生徒アンケート【先生のアノニマ 2(上)〜2】

文字数 33,908文字

 七月、梅雨末期。
 米軍人の俺が、まさかの中高一貫校に赴任して約—か月が経とうとしていた。それも日本の学校だという笑うしかない有様で、それでも息をしていれば月日は勝手に過ぎていくものだ。
 三学期制を導入している学校では、ちょうど一学期の期末試験が終わったばかりだった。いよいよ夏休みを間近に控えた校内は、すでに何処かしら開放感というか高揚感が漂っている。
 そんな中で、主幹教諭室の二人(俺達)は相変わらずだった。別にテストの採点がある訳でもなく、担任を受け持っている訳でもなく。専ら別世界の穏やかさだった。が、それは平穏ならば、の話だ。いざ警護対象のアンに絡んだ有事が発生すれば、一番破壊力のある爆弾を抱えている。平時の平穏は役得のようなものだった。
 その平和な室内で我が上司の紗生子(しょうこ)が、
「これなんかちょっと——」
 くくく、と喉を変に鳴らして笑いを堪えている。室内の上座にでん(・・)と構えるプレジデントデスクの、向かって右斜め横に侍るように普通の事務机を置かせてもらっている俺は、部屋の入口に控える門番を務めつつ。よく分からない銘柄だが、やたら美味い水出しコーヒーを啜りながら苦虫を潰していた。
 給湯スペースの直近でもある俺の陣地の事。合わせて「茶坊主をする」という条件で、紗生子が持参しているお茶やらコーヒーを飲んでもよい事になっている。只だからといってガブ飲みするような意地汚さは持ち合わせていないし、他人から施しを受ける事も好まない俺だ。使役分だけ飲むつもりだったのだが、何事かをあげつらわれて笑い種にされるのならば
 ——飲むんじゃなかった。
 という思いは、まさに後の祭りだ。
『ALTで採用された約一名の授業を見た事がない。こんな先生のために学費を払わされていると思うと甚だ心外』
 と、紗生子が読み上げているのは、期末試験後に行われた【生徒アンケート】の内容だった。毎学期末に実施されるというそれは、決して安くはない学費を払って在学している生徒達に、より良い学校生活を送ってもらうために実施している、言わば教員に対する査定書のようなものだ。
 勿論、一見してふざけた内容には取り合わないが、真摯なものや説得力のあるものについては学園側も当然真摯に向き合う。余りにも目に余るような査定となれば、ホンマもの教員評価を揺るがし兼ねない。そこは進学校の小面倒臭い秀才だか英才だかを抱える学園の事。その教員ともなれば重圧も相応であり、毎日が真剣勝負だ。そしてその取組みは、生徒達の背後に控える実際の出資者たる保護者にも報告される。学園が提供する教育の場を享受する生徒と、それをサポートし出資する保護者が揃ってこそ、私立の学園は法人としてやっていけるのだから当然といえば当然だ。
 だというのに、その只中において異彩を放つ散々っぱらの査定の羅列となった俺の机上には、その総集計結果と、ご丁寧にも俺に絡む部分を抽出したペーパーが並べて置かれていた。そのペーパーが中々信じ難い厚みだ。俺は俺なりにその職分を理解してその任に就いているつもりなのだが、どうやら生徒達には理解されていないらしい。
『ALTなのに、何故プール監視員ばかりしているのか。しかも女子ばかり眺めているようでキモい』
「いや、クラークさんの護衛なんだから仕方ないじゃないですか」
「『あんなヒョロで護衛が務まるのか。非常時にまともな対応が出来るとは到底思えない』何てのもあるが?」
 甚だ余計なお世話だ。そもそもが、そう仕向けたのは本国であって俺の意思ではない。驚いたのは、ALT業務に関する疑義と同時に、アンの護衛に対する疑義もやたら多かった事だ。つまりはアンの護衛である俺が下手を打つ事で、他の生徒達がとばっちりを受けるのではないか、という不信である。一応護衛は秘匿の筈なのだが、
「って、何でこんなにバレバレなんですか!?
「まぁ本音と建前ってヤツだ。日本式の」
 と、いう事らしかった。
 その実本当の潜伏警護員は他におり、ハニートラップ耐性テストの折の【佐藤先生】や【ワラビー】は、実はCCのエージェントだったりした。この二人は正真正銘の秘匿要員であり、校内はおろかCC内でも下位のエージェントにはその存在が知られておらず、まさに【くノ一】のような存在らしい。俺がその事情に触れる事が出来たのは他ならぬ紗生子からの情報共有であり、でなくては永遠に知る事もなかったろう。
 佐藤先生は本当に教員免許を持っており、正規職員として採用されている。ワラビーなどは本当は二〇代だとか。童顔であるため身分を偽り本当に入試を受けて入学したらしい。何れにしても大したものだ。それに比べて際立つのは、やはり俺の体たらく振りである。
「『食堂で提供される食事を蔑ろにして、何故かいつも大根を丸かじりしている。栄養士さんが頭を抱えているのを知らないのか』って、何だこれは?」
 君は大根を丸かじりしてるのか? とまた目の前の絶美が笑いを堪えようと口を歪めては、込み上げてくるものを抑え切れず変に喉を震わせている。
「くっ、これもだ。『わざわざ学食でいつも人参を丸かじりしてウサギか?』だって。くくっ」
 まあゴローは予想外に可愛らしいしペット感覚だな、などと言われたい放題だが、ネタ元のアンケートは山程あるザマで、当分終わりそうにない。
「食堂の食事は有り難くいただいてますよ。ちゃんと!」
 只、日本人向けの、それも軟弱な学生メニューでは、余りにも柔らか過ぎて歯がダメになりそうで、それでシンプルな物に変えてもらっていただけだ。
「あんな歯応えのないちょこまかしたモンなんて、私の腹には向かないので」
「で、大根や人参を丸かじりか?」
「そうです!」
 正確には、トマトやきゅうりなど。野菜はとにかく丸かじり。肉は鶏胸肉かささみ。魚は何でも適当。それらを丸ごと煮るか焼くかしてかぶりつく。味つけは軽く塩を振る程度だ。
「後は牛乳、ヨーグルト、ゆで卵、豆腐です!」
 と言い切った頃には、紗生子が腹を抱えて震えていた。
「な、何だそれは。何でそれがアンケートで突き上げ食らう事になるんだ!?
「特別扱いが許せんそうです!」
 大体が「余り物の食材が勿体ない」というところからスタートしている話なのだ。それをまんまと生徒達に、面白おかしく都合のよく切り取られた(・・・・・・)だけである。
「栄養士さんや食堂のおじさんは笑っちゃいましたが、苦情の()の字どころか『捨てずに済むし、調理の手間も省ける』って重宝されたモンですよ!」
 見方を変えれば立派なSDGsだ。
「そ、そりゃそうだな。余り物の野菜を貰う動物園の馬とか飼育小屋の兎みたいなモンか——」
「くくっ」とか「ぶはっ」とか。先程来の紗生子は、鼻から口から何一つとしていつもの溌剌たる美声もクソもあったものではない。その震える声が落ち着くまで辛抱強く待ち続ける俺は、元来笑われ慣れている。何処へ行っても、最初はいつもこんな感じだ。それを有無を言わさぬ実力で覆し続けてきた。
 今に見てろよぉ——
 とは思ったが、今回ばかりはそれを覆す実力がない。何せ学校の先生などと、畑違いもいいところだ。アンケート結果のザマは、ある意味必然だったといってもいいだろう。
 ひとしきり笑った紗生子が、
「まあ学食の件は濡れ衣として、柔そうな見た目の割にスパルタ仕込みとはな」
 とまたしても変に喉を鳴らす。が、その語尾に
「人は見かけによらんものだ」
 と、感心を匂わせた。
 古代ギリシャの同都市国家の兵士達が、只強くなるためだけの食に徹し、味に頓着しなかった事は今にも伝わる事だが、どんな食い方をしようが人の勝手ではないか。食に対する尊厳は守っているのだ。それどころかそれを尊ぶ食のあり方だというのに。それをあげつらって笑い話にするなど悪意以外の何物でもなく、憤懣(ふんまん)やる方ない。
 紗生子の言う通り、学食の件は明らかにふざけた内容であり取り合わないにしても、ALTに対する結果は深刻と言わざるを得ない。生徒の背後にはそのスポンサーたる保護者が控えている。いい加減な事は出来ないのだ。が、それも、
「何もしないALTが気に食わないのなら——」
 ALTでなくなれば良いのだけの話だった。
「——雑務員で十分です」
 学校内であれば【用務員】とか【校務員】という職分になるだろう。職階が下がれば給料も下がるが、別に金に執着はないし、そもそもが国を跨ぐ兼務辞令のためか、本国からも日本内閣府からも毎月給料が出ているのだ。極端な話、学園職員の給料など無給でもよかった。
 要するに今の俺の校内での建前上の役職は、その本国アメリカを慮っての学園側の配慮だった。いくら学がないとはいえ、仮にも米軍将校だ。そんな男に、いくら教員免許を始めとする資格めいたものが一切がないとて、社会的にも職階的にも地位が低いと言わざるを得ない雑役要員を任せられよう筈もない。で、苦肉の策のALTなのだった。非常勤講師の位置づけなら、職階をごまかす事が出来る。米国における非正規労働者は専門職のエキスパートを意味する事がそれなりにあり、待遇も正社員と同等だったりそれ以上の手当がついたりするものだ。それに倣った、という事のようだった。
「でも雑役要員では、本籍地(米軍将校)の身分と均衡が取れないだろう。我らの身分なんぞダダ漏れだしな」
「そもそもそのダダ漏れってのが一番の問題なんですよ」
 従前の身分さえ露見していなければ、雑務員で押し通してもらって全く問題なかったものを。国の矜持だか学園の配慮だか知らないが、当の本人を差しおいてまさに余計なお世話だ。
「まぁ国家の秘密なんてのは、今の時代あってないようなモンなんだ」
 しかも上司の紗生子は楽しむ向きばかりで、まるで人ごとである。
「それに校務の先生は定員を満たしてて人手は足りてるしなぁ」
「ALTだってそうでしょう?」
 つまり、どっちにしても溢れ物の構図で、
「はぁ」
 その自分の冴えない溜息が、より情けなさを助長させた。それを見た紗生子が、また軽く鼻で笑う。笑いたいヤツは笑わせておけばよい。何処でもそうやって笑われてきたのだ。それはさておき、
