすらその繰り返し。それが熟れてくると、驚くべき早さと精度を誇る勘となる。熟練パイロットともなるとその瞬発力は、呆れる程の手筋を読むAIを上回る事すらあるのだから、人間というのは失敗も多いくせして本当に分からないものだ。
"うわっ!? やられた!"
 紗生子のマイク越しに、相手だったeスポーツ部長の叫声が聞こえてきた。レーダーにも写り込むような積乱雲と渓谷の間で潜んでいるところを、その直上から急降下。積乱雲の中を突っ切ってバルカン砲で撃墜してやったのだ。
"主幹先生やるぅ——"
 感嘆が漏れる中で、
「すいません、少しはしゃぎ過ぎました」
 現代戦ではドッグファイトなど殆どないし、バルカン砲で撃墜などとプロペラ機時代の空戦だ。普通やらないし、そうした状況は最早有り得ないと言っても過言ではない。
"意外に古風だな君は"
 素人の紗生子も、その意味は分かるらしい。
「まぁゲームの世界って事で——」
 許してもらうとしよう。何せ負けず嫌いの紗生子のためだ。不機嫌になられるよりは絶対良い。
 で、早速王座を奪った紗生子(・・・)は、その後も操作に慣れた俺の技で連戦連勝し、
"さっきのオセロみたいだな!"
 またもや有頂天に成り上がった。
 オセロだろうと、ゲームのドッグファイトだろうと、何であろうと。対戦型の勝負の世界の真髄は、似たり寄ったりなのだ。読み合い、化かし合い、騙し合い。勝負事の綾は、とどのつまりそんなところに行きつく。もっとも紗生子の言わんとするところは、勝ちが続いていい気分になっている事にウエイトが偏っているのだろうが。
 大体が俺が直にやっても——
 軍事機密に触れるも何もなかったのだ。そもそもがゲームでそれに触れるといえば、機体スペックや実戦に紐つきそうな通信や機動(マニューバ)であって、既に製作段階で盛り込まれている事だ。仮に米軍パイロットとしての俺の操縦レベルが拡散したとしても、それはゲーム上の事だ。ゲームと実機の違いは、そうはいってもまだまだ大きいし到底鵜呑みに出来るものでもなければ、それが即国防に影響する訳もなく。それこそ精々一軍人の名誉を左右程度の事であり、俺としては別に構わなかったのだが。それを何故か当の本人を差し置いて、紗生子や爆弾父娘(・・・・)が大袈裟にいきり立っただけの事だ。正規兵と違って誇りや名誉などに頓着しない俺には、今一つ理解出来ないのだが。それとも鈍い俺には分からない、深い意図でもあったのだろうか。
 ——の割には。
 紗生子はまた上機嫌の得意気で、
「これは本気でパイロットでもやっていけるかも知れんな」
 などと軽口を抜かす始末で、とても深い思慮が存在していたようには思えない。こういう時こそ足元を掬われやすいのは、古今東西の例を上げれば切りがないというのに、だ。
 ——ん?
 まさにそんな絶頂期の紗生子の目に、突然数人の女子の姿が映り込む。
"あっ! 発見発見!"
"主幹先生! 時間ですよ!"
"早く早く!"
 俺の予感を裏づけるかのように、その徒党が急かしながらも紗生子のゴーグルを引っぺがすと、
"な、何だ? こら、引っ張るな! 待て!? 何処へ連れて行く!?
 瞬く間に状況一変。見事に何処ぞへ連行され始め、コンタクトの共有も切れてしまった。
「しゅ、主幹!?
 慌ててeスポーツ部の会場に戻ると
「大丈夫大丈夫。あ、流石にゲームも凄かったねえ先生」
 事情を知るアンが、リ○にしては随分と悪びれた顔つきで迎えてくれる。
「行き先は講堂のファッションショーだから」
「ファッションショー?」
 普段は地味な被服部が、胸を張って主催するらしい文化祭指折りのイベントが、まさかこんな絡み方をしてくるとは。
「事実上の仮装コンテストらしいけどね。舞台上で紗生子が何を見せてくれるか楽しみだわ」
 と毒づくアンの狙いはどうやら
 これだったか——
 のようだ。
 外見を度外視した出鱈目な強さを誇る紗生子だが、素人には常に一定程度の温情を持って接するのは毎度の事。それが自分の学校の善良な生徒が相手とあっては、流石の豪腕も尚更鳴りを潜めるというものだ。メー○ルの格好を受け入れたそれこそがその証左であり、有頂天のところへつけ込まれた罠。
「じゃあ我々も行こうか」
 満を持して首魁らしきアーサーが移動を口にすると、隣の剣道部ブースでバッタバッタと並み居るそれこそ豪腕を薙ぎ倒しては王座を不動のものにしていた片割れ(・・・)が、いとも簡単にベルトを返上した。
"講堂にいる。君も出場者らしいぞ"
 移動中に紗生子からメッセージが届く。
"みんなで向かってます"
"アンのヤツ、やってくれたな"
 やはり俺の耳目(・・・・)を見聞きしている紗生子は、もうそれを掴んでいる。
 だから言ったのに——
 とは言わない。形振り構わず本気になれば紗生子に覆せない状況などないのだから、それを甘んじて受け入れるこれもまた温情なのだろう。
"何を企んでくれたモンだろうな"
 耳の奥で凛とした美声が、嘆息混じりにボヤいた。

 講堂に入ると、まず人の多さに驚いた。学生レベルのファッションショーだと侮っていたのだが、驚いた事に全校生徒約二〇〇〇人がすっぽり入って余りある堂内の席が殆ど埋まっている。
「お、多いですね」
 それを舞台袖からこっそり覗き見ながらも、ゲームの時に借りていたスマートフォンを紗生子に返すと、
「初日のハイライトだそうだからな」
 嘆息するその持ち主が胸元を少し開いて、何とその悩ましい谷間に挟み込むようにそれを納めた。
「そ、そんな所に挟んでたんですか?」
 ゲームの時、散々それを触っていた俺だ。今更ながらに妙な想像にかられてしまう。
「仕方ないだろう? この服(メー○ル)のポケットに納める訳にもいかんしな」
 エージェントのスマートフォンはCCのOSがインストールされた機密の固まりだ。例え紛失しても他人がそれを開く事は不可能に近いが、だからといって軽く扱ってよい物ではない。となれば文字通り、
「肌身離さず持つ外なかろう」
「それはそうですが——」
 かくいう俺の仮装の服(のら○ろ)にもポケットがあるものの、やはりそれは信用出来ず、リストバンド型スマートフォンホルダーで腕に携帯している俺だ。が、
 ——わざとらしいな。
 紗生子の事だ。まるでこうなる事を目論んでいたような気がしないでもない。
「何だ? 不満か?」
 その何処か惚けた策士も、ファッションショーに駆り出されるとは思っていなかったようだが。
 ——しっかし。
 人に振り回される紗生子というのも珍しい。
「まさか本戦に残るとはな」
「本戦?」
 何でも在校生や教職員に加え、来場者全員が学園の文化祭特設サイトに開設されているファッションショーの予選コーナーで、エントリー済みの出場者に対して清き一票を投じる権利を持っているとかで、
「紗生子ダントツだったんだから、そりゃあ逃げらんないよねぇ」
 同じく本戦に残ったアンが紗生子に絡んできた。
「何の悪巧みか知らんが大概にしろ」
「私は何もしてないって! したのは投票した人よ」
 その論法だと、俺が本戦に出場させられる事こそ明らかに赤っ恥を掻かせようとする陰謀だろう。この舞台に立たされる程の票数の悪意というヤツだ。
「しかし、俺達二人共こんな所にいていいモンですかね?」
「本来の警護対象が舞台に上がるんだ。不本意な気もするがちょうどいいのも確かだろう」
 確かに、本戦出場者なら袖にいる大義が立つ。それによりアーサー主従の周囲が手薄にはなるが、そもそもがあの一行は雰囲気からして素人ではないのだ。特に、
「あの両脇の二人を欺いて害を成せるヤツなど中々いるモンじゃないさ」
「まぁあの見た目ですしね」
「それ以上にやるんだこれが」
 そうした臭いをあえて隠そうとしない二人ではある。
「それにここまでされて逃げ出したら、後で何を言われるか分からんからな」
 何よりも、そうした矜持を重んじる紗生子だ。
「こうなったら同じ土俵に上がってやろうじゃないか」
「それは楽しみぃ。久々に紗生子の泣きっ面が拝めるかも」
 と妙な自信をひけらかすアンだが、
 ——そんな面した事あんのかよ?
