第31話 トーナメント
文字数 3,553文字
高校の期末試験が終わり、トーナメント表が発表された。陽子の一戦目の相手はハワイ州の選手で予選通過者だった。
「トーナメント出場、おめでとうございます」
外では雨が降っていた。陽子は傘から雨を落として、いつものように星月紅の洋館の客間に案内された。休憩を挟みながら、彼女とドイツ語の資本論を読んだ。そして、一区切りがつくと紅茶の時間がはじまった。女中が銀のティーセットを運んできて、星月紅と陽子にミルクティーを淹れてくれた。
星月紅は銀のカップを揺らしながら笑った。
「しかし、国際大会での優勝が布袋尊に会う条件になるとは、ちょっと課題としては厳しすぎましたね。本当は、あなたをこの世界に留めておくことだけが目的でしたのに」
「それははじめて聞きました」と陽子は微笑んだ。それを今、この瞬間に彼女が思いついたと分かっても驚かなかっただろう。
すでに寿老人と福禄寿のことを陽子は星月紅に話していた。予想とは異なり二条家に敵意がなかったことや、二人が親切だったこと、彼らと実際に話をしたことで今まで自分がいかに彼らを恐れていたのかに気がついたことまで話した。いつもと変わらずに微笑みながら、星月紅は陽子の話を静かに聞いていた。
「しかし、思い返してみると恥ずかしい気持ちでいっぱいになります」と陽子はクッキーを手に取ると静かに囓った。「結局、私は自分のことで彼らのことを恐れていたのですから。自分のことしか考えていませんでした。二条家の娘として、もっと日本のことについて悩んでもよかったのではないかと思ってしまうのです」
「それはどうでしょう」と星月紅は微笑んだ。
客間は一面が硝子張りになっていた。雨が打ちつけており、雨粒が流れていた。屋根や窓硝子を雨が叩く音が止むことはなく、木が激しく揺れていて枝は折れそうに見えた。もしかしたら台風なのかもしれない、と陽子は思った。とはいえ台風の季節は七月から八月であり、仮想世界でもまだ先の話だった。
「福音書で律法主義者がイエス・キリストに尋ねたことがあります」と星月紅は言った。「法のなかでもっとも大切な掟は何ですか、と。キリストは二つの掟を答えました。二つ目はあまりにも有名ですね」
「隣人を自分自身のように愛しなさい」と陽子は即答した。
「憲法のあらゆる条文は隣人愛により導かれます」と星月紅は説明した。「あなたが相手にされたくないことを相手にしてはいけません。社会契約論。自由主義のあらゆる理念は一文で表現できるほど単純なのです。そして、同じ理念を社会主義やリベラルも含めてほとんどの思想が共有しています」
「隣人愛」
陽子がつぶやくと、星月紅は微笑んだ。そして、続けた。
「保守もリベラルも神を前提としています。そして、不思議なことに、自由主義者は神を信じる立場でありながら、一つ目の掟については忘れがちです。もっとも重要な一つ目の掟を陽子さんは憶えていますか?」
「神を愛しなさい、だったと思います」と自信なさげに陽子は答えた。
「その通りです」と星月紅は言った。「心を尽くし、命を尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。陽子さんは今、無神論者であるマルクス主義者には何の関係もない掟だと感じましたね」
「そのようなことは」ありませんと答えようとして、陽子は思いとどまった。「あるかもしれません。神を信じることはマルクスとエンゲルスの教えに反します。私たちは空想ではなく現実を大切にしなくてはなりません」
「隣人愛には二つの弱点があります」と星月紅は続けた。「一つ目は、そもそも自分が好ましいと思うことと相手が好ましいと思うことが必ずしも同じではないということです。キリスト教徒は自分がキリストの教えを受けることを幸福に感じるでしょうが、それを仏教徒に押しつけることは暴力です」
「理解できます」と頷くと、陽子は紅茶を片手に仏教徒と狐火を思いだした。
「しかし、これは自由意思の尊重により自由主義内でも処理可能ですし、階級闘争を加味する社会主義という逃げ道もあります。些末とまでは言いませんが、複雑ではあるものの扱いの難しい問題ではありません」