「この際イジけるつもりも卑下するつもりもありませんが、任務に障りがある状況は放置出来ません」
 要するに、そういう事だ。その何処かの間隙を突かれて、アンが危険に晒される事だけは絶対に避けなくてはならない。
「まぁそういう事だな。そこを見誤らないのは流石と言っておこうか」
「そんな気休めはいりません」
「そう片意地を張るな」
「張ってませんよ、別に」
 と言いつつも、声色に険が滲むのがまた情けない。
「そういう意外に勝気なところは、柴犬みたいだな」
 コールサインもゲンゴローで柴犬の名前みたいだし、などと紗生子は遠慮なく随分と色々な動物に見立ててくれるものだ。
「この際、犬猫でも兎馬でも何でもござれです。警護に遺漏がなければ、私は何と言われようと構やしません」
「いや、それが構うんだ」
「はあ?」
「全ての害意は敵だからな」
 という事は、
「——敵の扇動なんですか? これ?」
 という事なのか。
「さあ? どーだろーなぁ」
「さあって——」
「とりあえず、本業からやっつけていこうか」
「はあ?」

 翌日、午前九時。
 俺は警護の傍ら、各クラスの体育の授業を梯子させられる事になった。勿論、紗生子の下命だ。
「思う存分暴れてこい」
 と言われている。
 期末試験後の体育は、何処のクラスもスポーツテストをやっている時期だ。そのテストを
「一緒に受けろ」
 との御下命である。
「と言われても、運動不足なんですけど」
 軍にいた頃は、任務や訓練の合間でそれなりに身体の手入れや負荷をかけていたものだったが、この学園に赴任後は常時警戒を言い訳にサボっている。精々今は、体操や校内哨戒にかこつけた散歩程度しかしていない。が、
「動けないと思いますが」
「休息十分という事だな」
 まるで聞く耳を持ってもらえず。
 結局、Tシャツとジャージ姿にさせられてしまっていた。
 ——参った。
 ジャージは寝巻き代わりに使っているというのに。予備のジャージは未だ前任地のエドワーズに置きっ放しだ。とりあえず手元には身の回りの日用品しかない。それもこれも、どさくさ紛れのこの転任のせいなのだが。
「今日はTシャツとパンツ一丁で寝るかぁ」
 流石に汗をかいたジャージで寝る気にはなれない。夜中の【呼び出し】もしばらくは鳴りを潜めていれば、恐らくパンツ一丁で出動させられる事もないだろう。
「シーマ先生、ホントにやるんですか?」
 と、傍にいた生徒に声をかけられた。今はちょうどグラウンドでアンのクラスの体育の授業中であり、ハンドボール投げの記録を測定中だ。男子の組に紛れてぼんやり順番を待っていると、もう全員投げ終わったらしい。
「ん? あ、ああ」
 肩慣らしで何回か軽く投げてみたのだが、振りかぶって投げると上手く掴めず遠くに飛ばない。何せ中途半端な大きさにして、微妙に固い質感にして、それなりに重さがあるこのボールの事。ある程度の手指の大きさと握力と手首が強くなくては、スナップを使って投げられない。
「二回投げて、良い方が記録になりますから」
 と言われ、またつい振りかぶって投げると、また中途半端な大きさのボールのせいで見事に滑ってしまった。
「八mです」
 傍にいる生徒は出席番号が一番最後の生徒であり、一番最後に投げた生徒だ。これから投げる者の傍で記録補助員役を担っているのだが、その生徒が非常に非情で冷ややかである。というか、この生徒に限らず、自分に対する視線で好ましいものは微塵も感じられない。これももう、何処へ行っても毎度の事だ。
「何とも投げ辛いボールだなぁ」
 ハンドボール投げなど人生初なのだが、もう少し小さければ思う存分遠投出来るものを。俺の手の大きさで野球のボールのように投げるには、相当握力がいりそうだ。一応人並み以上の握力を持ってはいるのだが、豪快に掴んで投げるのは
 無理かぁ——
 そんな自己分析していると、あちこちでゲラゲラとあからさまな失笑が上がっていた。自分に対する周囲の位置づけは、今はこんなところだろう。
「八mって何点?」
「一二m以下は一点です」
 文科省の体力テスト実施要領によると、最低点らしい。
「だろーな」
 これぐらいなら小学生でも投げそうだ。
「——仕方ないな。形振り構わずいくとするか」
 二投目は振りかぶらず、肘を畳んで側頭にボールを保持したまま投げる事にした。
「投げ方は何だっていいんだろ?」
「投球フォームは自由です」
 そのスタイルは殆ど、砲丸投げとか槍投げに近い。その格好がまた失笑を誘っている。
「円の中から出けりゃいーんだろ」
「早く投げてくれません?」
 往生際が悪い、と言わんばかりだ。
「へいへい」
 言われて軽く二、三歩ステップし、殆ど肘の力だけで放り投げた二投目で周囲の失笑は収まった。代わりに俄かなどよめきが起きている。
「まぁこんなモンか」
「あ、あんな変な投げ方で?」
 五〇mを超え、計測不能らしい。
「野球のボールなら、ホームベースから投げてホームランに出来るんだよ俺は」
「ええっ!?
 続いては五〇m走だった。アンのクラスの授業では、とりあえずこれで終了になりそうだ。進学校で頭でっかちばかりかと思っていたら、中々速い連中が粒揃いである。
 ——賢いヤツってのは勉強ばかりやってんじゃねーのかよ。
 とは限らないらしい。
「先生、これをつけてください」
「ん?」
 ぼんやり見学していて気づかなかったが、何と手動計測ではなく、タイム計測器をつけて測定していたようだ。
「本格的だなぁ」
「数字には敏感ですからね、みんな」
 確かに若干の照れはあるようだが、いざ測定に際しては皆一様に真面目に取り組んでいる。そこは如何にも進学校の生徒らしい。若者の向上心は
「眩しいなぁ」
「先生はその格好でいいんですか?」
 生徒達の俺に対する当たりは、安定して冷ややかでドライである。
「長ズボンで」
 が、良くも悪くも関心は持たれているようだ。服装で本気度が疑われていた。
「ああ。実戦のつもりでやってるから」
 大人は大抵普段は長ズボンだろ、と言うと
「米軍の体力テストもそうやってやったんですか?」
 と、思わぬ返答である。
「何?」
「いや何か——」
 体育の先生に聞いたらしい。何処から引っ張り出してきたのか知らないが、これまた予め紗生子が体育教師達にそのデータを伝達している、のだとか。何でも「真面目にやっているかどうか判断基準にして欲しい」とか何とかで、わざわざ用意周到な事だ。
「でもあれって——」
 軍の体力テストの種目は、腕立て伏せ、腹筋、懸垂、持久走だけだった筈だ。今やっている体力テストの内容では、持久走以外は参考にならない。
「一五〇〇mのタイムは、ちょっと悪いみたいですね。六分一桁でしたっけ?
「はあ?」
 とぐだぐだ言っている間に、計測器が「On your mark」と喋り始めた。
「——っとっとっと」
 それにつられて、慌ててスタートラインに立って構える。

 同日、昼休み。
 結局、午前中をかけて様々なクラスの体育の授業を梯子させられた俺は、いつも通り主幹教諭室へ戻っていた。
「早速潮目が変わってきたようだぞ?」
 昼食後、マイ机で一息ついている俺へ、紗生子が戻って来るなりペットボトルの水を手渡しながら開口一番で吐いた台詞だ。
「もう疲れちゃいましたよ」
「そんな柔なたま(・・)じゃないだろう」
 午前中の最後は、蒸し暑い体育館の中でシャトルランだったのだ。二〇m間隔の二本の平行線の間を、流れる曲に合わせて延々往復する生き残りゲームは、序盤と終盤のギャップが凄まじさを通り越して滑稽さすらあった。
「あの種目の非人道性は問題がありますよ」
 何と表現したらよいか分からないが、走らないと生き残れない、つまり【死ぬ】という観点において、感覚的には回し車の中を走るハムスターに近い。
「まだ愚痴れる余裕があるようだな」
「往復持久走やって更に持久走って、ちょっとおかしいでしょ?」
 残るは午後一番の授業で持久走という無茶振りだ。そのひどいスケジュールもそうだが、そもそも両方やる意味があるのか。中距離的な持久力を測定する点において、ビルドアップ走とペース走の違いがある程度ではないか。愚かな俺には、その意義が見出せない。まあ何処かの偉い人が決めた事なのだろうから、凡人には理解出来ない深い思慮があるのだろう。
「それにしても全種目一〇点満点とはな。随分張り切ったモンだ」
 自分がそう仕向けておいて、よくも抜け抜けと言ってくれるものだ。手を抜いていると体育教師や生徒達が判断しようものなら、紗生子にチクられる構図が出来上がっていたというのに。
「まぁよもや上司の顔に泥を塗る事はないと思ってはいたが——」
 などと、後出しで脅しである。要するに負けず嫌いだ。
 ——そういう事は先に言えっての。
 自分に関する事の全てで他人から指を差されるのが我慢ならないという、如何にもエリートにありがちな思考だ。
「全種目満点ともなると学園史上初らしいぞ」
「昼一で、しかもこのクソ暑いのにラストが一五〇〇mって有り得ないでしょう? このひどいスケジュールは」
「昼食は冷奴の豆腐三丁だけだったのか? 記録に合わせておまけで噂になってたぞ?」
 流石は今スパルタ兵、と紗生子の喉がまた少し変な音を出した。
「私は彼らのように屈強じゃありませんよ」
「見た目はな。中身は似たようなモンだろ?」
「ご冗談を」
 歴史にその名を知らしめたペルシャとの戦いで、古代ギリシャ連合軍の中核を担った彼ら数百の寡兵が対した敵方兵力は数万とも数十万とも伝えられている。当然ギリシャ側は全滅したが、一方でペルシャ側も数万もの戦死者を出したとの説がある程で、それが事実ならば末恐ろしい猛勇振りだ。未だに語り継がれている事を思うと、あながち的外れではないのだろう。
 それにしても、戦うためだけの狂ったような生活を強いられていた彼らを思うと、果たしてそれが栄誉といえるのか。俺としては気の毒にしか思えないのだが、
 ——似たようなモンか?
