第2話 魔法の声 前編
文字数 2,236文字
まだ、ぼくが年端のいかないころ、ウチには両親の両親――つまり、祖父 ちゃんと祖母 ちゃんが同居していた。
ある日のことだ。
濡れ縁で日向ぼっこをしながら、ぼくは、祖父ちゃんとたわいもない話に花を咲かせていた。
どのような話の流れで、あの話題にいたったのか。その経緯はもう、霞がかってぼんやりとしている。
だとしても、あれは、きわめてシュールな話題だった。それだけに、そういえば子どものころ濡れ縁で祖父ちゃんと、奇妙な話に花を咲かせていたっけ、という記憶だけはわりと歳を重ねたいまでも、依然、色褪せることなく頭の片隅に残っている。
あの日の祖父ちゃんは、小さな目をより細めながら、こう口を切った。
「ところで、坊。この世界にはのう、みんなを幸せにしてくれる『魔法の声』っていうもんがあるんじゃよ」
え⁈ ま、まほうのこえ? み、みんなを幸せにしてくれる……。
それを耳にした瞬間、ぼくは目ぱちくり口あんぐりとし、しばらくことばを失って呆然としていた。そのことだけは、いまでも昨日のことのように、くっきりと覚えている。
それはそうだろう――。
ほら、だって『魔法の声』なんてのは、漫画かテレビかおとぎ話ぐらいでしか見聞したことのない、なんともいえずシュールなことばだ。
だしぬけに、だからいたいけな少年がそれを耳にしたら、一瞬にして毒気を抜かれ絶句したとしても、なんら不思議はない。
もっとも、その歳ごろは、とりわけ多感な時期でもある。したがって、そういったシュールな話題に目がないのは言うまでもない。
そういうわけで、ぼくはあの日、いきおい祖父ちゃんに、こう尋ねていた。
「それってさ、いったい、どこにあるの?」
祖父ちゃんはあの日、あくまでも神妙な顔と口調で、こう切り返した。
「それはのう、坊、声なんじゃ。なんで、どこにあるっていうより、むしろ、どうすれば聞けるの、と尋ねるのが正しいのう」
「あ、そうだね、わかった……じゃあ、どうすれば聞けるの?」
「ふむ……そうじゃのう。どう……と言われてものう。こればっかりは、そう簡単には説明できんのじゃ。なにせ、夜、男と女が、ああしてこうして……」
「え! 男と女?」
「あ、いや、なんでもない……それは、まあ、ええ。と、とにかくじゃ、たいがいの者が聞けるということだけは、たしかなんじゃ」
「たいがいの者? だったらその中に、ぼくも入ってるのかなあ……祖父ちゃん」
「ああ、もちろんじゃ。坊も、入ってるとも」
ただしな――あの日、祖父ちゃんは、それを聞くにはひとつ条件があると言って、人差し指を立てると、こうつづけたのだった。
「まずは、そう、『赤い糸』。それを見つけんといけんというか、う~ん、なんというか……」
しどろもどろになっている祖父ちゃんを後目に、ぼくは口を開く。
「あかいいと? あ、それなら、たしか、母さんの裁縫箱に入ってたはずだよ」
「はは、坊、それとはちと違うんじゃ」
「え、そうなの……」
「ああ、これはのう……大人になって、ある時期がきたら見つかるという、まあ、特別な糸なんじゃ」
「ふうん、そうなんだ……じゃあ、じゃあさあ、ぼくも大人になったら、その特別な糸を見つけることができる?」
「ああ、坊なら、きっと大丈夫じゃ。ただしのう、坊、残念ながら、この世界には絶対ちゅうもんはないんじゃ」
「え、絶対じゃないの。そ、そんなあ……」
もしも、ぼくだけが、それを見つけることができなかったら……そう思って唇を噛んだぼくはあの日、どうにもいたたまれない気分でしかたなかった。
いまにして思えば、それが小さなトゲとなって、心のどこかに刺さっているのだろう。
日常のふとした瞬間、何かの拍子に、それが胸を鈍くうずかせることがある。それもあって、このシュールな話をおもいのほか覚えている、ということもあるのかもしれない。
あの日のぼくは、すっかりしょげて、ひどく冴えない顔つきをしていたと思う。
祖父ちゃんは、そんなぼくを見かねたように、優しく頭を撫でながら、こうなぐさめてくれるのだった。
「坊、そんなにいじけんでもええ。いずれ、坊も大人になる。それまで、父さんと母さんの言うことちゃんと聞いて、おりこうさんにしておればええんじゃ。そうすれば、坊にも、きっと、赤い糸は見つかるはずじゃ」
「う、うん……」
涙目で、ぼくは渋々うなずいていた。
さらにまた、祖父ちゃんは、こうも言った。
「その赤い糸さえ見つければ、それと夜、ベッドのなかでチョメチョメして、やがて、その結果として、あれじゃ……」
「え⁈ それと夜、ベッドのなかで、何が、なんて? 祖父ちゃん」
「え……ああ、まあ、そこんところは、まあ、なんじゃ……と、とにかく、いずれ、坊も、大人になる。するとそのとき、何と、何したら、あれじゃ……」
そこで祖父ちゃんはなぜか、言い澱んだ。
「え、するとそのとき、あれじゃ……の、そのあとは何? ねえ、祖父ちゃん、教えて」
ところが、祖父ちゃんはあの日、「あれじゃ」のあとは口をつぐんで、いっこうに答えようとしなかった。
それでも、ぼくは「あれじゃのあとは、何? ねえ、祖父ちゃん、教えて」と、執拗に尋ねた。
でも祖父ちゃんは、結局、その答えを教えずじまいだった。その上、祖父ちゃんは、しばらくして、遠い空の彼方へと旅立ってしまった。