 拝めるものなら是非にも拝んでみたいものだ。
諜報部員(エージェント)を甘く見ない事だ」
「そんな事言って。その化けの皮を引っぺがされても知らないよぉ?」
 と言っているうちにショーは開幕していて、何番手だか知らないがアンが呼ばれた。出場順は公平を期してランダムらしく、審査員が都度クジを引いて決めているようだ。
「何を見せてくれるんだろうな?」
 持ち時間は観客の受け具合を見た進行役や審査員の匙加減で、出場者は舞台上で何をやっても良いという突き放しっ振り。
「この観客を前に、出て行くだけでも大したモンでしょ?」
「普通の子ならな」
 あれ(アン)は普通じゃないぞ、と鼻で笑えたのはそこまでで、アンが舞台に踊り出るなり突然それまでかかっていたポップ調のバックミュージックが止まると同時に照明が落ちた。
「あっ!?
 オートロックシステムに目立った変化はないが、まさか襲撃か。と思ったのも束の間、舞台にスポットライトが当たり始め。
「演出、ですか——って、あれぇ?」
「何やってんだアイツらはぁ——!?
 思わず絶叫する紗生子の視線の先には、アンに加えていつの間にか問題の主従三人がいるではないか。それと同時に大音量のハードロック調の曲が会場内に轟き出した。そのイントロだけで、なつアニ(・・・・)ソングとしてその名を轟かす北○の拳のテーマソングのそれと分かる。その煮える油のような舞台上の高揚感に吸い寄せられ注がれる会場内の熱気。
「あのへ○べ(・・・)共がぁ——!」
 お馴染みの断末魔と共にブチ切れた紗生子が、早速反射で舞台上に殴り込もうとする。
「いけません!」
 そこを何とかギリギリで食い止めた。今出ては、沸騰する会場内に文字通り水を差す。それが出来る紗生子ではあるが、それは絶対に支持を集めない。
「今はダメです!」
 慌てた俺は矢継ぎ早に二の腕三の腕を繰り出し、
「放せ!」
 猫のような柔軟さと俊敏さで尚も荒ぶって飛び出そうとするメー○ルを、薄暗い舞台袖で文字通り闇雲にその背後から食い止めるしかなかった。そのどさくさで、顔が柔らかくも弾力に富む丸い物に覆われたかと思うと、
「な——!?
 聞き慣れない素声のようなものを吐いて絶句する紗生子が急停止する。
 ——ん!?
 その美尻に顔が埋まった事に気づき、硬直した一瞬後、
「すいま——!」
"バチーン!"
 反射的に謝罪を吐いたが後の祭り。容赦なき凄絶の一撃が頬を襲ったのと同時に、
"きゃあ!"
 と、袖にいる関係者の一部が叫声を上げる事態となった。が、
「ユゥわっ○ョーックゥ!」
 歌い出し早々のスプラッシュサウンドに見事に掻き消され、当然舞台上の沸騰は収まらない。まさにその歌詞が被る状況下に我ながら失笑が込み上げてきたが、一兵卒としてそれなりに鍛えてきた筈の首が本気で痛くなる程頭を捩じられ、その分だけ脳が揺さぶられたのか気が遠くなる。
「だ、大丈夫かゴロー!?
 それでも只ならぬ喧騒の中で紗生子は我に返ったらしく、ぶたれたばかりの俺は、珍しく慌てるその声と腕に身体を包まれた。
「だ、大丈夫です」
 とはいえ、打たれ慣れている俺の意識が一瞬なりとも混濁する程の威力のその凶悪さは、平手打ちだというのに口と鼻から血の味がする。
「すまん、ついだつい。許せ」
 やはり鼻血が出ているらしく、
「誰かティッシュをくれ」
 と、早速それを受け取った紗生子がてきぱきと、鼻にそれを詰めてくれた。
「ええ。流石です」
 それにしても、数々の悪党を仕留めてきたビンタの凄まじさを思わぬ所で体験させられたものだ。上っ面で悪びれ、ろくに鍛えていないザコキャラなら一撃で失神するのもうなずける。
「関節技はどうした? 得意だろうが?」
「ぶん投げられて止められませんよ」
 それ程の突進力だからこそ、苦し紛れに下半身にしがみつくしかなかったのだ。文字通り、紗生子を止めるのは命がけだ。
「止めてくれるのはいいが、余り妙な止め方をすると仕留め兼ねんからな」
 それを理解しているのなら少しは遠慮して欲しいものだが、条件反射なのだろう。冗談に聞こえないから恐ろしい。
「分かってます」
 尻を嗅いで殺されたとあっては、流石に情けな過ぎて
 ——死んでも死に切れねぇ。
 尻の丸みも、抱えてくれた腕の柔らかさも、脳を酔わす良い匂いも。軽い脳震盪のせいで既に記憶外だ。
「それにしてもアイツらまんまと——」
 気がつくと、袖のドタバタの間にアンの出番は終わっていた。
「歌、上手かったですね」
「関心してる場合か。さっさとあれを上書きせんとマズい」
 とはいえ、高低のパートを親子で上手く歌い分け、しかも声自体も良かったのだ。
「あれは絶対、練習してましたよ」
「だろうな」
 従者の二人は歌わない代わりに上着を脱いでボディービルダーの真似事か、肉体美を披露しては会場を更に盛り上げていた。
「忌々しいヤツらだ全く」
 好き放題しおって、と歯噛みしながら悔しがる紗生子のその名前が、熱狂冷めやらぬ会場内で唐突に呼ばれる。一難去ってまた一難で、次は紗生子の出番だ。
「うわ! 呼ばれましたよ!?