 スパルタ兵程狂ってはいないが、思い当たる節がないではない俺だった。
「——だろう?」
 そんな俺の様子を見る紗生子が、また「くくく」と喉を鳴らす。不覚にも思わず顔を歪めたところを見られてしまい、また噴き出されてしまった。
「ともかくですね、後ですぐに一五〇〇走らされるって分かってるんで」
 別に当たり前に食ってもよかったのだが、走り出すまでもう一時間もないのなら食い過ぎは禁物だ。いくらなんでも消化し切らない。年齢的に表面的な体力は下降の一途なら、それは内蔵も同じなのだ。自分で言うのも何だが若い頃それなりに無茶をしてきた俺の事ならば、身体を労わるゆとりがある時はとにかく労ってやるべきだろう。
 それにしても——
 何を好き好んで学生レベルの体育の授業につき合わなければならないのだ。これが軍務ならば、スイッチが入ってどうこういう事はないだろうが、緊張感も何もない平和ボケした環境下とあっては、暑い最中の演芸会の如き茶番にしか思えず、
「三〇半ばのおっさんに、この所業はないでしょ?」
 罰ゲームのような感覚だ。要するに、アドレナリンが出ない。
「『快進撃もこれまでだ』とかいう噂も流れてるな」
「人の話、聞いてます?」
「持ちタイムが平凡なのか? 一五〇〇mは」
「それをあなたは一体何処から引っ張り出してくるんですかいつも?」
 門外不出の米軍データの筈が。保秘もクソも、この女の手にかかれば無意味らしい。
「人の話、聞いてるか?」
「はあ?」
 ——ったく。
 何のおうむ返しか。思わず顔をしかめたが、悲しいかなそこそこの軍歴を積み重ねてきている俺は、殆ど反射的に上官を優先する癖が染みついている。
「中距離走は一番得意ですけどね。しんどいから好きじゃありませんが」
 つい、まともに答えると、
「はあ?」
 と、またおうむ返しだ。
「何処で情報が歪んでんのか知りませんけど」
 呆れた俺は紗生子から貰ったペットボトルの水を開栓して、わざとらしくあおってみせた。
「じゃあそこにある貰い物のカステラを摘んでいくといい」
 とはやはり、紗生子なら当然知っているだろうスポーツ栄養学上の常識がちらつかされる。
「はあ?」
「学生レベルの運動で消耗しているとは思えんが、それでも少しは労ってやるべきだろう。中距離走とはいえカーボローディングは必要だ」
 と、さり気なく専門用語を吐きながら、校医を兼任する食えない魔女が給湯スペースに置かれた菓子箱を顎でしゃくって指し示した。それはマラソンなど長時間エネルギーを消耗する競技に備え、体内にそれを蓄えるための食事法の事だ。もっとも中距離走の場合、糖を使い切る前に競技が終わるため不要との声もあるが、それをするしないでは日々のトレーニングパフォーマンスで大きな差となって現れる事も明らかになっている。要するに、日々の心がけが大切なのだ。
 それが分かっていながら——
 昨日来、随分スパルタ云々と笑ってくれたものだ。それは何も、
「スポーツに限った事じゃないんですけどね」
 のだ。糖は何も筋肉専用のエネルギーではない。脳もそれを使うのだ。それは一対局で体重が数kg落ちるともいわれるプロ棋士達のおやつの食いっ振りを見れば明らかである。
「眼精疲労回復、整腸作用、筋力増強、体調維持。スパルタ仕込みの食生活は、今日日中々大胆に見えるが理に適ってる」
 やはりスラスラと。大体が医者ならば、そのぐらいの口上は出来て当然だ。
「そこは流石に空で荒ぶれてきた者らしいな」
 それは俺なりに、スパルタ兵程無残な食生活にならないために、色々と擦り合わせた結果だっだのだ。手に入りやすく十分かつバランスよく栄養補給が出来る食品を主体として、軍務に耐え得る身体を維持する食生活。それは過度に舌を肥えさせず、いざサバイバルに陥っても飢えないようにするための常日頃からの節制だ。
 元々好き嫌いはないし、食える物なら大抵の物は味に構わず平気で食らう。かくいう俺ははっきり言ってバカ舌の類だ。それでも食に気をつける理由は、
「生き残るためだったんだろう?」
「まあ只の変人ですよ」
 それが当然分かる紗生子も軍人なのだ。
「そう拗ねるな。分かっていたさ当然」
 知らずに笑うよりはいいだろう? と、これまた言いたい放題の紗生子である。
「まぁ今日日の平和ボケした日本のバカ者共には理解出来ないだろうがな」
 こんな進学校でさえそれは例外ではないという事さ、と席を立った紗生子は、
「笑って悪かったな」
 俺の机にカステラを置いた。
 ——謝った?
 そんな幻聴のようなものが耳に届いたのも束の間。
「でもそれが許されるのは、ゴローの上司たる私だけだ」
 その他多勢を笑わせたままにする事は許さんからな、などと、
 ——結局。
 謝ってるのか脅してるのか分からない、紗生子独特の絶対的上から目線のつけ加えだ。
「まぁ食って頑張ります」
 俺は遠慮なく上品そうに結ばれたリボンを解いて箱を開封すると、半斤一〇切入のカステラの半分をあっという間に平らげてみせた。

 で、同日午後一の授業。
 ——このクソ蒸し暑いのに走らすかね。
 常識的に考えると少しでも涼しい午前中にやるべきものであって、ついダラダラと愚痴っぽくなる。それこそ保護者から苦情がきそうなものだが、何でも午前中に走らされると、
「酸欠になってその日の後の授業に身が入らない」
 という生徒達の声が優先されての事らしい。他にも
「地熱が上がり切る前にやる」
 とか
「西日の強い時間帯は避けたい」
 などと。要するに、いくらでも小理屈を垂れる事が出来る程の学業熱心が優先されての事だ。そんな生徒の声でもなければ、今日日この昼日中に持久走などやらないだろう。実際には、一々そんな事で苦情を言ってくる保護者もいるという。傷病人が出たのなら露知らず、俺に言わせてみれば、これまた熱心というか過保護というか。時代が変わったという事だろう。そんなちまちました苦情も、顧問弁護士にしてスクールロイヤーたる紗生子が扱っているのだろうか。
 ——あの尊大なお局様めいたのが?
 どんな対応をしているのか、俄かに興味が湧く。
 それはともかく、今は一五〇〇mだ。そもそもが、この時期に体力テストをやる方がおかしいような気がするのは気のせいなのか。新学期早々に済ませてくれていれば、こんな事にはならなかったものを。そのスケジュールを恨むが、今それを俺が言ったところでどうにもなるものでもない。
 今度のクラスは高校三年だった。よりによって陸上長距離部のエースがいるらしい。
「一五〇〇は負けませんよ、先生」
 そのエースが呼びもしないのに、声をかけてきた。俺より背が高い。一八〇はあるだろうか。スマートで中々の男前だ。
「全種目満点で、しかもトップらしいじゃないですか」
「そうなんかね?」
「どっちで走ります? 一緒に走りましょうよ」
 体育の授業は男女別々で、基本的に二クラス合同で行われている。一周三〇〇mの土のトラックは、都内にしてはそこそこの広さといえるグラウンドのほぼ中央に作られているが、コースはなく全面オープンレーンだ。一度に四〇人弱がスタートを切っては窮屈であるため、二組に別れて実施するようだった。
「一緒に走ってコテンパンにする魂胆かね?」
「そうじゃありませんが——」
「じゃあ、最初の組で早速走るか?」
 やはり持久走は不人気と見え、誰もが積極的にやりたがらない。俺はいの一番で、誰も立ちたがらないスタートラインに立った。こんな面倒臭いのはさっさと終わらせるに限る。
 すると、エースも隣に並んで不敵な笑みを浮かべてきたものだ。何処にでもいる、思い上がりの嫌なヤツらしい。そのスタンスに瞬間で年甲斐もなく、向っ腹がくすぐられてしまった。出来ればそっとしておいて欲しかったのだが、これではそれなりに走ってしまってその鼻っ柱をへし折って、
 ——また変な恨みを買い兼ねんなぁ。
 一見してもてそうなイケメン君を打ち負かせば、後が面倒な気もする。それは「お前如きが」などとあちらこちらで言われてきた身の切なさだ。それでも向っ腹は収まらないのだから仕方ない。俺はぼんやりした見た目程、そんなにのんきでもなければ人間が出来ている訳でもないのだ。他人に言わせるとそれが甚だ意外らしいのだが、俺から言わせるとそれは勝手な思い込みというヤツである。
「持ちタイムは?」
「僕のですか? 三分五三です」
 関東大会まで進んだとか。が、インターハイには行けなかったそうだ。
「へぇ。日本の高校記録ってどのくらいなんだ?」
「三分三七です。日本記録と殆ど変わりませんよ」
「そうか」
「何です?」
「誰が勘違いしたモンか知らんが、不意打ちって言われたくないから言っとくとな——」
 米空軍の体力テストで測定する記録は、腕立て、腹筋、懸垂と一.五マイル走なのであって、一五〇〇mではない。
「え? じゃああの六分一桁の記録って——」
「メートル換算で二四〇〇m分だ」
「えっ!? ウソォ!?
 流石にその意味が分かったらしい。そのスピードは一五〇〇mだと三分五〇秒前後だ。しかもそれを俺は、やはり土のトラックでジャージ、つまり今と同じ条件でやっている。それこそ単なる体力測定での一幕だ。全天候型(オールウェザー)のゴムのトラックに、中距離専用スパイクとランシャツ・ランパン。そんな整った環境と条件で出したような軟弱な記録ではない。競技環境が恵まれている日本で、それを享受出来る事が当然だと思っているうちは、俺の言葉では
 ——世間知らずのおぼっちゃまだな。
 という事になる。日本での当たり前は、世界では稀有だったりするものだ。
「世界には、競技外でも速いヤツなんて結構いるモンだ」
 井の中の蛙と言っては怒るだろうが、悶々とそんな事を募らせていると、それを体感させてやりたくなってしまった。
「おーい一組目、締め切ってスタートするぞぉ——」
 そこへ体育教師ののんきな声がかかった。その声同様、主幹教諭室の窓から紗生子がニヤニヤしながらこちらを眺めている。先の将来がある若者の事を思うと少し気の毒に思うが、
「練習不足で流石に日本記録は無理だろうが、上司の手前もあって手を抜けない。悪く思うなよ」
 お灸を据える、という言葉も存在する事ではある。
「マジで!?
 隣のエースの声が上擦ったようだが、ようやく少しアドレナリンが出て来たようで周囲の雑音が消えていく。元々長年の常時警戒の癖で、俺に好不調の波はない。そんな言い訳に逃げるようなら、とっくの昔に死んでいる身だ。そして紗生子の言う通り、ここ一か月の丘勤務で身体的には休息は十分だったりする。
「競技者ってのは、自分に向き合ってなんぼだろう?」
 敵が味方がなどと、不確定要素に振り回されているから好不調に波が出るのだ。
「マジだよこれちょっとぉ」
 そんな泣き言らしき声がぼんやり耳に届いた時、体育教師の「ヨーイ、ドン」の声が聞こえた。

 陸上部のエース完敗の報は、瞬く間にその日中に学園内を席巻した。体力テスト全種目満点の快挙もさる事ながら、運動部の雄の一角を陥落させた事のショックの方が衝撃的だったようだ。
 決して満足に整備されているとはいい難い、辛うじて距離と形状は適正なだけの滑りやすい土のグラウンド。競技場のゴムのトラックとは似ても似つかないその悪条件下に加えて、使い古しのジャージ姿に何の変哲もないランニングシューズ履き。一言で垢抜けない市民ランナーを呈していた俺は、誰の目にも一目で分かるような軽快さで快走してやった。独走である。終わってみれば、競技用スパイクが履けずタイムを落としていた陸上部のエースに大差をつけ、しかもそのベストタイムを上回ってやった。周囲が更に驚いたのは、そのタイムで走りながら暗算していた事だ。
 ()の字型の校舎棟の上辺は【北校舎】と呼ばれるが、その二階の一角にある主幹教諭室から高みの見物をしていた紗生子は、スタートするなりグラウンド傍にある【デジタルサイネージ】を遠隔操作して、小面倒臭そうな五桁の加減算や三桁の乗除算を出し始めたのだ。
 ——め、めんどくせぇ!
