第三章・第三話 背後にいる者

文字数 8,424文字

「――これ、何?」

 熾仁(たるひと)が、勅使と共に白書院(しろしょいん)に乗り込んで来てから四日後。
 その日の昼間、邦子が差し出した結び(ぶみ)に、和宮(かずのみや)は眉根を寄せた。
「どうぞ、目をお通しください」
 と言われても、()ける気がしない。
 現在は通常文書にも使われる形態だが、古来、結び文と言えば中身は恋文(こいぶみ)と相場は決まっている。ただ、家茂(いえもち)からなら邦子もそう言うだろう。
「まさかと思うけど、熾仁兄様からじゃないよね?」
 答える代わりに、邦子は表情を歪めて俯いてしまう。それが、何より明白な答えだ。
「受け取れないわ。あたしはもう人妻なのよ。たとえ中身が恋文でなくても、ほかの男からの文なんて」
「まあ、いいんじゃねぇの、見るだけなら」
 そこへ、いつものように、前触れもなく家茂(いえもち)の声が飛び込んで来る。
 もう和宮も、当然のように家茂に上座を譲り、家茂もごく自然にその場へ腰を落とした。邦子は、言うに及ばずだ。
「何でそんな平然と言えるのよ。ほかの男が妻に文を書いて寄越すなんて、あんたは平気なの?」
「平気じゃないから言ってんだよ。お前を取り返す為に、お前の命まで危険に晒した男がどういう言い訳してくるか、見物だと思わねぇ?」
 家茂の顔に、不敵な微笑が浮かぶ。その美貌には、似合わないくらい物騒な笑みだ。
 こうなると多分、彼は梃子でも動くまい。
 はあ、と一つ溜息を挟んで、和宮は文を開いた。

『拝啓 和宮親子(ちかこ)内親王殿下

 先日は、大変失礼いたしました。
 わたくしは明後日、勅使団に先立って京へと帰る運びとなりました。
 つきましては、今一度、二人きりでお会いしたいのです。何とか、席を設けていただきたく、お願い申し上げます。
 お会いするのを、心待ちにしております。

 敬具 有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁』

「……論外だわ」
 一読して、和宮は文を放り出す。
 その放り出した文を、家茂が拾って目を落とした。
「……本当に会わなくていいのか」
「当たり前でしょ」
「だって、初恋の相手なんだろ」
「そりゃっ……」
 言い掛けて、口を噤む。
(そりゃあ……好きだったわよ。二年前までは)
 考えてみれば、恋愛対象の異性が周囲にいなかったこともあって、熾仁しか目に入っていなかった。いずれ結婚するのだという意識も手伝い、彼が好きなんだと思い込んでいた。
 だが、今は好きか嫌いかで言えば――
(……どうなんだろう)
 自問しても、なぜか答えは出ない。
 嫌いではないが、もう好きとも思えない。強いて言えば、思い出の中の優しい『熾仁兄様』は今でも大好きだ。けれども、その『好き』でさえ、もう異性に対するそれではない。
 それに、婚約解消から約二年経った今、目の前に現れた熾仁は最早別人だ。和宮の知っている熾仁とはまったく違う。
「……宮?」
 俯いた視線の先に、覗き込むように家茂の顔が滑り込む。
 目を上げると、彼も上体を元に戻した。
「……今好きなのは、家茂だから」
 (はじ)かれたように目を(またた)かせた家茂は、クスリと微苦笑を漏らす。
「……知ってる」
「……その余裕がムカつくわ」
「余裕ない証明、してやろうか?」
 手を取られ、指先に軽く口づけられる。和宮は気持ち後退(あとじさ)った。
「いっ、今は遠慮しとくっ! それよりっ」
 家茂に取られた手を奪い返すと、話題を戻す。
「それをどーするのよっ、そのメーワクな代物をっっ!」
 それ、と言いつつ、和宮は今は家茂の手にある文を指さした。すると、家茂は自身の手に取った文と、和宮の顔の(あいだ)で視線をさまよわせたあと、困ったように片眉尻を下げた。
「……どーするも何も、お前に送られてきた文だろが」
「受取拒否するっつったのに、見てみろって言い出したのはあんたじゃないのっっ!!
 バンッ! と派手な音を立てて、畳と和宮の両掌が衝突する。
 しかし、家茂はそんな音だけではビクともしない。
「取り敢えず、コレは焼却処分な」
 と彼が言いつつ差し出した文を、邦子は「畏まりました」と当たり前のように受け取っている。
 四日前、和宮が心中を吐露した上に、本気のいちゃ付き現場を目撃した所為か、すっかり家茂を(あるじ)の夫として認定したらしい。あくまで彼女の中では和宮の次点のようではあるものの、彼に対して、江戸へ来た初期のような、刺々しい空気は感じられなくなっている。
「ところで桃の井」
「はい、上様」
 呼び方まで『将軍』から『上様』に修正されている。
「その文、どうやって受け取った?」
「以前、外へ出た時の隠し通路を使用しました。一番最初に熾仁様が城に参った際に、外での連絡方法を決めておいたので」
「なるほど。で、返信は同じようにするつもりか?」
「左様です」
「ふーん……」
 家茂は、立てた膝に肘を突くと、拳を口元に当て、目を伏せた。
 何を考えているのか、訊こうかとも思ったが、彼が口を(ひら)くのを待つことにする。
 ややあって、顔を上げた家茂は、和宮に視線を向けた。
「宮」
「うん?」
「外で会うって返事しろ」
「は!?
「てゆーか、桃の井が返信する時に一緒にくっついて行け」
「ちょちょちょ、ちょっと待って! そんなことして、今の兄様の状態じゃ何されるか分かったもんじゃないわよ!」
「分かってんじゃねぇのか」
「無理矢理京まで拉致られそうでやだ怖い!」
 和宮は思わず自分を抱き締めるように腕を交差させる。夏も本番に差し掛かろうという時期なのに、本気で寒気がした。
「分かってるならいいじゃねぇか」
「いーわきゃないでしょ!」
「誰も二人きりで会えなんて言ってないだろ」
 凛と冷えた声音が不意に落ちる。
 どことも付かない宙に向けられた瞳の温度は、それこそ氷点下だ。家茂のそんな瞳は初めて見る。
「桃の井」
「……はい」
 邦子も同様のようで、返事に一拍の()が空いた。しかし、家茂はそれには頓着せずに続ける。
「次に奴と会う約束の日時は」
「……明日の四つ半〔午前十一時〕頃に、先日の商家街で」
「分かった。案内は頼む」
「承知いたしました」

