第2話 若竹千佐子さん『おらおらでひとりいぐも』

文字数 2,647文字

どこぞの教祖様はホモがはびこったら宇宙が破滅する的なお言葉をお残し遊ばしたそうで、ホモが栄えた時代は歴史上何度かあるけどそのとき宇宙はどうして壊れなかったのか? 
などと真面目に反論するのが馬鹿馬鹿しく、関連してホモがはびこると少子化が的な妄言を繰り出す政治家さんは後を絶たない。
昔っからホモはいて少子化に影響するほどホモが爆発的にっ、画期的にっ、超加速度的にっ、増えるわけはなく、少子化は経済政策の失敗と子育て環境の整備ミスといい加減認めてほしい。
ホモをスケープゴートにせず、事態を認めないと対策できないでしょ?

かと思えばホモは隠れて生きたほうが美しいとのお言葉をお残し遊ばした市議などもご登場遊ばして、隠れていても暴露系の御仁とか暴露してくださるし、何を美しいと感じるとか主観以外の何ものでもなくて他人様の主観に従う義理はこれっぽちもないし、こちらの市議は自分が同性愛に寛容とお考え遊ばしておられて、たぶんホモは「地獄に落ちるわよ!」的な脅しを24時間サラウンドで聴かされながら足の爪10枚中7枚はがされるのがあるべき姿で、それを訴えない自分は寛容とお考え遊ばしておられるんじゃないでしょうか。まちがってますよー!

かように被害妄想だか分析だかが爆発的にっ、画期的にっ、超加速度的にっわたくしの中でうごめいてモリッシーが「ビバ! ヘイト!」と歌った理由が分かった気がした朝、ブレックファーストを食べていたら歯が欠けました。
あまりに腹が立って腹が立って、寝ている間に歯を爆発的に噛みしめていたらしく、現在歯の治療中であります。歯磨き粉も歯周病予防の高いやつに変えたし。

ああっ、いけないっ、自分語りしてしまったわ。
でも自分語りがダメなんじゃなくてその語りがつまらないからダメなんだし、つまらないおもしろいはひとそれぞれだし、断言してもいいけど、自分語りについて編集者が厳しいのは売れないからで、自分について書いて100万部売れたら出版界の多くは「先生」って呼ぶんだから。続行!

かように健康を害したわたくしですが、少しずつ生活を立て直し、でもなんや元気の出る小説はないものかしらんと辺りを見渡したら、ありましたありました、若竹千佐子さん63歳のデビュー作にして芥川賞受賞作、『おらおらでひとりいぐも』

芥川賞受賞時、日本の文芸シーンから足が遠のいていて、でも設定とか見聞きして、老齢に至りて夫に早逝され、孤独をかみしめるご婦人が色々あって自立する物語かなと想像し、それはその通りだったのですが、おもしろーい! 自立に至る過程が想像以上のすばらしさ!

冒頭を引用します。






本作の命はリズム。
地の文は標準語で書かれるのですが、ときに「てにをは」助詞が省かれて、主人公・「桃子さん」の内心の声は東北弁で展開されて、心地よいリズムが刻まれます。
引用した箇所なんてちょっとラップ味ありますよね。
コロナで大変な時期にブラザー吉幾三の津軽弁ラップ『TSUGARU』をわたくしがヘビロテしていたせいかもしれないけれども。

それに、「桃子」でも「彼女」でもなく、「桃子さん」なのもいいです。70幾年を生きた方への敬意があって。

採用された方法論も楽しいです。
桃子さんの中には大勢の桃子さんがいて、その桃子さんたちは老若男女いるらしく、何かの疑問に対して銘々が好きに発言し、そう、自分内会議によって問いが丁丁発止議論されるのです。
四方田犬彦さんの言うソロリキウムの大規模版と申しますか。

これにより様々な意見・思考が飛び交うわけですけれども、むつかしい哲学的な意見があるかと思えば、生活者としての実感もあり、ひとの頭の中は豊かであります。

で、最初の東京オリンピックの年(戦後復興の象徴的な意味合いがある)に実家から出奔して東京に出た桃子さん、すっかり東京ナイズされて標準語を操るのに、なぜ東北弁がここに来てよみがえったのか、それは実態のある桃子さんにも不思議でありまして、けれど作中にこの記述が。





ああー、正しい解釈か分からないですけれども、標準語を話すときは翻訳の作業が入り、そこには常識がべったり付いているということでしょうか。身になじんだ東北弁で物を考えるとき、初めてソウルのこもった思考が生まれるのでしょうか。

にしても、「当たり前を疑え」ってハードル上げました。その物言い自体が定型であり、半端な記述をされたら鼻で笑われてしまいます。

でも、桃子さんは地球四十六億年の歴史の読み物が好きで、なんというか、「火曜日は特売デー」的な生活者の視点と同時に、雄大な時の流れも視野に入れて、そこから生み出される思考には桃子さんであり作者の血が通っています。

引用した中の「思考停止」など、ときどき硬い言葉が用いられて通常なら文の中で浮くのですが、本作の中では東北弁などに対する異化として作用し、不思議な味わいへと通じています。

またユーモアも散見されて、それは「東北出身者あるある」的な性質ではなく、批評性に基づいたユーモアです。

本作は章ごとに主題であり、それを問う方法論が微妙に変化します。
ゼロ年代は小説をどう書くのか、方法論の時代とする意見がありますけど、本作では斬新な手法がところどころに用いられて、作者が書きたい・書くべきと思い定めた主題をどう書くのかという点について練られていて、ゼロ年代を経て生まれた一つの果実と言えそうです。

身体性を備えたイニシエーション、四十六億年を封じ込めた「自分」、「愛」という概念に対する懐疑であり母性の破棄。

ラストをどう解釈するのか観賞すべきか迷いましたが、ちいさな然もない日常が恩寵になることはあるなと納得し、破綻を怖れずに、書くべきことに全身で体当たりした快作。元気出た!

未来も世界も大事だけれど、わたくしはわたくしに夢中。
宇宙が破滅したってひとりでいぐも。破滅しないけどなっ!
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