 と思いながらも、答えろという事なのだろうから無視する訳にもいかず。疾走中の身ながら答えを絶叫させられては、その答え合わせを見学中の生徒達が両腕で示す。絶叫ついでに文句の一つも吐いてやろうと思ったが、そもそも俺の声は指サックのマイクを通して紗生子のイヤホンに届くのだから、それすら叶わない。せめて、正答のオンパレードで問題を次々に更新してやった。
 認知症予防で効果的とされる【デュアルタスクトレーニング】の一例だが、これがアスリートなど極限状態を職場とする者のそれともなるとこんなハードワークだ。それは俺の前の職場(・・)でも例外ではなく「それを怠ける者は死ぬ」という至ってシンプルにしてシビアな現実を突きつけられていたものだった。当然それを強要される事はなく、やってもやらなくても自由なのだが、能動的に出来ないヤツは脱落(・・)していく。トレーニングなど、考え方によっては時と場所を選ばず出来るのだ。いかに自分を見つめ、確立していくか。自分でいうのも何だが世に数多いる職業人の中で、極一握りの領域に存在するそんな大人達のそんな息苦しさを、井の中の蛙共に少しは知らしめる事が出来たものか。小難しい秀才達の事ならば、ハードワークを積み重ねる必要に迫られる仕事がどんなものなのか。精々その豊かな知能で想像してくれた事だろう。
「こんな所で脳トレやらされるなんて——」
「まずは体力で異論を唱える連中を潰せたな」
 事後、主幹教諭室に戻って涼む俺の前で紗生子はご満悦だった。佐藤先生やワラビーからの報告によると、早速教職員や生徒間での評価が肯定的に変化してきているらしい。総じて、
「『バカっぽいのに実は凄い?』らしいぞ」
 とか何とか。バカだけ余計だ。それはまあおいておくとして、常にタフでクレバーさが要求されるパイロットの中でも、特に通常ならざるテストパイロットの一面をちらつかせた甲斐が少しはあったようだ。
「まぁ市井の民なら驚くだろう」
 という紗生子は何処までも機嫌が良かった。一.五マイル走の記録を一五〇〇mのものと誤情報を流したのもわざとだろう。そもそもが、そんな事が分からない紗生子ではない。
 と、いう事は——
 俺に対するアンケート結果に苦笑しながらも、やはり何処かの何かが気に食わなかった、という事らしい。
「何せ米空軍が誇る【タフネス】だからな」
「ホントあなた様は、何処でそれを抜いてくるんですか?」
 何処まで覗き込まれたものか。
「私が知らない事はない、と言っておこうか」
「——じゃあついでに聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「宇宙人って、もう地球にきてるんですか?」
「それは君の本国の本領だろ?」
「だって知らない事はないんじゃ——」
「知ってても口にしちゃいけない事ってのがあるんだ世の中には」
 何処までも食えない女だ。
「君の国の本領の事は知らんが、男の本領はとどのつまりが気合と根性だろう? それが示せた今日の一件で、君に対する風向きは変わっただろうさ」
「はあ」
 そんなものだろうか。まるで実感が湧かないのだが。その代わり、体調は頗る良い事が分かった。学生の生活リズムに合わせたここ約一か月の規則正しい生活で、長年の不規則業務に加えて前任地でのハードワークによる各種疲労が抜けつつあるようだ。
 まぁトレーニングぐらいは——
 合間を見てそろそろ再開しても良い頃合いだろう。でなくては、またいつ何時原隊復帰を仰せつかる事か分かったものではない。

 翌日の夕方。
 俺はアンにつき添い、武術系の部活動の見学に駆り出された。
「本当は剣道か薙刀に入りたいのに——」
 紗生子に止められている、とか。先日のスパイ騒動冷めやらぬ状況下でこの上怪我などされては
「面倒事が増えて面倒だ」
 と、一蹴されたらしい。
「『国に帰って思う存分やれ』だって。あんまりだと思いません?」
 そもそもが、アンの周囲はいつも何処かそわそわしているのだ。その点については俺も紗生子に同意だった。
「はぁ然いですか」
 それにしても紗生子とアンの関係は、いつも決まって何故か紗生子が上だ。
千鶴(理事長)さんを介して知り合ったんだけど、今じゃ紗生子の方がつき合いが長くなっちゃってね」
「はあ?」
「何で紗生子に従うんだろーって、先生の顔に書いてあるから」
 アンといい紗生子といい。加えて理事長、佐藤先生、ワラビーも含め、気がつけば俺の周りはどうしてこうも聡く出来る女ばかりなのだ。
 ホント——
 やはりこの任務は、未だに場違いのような気がしてならない。
「それにしても、昨日凄かったねぇ!」
 体力テストの事のようだ。
「あれで紗生子がすっごく喜んでてさぁ。その気になれば『宇宙飛行士になれる』って言ってたよ?」
 冗談ではない。人体実験めいた任務はテストパイロットだけで沢山だ。今や宇宙にも拡大しつつある各国の覇権争いの事ならば、使い勝手のよさを買われて雇われている俺の身分で宇宙などを本気で目指すと、何をやらされるか分かったものではない。が、アンはその国の御大将に近い位置にいる男の愛娘だ。迂闊な事は言えない。
「いやぁ、あんなモンでなれる程甘くないですよ」
 現役飛行士達に怒られます、などと月並みな合いの手を入れると、
「まぁね。シーマ先生ったら紗生子のお気に入りだから、転勤されると困るだろうし」
 予想外の返答だ。
「はあ!?
 何の伏線、としたものか。流石に顔をしかめたが、
「仕事にかこつけて私物化しようって魂胆見え見えだから悔しくって。それで連れ出したって訳」
 と言われると、更に穏やかではなかった。とはいえここも思い切り校内な訳で、外出すら儘ならないアンの御身である。そう思うと、少し気の毒な気もするのだが。
「今ちょっと可哀想って思ったでしょ!? だったら今度近場でいいから外出したいんだけど!」
「ちょ、ちょっとクラークさん!? みんな見てますから」
 体育館とは別に立派な武道館を持つ学園のその施設は、男子寮の目の前にあった。つまりは学園敷地では西半分の付属建物群の一画にあり、北西部に当たる。
 因みに学園敷地の西半分の中央部にも、外周から隔絶された格好で東半分のグラウンド並みの広さを有する天然芝の【多目的広場】があるという開放感だ。その多目的広場を挟んだ武道館の対面には、俺が「キモい監視を行っている」という謂れなき不名誉の温床たるプールがある訳であり、武道館の東隣には全校生徒が余裕で全員入る事が出来る何処ぞのコンサートホールの如き講堂が。その更に東隣には、やはり俺が「特別扱いを受けている」という謂れなき抗議の温床たる食堂や図書館などの厚生館があり本館に至っていた。
 で、その武道館の一角のその端っこに、場違い感丸出しでちょこなんと座っている二人の前では、アンが入りたいらしい剣道部がけたたましい気合と共に互角稽古に精を出していた。それが何だか当てつけめいて見えるのは、気のせいではないだろう。
 アンの見学依頼に武術系各部が色めきたった、とは、俄かに俺の耳にも伝わってきた風の噂である。何せ圧倒的に成熟した大人の女感が半端ないアンである。既に【ミス太史】の名を不動のものにしているその娘が見学に来るとあっては、燃えない野郎などいよう筈もない。なのに、
「だってつまんないんだもん」
 進んで見学に来た筈のアンが、何処か心ここにあらずで俺と雑談にかまけている。美しい正座を崩さず、神妙な面持ちで見学していたのは最初だけ。正座こそしているものの、今や隣でぼんやり胡座をかいて座っている俺の腕にしがみついては「きゃっきゃ」言ってはしゃいでいるのだ。
 ——まずいなぁ。
 各部の野郎共の目が痛かった。
 それに加えて、紗生子がまたこっそり俺のコンタクトやマイクを見聞きしているかも知れない。何であろうとアンは警護対象だ。それがはしゃいで予期せぬ動きを見せるかも知れない状況を、普通の護衛なら放置しない。となれば、見聞し兼ねた段階で俺のイヤホンにもたらされる紗生子の声色は、想像するまでもない。
 俺だって——
 好きでやっている訳ではないというのに。正直、こういう絡み方は堪えて欲しいものだ。そもそもアンは、三〇半ばのオジンには何をおいても眩し過ぎる。
「ちゃんと見学しないと。武術系の部活は特に作法にうるさいですから」
 辛うじてそんな忠告を吐くと、
「そんなの知ってる」
 少しふてたアンが、また姿勢を正した。この姿勢の良さは、実母の実家故だろう。紗生子によるとアンは、実母の実家が御家流【三谷流故実】の強者らしかった。だからこそ武術にも興味がある、という事だ。
「先生より強い子いる?」
「みんな立派なもんでしょ」
「またまたぁ、ご謙遜を」
「いやいや」
「見たいなぁ、達人域の功夫(カンフー)
「何かよからぬ事考えてません?」
 こんな具合に俺の素性は、紗生子やアンによって拡散されているといってよかった。護衛なのだから対象と多少の絡みはやむを得ないとしても、ALT(建前の仕事)との懸隔が余りにも大きい事もそうだが、何よりアンの存在感が大き過ぎてその興味が傍に侍るだけの只の護衛である筈の俺にまで及んでしまっているのだ。
 世間とかけ離れた所にいた無学の体力バカの事など、本来ならば秀才共の興味を引く謂れなどない筈が。当たり障りなくひっそりやり過ごしたい任務だったというのに、甚だ迷惑極まりない。今もそのアンのお陰で、野郎共の目が痛いのだ。
「だって、先生の事理解してもらった方が絶対やりやすいと思うし」
「何がです?」
「任務に決まってるじゃない」
 他にあるの? と、まるで紗生子の如き躊躇ない突っ込みだ。流石に長年のつき合いだけの事はある。
「まぁでも確かにみんなが認めてくれると、紗生子じゃないけど私も嬉しいかなぁ」
 私も先生好きだし。と、只ならぬ事をライトに吐けるところは本家本元の欧米系だ。
「あんまりおじさんをからかうもんじゃありませんよ」
「ホントなのにぃ! 乙女の気持ちをむげにするとこうよ!」
「あたたたっ!」