というわけで、「あれじゃ」のあとは何なのか、いまもなお、藪の中……。
つづく
ある日のことだ。
濡れ縁で日向ぼっこをしながら、ぼくは、祖父ちゃんとたわいもない話に花を咲かせていた。
どのような話の流れで、あの話題にいたったのか。その経緯はもう、霞がかってぼんやりとしている。
だとしても、あれは、きわめてシュールな話題だった。それだけに、そういえば子どものころ濡れ縁で祖父ちゃんと、奇妙な話に花を咲かせていたっけ、という記憶だけはわりと歳を重ねたいまでも、依然、色褪せることなく頭の片隅に残っている。
あの日の祖父ちゃんは、小さな目をより細めながら、こう口を切った。
「ところで、坊。この世界にはのう、みんなを幸せにしてくれる『魔法の声』っていうもんがあるんじゃよ」
え⁈ ま、まほうのこえ? み、みんなを幸せにしてくれる……。
それを耳にした瞬間、ぼくは目ぱちくり口あんぐりとし、しばらくことばを失って呆然としていた。そのことだけは、いまでも昨日のことのように、くっきりと覚えている。
それはそうだろう――。
ほら、だって『魔法の声』なんてのは、漫画かテレビかおとぎ話ぐらいでしか見聞したことのない、なんともいえずシュールなことばだ。
だしぬけに、だからいたいけな少年がそれを耳にしたら、一瞬にして毒気を抜かれ絶句したとしても、なんら不思議はない。
もっとも、その歳ごろは、とりわけ多感な時期でもある。したがって、そういったシュールな話題に目がないのは言うまでもない。
そういうわけで、ぼくはあの日、いきおい祖父ちゃんに、こう尋ねていた。
「それってさ、いったい、どこにあるの?」
祖父ちゃんはあの日、あくまでも神妙な顔と口調で、こう切り返した。
「それはのう、坊、声なんじゃ。なんで、どこにあるっていうより、むしろ、どうすれば聞けるの、と尋ねるのが正しいのう」
「あ、そうだね、わかった……じゃあ、どうすれば聞けるの?」
「ふむ……そうじゃのう。どう……と言われてものう。こればっかりは、そう簡単には説明できんのじゃ。なにせ、夜、男と女が、ああしてこうして……」
「え! 男と女?」
「あ、いや、なんでもない……それは、まあ、ええ。と、とにかくじゃ、たいがいの者が聞けるということだけは、たしかなんじゃ」
「たいがいの者? だったらその中に、ぼくも入ってるのかなあ……祖父ちゃん」
「ああ、もちろんじゃ。坊も、入ってるとも」
ただしな――あの日、祖父ちゃんは、それを聞くにはひとつ条件があると言って、人差し指を立てると、こうつづけたのだった。
「まずは、そう、『赤い糸』。それを見つけんといけんというか、う~ん、なんというか……」
しどろもどろになっている祖父ちゃんを後目に、ぼくは口を開く。
「あかいいと? あ、それなら、たしか、母さんの裁縫箱に入ってたはずだよ」
「はは、坊、それとはちと違うんじゃ」
「え、そうなの……」
「ああ、これはのう……大人になって、ある時期がきたら見つかるという、まあ、特別な糸なんじゃ」
「ふうん、そうなんだ……じゃあ、じゃあさあ、ぼくも大人になったら、その特別な糸を見つけることができる?」
「ああ、坊なら、きっと大丈夫じゃ。ただしのう、坊、残念ながら、この世界には絶対ちゅうもんはないんじゃ」
「え、絶対じゃないの。そ、そんなあ……」
もしも、ぼくだけが、それを見つけることができなかったら……そう思って唇を噛んだぼくはあの日、どうにもいたたまれない気分でしかたなかった。
いまにして思えば、それが小さなトゲとなって、心のどこかに刺さっているのだろう。
日常のふとした瞬間、何かの拍子に、それが胸を鈍くうずかせることがある。それもあって、このシュールな話をおもいのほか覚えている、ということもあるのかもしれない。
あの日のぼくは、すっかりしょげて、ひどく冴えない顔つきをしていたと思う。
祖父ちゃんは、そんなぼくを見かねたように、優しく頭を撫でながら、こうなぐさめてくれるのだった。
「坊、そんなにいじけんでもええ。いずれ、坊も大人になる。それまで、父さんと母さんの言うことちゃんと聞いて、おりこうさんにしておればええんじゃ。そうすれば、坊にも、きっと、赤い糸は見つかるはずじゃ」
「う、うん……」
涙目で、ぼくは渋々うなずいていた。
さらにまた、祖父ちゃんは、こうも言った。
「その赤い糸さえ見つければ、それと夜、ベッドのなかでチョメチョメして、やがて、その結果として、あれじゃ……」
「え⁈ それと夜、ベッドのなかで、何が、なんて? 祖父ちゃん」
「え……ああ、まあ、そこんところは、まあ、なんじゃ……と、とにかく、いずれ、坊も、大人になる。するとそのとき、何と、何したら、あれじゃ……」
そこで祖父ちゃんはなぜか、言い澱んだ。
「え、するとそのとき、あれじゃ……の、そのあとは何? ねえ、祖父ちゃん、教えて」
ところが、祖父ちゃんはあの日、「あれじゃ」のあとは口をつぐんで、いっこうに答えようとしなかった。
それでも、ぼくは「あれじゃのあとは、何? ねえ、祖父ちゃん、教えて」と、執拗に尋ねた。
でも祖父ちゃんは、結局、その答えを教えずじまいだった。その上、祖父ちゃんは、しばらくして、遠い空の彼方へと旅立ってしまった。
というわけで、「あれじゃ」のあとは何なのか、いまもなお、藪の中……。
つづく