「ちょうどいい。上書きしてやる!」
 慌てる様子を見せるどころか、逆にやる気になっているところは如何にも紗生子らしい。が、
「何やるんです?」
「【目には目を】だ」
 鼻で笑ってみせた紗生子が早速何人かの使役要員(スタッフ)の生徒達に指示を出したかと思うと、袖に収められていたグランドピアノを舞台上に引っ張り出させた。合わせてマイクの高さを調整すると、矢継ぎ早に指慣らしを始める。
 へぇ——。
 その見事なまでの軽やかさと透明感は、メー○ルの仮装も相まって瞬く間に会場を飲み込んだ。
「うわぁ、主幹先生ってピアノも弾けんの!?
「しかもチョー上手くない!? あれ!?
 袖の出場者やスタッフ達も瞬殺だ。
 ——歯には歯をか。
 ピアノの事はよく分からないが、雰囲気を持っている事は間違いない。何も言わずバックミュージックを黙らせた紗生子は、やはり何も言わず、そのまま静かに弾き語りを始めた。しっとりとした曲調に合わせて優しい英語の歌詞で歌い出したのは、大工の職業名を苗字に持っていた兄妹デュオの大ヒット曲だ。
「みんなあなたの傍にいたいのね」
 と艶っぽく歌うのが、謎めいた絶世の美女(メー○ル)とあっては、これにときめかないヤツがいるのなら連れて来いと言わんばかりで。
「うわっ!? 歌もチョー上手い——」
 袖の一人がそう呟いた後は、もう誰も口を開かなくなった。原曲の曲調は素朴な印象だが、紗生子のピアノはどうやらクラシック仕込みなのか、手指の動きに導かれる音の多さと統一感が尋常ではない。ピアノのだけでも雰囲気を作って余りあるというのに、その壮大なピアノに合わせて口ずさむ英語の見事さといい歌唱力といい、出鱈目にも程がある。
 四分前後のその曲が終わる頃には、間抜けな全身着ぐるみで確かめようがない俺の腕に鳥肌が立っているのが分かった。物音一つしない静寂の中、力感なく立ち上がった紗生子が正面を向いて軽く膝折礼(カーテシー)を決めたところで、
"うおおおおおぉ——っ!"
 我に返ったように堰を切った万雷の拍手が起こる。当然、すぐにアンコールが起き始めた。そんな中を悠然と、紗生子が袖に戻って来る。
「主幹! アンコールですよ!」
「冗談じゃない。私のは見せモンじゃないんだ。それに出場者としての義理も上書きも果たしたぞ」
 確かに、仮装の出来映えといいデモンストレーションといい完璧だったのだ。それは分かる。が、
「アンコールに応えないのは失礼でしょう!?
「それはプロの話だ。私は金を貰ってやってる訳じゃない。もう十分だろ」
 そんなに言うんなら同じ趣向で君がやればいい、と手を掴まれると、まさかのそのまま舞台上に引きずり出された俺だ。その途端に、アンコールの中で失笑が混ざり始める。
「ここでちょっと待ってろ」
「ウソでしょ!?
 良くも悪くも騒然とする会場内で、紗生子がそのまま進行役の生徒の所へ逃げたかと思うと、何事か話し始めた。今や一挙手一投足が注目される紗生子のお陰で舞台上に取り残されている俺のプレッシャーは意外に軽くて済むが、それにしても舞台上のど真ん中で、
 この形(のら○ろ)で待てとか——
 中々の無茶振りだ。
 すると少しして何処から持ち出したのか知らないが、クラシックギターを片手に持った紗生子がまた舞台上の哀れな男の所に戻って来て、
「ほら、これでいいだろう?」
 と言った。
「はあ?」
「——じゃあるか。まさか笑われたまま終わるつもりじゃないだろうな?」
「え? 俺の番なんですか? もう?」
「そういう事になったんだ」
「何でまた——」
 よりによって盛り上がった紗生子の直後で。しかもこんな格好(のら○ろルック)で晒し者にならなくてはならないのだ。
「主幹先生のアンコールですが、ご本人のご意向により、代わりにシーマ先生の出番に返させていただく事になりましたので——」
 雑然とした中で押しつけがましい進行役のアナウンスが耳に入ると、紗生子が更にギターを押しつけてきた。
「場は暖めておいたからな。後は君が止めを刺せ」
「止めと言われても——」
 俺のギターも見せ物ではないというのに。
「いいか、私のアンコールの代わりだからな。恥を掻かすなよ?」
 で、言いたい事を言うと俺の鼻に詰めていたティッシュを勝手に抜き取り、そのまま舞台袖にすっ込んでしまった。
 ——あ、そーか。
 そのせいもあって笑われていた事に今更気づく鈍さには、我ながら呆れる外なしだ。それにしても、ギターなど久し振りだというのに。オセロの事といいギターの事といい、何処まで俺の事を
 ——知ってんのかなぁ。
 恐らく何もかも知っているのだろう。
 自分の黒歴史のようなものを魔女に握られている事を思うと、目の前の観衆など物の数ではなく芋や砂利と同じだ。自分で言うのも何だが、俺は人嫌いだが人前が苦手な訳ではない。上せるのは只ならぬ女に迫られる時だけだ。
 とはいえ——
 久し振りの手並みで手指が動くのか。指慣らしに引いてみると、使い込まれた見た目の割に弦は伸びておらず、調弦具合も悪くない。音楽室の備品なのだろう。それに合わせて俺の指も、意外に動いてくれる。
 ——まあまあいけるか。
 一人黙々と慣らしていると、いつの間にか目の前の観衆(芋砂利共)の失笑が萎みつつあった。
 ——ん?
 これは思わぬ汚名挽回の機会のようだ。と言っても、何を弾くか思い浮かばない。
 ——同じ趣向ねぇ。
 紗生子は「傍にいたい」と歌っていた。そりゃあ紗生子のような女がメー○ルの艶かしさで歌えば盛り上がるだろう。そのアンコールなら、似たような歌はないものか。
 ——あれがあったか。
 時代を超えて語り継がれる映画の名曲が思い浮かぶのに、然程時間はかからなかった。四人の少年が線路づたいに【死体探し】の旅に出るひと夏の冒険から様々な葛藤と絆を描いた名作は、奇しくも俺と同年代だ。大工兄妹の名曲も受けたのなら、偉大なソウルシンガーのこの曲も受けるだろう。しかもギターで弾き語る事が出来るそれは、演奏レベルも然程高くない。
 で、久し振りでも意外に指が動くので、紗生子と同じく原曲に肉をつけて深み増量バージョンで弾き始めると、歌い出す頃には袖の方から手拍子が聞こえ始めた。ちら見すると、紗生子(メー○ル)が何故か得意気にリズムを取っている。それに合わせて、観衆の中からも手拍子の厚みが増すと雑音は全く聞こえなくなった。
「僕の傍にいてくれよ」
 英語のその名節は何処かしら切なげでメッセージ性が高く、歌詞自体の内容も良い事から歌っている俺自身、身体の芯が痺れている。
 これって——
 許されるのなら、授業でやっても良いかも知れない。言語を学ぶ上で、歌はきっかけの一つに成り得る良いツールだ。
 中盤に差しかかると手拍子の中に追随する声が聞こえて来て、終盤には殆ど全員合唱状態になってしまった。満を持して締めてやると、拍手万雷だ。
 ——やってやったわ!