 大人びているとはいえ茶目っ気盛りのハイティーンは、美貌と可愛らしさが複雑に入り乱れている。ついその雰囲気に飲み込まれていると、腕を取られて極められていた。武家故実にはやはりそれなりに武術の嗜みもあるようだ。
「何か、普段はホント冴えないよねぇ先生」
 俺が本気で痛がるその声で、ぱっと手を離したアンがまたしがみついてきた。
「でもそのギャップがいいかも。バカっぽくて冴えないのに、何気に実はスゴ強って何か癖になりそう」
「ちょ、ちょっとまた——」
「紗生子が言ってたの。『柴犬みたいで中々愛いヤツだ』って。何だか分かるわそれ」
「もうすぐ四捨五入で四〇のおっさん捕まえて言う事ですかね?」
「そんなウブでイモいところがまた可愛い」
 この様子だとこの主従は、俺の知らないところで俺の事を随分好き放題言ってくれているようだ。それにしても、しがみつかれる腕に伝わる柔らかさがこれまた只事ではなく、参ってしまう。
 これが——
 一六歳の色香とは。そういうものも
 ——敵わん。
 極力遠ざけて来た俺だ。それで生まれる愛憎が重くて、これまた面倒極まりないのだ。
「積極的なスキンシップは、日本じゃ好まれませんよ」
「流石に日本に詳しいね」
 でもちょっとアップデートされてないなぁ、などと、何処か含みを感じるその言い回しと共に、ようやく再度解放された。同時に目の前の剣道部を始め、野郎共の悪意に満ちた目が突き刺さる。そういう目は気づきやすいものだ。良くも悪くも、強い念が込められているせいだろう。

 同日午後六時。
 部活終了まで武道館で見学したアンにつき添っていた俺は、その主を置いて一人でグラウンドの端を選ぶようにとぼとぼと、女子寮への帰途についていた。余りベタベタつき纏っていても、建前上ALTの身であり不自然だ。もっとも本来の任務はバレバレなのだが、やはり日本での事ならば建前は大事
 ——としたもんか。
 その建前を忘れて任務に障りが出てもまずいだろう。それに、正真正銘の潜入警護員もいる事ではある。
 で、現場責任者たる紗生子に伺いを立てて、アンが本来所属している文芸部までつき添った後は警護から離脱した。武道館の見学で終わっていたならばその隣は寮なのだから、何もわざわざ東側にある校舎に戻らなくてもよかったものを。よりによって文芸部の部室は()の字の右辺となる【東校舎】の一角にあり、校内を西の端から東の端まで歩かされた格好だ。
 全く——
 やれやれだ。
 大体が夏季の部活は午後六時までと決まっており、何処の部も片づけ後は早々に帰らなくてはならないのだが、
「まあ全然顔を出さない訳にもいかないし」
 文芸部室は毎日開放されており、出るも出ないも自由らしい。その緩さを気に入って入部した、とか。
「ホントは——」
 自他共に認めるヲタクでもあるアンは【漫画研究会】に入りたかったそうだ。が、残念ながら当校にそれはなく。その代わりに入部した文芸部には、
「あっ! シーマせんせーだぁ!」
 何故かすっかり好意を寄せられるようになった【ワラビー】がいた。無論、文芸部所属はアンの警護のためだ。
「——こっ、こら。寄り過ぎるな」
 俺を見つけるなりアンに構わず、
 きゃいきゃいなどと——
 今時の若娘らしく茶目っ気満点で、俺の腕にしがみついて来る。実はこれで二〇代とかいうその童顔といい、肌の張り艶といい、はち切れんばかりの若々しさといい。要するに、しがみつかれて困る程の
 ——胸を押しつけるな胸を。
 という事だ。この辺りはアンといいワラビーといい、開放的というか何というか。
「とにかく、下校時間までには帰りなさいよ——」
 全く、などと軽く悪態を吐いておく。とりあえずさり気なく困惑アピールを盛り込んておかないと、また何を言われたものか分からない。
「小言だけは、何かセンセーらしくなったなぁ」
 との図星にも、
「口を動かす余裕があるなら帰り支度をしろ」
 月並みな小言で応酬しつつ。後はワラビーに任せると、ようやく解放された気がした。
 ——やれやれ。
 悪意の目に晒されるのは慣れているとはいえ、やはり面倒臭い。俺は見た目通りの平和主義者なのだ。が、実態は良くも悪くも紗生子の言うとおり、急激に自分に向けられる目が変わりつつある事を自覚させられている昨日今日だ。
 アンやワラビーのように、何故か女子には一定数好意的な視線が向けられるようになったのに反し、男子からはその僻みのような悪意に晒されるようになってしまった。こんなおっさんに前途有望の若い、それも日本男児たるものが、
 ——嫉妬してんじゃねーよ。
 と声を大にして言いたいところだが、それを一見して素朴で能無しそうな俺が言ってしまっては嫌味というものだ。何せ脳筋のバカ軍人と思われている事でもある。もっとも個人的にはその立ち位置で一向に構わないのだが、それでは面白おかしくアンケートに戯言を書かれる始末だし上司も上司で何か気に入らないようなので、何とも立ち位置の匙加減がとにかく
 ——めんど臭い。
 それに尽きた。
 その中で、今日の部活見学のあのザマである。
 妙な事がおきなけりゃいいが——
 と言う事で、アンと別れてからはなるべく生徒達の目につかないよう、グラウンドの端をこっそり歩いて帰寮中という訳だ。
 校内は各部活の熱が一気に冷め、今はてきぱきと静粛に片づけをしては下校準備をする者だけになっている。
 さっさと帰って——
 飯か風呂にさせてもらおうと目論んでいると、
「シーマ先生」
 と、野太い声に呼び止められた。振り返ると、剣道部、柔道部、空手部、薙刀部の如何にも精悍そうな男子生徒達が揃っている。それぞれ道着を着込んだままだ。
「どうした? 早く着替えて帰らんと主幹先生にどやされるぞ?」
 夜間帯の学園内は名実ともに紗生子が総責任者であり、つまり女帝である。
「先生、今度稽古つけてもらえませんか?」
 そのストレートな言い方は、秀才らしからぬ単刀直入さで意外だったが、要するに
「何か、気に入らんか?」
 という事らしい。懸念している尻からこのザマだ。
「いえ。只、陸上部のエースをやっつけた人が『実は猛者』という噂を聞きまして。武術家としての興味です」
 ——やっぱし。
 結局、それが気に障ったようだった。プライドが高い連中の言いそうな事だ。だからわざわざ、この時間では誰も歩かないグラウンドの端を歩いていたというのに。
 建物内は上履きで、近くには本館があれば、生徒達が殺到しがちな下駄箱がその一階にある。が、帰宅部の連中はとっくに下校していて今はもぬけの殻だ。一方で部活生達は、部室に戻って帰り支度している。文化部系はそれが校舎内、体育部系は体育館の地下にあるため、グラウンドを歩くヤツなど今は誰もいない筈だったのだが。
 ——ってぇのに。
 わざわざそこへやって来た、という事は、それ程に気に食わなかった、という事のようだ。確かに向っ腹に任せて大人気なかった俺にも罪はあるが、それ以上に面白おかしくそれを吹聴しているのは、
「分からない人達ねぇ」
 いつの間にか背後に迫っていたアンであり、その従者の筈の紗生子である事は最早疑いようもない。
 これは——
 まずい。
 途端に自分でも分かる程目が開き、背中に寒気が走った。梅雨末期の盛夏。寒い訳がない。それは何かの直感だ。
 いくら校舎に囲まれたグラウンドとはいえ、その高さは三階層であり精々一〇m程度だ。郊外とはいえ狭苦しい東京の事ならば、住宅やビルに塗れる雑多な世界において、何処ぞの高層建築物に上がってしまえば殆ど丸見えも同然である。加えて夏の夕暮れ時。校内の大半は一様に、目も眩むような西日の鋭い逆光に晒されている。
 一人だからこそ、こんな開放的な場所を歩いていたのだ。アンを伴っていれば間違っても通らない。そのアンが、まさか一人で自ら足を向ける事までは想定していなかった。アンの移動は極力建物内を使わせていた今までの気遣いや言いつけが、
 ——台無しじゃねぇか。
 周囲を建物で囲む学園内の各建築物は全て連結していて、特に三階部分と校舎の四階部分に相当する屋上などは階段を昇降するまでもなく同一階層で一周する事が出来る。二階に至っても、正門前と多目的広場の出入口である本館南寄りが繋がっていないだけだ。更に各施設は地下でも繋がっていて往来可能である。つまり寮生は、わざわざ外を歩かずとも登下校出来るようになっているというのに。
 そんな説明臭い思いが脳内を駆け巡る中で、全くお構いなしのアンの
「あなた達が適う訳ないでしょ?」
 その声がした瞬間、逆光の極一部が微かに煌めいたように見えた。良くも悪くも、何らかの強い念が込められているせいでそう感じたのだろう。少なくとも良いものではない。
「伏せろ!」
 俺の口が叫ぶと同時に、イヤホンからも全く同じ叫声が轟き鋭く鼓膜を突き刺した。
 俺の声に反応したのはアンだけだ。その頭を抱え四つん這いになった瞬間後、立位だった俺達の頭や胴があった辺りを鋭利な何かが空気を切り裂き通過した。校舎側の地面は古びたコンクリートタイルで、そこに
【チュン!】
 という刺突音が三発程、耳を突く。
 同時に、グラウンドに面した北校舎二階の窓の一つが乱暴に開け放たれた。たまたま主幹教諭室の直下にいたようで、その開放音と共に、
【バン!】
 と、爆竹のような破裂音が一発。サプレッサーつきライフルのそれは紗生子の応射だ。
 次が——
 来る。初弾はたまたま対面で立ったままの四人の学生武術家の間を抜けていた。文字通り何が起きているのか全く飲み込めていない間抜け共だ。
 屈んだままの俺は次の瞬間でその四人の足を纏めて刈った。揃いも揃ってその四人が尻餅をついたところで次の弾着が主幹教諭室の窓を襲う。パラパラと細かいガラス片が落ちてくる中、間髪入れずにまた紗生子の応射が繰り出されると、
(ましら)文吉(ぶんきち)だ! 総員確保!」
 猛々しい紗生子の地声が直に耳に届いた。どうやらヒットさせたらしい。周辺に展開しているCC本部員に指示を出しているのだろう。
「先生、もういいよ」
「あ、ごめん!」
 間抜け四人組の足を刈った後の俺は、その勢いでアンに覆い被さっていた。
「ああっ!?
