第十九章 第二節 学校、それは塀のなかの世界

文字数 3,270文字

 小学校というところは、独特な部分社会だ。外の社会にはないものが、さも当然で普通であるかのようにして在る。行事といい、しきたりといい。
 例えば、新入生を歓迎するという名目で、新一年生は校庭に並ばされて、最上級生になったばかりの新六年生から、花を模したバッヂを胸につけられる。そんな独特の行事があった。ミユキもこの洗礼を受けたのである。小学一年生と小学六年生となると、体格差が歴然。そして、見ず知らずの、そして見ず知らずのまま一年経って別れるであろう相手。なにせこの学校は生徒数が一〇〇〇人を超える規模の「マンモス校」だったから。
 さらには、それこそ全校生徒が整列して受ける朝礼という儀式は、異様で奇怪なものだ。

 ――学校とは、塀のなかの異世界。

 教科書があるのも学校特有のこと。
 新年度には教科書が配付される。新年度が四月から始まるというのも日本特有の奇特なことなのだが、日本人は微塵(ミジン)とも疑問に思わないらしい。つまりは、合わせるしかないからだ。変えようとも思わないし、変えられるとも思わない。ついには、変えるという発想がなくなる。
 教科書はミユキの手もとにも配付された。
 ミユキは、危機感が高く、環境や状況に適応しようという意識が強い。そうしなければ生き抜いてこられなかったのだから。しかしミユキにとって、他人は攻撃的で危険な存在であり続ける。なるだけ関わらずにうまくやり過ごさなければならない。状況適応と、対人回避と。あい対立する二つの命題。
 とにかく。だからミユキは、教科書が渡されるとすぐに「予習」をしてしまう。学校で受け取った教科書を、家で、一日か数日ほどで読破(ドクハ)する。新年度早々に、その一年にやるべき内容を全て、読みおえてしまうのだ。
 ミユキは、そんな人だ。そんなミユキの姿を母ケイコも見知っている。しかし本人が自ら教科書を読みふけっているのを、褒めることもしなければ、けなすこともせず。黙って、放っておいていた。
 ましてや父タカユキなんて、ミユキの姿にほとんど関心がない。むしろ、ミユキが「男らしく」ないことが気に食わない。外に出て走り回ることもなければ、だからといって外に連れ出してキャッチボールかなにか付き合わせようとしても、ミユキは思い通りに動けないでいる。タカユキは、フキゲン。そしてミユキをさげすんでいた。

 ミユキにとって、教科書自体は目新しいもの。検定教科書を制作する人間の意図が表れた内容で、例えば国語教科書なんぞというものは採用する文章の選択が独特。その点では、ミユキがいままで読んだこともないようなことが載っていた。
 しかし一般的にいえば、小学一年生の教科書というものは、退屈である。ひらがなが中心で、漢字はほとんど読めない前提。小学六年生で習うまでの漢字が全て読めたミユキには、わざわざ読みにくくしてある本という印象ばかり。
 しかし実際の授業は、教科書どおりには行われない。それどころかそもそも小学一年学級は、一言でいえば学級崩壊している。授業はまともに進められない。教科書を予習しても、授業自体にはあまり意義のないことだった。言いかたをかえると。ミユキは、学校教育の行き届かないところまで自学自習している。学校の意味はあるのか?