***

 前日の内に渡されていた町娘風衣装に身を包んだ和宮は、翌日、家茂に連れられて隠し通路から外へ出た。久し振りの遠出である。
 供には邦子と、家茂の近侍だという川村(かわむら)崇哉(たかなり)が付いていた。
 例によって、繁華街手前までは馬で行き、途中から徒歩だ。
 だが、今日の外出は、以前のような浮き立つ気持ちにはなれない。熾仁との話し合いがどうなるのか、和宮にはまったく読めなかった。
 今まで見知っていた彼と、とにかく違い過ぎる。駆け落ち未遂の日にも思ったことだが、和宮のほうも、熾仁の表面しか見ていなかったのかも知れない。
(……だとしたら、兄様から心が離れたのは当然だったのかも)
 無意識に溜息を吐きながら、熾仁はどうなんだろう、と脳裏で呟いた。
 婚約が正式に解消されたのを伝えに来た彼は、別れ際に『君を愛していると気付いた』ようなことを言っていた。彼が、和宮を失いたくないと言ったのは本心なのだろうが、それにしては降嫁推進派に捕らえられそうになった時は、和宮を庇ってくれる素振(そぶ)りもなかった。
(もちろん、あれはあたしも悪かったのは分かってるんだけど……)
 何度目かでそう思う。けれど、やはりあれは納得できないような気もする。
 結局、互いにその程度の気持ちだったのだと、和宮のほうはその場で妙に納得してしまっていたが、熾仁のほうは、先日再会した時には、やはり復縁を望んでいた。思うに、熾仁の場合、『恋』をすっ飛ばして『執着』に変化しているのかも知れない。
「宮様」
 考えに没頭していると、不意に邦子の小さな声が、和宮を現実に引き戻した。
 和宮と同様に変装している彼女の示した手の先で、熾仁が手を振っている。こちらが辿り着くのを待ち切れない様子で駆け寄って来た熾仁の格好は、小袖と袴という軽装だ。しかし、頭部にはいかにも公家(くげ)のように普段使いの烏帽子(えぼし)をかぶっており、それなりに目立つ。
「来てくれたんだね」
 言いながら、熾仁は和宮を引き寄せて抱き締める。家茂と崇哉は、存在すら目に入っていないらしい。
「さ、準備はできてる。このまま私と行こう、和宮」
「今ここでその呼び方はよして、兄様。目立ってしょうがないわ」
「あ……そうだね、ごめん。じゃあ、(ちか)でいいかな」
 一瞬、和宮は言葉を詰まらせる。
 もう、その呼び名は特別なものだ。兄帝から賜ってから、その名で呼ぶことを最初に許したのは家茂だった。彼しか呼んだことがない――彼にしか呼ばせたくない、そんな意味の名になってしまった。
(ちか)?」
「その呼び方もやめて。それに、あたし兄様と帰るつもりはないから。それを言いに来たの」
「何を言ってるのかな。来た時点でもう『帰る』と言っているようなものだよ?」
「どうしてそうなるのよ」
「だって、ここへ来たのは内緒なんだろう? もちろん、家茂にも」
生憎(あいにく)だな」
 そこへ家茂が割って入る。言葉だけでなく、身体ごと和宮と熾仁の(あいだ)に滑り込んだ。
「な――」
 まさか、いるはずがないと思っているのがありありと分かる顔で、熾仁が唖然とする。