 つい得意気に、片手を突き上げてやった。俺はこれでもギター暦は二〇年を超えているし、歌手程じゃないにしろ、歌もそれなりに歌えない事はないのだ。拍手の中に、
「そんな格好のくせにカッコいい!」
 と聞こえてくる声の、何と耳障りの良い事か。
 ——余は満足じゃ。
 そのまま舞台袖に引き上げると、紗生子が率先して
「アンコール!」
 の大合唱を唆している。
出場者(袖の人間)があおってどうするんですか!?
「客も呼んでるぞ?」
「うわぁ」
 紗生子の時同様に、異様な盛り上がりだ。
「これは落とし前をつけんと堪えてもらえそうにないんじゃないか?」
「俺だってプロじゃないんですけどね!」
「ALT冥利に尽きるだろう? ネイティブイングリッシュでしかも歌が上手いんだ。そりゃあみんな聞きたいさ」
 完全に上書きして来いよ、と結局また紗生子に突き出され、舞台上に戻されてしまった。
 ——参ったなぁこりゃあ。
 アンコールの大合唱と共に轟く手拍子。とくれば、
 ——あ、あれか。
 ちょうど紗生子が使ったグランドピアノがまだ出たままだ。
 ——ちょっと叩かせてもらうからな。
 俺はその屋根をまずは撫でてやって、続いて二拍打った。最後に追加で手拍子を一拍。これを何度か繰り返していると、理解した観衆がそれを真似始める。やはり往年のハードロックバンドだが、欧米に馴染みがある人間ならそれを知らないのは少数派だろう。そのヒットチャートの三本指に入る名曲。
「おい! 騒いでいる少年よ!」
 で始まるその曲は、まさに今の観衆そのもので、我ながら上手い事を思いついたものだ。
「さあ歌え! 俺達はやってやるぜ!」
 熱狂した会場内はまたしても大合唱が起こった。が、今度のそれはバンドの奇抜さ故か、やや野卑た悪乗り感が強かったせいもあり、近隣から騒音に関する問い合わせがあった、とは後で聞かされた話だ。

「全く、ご夫婦(・・・)にはやられたわ」
 初日終了後、理事長の許可を得て特別にお客様(・・・)を居室へ招いたアンが、リビングで晩飯を突きながら何度目かの愚痴を吐いた。その席に当然同席している紗生子に加えて、今日は俺も連れ込まれている。女子寮最上階のアンの特別室を訪ねるのは、猿の文吉が賑わしていた夏以来だ。
「やかましい。さっきから何とかの一つ覚えだな」
 と言う紗生子は俺の横に座っていて、
「急に三人分(・・・)の晩飯を追加で作らされる事になった者に対する労いの一つも言えんとは。親の躾がなってないんじゃないのか?」
 と言うその親を含めた件の三人は、紗生子と俺の前のテーブル向こうの椅子の上で揃いも揃って正座をさせられ息を凝らしている。
「主幹、正座はそろそろよいのでは——」
「ダメだ。この三バカトリオのせいで、危うく身分がバレて大騒動になるところだったんだぞ」
 私があそこで一芸を講じてなかったらどうなっていたか、というその機転というか底力のようなもので、紗生子は見事に仮装コンテストで優勝を掻っ攫った。仮装振りもデモンストレーションも圧倒的だったのだ。当然だろう。因みに俺は準優勝に食い込んだ。仮装内容は悲惨なもので、あえて点をつけるまでもないが、実演評価では紗生子(メー○ル)を上回ったらしい。
「にしても、生徒よりセンセー達が目立つって大人気なくない?」
「日頃の鬱憤ばらしで恥を掻かせようと企んでいた生徒達のせいだろう」
 甘く見た罰だな、と得意気な
「紗生子はともかく、シーマ先生があんな隠し球(・・・)を持ってるなんてねぇ——」
 意外を通り越してキャラ変し過ぎ、と本人を目の前に相変わらず失礼なアンが素直なボヤきを漏らした。
「全くだな」
 正座三人組の主が追認する。
「今日一日色々見させてもらったが、全て及第点以上だったよ」
「何がだ?」
「学校のセキュリティー、警護の内容、護衛官のスキルなどの必須ステータスから、校内の設備、教職員、生徒の良し悪しなど基本ステータスに至るまで、だ」
 必須事項は見れば分かるとして、
 ——今日、文化祭だってのに。
 お祭り騒ぎのゆるい校内の、何をどう見れば基本点がつけられるのか謎だ。淡々と続けるアーサーは、
「一番驚いたのは、シーマ少佐が紗生子を食い止める事が出来るという事実だ」
「はあ?」
 また妙な事に驚いた。
「アメリカ側の底意を汲んでやったまでだ」
「バレていたか」
「当然だ」
 アンの警護に関して、いざとなれば米国側が主導権を握る余地の画策。それが俺に与えられたもう一つの暗黙の役目という推測は、やはりその通りだったようだ。
「なぁにが『汲んでやった』よ! いーっつも、嬉しそうにしてるくせに」
「そういえば何故お前は正座していない? 共犯だろう? 反省が足りてないようだな」
「ベルさん、今日はゴメンねホント。急に無理言って」
「そんな、勿体のうございますよ。有り合わせのような物でお口に合いますか?」
「実に美味いですよ。本当に。流石は高坂家が遣わされた方だ」
 そんなベルさんの有り合わせとは、和洋折衷の懐石仕立てときている。流石の腕前も、富豪の家政士ともなれば嗜みとしたものなのだろう。その美膳を前に只ならぬ圧迫感を押し出しつつも、正座の上に小器用にも箸でちまちまと皿を突いている三人の大男達は、流石に痺れを切らしているようでちんまりとしつつも小刻みに震えていた。
「加えて慎ましやかで可憐で。言う事はありませんな」
「まあ、嬉しゅうございますわ。世界のミスターABCにそんな風に言われるなんて」
「気をつけた方がいいぞ。コイツはこう見えて結構下半身で物事を考えてるからな」
「これだから驚いたのさ。『男なんぞは下半身でしか物事を考えていない』と言って憚らない女が、シーマ少佐には擦り寄ってるんだからな」
「使えると判断しての事だ」
「ほう。少し見ないうちに随分と変わったな」
「優秀なパソコンばかりじゃ世の中回らんだろう。糊や鋏がなくては貼ったり切ったり出来んしな」
 紗生子にとって他人の価値、特に男などはその程度の物らしい。差し詰め俺は鋏か。「何とかとそれは使いよう」という言葉もある事ではある。
「何せ近い将来の、東の果ての小国の命運を、今にも倒れそうなこの嫋やかな痩身が託されているんだ。何処かの誰かさんのように、国家の大事を前にふて腐れる訳にもいかないのさ」
 と何かを盛ったりけなしたり。立て板に水の紗生子だ。
「よもや君の暴走を食い止められるパートナーが現れるとはな」
「主幹が合わせてくださっているだけだと思いますが——」
 恐る恐る、地雷を踏まないように言った俺に
「それだよ」
 とアーサーが小さく笑った。
「合わせるという事がなかったのさ。この魔女は。それも男となど」
 それだけを取っても君の功績は大きいのだよ、とは随分と大袈裟だが、
「だからこそ、あの会場で私の身分が発覚しなかったのさ」
 それもまた、アーサーが何かを試した企てだったのか。知る由はないが、結局アンは五位だった。そもそもが、飛び入り参加は選考対象にならなかったためで、代わりにしっかり特別賞なるものを受賞した三人だ。
「で、まだ正座させられるのか? 我々は?」
 流石に普段着に戻っているが、大男達が椅子の上にちょこなんと正座させられている姿は、何処か滑稽で微笑ましい。
「反省が足らんだろうが」
「まだ褒めようが足りないとみえるな」
「相変わらずの減らず口だな。煩わしいから余興で得意の歌でも歌ってくれ」
 それからは、膳を囲みながらのどんちゃん騒ぎだった。が、どんなに盛り上がってもミユキブラザーズと呼ばれる従者だけは、俺同様に酒が入らない。
 片や、
「ゴロー! 今日も飲まんのか!? 無礼講だぞ!? 飲め飲め!」
 俺の上司は例によって上機嫌で、絡み酒だ。流石に俺達も既に仮装を許され普段着に戻っているが、紗生子はいつでも何処でも紗生子である事に変わりはない。酒が入って弛緩した身体が、これはこれで妙に色っぽいくせにやたら陽気でベタベタと。
「ほらぁ、セクハラだしぃそれぇ」
「んな訳あるか! 我らは夫婦だぞ! それに私に言い寄られて嫌な男などいるものか!」
 完全に有頂天だ。
「そりゃあ体裁はそうでしょうが、人前ですよ!?
