十一 探り その二 

文字数 4,657文字

 事件翌日、弥生(三月)二十六日。
 五ツ半(午前九時)。春のよい日和だ。
 唐十郎は隅田村の大川堤の街道を北へのんびり歩いている。その一町ほど背後を藤兵衛と正太が歩いている。
 唐十郎は東へ目を転じて隅田村を眺めた。堤には蒲公英(たんぽぽ)(すみれ)が咲き乱れて、畑を黄色に埋めつくす早生(わせ)の菜の花に蜜蜂が飛びかう様は、この村であの斬殺事件があった事など、つい忘れてしまうほど、のどかだ。
 堤を北へ進むと、街道は木母寺の北で、鐘ヶ淵へ向う堤の街道と、隅田村の白鬚社の前を通って堀切橋へ行く街道に分れた。藤兵衛と正太は堤を下りて白鬚社への街道を歩んだ。

 唐十郎は鐘ヶ淵へ向う堤の街道を歩いた。東に白鬚社が見える。
 昨日、白鬚社の前を通った折に、唐十郎は、境内の雑草が抜かれて木々が刈りこまれて、手入れが行き届いているのを確認している。番小屋で暮す浪人たちが神社と境内を手入れして村の子どもたちに読み書き算盤を教えていると聞く。番小屋で暮らす者の心情が現れていると唐十郎は思った。
唐十郎は歩きながら、東に白鬚社の裏手の林を臨んだ。この林も手入れされて下草は無い。芽吹きはじめた林の木々の間から、威圧するような押し殺した声が響いて居合いの鍛錬をする者が見える。
 唐十郎は堤を下りて菜の花畑を抜け、白鬚社の林に近づいた。(なら)(くぬぎ)の間は下草が刈り取られて所々に楢や椚の若木がほどよい間隔で生えている。よく手入れされた林だ。その林に、威圧するような押し殺した居合いの声が響いている。唐十郎は林の枯葉を踏みしめて足音を立てて、声がする方へ進んだ。

 木々の間に響いていた声がやんだ。近寄る唐十郎の足音に気づいて、男は刀を鞘に納め、腰の手拭いを取って首の汗を拭いた。
「修業のじゃまをして申し訳ありません。真剣の修業を見た事がないので・・・」
 唐十郎は、修業のじゃまをしたことを素直に詫びた。

「いやいや、お気に召さるな。こことて白鬚社の境内。誰でも参拝に参じることのできる地なれば、こうして刀を振りまわす私の方が、義に叶っていないのです。
 まあ、神社にしろ、寺にしろ、社殿裏は鬼門と言って嫌われると聞きますが・・・」
 浪人はこざっぱりした木綿の小袖に袴と草履、身なりは清潔だ。この浪人、思ったより礼儀正しく学がある。それに、先ほどから見ていた居合いの鍛錬は常人の域を超えている。かなりの手練(てだ)れだ。しかも左半身だ。左手で鍔元(つばもと)を握り、柄尻(つかじり)を握った右手で刀を左腰の鞘に納めている。両手を自由に使えるなら、もしやして左利きか・・・。

「私の鍛錬を見て、どう思いますか」
 そう言いながら、浪人は納めた刀の柄尻に右手をかけた。そして、一瞬に抜刀して鍔元を左手で握って楢の木のじゃまな枝を両断し、刀を鞘に納めている。左半身の構えだった。
 唐十郎は殺気も何も感じなかった。

「私は石田光成と申します。名が災いして、德川の世では厄介者でしてなあ。こうして日陰暮らしをしております。
 ところで、貴殿は御上の仕事でこちらにおいでですか。
 なあに、ここに居ても、弥助さんが堀切橋で殺されたのは耳に入り申す」
「私は日野唐十郎と申します。推察の通り、弥助さんを殺害した下手人を捜しています」
「日野さんは町奉行所の者とは思えませぬ。身なりをそのように質素にしても、立居振舞は町方とは思えませぬ」
 石田は石田と同じような身なりの唐十郎を、町方役人ではないと見た。
「伯父が検視役を仰せつかっている手前、与力の藤堂八郎様の手伝いをしているまでです」
 唐十郎は、特使探索方の名を語らずに、伯父日野徳三郎の検視役の肩書きを述べた。