 しかし、家茂はそんな反応には構わなかった。
「あんたが(ちか)を呼び出したのは知ってる。あんたの文は、俺も見たからな。その上で、あんたにもう一度会うように勧めたのも俺だ」
 家茂と、その背後に庇われた和宮を交互に見た熾仁は、安堵したような笑みを浮かべる。
「……左様ですか。ありがとうございます」
「へぇ? 意外だな。あんたにここで礼を言われるとは思わなかった」
「当然でしょう? あなたは私に彼女を返してくれるつもりなのだから」
 すると、途端に家茂の声音が剣呑な色を帯びた。
「誰が返すっつったよ」
「返すのが筋なのはお分かりでしょう。私と彼女は想い合っている。想い合う二人を、あなたはあとから現れて引き裂き、彼女を奪い取ったんだ。あなたも真っ当な思考のある人間なら身を引くべきでしょう」
「いい加減にして、兄様。あたしはもう彼の妻なの」
 しかし、熾仁は和宮の言葉など聞いていないようだった。家茂の肩に手を掛け、退()かせようとしながら和宮へ空いた手を差し伸べる。
「さあ、行こう。大丈夫だ。将軍に攘夷をするつもりがないのは、君だって知ってるんだろう。それが幕府の総意だと知れば、主上(おかみ)だって考え直される。そうしたら、君は晴れて将軍と離縁できる。私の妻になれるんだよ」
「やめて!」
 思わず叫んで、刹那、身を縮めた。
 大きな声を出したことで、通行人の注目が集まった気がする。
 家茂も、チラリと周囲に視線を投げると、熾仁に肉薄するように歩を進めた。
「……場所を変えるぞ」
 呟くように落とした家茂に、熾仁が嘲るような笑みを浮かべる。
「何か不都合でも?」
「さあな。それはそっちの出方次第だけど」
 家茂も冷ややかに熾仁を()め上げた。直後。
菊千代(きくちよ)様。周囲にいた者たち(・・・・・・・・)を全員捕縛しました」
 いつの間にか姿を消していた崇哉が、どこからともなく戻って来て、家茂に耳打ちする。
「ん、お疲れ」
 家茂は、崇哉をねぎらいながらも、熾仁から視線を外さない。その先にいる熾仁の顔は、どこか引き攣っている。
「あんたが一人で来たんでないことくらい、俺にだって分かる。傀儡(かいらい)の将軍だからって思考も空っぽだと思われてたとしたら、心外だな。それに、あんたが誰とツルんでこの計画を立てたのか(・・・・・・・・・・・・・・・・)も知ってるぜ。そのツルんでる誰かサンの手の者は今、全員捕縛できた。計画の全容、(おおやけ)にして欲しいか?」
 熾仁は、分かり易く唇を噛み締め、やがて口を開いた。
「……望みは何です」
「別に? こっちはただ、あんたと穏やかに話が付けたいだけさ。話だけであんたが速やかに帰京してくれりゃ、こっちだってこれ以上のことをするつもりはない。今は(・・)、な」
 両者の睨み合いが続いたのが、どのくらいの間だったのか。
 やがて、家茂がクスッと小さく笑った。
「じゃ、行くか」
 言いながら、彼は和宮の手を引く。
「い、行くってどこに」
 思わず訊ねた和宮に、家茂は柔らかい笑みを浮かべ、「話し合いの場」とだけ言った。