「そうだそうだ! 偽夫婦なんだから、どうせそれ以上出来ないくせにぃ」
「お前がやく(・・)と思って自重してたんだよ。でも今日はマイクがいるから遠慮はいらんな」
 そう言うなり絡みついていた紗生子が、そのまま俺の首筋に紅唇を押し当ててきたではないか。
「なっ!?
 目の前に揺らめく髪と芳香。玉体の只ならぬ肉感で、酒など飲まずとも酔っている俺だというのに。そのまま吸いつく様は、まるで吸血鬼というか淫魔というか。
「どうだ? 立派なモンだろう?」
 ふん、と鼻で笑われた後の記憶は朧げだ。
「ああっ! キスマークつけてる! 偽装夫婦のくせにぃ!」
 などとアンが喚くのを、
「はーっはっはっはっはっ!」
 紗生子が高笑いして更にあおっていたような。
「ゴローも女に慣れてきた頃合いだし、少しずつステップアップしてやらんとな」
 紗生子ではないが、確かに気を失うような失態はしなくなったし、上せて鼻血が出る様子もない。が。
「夫婦の生業を他人にとやかく言われる筋合いはない」
 羨ましいならマイクとやればいいだろう、と余計な挑発をしてくれたお陰で、
「くっそー! 離れろ離れろ!」
 席を立ったアンまでが俺に絡みついてきて、美女に挟まれた俺は流石に血圧が上がってやはり上せてしまった。
「も、もう部屋に戻ってもいいですか?」
「相変わらずだらしないヤツだな。先に風呂でも入ってゆっくりしろ」
「そ、そうさせてもらいます」
 それにしてもキスマークとは、いきなりハードルが上がり過ぎだろう。

 血圧が上がったまま風呂に入っても更に上せるだけだ。で、寮の舎監室に戻って相談室のソファーに転がると、いきなり受付室の方から俺を呼ぶ生徒の声が聞こえてきた。
 ——俺に用?
 ただのALTであって、舎監室にいながらも何一つその仕事をしていない俺に用がある生徒などいない筈なのだが。となれば文化祭の初日も終わったばかりで、また邪な男子生徒の策略か何かを警戒しつつ、
「こっちは一日中のら○ろ(・・・・)させられて疲れてんのにまた冷やかし——」
 などとふらふら表の廊下へ出て行くと、生徒の背後に黒人の大男が二人聳え立っていた。
「——じゃあなさそうだな」
 それどころではなさそうな男子生徒は、その二人の前で分かりやすく引き攣っている。
「じ、じゃあ僕はこれで!」
「お、おい!? 用も言わずに逃げるな!」
 とはいえ、ミユキブラザーズが生徒に用などある訳もなく。
「私達も一緒に休ませていただきたいのですが」
 今日一日中、紗生子にマイクと呼ばれていた方、と思われる男が丁寧な英語で言った。日本語禁止令は当然継続中だ。それにしても顏も体型もそっくりな双子で、違いを見出すのが難しい。どうやら一卵性のようだ。
「流石にお嬢様の部屋で寝る訳にもいかなくてね。上に泊めてもらえるのはボス(アーサー)だけさ」
「まあ——」
 それもそうだ。それにセキュリティーは万全を期しているし、紗生子とベルさんがいれば下手な護衛など逆に邪魔になるくらいだろう。
 ——もっとも。
 この厳つい二人が、その下手な護衛の枠組みに入るような者にはとても見えないのだが。まあ女子寮の最上階ともなれば、男手が張りつくには少々無粋だ。
「——では、むさ苦しい所ですが」
 と中に誘うと、タメ口の方の男が手を出してきた。
「ルイスだ。宜しく頼むよ」
「レイ・シーマです」
「知ってる」
「え?」
 軽く握手を交わすその手の、何と大きな事か。それにかかってしまうと、俺などまるで子供だ。が、俺のその手を持つ男が、
「戦闘機から旅客機にバンジーしたクレイジーを知らない軍関係者はいないさ」
 と、人懐こそうに笑った。
「改めまして、マイクです。宜しくお願いします」
 一方マイクの方は何語だろうと丁寧な言葉遣いで、日本式のお辞儀つきだ。一見して真面目そうで、こちらはそのベクトルで好感を覚える。一卵性双生児といえども性格は違うようだ。
 そのまま相談室に案内すると、
「お、ちょうと良さそうなソファーがあるじゃないか。今夜の宿はここで十分だ」
「じゃあ後で、毛布を用意します」
「OK。次は風呂だな」
 で、そのまま寮の男湯へ案内すると、夕食後の一番混み合っている時間帯の事。先客の寮生が多くいる中で、
"おおぉ——ぅ"
 俄かにどよめきが起こった。当然俺の背後に続く二人に向けられたもので、その肉体美に思わず感嘆するのも無理はない。補足だが、身体の大きさに比例して一物も流石の一言だ。
「日本式は分かりますか?」
「何度か来た事がありますので大丈夫です」
 と答えたマイクが、早速身体を洗い始めた。
「裸に抵抗はないですか?」
「日本の大衆浴場は嫌いじゃないよ。優越感に浸れるしね」
 俺達よりデカいヤツ(・・・・・)は中々いないからな、とカラカラ笑いながらマイクの隣に座ったルイスも、手慣れた手つきで洗い始める。
「先生、このデカい人達は——」
「ん? デカい人ってのはデカい(・・・)なぁホント」
「何それ?」
 ついそのデカさに呆気に取られていた俺だったが、ふと我に返ると
「理事長先生のご友人だ! くれぐれも粗相のないように!」
 その他多勢にまとめて紹介してやった。どうせ明日も校内を練り歩くのだろうから、この生徒達に偽情報を流してもらえばよい。
"ウィーッス!"