「おお、日野先生の甥御様でしたか。
 昨年暮れに、日野道場へ行きましてな。と言っても、弥助さんの手伝いをして下肥の買付けを手伝ったまででして」
「なんとっ。道場に下肥買付けに来たのは、弥助さんと石田さんでしたか・・・」
「如何にも。実は弥助さんに頼まれて・・・」
 石田は、昨日、肥問屋吉田屋の大番頭仁吉が語った事とを裏づける話をした。

 肥問屋吉田屋の仁吉は大番頭になる前から、下肥の値上りを気にする弥助に、買付けを手伝ってくれたら、その下肥をそのまま弥助に譲る話をした。弥助は仁吉が話した事を口外しない約束をした。
 しかし、こうして石田が、弥助と当時は肥問屋吉田屋の手代だった仁吉との間で交された約束を知っているのだから、約束を口外しないはずの弥助も、かなり口が軽い。

「弥助さんから聞いた話を、余所で話しましたか」
「話しておらぬ。口止めされておったゆえ」
「弥助さんが余所へ話したとは考えられませんか」
「それが原因で殺されたとお思いか」
「そうではないが、殺される理由がわからんのです」
「弥助さんは村の者たちから信頼されていたゆえ、恨みを買うとは思えん。
 恨まれるとしたら、肥問屋を通じてであろうか・・・」と石田。

「どういうことですか」
「暮れに下肥を買付けに行った折、出先で廻船問屋吉田屋の奉公人と出くわして、弥助さんが挨拶しておった・・・」
「そういうことですか」
 弥助は、下肥売捌人(しもごえうりさばきにん)と下肥の値段交渉をしていた隅田村の世話人だ。
 現在、下肥の買付けは肥問屋の仕事だ。肥問屋吉田屋は下肥売捌人も兼ねている。廻船問屋吉田屋の奉公人にすれば、百姓の弥助が下肥を買付けているなどあり得ないのである。

 石田は唐十郎に訊いた。
「下手人は二人で、一人は左利きらしいと村の者たちから聞きました。誠ですか」
「誠です。石田さんは、誰か左利きの者をご存じですか」
「私も左腕を使います。これも修業ゆえ致し方ないことです。
 本来、私は右利きです・・・」
 この白鬚社の番小屋に、石田を含めて五人の浪人が居るが、左利きは居ない。みな、理不尽な理由で藩を追われた身だ。内職をしながら村の者たちに読み書き算盤を教えて、政道がどうあるべきかを教えている。世話になっている弥助を斬殺する者はおらぬ。石田は、自身の命に賭けてそう断言する、と唐十郎に言った。

「弥助さんがどのように斬殺されたか、誰からどのように聞きましたか」
「若宮村の太吉さんから聞きました」
 太吉は、役人が検視するのを見聞きしたと石田に話した。太吉は若宮村の世話人で、弥助と親しい間柄だと石田が言った。
「太吉さんは、弥助さんの下肥買付けを知っていたのですね」
「如何にも。太吉さんは私とともに下肥の買付けを手伝っていました。
 事前に、弥助さんと仁吉さんで交された約束を知っていたと思います」
「暮れの買付けで廻船問屋吉田屋の奉公人と出くわした時、その場に太吉さんも居たのですか」
「私と太吉さんが居ましたが、顔は見られていないかと・・・。
 あっ、そう言う事ですか・・・」
 石田は唐十郎の考えに気づいて茫然とした。

「石田さんは、太吉さんにも害が及ぶと思いますか」
「如何にも・・・」
 弥助が下肥を買付けたのは下肥商いの縄張り荒らしにあたる。弥助の下肥買付けが、廻船問屋吉田屋の奉公人を通じて吉次郎に伝わったのはまちがいない。顔を見られていないというものの、誰が弥助を手伝ったか、吉次郎が探っているはずだ、と石田は説明した。
「なぜ、そう思いますか」
「隅田村に肥問屋吉田屋を開く時も、店を拡張して下肥を扱う時も、吉次郎は用心棒を雇って他の肥問屋を脅し、肥商いの縄張りを奪ったのです。
 縄張りを荒す者を容赦なく葬るはずです」
 と石田は説明した。仁吉が肥問屋吉田屋に奉公する前の事である。