「抱きついてるし!」
「セクハラだ! セクハラ!」
 その一部分を四人組に切り取られ、早速追及が始まる。都合がよい事には目が利くらしい。
「何言ってんのよ! アンタ達が間抜け面して突っ立ったままだからこうなったんじゃないの!」
 制服をはたいて砂埃を払いながら立ち上がったアンのいう通りだった。俺と一緒に伏せてくれていれば、次のアクションでアンだけを掻っ攫えたのだ。狙いはアンなのだから、その対象さえ逃してしまえば他の生徒が狙われる事はない。が、間抜けにも立ち尽くしたままの連中を放置したままだと、逃げるアンの代わりに次弾が当たる恐れがあった。だから仕方なくリスクを冒して警護対象でも何でもない連中の身を助けた。
 幸いにもアンの反応は慣れたもので素早く、紗生子の援護も極めて迅速だった。逆にその援護がなければ次弾は容赦なく射線上の視界の邪魔になっていた四人組を襲っただろう。生意気な生徒達だが、建前上は先生であり生徒の関係だ。無視出来ない側面もあった。
「武術家とか何とか言って、所詮は平和ボケした日本の学生よね」
「はあ?」
「何言ってんの?」
 銃社会の本国では、どんな状況でも「伏せろ」と耳にして伏せないヤツはいない。口々に疑問を呈する四人組は、まさに知らぬが仏だった。主幹教諭室の窓ガラスが何故か割れて、地面に落ちて来たぐらいにしか理解出来ていないようだ。
「盾にもなれない連中が偉そうに。他人を僻む前に武術家なら自分の身ぐらい自分で守りなさい! それが出来ないのに先生に挑むなんて一〇〇年早いわ!」
 呆気に取られる四人組を前に、言う事を言ったアンから
「先生、紗生子が呼んでるから行こ」
 乱暴にも手を引かれる。その勢いでその口が耳元に迫ったかと思うと、
「流石、いざとなると頼りになるね」
 好きになっちゃいそう、と年端もいかぬ娘に只ならぬ軽口を叩かれた。対してそれなりに年輪を重ねている筈の俺は、不覚にも一瞬にして激しい動悸に襲われるザマだ。

「【マシラノブンキチ】って古風だなぁ」
 事後の主幹教諭室で、俺と共に紗生子から敵方スナイパーの説明を受けていたアンが呟いた。確かに幕末期のその岡っ引きを知るアンもアンだが、それを口にする紗生子の思考も中々渋いと言わざるを得ない。
 それは紗生子が銘々した【作戦コード】だった。壁面パネルには、先日の女子寮での銃撃戦後に逃走していたアンの元隣室者のモンタージュが投影されている。その可憐な少女は小柄で、銃を持つような勇ましさなど微塵も推測出来ないような柔和さだ。そして、
「この隣のおっさんは何なんですか?」
 その隣に並んで投影された、小柄の目つきの鋭い毛むくじゃらの男。
「同一人物だ」
「——誰と?」
「だからこの二人がだ」
「はあ?」
「だー鈍い!」
 つまりは整形技術の賜物、という事らしかった。
「ウソでしょ!?
 共通事項といえば【小柄な人間】という部分だけではないか。おっさんという表現は、実はこれでもかなり配慮したもので、その実態は類人猿とか原人系に近い形だというのに。それが、
「こんな可愛らしい女の子に化けるって——」
「と言いたいところなのは分かるが、DNAも合致してるしな」
 この世界(スパイ業界)ではこの程度は常識らしかった。
「し、信じられん」
「こんなんで驚いてたらやっていけないぞ」
 という事は、紗生子にしろ、佐藤先生にしろ、ワラビーにしろ【オリジナル】ではないのか。
「【オリジナル】のエージェントなんて、そういるモンじゃないしな」
 と、やはりそこを読まれる察しの良さである。
「でも私は【ついてない】ぞ」
 一応、生物学上の女らしい。
「——って事は」
「ついてたらしいぞ【文吉】は」
「ぐげ」
 生徒に成りすました【文吉】が入寮していた女子寮最上階の特別室は、浴室完備型の部屋だ。そこまで気を遣う必要に迫られなかった、という事だろう。モンタージュを見ながらも毛むくじゃらに塗れたそれを想像してしまい、つい顔をしかめるとアンが噴き出した。
「ここまで極端なのは流石に余りないけどね」
「アンは調子に乗り過ぎだ」
「寮から逃がして脅威にしちゃったのは紗生子じゃない。私は囮になったげたのに」
 アンは迫るその脅威を察した上でやっていたらしい。頭脳に限らず度胸も大したものだ。
「その囮がやられたら元も子もないだろう」
「シーマ先生がいるから大丈夫だって」
「お前はそれでよくとも、周りの生徒が死んだらまずいと思わないのか」
「別に。私に近づこうってんなら命懸けって事を認識させたげただけよ。とはいえあの連中、最後までよく分かってなかったけど」
 仮に気づいていれば、今頃校内は大騒動だ。
「まぁお前がそれで納得してるんなら好きにすればいいが。日本側(・・・)は、言う事聞かずに自ら虎穴に飛び込むようなヤツを守る義務はないしな」
 何でもアンの実父たる元副大統領から、紗生子が直接その言質を取っているらしい。
 ——って。
 一体紗生子は、どれ程の身の上の人間なのだ。ともあれ通りでアンに対する立ち位置も上な訳だ。
「それでお前自身がやられたら、その護衛たるお気に入りの【シーマ先生】はどうなるだろうな?」
「それは——困る」
 延々続くと思われた静かな言い争いが、思わぬ形で終わった。
「いやそこは! バッサリ切り捨てましょうよバッサリ!」
 自分で自分を切り捨てろとか、余りにも情けないが、アンの身分からすれば俺の役回りなど、そんな小物の中の約一名に過ぎない。
「だってぇ、ああでもしないと紗生子の時みたいに抱き抱えてもらえそうになかったしぃ」
「何でもいいが、そうは言っても日本側もお前に日本で死なれちゃ結構困るんだ。そういう事は国に帰ってからやってくれ。留学を切り上げれば、後は好きにねんごろになれるぞ?」
「そうなんだけどぉ——」
 日本のサブカル三昧も捨てがたいとか何とかで、真剣に悩んでいる。
「まぁこんなヤツだ」
 と、紗生子が溜息してみせた。
「はあ」
「とりあえず、確保出来たのはよかったがな」
 すばしっこい身の熟しで有名だったという【猿の文吉】は、別件でもそれなりに荒らし回っていたらしい。普段は言動に熱を感じにくいCC本部員達も、確保時には俄かに沸き立っていた。驚かされたのは、悪い冗談のような文吉の見た目のギャップだけではなく、その射撃の精度だ。避ける事が出来たのは本当に偶然だった。あの瞬間で伏せていなければ、確実に初弾でやられていた。
「それにしてもよく躱せたな」
「反射光が見えた気がしたんです」
「逆光の中でか?」
「ミラーガラスの反射光が、何かの拍子に文吉の携帯品に当たったのかも知れません」
 主幹教諭室のガラスは外から覗かれない仕立てだ。それが幸いした。強烈な西日が偶然にもスナイパーに向かって跳ね返った、という幸運。それがなければまんまと撃たれて死んでいた。
「目の良さはホント流石だな」
「ただの勘です。それよりも主幹の射撃精度の方が——」
 窓を開け放ったのと殆ど同時の、殆ど盲打ちだったにも関わらず、紗生子の応射は初弾で文吉のライフルのスコープを粉砕したらしい。で、次弾で肩を撃ち抜いたそうだった。その早さと正確さがなければ間違いなく、文吉の次弾はやはり俺とアンを狙っただろう。
「【M700】は撃ちやすいからな」
 米国レミントン社が誇るそのライフルは、フルオートやセミオートが増えている昨今において、単純な構造で信頼性と精度が高いボルトアクション式ライフルとして名を馳せている。これもやはり、
「シェアリングしてるんですか?」
「SATとな」
 道具を選ばない使い熟し振りは大したものだった。が、
「まさかライフルまであるとは」
「当たり前だろ。今回みたいに外から狙ってくる事もあるしな」
 その敵が使用したのは【AK-47】。通称【カラシニコフ】シリーズの代名詞ともいえるそれは、世界で最も使用された軍用銃としてギネス登録されている、とか。銃自体の単純な性能の高さもさる事ながら、劣悪な環境下での生産性や耐久性にも秀でており、軍に限らず反社会勢力の間でも多用されているテロリズムを象徴する向きもある銃だ。
「アサルトライフルを狙撃に使うって、何か【デュー○東郷】みたい」
 長距離射撃には向かないそれをその世界的なスナイパーが使う理由は、アンによると【ワンマンアーミー】を意識しての事らしい。多数に襲われた時、連射するためにそれを使う、のだとか。そのプロ意識は、僭越ながら多少の経験を有する俺としても同意であり敵も然る者だが、それにしてもアンの詳しさだ。
「【M16】じゃなくて、カラシニコフってのがミソよ」
 M16は米国アーマライト社製であり、劇中でもゴ○ゴはこれを使っているらしい。
「つまりはそっち系の陣営(・・・・・・・)の仕業って事ですか?」
「それを調べるのは本社の仕事だ」
 極東圏のスパイである事は分かっているようだが、モンタージュの横に表示されているステータスの詳細は、見事に不明のオンパレードだ。それ程の、中々の大物らしい。
 ——この少女趣味のおっさんがねぇ。
 と勝手に決めつけたが、要するにスパイの世界の奥深さという事だ。
「我らはとにかく、この我儘なお姫様(・・・・・・)を守り抜くだけだ」
 すると、応接ソファーに足を組んで堂々と掛けていたアンが矢庭に立ち上がり、大人しく自分の机の椅子に座っている俺に脈絡なくしがみついて来た。
「うわっ! ちょっとクラークさん!? 止めなさい!」
 毎度毎度、横っ面に押しつけられる胸の膨らみが只事ではない。
「アンって呼んでよ」
「ホント随分とお気に入りだな」
 紗生子が興ざめ気味に嘆息した。
「自分だって気に入ってるくせに」
「どういう意味だ?」
「柴犬だとか、紗生子普段絶対そんな事言わないし」
 俄かに暴露大会めいてきたかと思ったのも束の間、
「いらん事を言うヤツだな」
 冷めた表情そのままの紗生子が、使い終わって間がないM700を無造作に取り出し突きつける。
「わ、待った待った! 巻き込まれるのは御免です!」
「ったく、素直じゃないなぁ」
 ホントに取っちゃっても知らないよ、と嘯きながらもアンは一人出て行った。
「あ——」
「大丈夫だ」
 もう当面、周辺に怪しい目はないらしい。
「周辺に限ってはな」

 同日夜。
 東京二三区内、某所。住宅街の一画で、俺は車上待機していた。
「しかし、こんなユニフォームまであるんですね」
「自由自在だ」
 軽バンの後席で嘆息する紗生子とお揃いのそれは、一見して何かの工事の作業員に見えなくもない繋ぎの作業服姿だ。が、濃紺で夜陰に紛れるようなそれには工具めいた物が一切なく、闇に親和性を感じざるを得ない。それどころか、ベストやウエストポーチなどのポケットというポケットには、武器弾薬がてんこ盛り。一言で、各国の特殊部隊と呼ばれる組織が纏う装束に近かった。
「君は流石に着慣れたもんだな」
「そうですか?」
「私はどうも煩わしくてな」
 動き辛いのだそうだ。
「私の最大の長所たる俊敏な動きに、この重装は邪魔なんだ」
「はあ」
 で、俺はその紗生子の補給要員(荷物持ち)という落ちだった。傍には五〇Lクラスの軍用リュックを携行させられている。在中品は当然武器弾薬で、
 ——地味に重いんだが。
 それにしても何でまたこんな事になったものか。それは夕方、アンが主幹教諭室を出て行った後に知らされた極秘司令だった。
「無敵組?」
「関東一都六県で数百人の組員を傘下に抱える暴力団らしい」
「それが何か?」
「【猿の文吉】をサポートしていたそうだ」
「暴力団が、ですか?」
「ああ」
 で、CC本部がその実態解明に乗り出す事にしたとかで、それに紗生子が割って入ったらしい。
「実態解明、ですか」
「まぁそれは本社がやるんだがな」
「そう、ですか」
 では聞くまでもない、と思っていると、それを察した紗生子が思いがけない事を吐いた。
「制圧するのは我らだからな」
「はあ!?