***

 先刻、馬を預けた商家まで戻り、預け賃を払うと、熾仁を含めた計五名は、それぞれ馬上の人となった。
 ただ、来る時は四人でそれぞれ一匹馬を使っていたので、一人分足りない。熾仁は、当然のようにその内の一匹に跨がると、柔らかく微笑んで和宮に手を伸ばした。
「おいで」
(ちか)
 しかし、和宮はその手を無視すると、名を呼んだ家茂の補助で一匹の背に乗る。家茂は軽く地を蹴ると、その後ろに跨がった。
 無意識に熾仁を見ると、彼は顔全体で『面白くない』と言っていたが、最早気にならなかった。

 家茂(いわ)くの『話し合いの場』までは、馬でも少し時間が掛かった。
 城に近い場所を突っ切り、門を抜けると、武家屋敷の続く通りへ出る。やがて、先導していた家茂と崇哉は、ある屋敷の前で馬を止めた。
 馬から下りた一同を代表して、崇哉が門扉を叩いて(おとな)いを告げる。
 すると、下男と思われる男が、脇の小さな出入り口から顔を出した。彼は、崇哉と二、三言やり取りしたのち、大門を開ける。
 馬を預けてしばらくすると、見覚えのある男が姿を現した。
「菊千代様。奥方様も、お待ち申しておりました」
(かつ)!?
 思わず声を上げると、勝、こと勝麟太郎(りんたろう)はニコリと破顔する。
「はい、勝でございます。お久しゅうございます、奥方様」
 和宮を『奥方』と呼ぶのは、恐らくほかの家の者の手前だろう。
「じゃ、ここって勝の家なの?」
「ああ。城内だとやっぱり人目が気になるだろ? 昨日の内にこっそり連絡して、貸してもらうことにしたんだ」
(あば)ら屋でよろしければ、とご返事申し上げました」
 どうぞ、と言いつつ屋内を示されるまま、一同は勝家に上がった。
 麟太郎の評価は、残念ながら謙遜ではなく、一般的な武家屋敷より一段低い水準に見える。
 奥まった一室――広さは大体十畳前後だろうか――に案内されると、家茂は麟太郎に人払いを頼み、「お茶とかもいらないから」と言い添えた。
 麟太郎が一礼して部屋を出、障子戸を閉めると、熾仁は当然のように上座へ腰を下ろした。
 家茂も無言で次席に当たる場所に座り、和宮はその(しも)、邦子と崇哉は最下座へそれぞれ腰を落ち着ける。
「……というか、さっきはつい空気に流されてここまで付いて来たけど、考えてみたら私には話すことなんて何もないんだよ」
 熾仁は、珍しく眉根を大仰(おおぎょう)に寄せて家茂を見、次いで和宮に目線を移した。
「宮。これからすぐに私と来るんだ。京へ帰ろう」
「それは断ったはずよ、兄様」
 和宮はきっぱりと首を振る。
 だが、熾仁は座ったばかりなのに立ち上がり、和宮の前に膝を突いた。
「何が心配か、言ってごらん?」
「別に、心配なんかしてない。ただ、あたしは家茂が……今の夫が好きになったから」
「それは嘘だ」
 熾仁は、和宮の言い分を遮るように首を振り、断定する。
「ごめんよ。破談から迎えに来るまで、二年も掛かったから怒っているんだね。それは謝る。これからいくらでも償うから、もう駄々を捏ねて私を困らせるのはやめておくれ」
「怒っているわけじゃないの。あたしはもう兄様を、異性としては見られないだけ」
 ただ、二年前の駆け落ち未遂の際、すべての責を和宮に押し付けるようなことを言ったのはなぜか、訊いてみたい気もした。しかし、それを口にするより早く、熾仁は宥めるような微笑を浮かべる。
「分かってるよ。将軍の手前の嘘だってことはね。でも、心配要らない。君が嫁ぐ条件だったことは次々反故(ほご)になっていったのは邦子からも聞いてる。彼女が証言すれば、主上だってお考え直しくださるだろう。典侍(ないしのすけ)も、きっと口添えしてくれる。お母上も乳母(めのと)殿も、きっと私が守る。もちろん、宰相中将(さいしょうのちゅうじょう)殿もね。だから、安心して一緒に帰ろう。さあ」
 もうこれで話は終わりとばかりに、彼は和宮の手を取って立ち上がらせようとする。
 熾仁の手から逃れようともがく和宮に構わず、熾仁は家茂に目を向け、口調だけはおっとりと言った。
「将軍。悪いが、馬を一匹お借りします。先刻、あなたが捕らえたという者たちが、彼女を乗せる為の輿も用意していたのだけど、それはあなた方が没収してしまったでしょうから。途中で放しますので、うまくすれば馬は自力で戻れるでしょう。では」
「兄様、放して! あたしは家茂といる!」
「大丈夫だと言っているだろう? 心配要らない」
「今なら長州が付いてるから――か?」
 家茂が、まるで熾仁の言葉の先を引き取るように口を開く。その声音は、冷え切っていた。