 合わせてこの異形の双子のお陰様で、俺の首筋に出来たてホヤホヤのキスマークに気づく者はいなかった。
 ——やれやれ。
 で、風呂が終わるとようやく一息だ。今日は朝っぱらからいきなり()の仮装に始まり、かと思えば飛び込みVIPの警護につく事になり。それが中々掻き回してくれて、コンサートまでさせられて。挙句の果てが紗生子の絡み酒で、キスマークだったのだ。まさに【気が散る】とはこの事で、方々に気が散逸されて流石に疲れた。が、それでも。
「今日もやっとくかぁ——」
 客人の二人は相談室に押し込んでいる事ではあるし、ローマではないが「一日にしてならず」という格言もある事ではある。本当はインターバル走で心肺に負荷をかけながらやりたいところだが、常時警戒の現状ではそれは無理だ。よってせめて室内でも出来る腹筋や背筋、逆立ちなど、身体をいじめながらの速読やパズルで気を紛らわす。
「何やってんのかと思ったら」
 そこへ隣室の片割れ、ルイスがひょっこり顔を覗かせた。
「ドタドタしてすいません」
「過酷な環境下で眼球を動かし、目標を見定め、状況を素早く把握し判断を下す。ビジョントレーニングとは流石だね」
 それをすぐに言い当てるからには、少しはそうした知識があるらしい。
「日々の弛まぬ努力はファイターパイロットとしての嗜みとしたモンか」
「そんな大仰なものでは」
 単にやすやすと死なないためだ。
「そこら辺をさ、ちょっと飲みながら聞いてみたいんだけど」
「私は飲まないんです」
「ノンアルコールだよ。飲んでみないか?」
 二人とも任務中では飲まない事から、ノンアルコール製品は色々試しているらしい。早速トレーニングを中断して相談室に入ると、テーブルの上にいつの間にか何やら酒瓶と湯飲みが置かれていた。
「つい先程、KKが差し入れてくれましてね」
「KKって、ひょっとして——」
「ノックアウトキングの略さ」
「——ですか」
 やはり素性の詳細は紗生子から口止めされているらしいが、
「我々はグリーンベレー時代の後輩なんです」
「そうだったんですか」
 だから紗生子が随分ぞんざいに呼び捨てにしていた訳だ。もっとも紗生子にかかってしまえば、元副大統領でさえボロクソなのだが。
「これを熱燗で飲めって事なんだ」
「何なんです? これ?」
「さあ?」
 ラベルを見てみると、
「芋焼酎のノンアルらしいです」
「飲んだ事ある?」
「いえ」
 そもそもが、ノンアルコール製品すら飲まない俺だ。で、早速仮眠室にあるレンジで温めて飲んでみると、確かにアルコール感を思わせる芋の香がした。これでノンアルとは大したものだ。
「確かに雰囲気はあるかな」
「焼酎飲まれるんですか?」
「ああ、好きだな」
「私もです」
 本当に人は見かけによらないものだ。まさか屈強そうな黒人が、日本の焼酎を愛飲していようとは。
「はあ」
「意外か?」
「まぁそうですね」
 が、本国(米国)は和食もそうだが日本酒もブームで、焼酎を嗜む人々が一定数いるのも事実だ。
「芋焼酎は量さえ気をつければリラックス効果や血栓症の予防になるしな」
「詳しいですね」
「身体のメンテナンスは良い仕事の条件だろ。君のやってる事と根底では繋がっている」
 マイクがそれを言えば納得出来るが、意外にも一見して気さくそうで、悪くいえば軽そうなルイスがそれを口にするとは本当に意外だ。
「我々もKKに鍛えられましたからね」
 そのスタンスは、紗生子仕込みらしかった。
「アンタ、一体どんな魔法を使ったんだ?」
「はあ?」
「俺達と一緒にいた頃のKKとはえらい違いだ」
 変わったとは聞いていたが、と酒も飲んでないのにルイスの口は実に滑らかだ。
「まぁあの頃はお互い若かったしな」
「今日もよく笑ってましたし、そもそもあのKKが酒を嗜むなんて——」
「男嫌いが男にキスするって、余程の事だよな?」
「いや、俺は何も——」
()も小さいしなぁ?」
「うおっ!?
「ガキ臭い反応だなぁ」
 と俄かに俺の一物に手を伸ばし、ジャージの上から摩るルイスが悪戯っぽく笑う。
「でもまぁ惚けた面の下は、鍛え抜かれた細マッチョではあるな確かに」
「頼れる相棒を見つけて安心したんでしょうね」
「可愛い顔して存外やるモンだから、そりゃギャップ萌えするわな」
「はあ」
 いつの間にか、随分と観察されていたらしい。日本式の風呂づき合いで裸を見た時の感想なのだろうが、こっちはこっちで二人の身体つきも勿論そうだが、キスマークを隠す事で気が気ではなかったのだ。
「肉弾戦も相当やるらしいな?」
「レンジャーとしてのレベルの高さは雰囲気で分かりますよ」
「流石は特殊部隊上がりという訳だ」
 どういう訳だか知らないが、俺の事を根掘り葉掘り。しかも、
「あんなに嬉しそうなKKは見た事がない」
 毎度毎度、入れ替わり立ち替わり。何の示唆だか知らないが、最後はそこ(紗生子)と結びつけられる。加えて俺に近づく人々は、皆揃いも揃って俺の素性に触れているにも関わらず、対して俺はいつも何も知らないという理不尽さだ。
 ——どうせ。
 いつもの事で、紗生子の過去に触れる事は出来ないのだ。それならば、
「ミスターABCの娘さんとは、仲がいいんですね?」
 そこを切り口に、本人達の事ぐらいは聞き出しても良さそうなものだろう。
「まぁ子供の頃から一緒だから、そりゃあね」
「我々は陸軍時代から度々護衛任務を仰せつかっていましたから」
 アーサーが政府の要職に就く度に、出向で護衛任務を拝していたらしい。
「ミスターABCのお気に入りなんですね」
「というより、マイクがアンちゃんに気に入られたんだよ」
「不謹慎だぞ!」
 その分かりやすい反応が、あえて詳細を聞くまでもない事を物語る。
「俺達は元々不法移民でね」
 子供の頃、政情不安の中米から一家で脱出して米国へ来た、というのはよく聞く話だ。その後父母が偏見と貧困の中で亡くなり、兄弟二人となって施設に入り。市民権をちらつかされて陸軍に入隊させられて。
「最前線へ送り込まれて儚く散る命だったんだが——」
 たまたまアーサーの御目に止まり、アンと出会った。
「——人生ってのは、分からんもんよね全く」
「まぁお二人ともハリウッド俳優みたいですしね」
「もてて困るんだ」
 呆気らかんと悪びれもせず抜かすルイスだが、まあ事実だろう。
「アルコールも入ってないのに酔ったのか?」
「KKに感謝して、有り難く頂戴してたら酔ったのさ。何せアンちゃんは、シーマ少佐に寝取られる寸前だったんだからな!」
「ぶはっ!?