 訓練がてら、紗生子がその組事務所の本部に踏み込む事を希望した、とか何とか。
「相手は素人に毛が生えたような連中だが、今回ばかりは流石に捨ておけないからな」
 何せその身の安否が、日本の極近い将来を揺るがし兼ねない対象を襲った人間をサポートした組織である。
「逆鱗に触れたって事ですか」
「そういう事だ。警察に任せたらいつの事になるやら分からんだろう」
 という事は、実態解明という名の
「壊滅作戦って事ですか?」
「珍しく察しがいいな」
「そりゃあ、警察に任せないんだったら——」
 それ以外に考えられないではないか。
「——で、何人で突入するんです?」
「だから我ら二人だよ」
「ウソでしょ!?
「こんな事で冗談言わんぞ私は」
「【無敵】が売りの組なんでしょ? ヤバくないですか?」
「それは組長の苗字だ。名前負けとはまさにこの事と言わんばかりだろう? 止めを刺す身としては実にお気の毒な事ではあるんだがな」
 世の中には、そんなベタな苗字がおあつらえ向きにも存在するらしい。そのベタな組事務所へ紗生子と俺が二人で突入し、周辺に展開するバックアップの本部員が討ち漏らしを処理。二人で制圧後、本部員が事態を収集し撤収。紗生子の説明は、ざっくりとそれっぽっちだ。
「——で?」
「以上だ」
「二人で制圧出来なかったらどうするんですか?」
「まさかな。素人相手にそれはない。こんな連中にやられるようならそれまでだ」
「随分とまあ——」
「簡単に言う、か?」
 で、今に至る。
 作戦開始は、午後一一時。周辺に展開した本部員が、組事務所の電源をダウンさせて停電を起こす。紗生子と俺は、夜間作業中に誤って組事務所の電線を断線してしまった作業員の体だ。とはいえ当然作業めいた事など何一つしておらず、組事務所に程近い車道で待機しているだけなのだが。
「ナンバー晒したままですが——」
 通報されたら面倒だ。
「気遣い無用だ」
 どういう仕組みか知らないが、警察へ通報されれば巡り巡ってCC本部に連絡が入るようになっているらしい。その前にパトロール中のパトカーがやって来れば、職務質問を受ける前に移動すればよい
「——だけの事だ」
 車の外装に社名などの記載はなく、外から見える前席も素気ない。が、一般的なのはそこまでで、窓がない後席には周囲の異変をつぶさに把握して余りある装備があった。モニターや端末を始め、無線やレーダー機器などちょっとした作戦指揮車だ。その中のモニターの一つに、ターゲットたる組事務所を捉えている。
 それなりの敷地を有する仰々しい御殿とはいえ、周囲は閑素な住宅街の事。少数で突入するならガスを使って有利に展開したいところだが、周辺で異臭騒ぎが起きてもまずいし大騒動にしてしまっても同様だ。何人いるか分からない相手に隠密行動で確実に仕留めていかなくてはならない。しかも「殺してはならない」という絶対条件つきだ。
「二人で大丈夫ですかねぇ」
「下手に多いより動きやすくていい」
 フォーメーションなんぞ柄じゃないしな、と何処までも一匹狼の紗生子である。確かにぶっつけ本番で突入しては連携など出来よう筈もなく、同士討ちになり兼ねない。
「気をつけるとすれば、神隠しのような迅速的確な作戦行動だ」
「神隠し、ですか」
 手持ちの武器は、スタンガンとか目潰しとかゴム弾とか。そんな子供騙しのような物ばかりである。
「いっそ『殲滅しろ』って言われる方が楽なんですが」
 殺さず懲らしめる方が格段に難しいのだ。なのに不意打ちとはいえ、五人や一〇人というレベルではない相手である。
「一応、自由民主主義を尊ぶ法治国家だからなぁ。素人さんを皆殺しにする訳にもいかんだろう」
「一応、ですか」
「ああ、一応だ」
「はあ」
 本当に日本なのかと思いたくなる。煮え切らない事極まりない日本政府のイメージのせいか、日本の役人にも似たような印象しかなかったものだが。
 百歩譲って突入作戦はよいとして、
「今更ですが、クラークさんの警護は宜しいので?」
 結局、主幹教諭室から出て行ったまま、放ったらかしで来てしまっている。
「寮には【Joey(ジョーイ)】がいるし、学校傍には【Wasanbon(ワサンボン)】もいるから問題ない」
 ジョーイはワラビーのコールサインだ。ワラビーのあだ名をそのまま有袋類のそれに見立て、その若い個体の呼称から命名したのだろう。何せワラビーは、建前上の役どころではハイティーンだ。片やワサンボンは佐藤先生の事だ。これは名前と同音の砂糖由来であろう事は確かめるまでもない。
「さて、そろそろだ」
 紗生子がそう口にした途端、モニターに映っていた組事務所の電気という電気が消え、その一画だけ真っ暗闇になった。
「行こうか」
「ラジャー」
 余り気が乗らないが、上司の指示で前席と後席を隔てるカーテンを押して運転席へ移った俺は、静かにエンジンを始動させ移動を開始する。
「変声機を忘れるな」
 と言う紗生子の声は、既に男のダミ声だ。運転しながら歯にはめ込むタイプのそれを口に含むと、
「これでいいですか? うわ、何でこんな声に!?
 甲高いダミ声になり、瞬間で紗生子が噴き出した。
「それだけゴローの声に特徴がないって事だ」
 AIの自動変声機能が地声とは違う声を導き出した結果が今の声、という事らしい。
「しかしこれじゃあ——」
 変声機を使っている事がバレバレであり、素直過ぎて
「アホみたいじゃないスか」
 笑わすつもりはないのだが、緊張感もクソもあったものではない。
「機械にまでバカにされてるみたいなんですけど」
 その呟きにまた噴いた紗生子だったが、軽く咳払いをして締めた。
「その分だと、この程度のミッションは訳ないようだな?」
 舌で調整出来るらしい。思い切って地声より一オクターブ以上低くした。すると今度は何だか、
「安っぽいサイボーグみたいですね」
「何でもいいから余り笑わせるな」
 どんな声に変わっていようが、地声の声紋には辿り着けないようになっている、のだとか。そう言いながらも、紗生子が鼻で笑ったところで組事務所の正面に到着した。
「ほら、作戦開始だ」
「ラジャー」
 その一言でスイッチを切り替え降車すると、早速紗生子がインターホンで中の人間と話をしている。インターホンだけ電源を生かしているとかで、何とも細かい事だ。
「君の変声(へんごえ)じゃ、流石にまずいだろ」
 と小さく失笑しながら呟いたかと思うと、悪態を吐きながら玄関先に出て来た如何にも野蛮そうな組員の顎を軽く小突いて、一瞬でKOしてみせた紗生子である。かと思うと躊躇なく、開いたままの玄関から中へ滑り込む。中々の度胸と手慣れた素早さだ。
 その後に続いて俺も中に滑り込むと、そこから先は殆ど紗生子の独壇場だった。
「な——」
「お——」
 などと、バトルロイヤルゲームのように次々に出現しては、口汚なく罵ろうとする敵の誰何を殆ど吐かせない早業で紗生子が次々に仕留めていく。徒手とアイテムを上手く使い分けており、流麗にして鋭敏な動きは
 ——くノ一かよ。
 ありふれた表現で如何にも口から漏れそうな安っぽさが否めないが、まさに劇中に出て来る紅一点の如き躍動感だ。かと思うと、
「はーっはっはっはっはっはーっ」
 などと笑い飛ばしながら、騒ぎを聞きつけ立ち所に溢れてきた敵兵目がけて突撃して行くではないか。
「ちょっと!? 無茶な!?