ここで星月紅は冷たい口調に変えた。
「しかし、二つ目は決定的です。そもそも、私たちは他人に本当に優しくなれるほど自分自身を愛してもいなければ愛することもできないのです。私たちは自分が信じているほど自分自身を目的に愛することはできません。そのため、イエス・キリストは神を愛することを第一の掟だと言ったのです」
「自分を愛することができない」と陽子は眉をひそめた。
「だからこそ、人は戦争や宗教に夢中になるのです。自分を高めたい、自分に価値があることを証明したいと罪を犯すのです。無知な人々が悪魔の誘惑に屈して全体主義に堕ちるのはそのためなのです。全体主義とは自分で自分を愛することよりも、他人から愛してもらいたいと思うことから生まれるのです」
星月紅と別れて、陽子は江戸時代に飛んだ。
陽子たちは江戸時代に屋敷を建てていた。屋敷とはいえ小さく過ごしやすい場所で、仲間で集まるための隠れ家として利用していた。玄関から奥の部屋に行く途中で、ツララが猫と遊んでいるのを見つけた。
奥の部屋では、加奈とY・Fが真剣な顔をして対戦していた。舞子もいたが、いつもの爽平の姿は見えなかった。
「お兄さんは元気にしているかしら?」と陽子は舞子に話しかけた。
「元気ですけど本気です」と舞子は答えた。「毎日、難しい顔をしています」
爽平のことは、最近の陽子の悩みだった。
実は、もう何日も爽平はこの屋敷に来ていなかった。トーナメント出場者が決定して、陽子と爽平が反対の山であることが分かったときに陽子は爽平に秘密を明かした。それは木星地方のY・Fの正体が自分であることだった。
「黙っていてごめんなさい」と陽子は頭を下げて謝った。「爽平君のことをからかうつもりはなかったの。だって、恥ずかしいでしょう」
爽平は目に見えて動揺していた。「そんなはずはない」とか、「確かに、冷静に考えれば不思議ではない」とか独り言をつぶやきはじめた。
陽子は頭を上げて、上目遣いで爽平の顔を見た。
見えたのは、爽平の暗く冷たい表情だった。目の輝きはナイフのように研ぎ澄まされており、陽子は思わず息を呑んだ。
「やっぱり、怒っている?」と陽子は訊ねた。
「怒っている?」と爽平は首をかしげた。「ああ、確かに怒ってはいるかもしれないけど、そうだね怒っているね」
「ごめんなさい」と陽子はしおらしく謝った。
爽平は目をつぶった。「これはとても大切なことだからきちんと確認したいけど、陽子さんが木星のY・Fであるというのは本当なの? 三大会連続優勝者というのは。それが嘘だったら本当に許せないけど」
「それは本当よ」と陽子は答えた。
「分かった。安心したよ」と爽平は目を開いた。
「私が弱くてがっかりした?」と陽子は訊ねた。
「陽子さんは弱くないよ」と爽平は言った。感情が籠もらない冷たい声だった。「今ではずっと連勝中でしょう」
陽子は、いつもの爽平に戻ってもらいたくて懇願した。
「どうしたら、私のことを許してくれる?」
「決勝戦まで進んでくれたら」と爽平は即答した。「陽子さんにお願いがある。ぼくを君の仲間から外してほしい。トーナメントが終わるまで別々に行動しよう。悪いけど、Y・Fとは全力で戦いたい」
それが爽平との最後の会話だった。今では陽子からの手紙も電話も拒否しており、爽平から連絡が来たことも一度もなかった。加奈に相談したら、それは陽子が悪いから諦めるしかなわねと肩をすくめた。
それに爽平は本当は怒っているのではなくて、ただ男の子らしく憧れの選手との対戦に夢中なだけなのだと加奈は陽子を慰めた。それは妹の舞子も同じ意見らしく、爽平のY・Fへの執着は狂気だと語った。
「早くトーナメントが終わらないかしら」と陽子はため息をついた。
「試合に集中したほうがいいですよ」と舞子があきれて言った。「もし陽子さんが決勝戦まで残れなかったら、爽にいは発狂すると思います」
がんばるわ、と陽子は苦笑いを浮かべた。
加奈とY・Fはカードを片づけはじめた。壁に貼られたトーナメント表を見て、陽子は加奈が爽平と同じ山であることに気がついた。