 学校生活。苦痛だらけ。

 ひとつは、学校給食。この学校は「給食室」つまり調理場があり、学校内で給食をつくっている。その給食を教室まで運んでくるのも原則として、食べる子ども自身ということになっていた。小学一年生にはかなり厳しいもので、身長も力も足りない。ときには給食を落とす。こぼす。
 飲み物は牛乳。「ホモゲ牛乳」、ホモジナイズド・ミルク、すなわち成分調整牛乳。それがリターナル瓶に入っている。ガラス瓶だから、これを落として割れればなおさら大惨事。しかしその大惨事は、小学一年生に限らず全校規模でしばしば起こっていたものである。牛乳は、ガラス瓶もあるからなおさら、重い。それを運ぶのは苛酷で、手や腕が痛むものだった。
 そもそも「飲み物は常に牛乳」と決まっていることが、バカげている。献立(コンダテ)と合わないことのほうが多い。「おかず」はしょっちゅう、「和食」なのである。この、給食は牛乳と決まっていることの不可解さを、小学生でもなんとなく感ずるものらしい。牛乳という存在は、そのクサさからイヤがられもし、また、ものわらいぐさ。悪ふざけの話題、道具でさえもあった。
 そう、必ず牛乳でなければならない。おかしい。これは実は、法令で決まっているからなのだが、そんなことはミユキもまだ知らなかったし、ましてや一般の小学生は知らない。牛乳でなければならないという変えられない強制。それを正当化するために、栄養価が高い、カルシウムがなんとやらと言う。実際には、学校給食がパンと牛乳なのは、同盟国のアメリカ合衆国のためである。パンのみならず、乳牛の餌もおもに、輸入穀類。そうした「オトナの事情」に巻き込まれ、子どもは強制され利用される。さらにいえばそもそも、パンや牛乳は、肉と血に代わるもの。キリスト教文化の産物なのだが、なぜか全く(かえり)みられない。
 ともかくだから、学校給食は、不味い。食材の品質が低い。一般には売れない、食べない、そんな低品質のものを、子どもに処理させるのである。学校給食は無償ではなく実費であるが、だから低価格に抑えるためになおさら、ひどい食材を採用していた。それでも、給食費を滞納(タイノウ)する父兄(フケイ)は当時も多かったのだが……(ちなみに、のちのことだが、ミユキが入学して何年かするといつの間にやら、「父兄」から「保護者」に表現が変更されていた)。そんな「クサいメシ」。たとえていえば刑務所の食事のようなものなのかもしれない。ミユキにとっては、信じられない品質の料理。不味い食材を、調味は意図的にうすくした独特のもの、品質の低さを隠さない。見た目もよくないが、さまざまな子どもがあれこれ触って、給仕して、不衛生である。
 それでも、(給食費を滞納しそうなくらいの)貧困の家の子は「おかわり」までして、がっつく。それを見てミユキは、とてもひもじいのだろうな、と思うのだが、だからといってもミユキも食べ物に恵まれてきたわけではなく、むしろ虐待を受けてきた。そのミユキでも身体が受けつけないような、いわば「家畜のエサ」のようなものを必死になって食べあさるのだから、ものすごく恵まれていないのだろう……。
 学校給食は、実費負担といいながらも同時に、教育の一環として強制される。そんな、いわゆるダブルスタンダードだ。集団生活のなかで「同じ釜のメシ」を食べさせられる。組織的に行動して、それはさながら軍隊――「自衛隊」でもどうでもいいが――の生活とおなじ。木と鉄でできた机を突き合わせ、顔を突き合わせ、何十人もの他人が一斉に「いただきます」をさせられる、そんな異様な光景。これは同時でなければならない。同じ時間帯に全校生徒が、さらにいえば全国の生徒が、給食をもらう、こうした封建的、もっと突っ込んで言えば、軍国教育。
 だから、出されるものは何でも食べなければならない。食べるように教育される。地元の料理ではなく、全国各地、津々浦々の謎めいた献立が展開される。また、欧米料理も出る。そして、パンと牛乳(さらに言おう。近いのちに、コメ余りが理由で米飯(ベイハン)給食が始まり、古々米(ココマイ)が子どもに処理させられる)。
 さらに、である。給食で出るもののなかには、特殊な食材もある。例えば「ソフトめん」のように。なぜか学校で冷凍みかんが出たりもする。実に、謎である。
 そういうわけのわからないものが給食で出るので、食べられない。人参ムリ、牛乳クサい、などなどという子どもはかなり多い。それもさすがに、小学一年の段階では摂取を強制させられはしなかったが、小学校の昼食というものはとにかく、混沌としているものである。
 ミユキは、給食で気分がわるくなる。食べて気分が悪くなることはよくあったが、その原因にミユキ自身、まだ気がついていなかった――。
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