 思わずむせかえる程に、それは真逆だ。悩殺してきたのはアンの方だというのに。が、最近のノンアル製品は酒に近いせいか、むせ返って反論出来ない。
「何だ? 逆だったか?」
「そんな事をする子じゃないさ」
「何を知ったか振りを」
 別荘であのおっぱいに挟まれて窒息して死にかけたんだぜこの人、とつけ加えられると、流石にマイクの冷たい視線に襲われた。
「あ、あれは事故っていうか、アンさんの悪ふざけっていうか——」
「うおマジかよ! 噂はホントだったのか!?
 俺も揉んだ事ねぇのに、と本気で残念がるルイスに鎌をかけられたと気づいた時にはもう遅い。
「やっぱりなぁ。こういう草食系ってだし抜きやすいんだよ。ストレス社会だしなぁ。癒し系っての?」
「あのKKが入れ込むぐらいだからね」
「そうそう! そういう事だって!」
 結局、話は俺に戻ってくる。ボス(アーサー)の前と違って随分饒舌な双子に、結局この日の俺は最後の最後まで気が休まらなかった。
 
 翌日。文化祭二日目。
 伝統に則り、被服部に仮装された者は二日目も同じ仮装で過ごす事が義務づけられているそうだったが、VIP対応という事で紗生子と俺はその責を免れた。いくらお祭りといえども、来賓を前に羽目を外す接遇者など普通有り得ないのだから当然だ。が、対するその来賓はというと、昨日に引き続き北○の拳のままだった。素顔など晒せないのだからこれまた当然だ。
 結局、初日同様、ワラビーとアンの案内でふらふらと校内を散策した御一行様は、昼過ぎには視察(・・)を切り上げた。で、来た時同様、何とそのままの格好で出て行くという衝撃だ。
「まぁ来た時もホテルからこの格好で来たしな」
「ハロウィンが終わったばかりで、名残り惜しいバカ者が惚けていると思われた事だろうな」
「変装するにはちょうど良かったのさ。それにしても、最後の最後まで手厳しいな君は」
「当たり前だ。こっちはその格好の貴様らを送らされるんだぞ?」
 と、最後の最後まで言いたい放題の紗生子は、玄関前に用意した愛車の横で相変わらず機嫌が悪かった。
「四の五の言わずさっさと乗れ。ホテル経由なら時間にゆとりを持たんと、搭乗便に乗り遅れでもしたらまた面倒だ」
「久し振りの父子の邂逅を野暮な催促で邪魔してくれるな。いざとなればパトカーに先導してもらえばいいだろう?」
「何を根拠に?」
「世紀末のメシアが通ると伝えればいいじゃないか」
「そういう事は自分の国でやれ。我が国ではジョークは通じないんでな」
「分かった分かった、そう目くじらを立てるな」
 すぐ済ます、と言うと、アーサーはアンと抱擁を交わし始めた。
「すぐ済ますなんて、つれないよぉ」
 子供染みたアンのその声に
「それなら帰国すればいいだろう。無理に留学する必要性はない」
 悉く容姿ない紗生子だ。
「主幹」
「分かってるよ! 一々辛気臭い面で言うな!」
 日本研究者としての希望と、私人ながら母国でオーバーヒートする父譲りの人気を冷ますための事情が入り乱れている小難しいその身の上故の留学は、天涯孤独の気ままな人生を送る俺にしてみれば同情に値する。
「三分だぞ!」
 言うなりそっぽを向いた紗生子をあげつらうように
「みんなアンの傍にいたいんだがなぁ」
 とアーサーが呟くと、紗生子の忌々しげな舌打ちと共に、ボスの前では仕事に徹して黙しているマイクとルイスが小さく鼻で笑った。その堅物の方とアンの視線が一瞬、交錯する。
「僕の傍にいてくれよ。僕の傍にさ」
 と、今度は昨日の俺のデモンストレーションをあげつらうアンの顔に、何処か諦めのような皮肉が滲んだような。
「また、来るよ」
「——うん」
「もう二度と来るな! アンが里帰りすれば済む話だ!」
「主幹!」
 窘めた時には、またそっぽを向いている。最後の最後まで、今日は本当に大人気ない紗生子だ。
「じゃあまた」
 名残り惜しそうにアンから離れたアーサーが、諦めたように深紅のスポーツクーペの助手席に乗り込むと、ミユキブラザーズが戸惑い始めた。
「え? まさかこの後席に乗るんですか?」
 一応四人乗りだが、リアウィンドウが寝かされたファストバック型のアルベール(紗生子の愛車)は、二ドアのコンパクトクーペだ。後席に乗るためには前席を倒さなくてはとても乗れたものではない。が、俺でさえ狭くて敵わなかった名ばかり後席に、この巨漢二人が乗るとは。急に主従三人があたふた乗り降りしては、周囲を失笑が包む中で、
「全く、何しに来たんだかねぇ」
 アンが鼻で笑いながらも悪態を吐いた。
「紗生子が怒るのも、まあ分からないでもないんだけど——」
「え?」
「『みんなあなた()傍に置き(・・)たいのね』ってか」
 微妙に言い回しが変わったようだったが、それっきりアンは何も言わず、見送りもせず。そのまま校内に消えて行ってしまった。
「ちょっと、クラークさん!?
「何をしている!?
「えっ!?
 その紗生子の声に振り向くと、いつの間にかタクシーが一台来ている。
「アンの事はジョーイ(ワラビー)ワサンボン(佐藤先生)に頼んでいるから心配ない。校内には応援要員もいるんだ。それよりこっちの心配だ」
 確かに紗生子の言う通りではある。このお忍び三人衆についてやれるエージェントは、事情を知っていて、かつある程度フットワークに融通が利く俺達二人だけだ。それに下手に応援要員を使ってしまうと、そこから事情が漏れて騒動になり兼ねない。もっとも周りの同僚達にはバレて(・・・)いるのだろうが、開き直ってしまっては政府中枢にまで激震が伝播するだろう。
「ゴローは三人の荷物と一緒に、タクシーでついて来い」

 いざとなれば緊急車両の優先権(プライオリティー)を行使出来る紗生子の車だが、随行にタクシーがいてはそれはNGだ。結局、三人を羽田空港内の宿泊先ホテルまで連れ戻し、着替えの上でチェックアウトさせた頃には、紗生子の懸念通りいい時間になっていた。忙しくもそのまま旅客ターミナルへ移動すると、既に搭乗手続きが始まっている。
「言わんこっちゃなかったな」
「まともに走ると時間がかかるモンだな」
「当然だ。東京の渋滞をナメるな。少しは市井の民の辛さが分かっただろう?」
「まさか日本でそれを体験させられるとは思わなかったよ」
 と、スーツ姿ではあるものの、相変わらず厳ついサングラスをかけ、口に顎につけ髭を蓄えたアーサーが紗生子に手を出した。
「良い返事を期待している」
「今更承服出来るか。アンも憤っていただろう?」
「親としては辛いが、仕事柄どうしても国の利益を優先しなくてはならない立場だからな」
「都合良く米国第一主義(アメリカ・ファースト)を持ち出すな。白々しい」
「それを持ち出した者の名代(・・)だからな私は」
「ふん!」
 嫌々ながらも実に堂々と、軽く握手に応じた紗生子のその手を離したアーサーが、今度は俺にその手を差し出す。
「また会おう、少佐」
「はっ」
 それを握ると、その主の口元が緩んだ。
「意外に小さい手だな」
「体格並みです」
 それをいうなら、主従のそれがデカいのだ。
「それに綺麗だ」
「見た目だけですよ」
 その手がやってきた事は、決して褒められたものではない。
「私を打ち負かす手を放ち、心を震わせる演奏をするこの手が、願わくばこれ以上、争い事に巻き込まれない事を祈っている」
「ホント白々しいな! さっさと帰れ!」
「主幹!?