「まだまだ! こんなもんか!? 無敵組が聞いて呆れるぞ!」
 わざわざ煽っては真っ向勝負で薙ぎ倒していく今度のそれは、活劇の怪傑のような軽妙さと豪快さだ。
 とにかく、
 何とまあ——
 派手というか、華麗だった。
 日頃の偉そうな言動からして少しはやるだろうと思ってはいたが、まさかここまでとは思っていなかった俺に殆ど出番はやってこない。精々帯同の補給要員の任を全うしつつその背後をフォローし、思う存分暴れさせてやるのが俺の仕事だ。
 住宅街だというのに四階層の大邸宅は中庭つきの開放感であり、エレベーターまでついている。その広さ故敵の目につきやすく、一度に数人を相手取る場面だらけだが、紗生子は全く構わず飛び込んで行く。まるで制圧ルートが見えているかの如く、耳障りな怒号と衝撃音が取り巻くその中心で、華々しくも歌舞伎役者がリアルで大立ち回りをしているような。文字通りの人間竜巻(・・・・)が委細構わず周囲を蹴散らしながら、何かに向かって悠然と進んでいるというか。
 これなら確かに——
 長所である俊敏な動きを考慮した、戦前の紗生子の自己分析の確かさを認めざるを得なかった。それをその背後で目の当たりにしながらも、俺は紗生子のタイミングを見計らいつつ補給してやるその合間で遠目や背後の敵を仕留めて行く。今日貸与されたのは、ドイツのヘッケラー&コッホ社が誇るサブマシンガンのベストセラー【MP5】だ。それもやはりSATとシェアリングしているらしい。
 気がつくと、コンタクトに展開させているマップ上にめぼしい敵は見当たらなくなっていた。動体検知した連中は、どうやらあらかた轟沈したようだ。そもそもが、敵の根城の図面を当たり前に入手しているその周到さが相変わらずのスパイ振りというか。だからこそ紗生子もある程度の目星をつけて躊躇なく突撃したのだろうが、それにしてもその通過後は見事なまでに死屍累々を築き上げたものだった。あっという間に残るは最上階の天守閣めいた部屋だけだ。
 その扉に向かう道すがら、ようやく動きが大人しくなった紗生子は、
「補給の間合いも援護も中々上等じゃないか」
 などと、満足そうなその声色までもが、変声機にすっかり馴染んで豪傑のそれになっていた。やはり出来るヤツというのは、何をやっても様になるものらしい。
「常識外の世界でそれなりに揉まれてきた経歴は嘘じゃなかったようだな」
 と言う紗生子の方こそ、だ。
 疾風迅雷の恐るべき立ち回りだったというのに、息一つ乱れず実に熟れた余裕と風格。戦闘員としては唯一の欠点とも言うべき、鶴の如き洗練された痩身を全く問題にしない豪傑振りである。背丈はともかく体格で俺より細い軍人などそういるものではないのだが、日頃の居丈高振りに反比例するかのような紗生子はその例外の小ささにして細さであり。全くもって
 超人めいてる——
 末恐ろしい小兵だ。
「流石に【Fモデル】は使い慣れてるようだしな」
 どうせ全部分かった上で言っている。もう驚く事も随分と薄くなった俺は、あえて返事をしなかった。MP5のバージョンの一つであるそれは仏国家憲兵隊向けの物で、同隊が誇る治安介入部隊【GIGN(ジェイジェン)】との合同訓練の折にはよく持たされたものだ。元仏軍外人部隊員の俺は、やはり同隊が誇る最精鋭【落下傘連隊】の特務要員経歴があったもので、先程来の紗生子がわざとらしく漏らしていたのはこの事だったりする。彼これ一昔前のスキル(錆びつきもの)だが、一応それなりに体力練成を怠っていなかったためか、
 ——確かに、動ける。
 無勢ながらも多勢の筋者レベル程度なら通用して余りある練度は維持出来ていたようだ。気がつくと、紗生子の満足気な声で一安心している俺がいた。
「やはり朝飯前だったな」
 とまた、紗生子に言われてしまう。
 天守閣(・・・)の入口に着くと、中を窺うまでもなく何人かの上ずった声やら足音やらが聞こえてきた。普段は威勢よくとも所詮は素人という事か。追い詰められればこんなものだ。その扉の前で、紗生子が俺に向けて顎をしゃくった。俺の突入スキルを見たいらしい。それこそ、
 ——今更だな。
 と、返事の代わりに顎を突き出し疑問を示して見せたが、手はその命に従うべく既に次の作戦行動に移っている。背負ったままのリュックの中から迷う事なく発煙弾を取り出してみせると、
"四次元ポ○ットみたいだな"
 横にいる紗生子からコンタクトにメッセージが届いた。物の使い方や配置を覚えておく事は、実戦経験を有する者ならば最低限のスキルであって、これまた今更だ。が、その基本を疎かにせず維持し続けていたからこそ、尋常ならざる紗生子の動きにつき従いながらも滞りなく補給を全う出来た訳だ。
"ドラ○もんと違って、いざという時に慌てないか"
 と追記しては、また小さく失笑したように見えた紗生子に言わせれば、それはお褒めの言葉なのだろう。ヲタクのアンと同居している影響か、紗生子のようなクールビューティーの口からまさかのアニメの比喩だ。が、そこはとりあえず素直にお褒めにあずかっておくとして、音を立てずに鍵のかかった扉をピッキングで瞬間開錠する。続け様に一連の流れの中で発煙弾を放り込むと首元まで下げていたフェイスマスクを口元に上げた。
「やれやれ。一応しとくか」
 愚痴を漏らす紗生子も俺に合わせてマスクを上げると、早速扉下の隙間から白煙が漏れ出てくる。しばらくすると、世に知れ渡る強面揃いばかりの室内が、それとは似ても似つかぬ情けない叫声で一層賑やかになった。この様子だとどうやら中の連中は、自分達こそが多勢に無勢だと思い込んで籠城しているらしい。
「——軟弱過ぎません?」
「だから言っただろう」
 こんなもんさ、と嘆息する紗生子につられて思わず嘆息しかけていると、堪り兼ねた中の輩共が随分な屁っ放り腰で盛大に咳込みながら雪崩打って出て来た。総勢大小四人。いずれも中高年のジャージ姿の面々だ。
 ——なんだこりゃあ?
 まるで殺虫剤にあぶり出されて悶絶している害虫ではないか。呆れを通り越して哀れにも思えてきたが、任務は任務だ。躊躇なくそれぞれ急所を一撃必中で沈黙させると、リュックの中からCC特製の笑気ガススプレーを取り出し、順番にそれ嗅がせて眠らせた。
 それにしてもこの有様で【無敵組】と名乗らざるを得ないこの連中の近い将来を、僅かばかりだが察してしまう俺は甘いのだろう。
「煙は使うなと言っただろうに」
「ちょっとぐらいいいでしょう? それに実戦訓練なら何事も訓練ですよ」
「君は散々使ってきてるだろ」
「まぁそこは、久し振りなので」
「お陰でまだ煙いぞ全く」
 などと、早速マスクをずらす紗生子の予想通り、突入作戦は完勝に終わった。今更ながらにわざとらしく咳をしている紗生子をよそに、本部員達の反応は早い。階下から俄かに詰め寄せる気配のようなものを感じたかと思うと、イヤホンにも事務的な通信が飛び交い始めた。
 ——中々やるモンだな。
 紗生子といい本部といい。正直、日本の組織がこれ程とは思っていなかった俺の前で暗視ゴーグルも取った紗生子が、
「各局、こちらLich(リッチ)。制圧完了。繰り返す——」
 いつもの美声で勝鬨代わりの無線を飛ばす。
「もういいですか?」
「安っぽいサイボーグ言葉で話されると敵わんからな」
 上司に合わせてゴーグルを取ると、電源が回復して邸内が明るくなった。
「我らはここまでだ。後は本社に任せて帰るぞ」
 アンばーさんのおもりもあるしな、と早速駆けつけた本部員達に現場を引継ぐ。後は例によってCC本部が煮るなり焼くなりするのだろう。
「アンばーさん?——あ」
 言われてアンのミドルネームが【バーサ】である事を思い出した。
「エージェントとしてはチグハグ過ぎるが、ばーさんのお気に入りだしな。特別にその加点をもって及第点到達としよう」
 正式採用だ、とつけ加えた紗生子に
「はあ?」
 つい懐疑的な声が漏れる。
 ——つまりは?
「これをもって学園のALTとして正式採用って事ですか?」
「だから今そう言ったろう? 全く察しの悪いヤツだ。ホント事が終わると冴えないな君は」
 という事らしい。一つ言うと何倍にも返されるのでもう言わない事にするが、それにしても採用基準にドンパチ(・・・・)の能力が必要な学校の先生など。それは一体何の学校なのだ。
「これからはバリバリ働いてもらうからな」
 そんな俺に構わない紗生子がすれ違う本部員達を尻目に嘯きつつも、颯爽と律動的に中庭へ続く中央階段を降りて行く。慌ててその後を追う俺の鼻先で、堂々と闊歩する女がヘルメットを脱いで頭を一振りすると、ナチュラルショートの美しい赤髪が快美に舞って、
 うわ——
 瞬間で腑抜けになりそうな程の芳烈が鼻を襲った。正確には、荒んだ現場で紗生子の匂いが際立っただけなのだが。更に言うと、それが香水なのか何なのか俺には分からないし、どういう思惑か知らないが普段から紗生子は匂いの方(・・・・)は慎ましい。雄々しい雰囲気とはかけ離れた、淡く丸く柔らかで清らかな何とも言えない優しい香気は、今も口端で悪戯っぽく笑うその妖艶さとはチグハグで、総じて譎詭(けっき)変幻にして瞬息万変。そこはやはり存在を惑わす意図なのか。では際立つ外観はスパイとしてどうなのだ、という矛盾。つまりは大事小事ひっくるめて俺には理解出来ない事だらけの
 ——魔性の女ってこういう(・・・・)のか?
 そのありがちな二つ名を脳内で呟く俺だった。
 その一方で、今後もその部下として振り回される事が容易に想像出来るだけに、
 ——め、めんどくせぇ。
 まずはそれが頭をもたげる。
一端(いっぱし)のエージェントとなったからには、まずはALT(建前)の方も何とかしろ」
「——げ」
 スパイ(本業)だけでも頭痛がしそうなのに、何気ない紗生子の一言で面倒臭い事を思い出してしまった。ALTとして正式採用と言う事なら、
「アンケートの答申どうしよ」
 まだそれを投げっ放しにしている俺だ。
 集計表がわざわざ紙で手渡される理由は、その一つひとつに対して建設的な直筆の答申(言い訳)を要する事にあるという面倒臭さ。きちんと回答する事で生徒達に学園の本気度を伝え、より良い緊張感を保つための答申という煩わしさだ。確かにその崇高さは理解出来るが、ちり紙交換に出せる程の量を貰ってしまった身としては殆ど拷問である。
 アンや俺にまつわる諸々の事情は学園内でもダダ漏れなのだから、少しは大目に見てもらいたいものなのだが。つまりは国家や学園のやる事に対する僻みやっかみその他諸々の表立って言いにくいその腹いせを、一見して隙の多い俺にぶつけているという生贄的構図だ。
「今更言ってもどうしようにもない事は分かっているんだが、ホント君は見た目に箔がないからなぁ」
 はったりもかません、と痛いところを容赦なく指摘されると
「うぅ——」
 言い返す術がない。この面倒臭い甲斐性は、我ながら笑えてしまう程に何処へ行っても変わらないようだ。
「あれっていつまでにやれば——」
 よいのか。トイレットペーパーを一つか二つは貰えそうなあの束を。いっその事、本当に交換してやりたくなる。
「——はぁ」
 嘆息が歩速を緩ませ、紗生子との距離が開いた。先程までご機嫌だった筈の文字通りの見返り美人の機嫌が、階下で既に怪しくなっている。
「まずは帰校だ。ぐずぐずするな」
 今度は端然とした冷艶さで、これまた容赦なかった。
「すいません」
「ホント安定的に普段はぐずだな君は」
 小走りで追いついた後も有り難い指摘を追加で容赦なく賜り、立つ瀬もクソもあったものではない。
 ——しっかし言いたい放題だなホント。
 とはいえ事実であり、やはり言い返せないのだが。それにしても賢いくせに感情剥き出しの気分屋な事だ。その変化振りにおいて絶対的な安定感を誇るのは、只ならぬ大物感である。
 表に出ると月夜の何処かで犬の遠吠えが聞こえた。それ程遠くない声であり、近隣の飼い犬だろう。闇の中で蠢く気配を察したようだ。
 ——せ、せつねぇ。
 まるでタイミングよく俺の何かを揶揄されたようで、思わず膝が折れそうになった。
 わざわざご丁寧に——
 言われなくとも分かっている。お陰様で当面は、魔女の飼い犬決定だ。
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