「吉次郎は肥商いを始めるにあたり、なにかにつけて用心棒を使っていたのですね」
 石田はいったいどこまで知っているのだろう、と唐十郎は石田を不審に思いはじめた。
「如何にも・・・」
「吉次郎が縄張り荒らしを抹殺すると言うのですか」
「現に、弥助さんが斬殺されました」
 石田はそう言って腕組みしている。
「ならば、石田さんが太吉さんを警護しては如何か」
 唐十郎の提案に、一瞬、石田が希有な表情になった。

昨日。
 藤兵衛と正太は同心の岡野智永たちととも、肥問屋吉田屋の大番頭の仁吉から、
「五年前から、白鬚社の番小屋に浪人が五人住みついてます。
 賭場の用心棒などいろいろ請け負うみたいです」
 と聞きこんでいる。しかも、その五人と知り合いの者を知っているか、との問いに、
「たしか、廻船問屋吉田屋吉次郎が、この肥問屋吉田屋を開店する時に浪人を雇っていたと話してました。その頃の私は亀甲屋の手代でしたから、詳しい事はわかりません」
 と答えている。

 仁吉が肥問屋吉田屋に奉公する前の事とはいえ、仁吉は吉次郎が用心棒に誰を雇ったか知っているはずだが、仁吉はその事を知らぬふりをしていた。
 石田が語る、吉次郎が雇った用心棒は、石田たち五人ではなかろうか。そうなら、弥助が石田に助っ人を頼んで下肥を買付けたのも、妙な話になってしまう。
 大番頭の仁吉と石田の話が嘘でないなら、石田は、銭を稼げるなら、頼まれ事は何でも引き受ける、割り切った考えの持主かもしれない・・・。

「すみません。石田さんに太吉さんの警護をしてもらう考えは余計でした」
 唐十郎は、太吉を警護するという唐突の提案を詫びた。
「私が言いだした事です。なんとか考えみましょう。
 日野さんは、私を探って、如何様に判断なされた」
 石田はそう唐十郎に訊いて俯いている。
「率直に訊きます。
 廻船問屋吉田屋と肥問屋吉田屋の用心棒をしたことがありますね」
 唐十郎は石田を見つめた。石田が顔を上げた。白鬚社の境内の方を見て言う。
「やはり、わかりましたか」
「はい。しかし、なぜ、話してくれなかったのですか」
 石田が唐十郎を見つめた。
「私たちが弥助さんを斬殺したと疑われると、困りますから」
「用心棒の件を話してください」
「わかりました」
 石田は説明した。

 廻船問屋吉田屋が肥問屋吉田屋を開く折、吉次郎は香具師の元締藤五郎の手蔓とその筋の浪人を使って、他の肥問屋の縄張りを奪った。
 石田たちは吉次郎から、肥問屋吉田屋を訪れる吉次郎を他の肥問屋から守って欲しい、と用心棒を頼まれた。
 石田たち五人の浪人は、肥問屋吉田屋を開く際、吉次郎が隅田村や若宮村の世話人や村人と話し合う席に同席して、吉次郎を警護しただけで、村人を脅すようなことはなかった。石田たちは礼儀正しく控えめだったため、村人たちは好感を持った。
 それがきっかけで、石田たちは世話人と親しくなり、白鬚社境内の掃除や手入れをする条件で、この白鬚社の番小屋に住むようになった。

「弥助さんも太吉さんも、その時からの付き合いです。
 今となっては、なにかにつけて村人の世話になり、そのお返しに、子どもたちに読み書きと算盤を教えて、隅田村と若宮村の用心棒のようなことをしている有様です。
 弥助さんに頼まれた下肥買付けの助っ人もその一つでした」

「昨夜は何をしていましたか」
「仲間とともに、番小屋に居ました。仲間内ですから、証言が通るや否や・・・」
 唐十郎は石田が偽りを話しているように思えなかった。今が石田と村人の関わりを知る良い機会かもしれない・・・。
「やはり太吉さんの警護が必要です。
 石田さん。ぜひとも、太吉さんに会っては如何ですか」
「わかりました。これから会いに行きましょう。
 日野さんも、同道してくださらぬか」
「わかりました。同行いたしましょう」
「では、仕度しますゆえ、しばしお待ちくだされ」
 しばらくして、唐十郎は、身支度した石田と仲間二人を連れて、太吉の家がある若宮村へ向った。番小屋を護っているのは石田の仲間二人だ。
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