 目を見開いた熾仁は、固まったように動きを止める。その瞬間、和宮は彼に取られた手を振り払いながら、家茂に目を向けた。
「……長州? 何それ」
 眉根を寄せて、家茂と熾仁の(あいだ)で視線を左右させる。
 家茂は、熾仁から視線を外さないまま、和宮を庇うようにさり気なく自分の背後へ導いた。
廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはっきょうれっさんじけん)
 家茂が発した言葉に、和宮も目を見開いた。
「……それって……前に兄様と邦姉様から聞いたことある」
 呆然と呟くと、家茂はチラリと和宮に投げた視線をすぐに熾仁に戻す。
「当時、あんたはそれとは別に個人で建白書を提出したらしいな」
「どうして……あなたがそれを」
「何も知らないと思われてたなら、心外だって言ったはずだぜ。その一件で首が飛んだのは幕府(ウチ)の老中だ。その時期が俺の就任前だとしても、そいつは幕臣だからな。傀儡だろーが何だろーが、どうしてクビになったのか、聞く権利くらいはある」
 クス、と嘲るような笑いを漏らして、家茂は言葉を継いだ。
「事件の名前さえ聞いちまえば、概要を調べるのは簡単だった。調べを進めれば、誰がどう関わってるのかだって(おの)ずと知れる。あんたがその時から、公家社会の中で、長州の過激尊攘派の急先鋒だって目されてることもな」
「兄様が!? 過激尊攘派なんてそんな……」
「何を根拠に?」
 唇の端を吊り上げた熾仁は、屈めていた上体をゆっくりと起こし、家茂を見下ろす。
「確かに、私は廷臣八十八卿列参事件の際、自らの意思で建白書を提出しました。ですが、それだけです。どうして長州と繋がる必要があるのです?」
「あんたの大伯母は、毛利斉房(なりふさ)の正室だったな」
 熾仁は、表情を強張らせて息を呑んだ。
「……毛利、斉房って?」
 訊いたのは、和宮だ。
「長州藩の第九代目藩主だ。本人も奥方もとっくに亡くなってるけど」
「……だったら、私が長州と繋がってるという根拠には薄いのでは?」
「だが、あんたの大伯母である栄宮(さかえのみや)幸子(ゆきこ)女王殿下は、十年前まではご存命だったはずだ。十年前って言えば、俺らはまだ六つかそこいらだけど、あんたはもう十七にはなってたな。たまの機嫌伺い程度の(ふみ)のやり取りもなかったわけ?」
 熾仁が、またも唇を噛むようにして瞼を伏せた。その下で、目線が左右に揺れる。
 その隙に踏み込むように、家茂が畳み掛けた。
「それに根拠がどうとかいう話をしてたつもりはない。話のすり替えはやめてもらおうか」
「すり替えなんてそんな」
「俺が今主題にしてんのは、あんたが長州と繋がってるっていう事実についてだ。だから不思議だったんだよ。長州派のはずのあんたが、薩摩の人間とツルんで来たってのが」
 熾仁は、それには答えない。ただ、伏せたままの瞼の下で、最早視線は逸れっ放しだ。
「大方、本勅使である大原をどうにか捩じ伏せてここまでくっついて来たってトコだろ。いくら長州過激派の急先鋒って噂があっても、今あんたが言ったように根拠がないとか何とか並べた上に、元婚約者に一目会いたいって泣き付けば、各藩の方針まで興味や知識のない奴なら口説き落とせる。あとは自分の護衛として、家人と偽って連れてきたのは全員長州人だろ。薩摩が兵士引き連れて江戸まで行くのに、その目的や結果を他藩が気にしないわけないもんな。下手に隠密使うより、直接見た奴から情報仕入れられれば手っ取り早い」
「……そういうこと」
 和宮の口から冷めた声が漏れて、熾仁は目を上げる。
「まあ、今更兄様があたしをダシに使ったって聞いても、何の感慨も沸かないけど」
 声と同じ温度の眼差しが、かつての婚約者を射た。
「違うよ、和宮」
 慌てたように、熾仁が再度、和宮の前に膝を突く。
「私は本当に」
「本当でも嘘でも、もうどうでもいいって言ってるの」
 取られた手を再度、彼の手から救出しながら、和宮は淡々と続けた。
「どっちにしろ、あたしの心はもう兄様のモノにはならない」
「……どうしてなんだ」
 ようやく、和宮の言葉が届いたのか、がっくりと肩を落とした熾仁は、同じように目尻を下げている。
「どうして、こんな短期間で心が変わるんだ。婚儀からまだ四月(よつき)だろう? 彼の何を知って好きだなんて言えるんだ!?
「月日の長さは関係ないわよ! 第一、あたしの心が兄様から離れたのは、家茂との婚儀のずっと前だもの!」
「何だって?」
 熾仁が、頓狂な声を出す。同時に、家茂も瞠目してこちらを見た。