 今日の紗生子は、それにしても安定的に機嫌が悪い。
「祈っているのは本当だ。だが現実は甘くないのもまた事実」
 私も苦しいんだ、と吐露するアーサーを
「国民の代表なんだから当然だろうが!? 苦しくなくてどうする!?
 精々その天才的な頭脳で早く世に安寧をもたらせ、と追い打ちすると、主従三人は苦笑いしながらもあっさり保安検査場の向こう側へ消えて行った。
「ちっ。やっぱり本国公認の偽造旅券を持ってやがったか」
「公認の偽造旅券? ですか?」
 搭乗までの行程で、本人を前にCCの情報網でデータを確かめた、とか何とか。
「別人名義の外交パスポートだ」
「——え?」
 というそれは、基本的に国家の大事を担う者が公務で渡航する際に発行される物だ。つまりそれが常識通りに発行された物だったのならば、お忍びの私的な旅行などではなかった、という事になる。が、別人名義のそれが常識であろう筈もなく。そこから先の真偽は俺には分からない。
「クソ! 思い返すも忌々しい! さっさと帰るぞ!」
「離陸まで確かめなくてもいいんですか!?
「知るか!」
 と言いながらも送迎デッキに上がり、無事離陸を確かめると
「もういいだろ! クソ! 二度くんな! 今度こそ帰るぞ!」
 周りの見物人が驚くのも構わず散々悪態を吐いた紗生子は、今度こそ車に戻った。
 帰りはまた紗生子の運転で、俺は助手席だ。が、何度目かの同乗で一番機嫌が悪く、車内を張り詰めたものが支配している。
「『みんなあなたを、傍に置きたい』だと?」
 と独り言ちる紗生子のその声は小さいが、ひどくやさぐれていて。イヤホンの集音調整はフリーにしているのだが、嫌によく耳に届く。
「よくも抜け抜けと——」
 学園を出る直前に、アンが呟いたそれを今更、だ。それ以前に、
 これはどうやら——
 昨夜俺が舎監室に戻った後、外交旅券の用向きについて何事かやり取りがあった、と考えるべきなのだろう。昨夜の上機嫌の挙句の無茶振り(キスマーク)も、全ては密かにセッティングされた外交目的を果たすべく、用のない人間を下がらせるための演技だった、という事なのか。
 ——で。
 その密談が、紗生子にとって受け入れ難いものだったとすれば、現状に至る全ての辻褄が合うような気がするのだが。
 ——どうだかなぁ。
 見るからに高級感満点で座り心地が良い筈のシートが、背中に尻に、伝わる感触が何処か空々しい。それに付随する何とも言えない居心地の悪さ。とにかく、
 ——息が詰まるな。
 呼吸すら憚られる車内の静謐。
 何度かの同乗経験で、紗生子は一度もBGMをつけた事がない。その習慣がないのだろうが、お陰様で車内は走行音が小さく聞こえるだけだ。流石は高級車らしく、防音レベルの高さなのだろう。都心の喧騒の只中を駆け抜けているというのに、律動的なエンジン音すら遠く感じるかのような、奇妙なまでの静けさ。普通の車では望めないそれが、今は疎ましい。
 ——音が欲しいな。
 頼めばラジオでもつけてくれるのだろうか。その注文を口にしかけた時、隣の運転席の方から小さい声が聞こえ始めた。何かの音階を刻むそれは、昨日俺が歌った映画のテーマ曲だ。俺如きに褒められても嬉しくないだろうが、滑らかな英語は非の打ち所がなく、ネイティブよりもネイティブらしいのではないか。その正確さとは裏腹に、何処か感情が置き去られたような美声は、妙な胸騒ぎをもよおさせる。小声のくせに、何とも悩ましく口ずさんでくれるものだ。
 その歌が間奏部分に入ると今度は口笛を奏で始めたが、それがまた今にも掠れて消え失せそうで、また切ない。と思っていると、その口が不意に、
「アフガニスタンが終わったばかりだってのにな——」
 と呟いた。
「え?」
 その俺の疑問に答える事なく、また間奏を再開した紗生子の口が再び歌を紡ぎ始めると
「君は僕のものさ。僕だけのね」
 今度は歌詞を少し、微妙な意味合いで替えてくれる。
「キスマークもつけたしさ」
 その表情を窺う事などととても出来ないが、歌につられたのだろう。機嫌が悪かった筈なのに、横から伝わってくる雰囲気が柔らかくなっているような気がする。そのくせ何処か、冷めたような、乾いたような。そんな諦めが混ざっているかのような、皮肉を含んだ拗ねた歌声。
 ——いつになく、分からん。
 元々コミュニケーション上の機微に疎い俺だ。考えたところで只でも小難しい紗生子の心境など分かる訳がない。天才肌ながら実に本能的な紗生子は、いうなれば何かにつけて天才的な赤ん坊のようなものだ。想像するだけでも実に小面倒臭そうで密かにげんなりするが、それが分かっただけても進歩した方だろう。そんな俺に理解出来る紗生子など、矜持と本能がくっついていて怒りにまかせてやたら暴走する、という事ぐらいだ。理性的な紗生子の思考など謎も謎の謎々で、永遠に理解出来そうもない。
 が、その謎の一部のようなものが、思わぬ形で明かされる事になろうとは、この時の俺は知る由もない訳で。それはまた少し先の、別の話だ。
「——ただの鋏、なんですけどね」
 替え歌が終わる頃合いで牽制を入れてみた。切る用途にしか使えないそれは、俺の生業とよく似ている。昨日の紗生子といい今の俺といい、上手く言ったものだ。
 そんな俺を過大評価したがる者の大抵は、それ()を都合良く利用したがる下心があからさまに透けて見えるのだが、紗生子の言動からは不思議とそれが見えてこない。
「ただの鋏じゃない。私が愛用する鋏だ」
 そんな微妙なところをあっさり口にする紗生子の雰囲気が、明らかに柔らかくなった。
「やっと見つけたんだぞ。使い勝手のいい、切れ味抜群の鋏をな」
 かと思うと、
「今更簡単に手放せるか」
 急に殺気を帯びたりする。
 今度は何を、企んでいるのか。
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