©️神蔵 眞吹2024.
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登場人物紹介

【和宮親子内親王《かずのみや ちかこ ないしんのう》(登場時、7歳)】


生年月日/弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)

性別/女

血液型/AB

身長/143センチ 体重/34キロ(将来的に身長/155センチ 体重/45キロ)


この物語の主人公。


丙午生まれの女児は夫を食い殺すと言う言い伝えの為、2歳の時に年替えの儀を行い、弘化2年12月21日(1846年1月19日)生まれとなる。

実年齢5歳の時、有栖川宮熾仁親王と婚約するが、幕閣と朝廷の思惑により、別れることになる。

納得できず、一度は熾仁と駆け落ちしようとするが……。

【徳川 家茂《とくがわ いえもち》(登場時、15歳)】

□幼名:菊千代《きくちよ》→慶福《よしとみ》


生年月日/弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)

性別/男

血液型/A

身長/150センチ 体重/40キロ(将来的には、身長/160センチ、体重/48キロ)


この物語のもう一人の主人公で、和宮の夫。


3歳で紀州藩主の座に就き、5歳で元服。

7歳の頃、乳母・浪江《なみえ》が檀家として縁のある善光寺の住職・広海上人の次女・柊和《ひな》(12)と知り合い、親しくなっていく。

12歳の時に、井伊 直弼《いい なおすけ》の大老就任により、十四代将軍に決まり、就任。この年、倫宮《みちのみや》則子《のりこ》女王(8)との縁談が持ち上がっていたが、解消。


13歳の時には柊和(18)も奥入りするが、翌年には和宮との縁談が持ち上がり、幕閣と大奥の上層部に邪魔と断じられた柊和(19)を失う。

その元凶と、一度は和宮に恨みを抱くが……。

【有栖川宮熾仁親王《ありすがわのみや たるひと しんのう》(登場時、18歳)】


生年月日/天保6年2月19日(1835年3月17日)

性別/男


5歳の和宮と、16歳の時に婚約。

和宮の亡き父の猶子となっている為、戸籍上は兄妹でもあるという不思議な関係。

和宮のことは、異性ではなく可愛い妹程度にしか思っていなかったが、公武合体策により和宮と別れる羽目になる。

本人としては、この時初めて彼女への愛を自覚したと思っているが……。

【土御門 邦子《つちみかど くにこ》(登場時、11歳)】


生年月日/天保13(1842)年10月12日

性別/女


和宮の侍女兼護衛。

陰陽師の家系である土御門家に生まれ、戦巫女として教育を受けた。

女だてらに武芸十八般どんと来い。

【天璋院《てんしょういん》/敬子《すみこ》(登場時、25歳)】

□名前の変転:一《かつ》→市《いち》→篤《あつ》→敬子


生年月日/天保6年12月19日(1836年2月5日)

性別/女


先代将軍・家定《いえさだ》の正室で、先代御台所《みだいどころ》。

戸籍上の、家茂の母。


17歳で、従兄である薩摩藩主・島津 斉彬《しまづ なりあきら》(44)の養女となる。この時、本姓と諱《いみな》は源 篤子《みなもとのあつこ》となる。

20歳の時、時の右大臣・近衛 忠煕《このえ ただひろ》の養女となり、名を藤原 敬子《ふじわらの すみこ》と改める。この年の11月、第13代将軍・家定の正室になるが、二年後、夫(享年34)に先立たれ、落飾して、天璋院を名乗っている。

生まれ育った環境による価値観の違いから、初対面時には和宮と対立するが……。

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