第11話 影なす行方
文字数 3,224文字
事務所にシャドウがいたのは、ほんの五分か十分。彼が立ち去ってすぐ、ほぼ入れ違いで来さんと視矢くんが血相を変えて事務所へ戻って来た。
ぐずついた天候のせいで既に薄暗いとはいえ、二人が帰る時間にはまだ早い。どうしたのかなと首を傾げつつ、おかえりなさいと言葉を掛ける。
こちらの様子を確認し、二人は顔を見合わせ頷いた。
「小夜、大丈夫だな。従者は?」
「先程まで、ここにいただろう」
「え? 従者なんていなかったけど……」
視矢くんと来さんに矢継ぎ早に問われ、私はきょとんとした。今までここにいたのは、シャドウと名乗った少年、もとい青年で。よくよく記憶を辿って、あっ、と思い当たる。
なぜシャドウに見覚えがあるような気がしたのか。来さんがアクセスしたTFCの極秘データの中に、彼の姿があったためだ。
パソコン画面で見た少年は、今日事務所に来たシャドウより若干幼かったものの、確かに面影はある。そして同一人物あれば、ソウさんのターゲット、つまりは従者。
「で、でも、あの人ちゃんと “人間” だったよ?」
シャドウから瘴気は感じられず、外見も中身も確かに人間だった。ブヨブヨした黒い異形ではなく、かつて遭遇した従者とは全然違う。
従者は人間の姿を保てないと思っていたので、にわかに信じられなかった。それでも私に感じ取れなかっただけで、来さんと視矢くんは事務所に従者の気配を察して普段より早い時間に帰って来たのだから疑いようがない。
「最初は依頼人だと思ったの。全然危険な感じじゃなくて……」
「小夜はそいつと話したのか」
戸惑う私に、二人の心配げな視線が向けられる。
「特には何も。私に会いに来たって言ってた。それと、二十歳だって」
「なんで、歳なんか聞いてんだよ」
「え、流れで」
視矢くんに呆れ交じりに聞かれ、思い返してみる。実際そんなどうでもいい話しかしていないし、顔見せ以外に他の目的があったなら私の方が知りたい。
「名前は教えてくれなかったけど、シャドウって呼べって言われたよ」
「シャドウ? 中二っぽいな」
眉間に皺を寄せた視矢くんが、私と同じ感想を口にする。
「多分、俺に付いてた奴と同じ奴だな」
「ああ。私の方も、何度か気配を感じた」
視矢くんたちにも正体不明の従者が付きまとっていて、二人は早くから、瘴気で存在に気付いていたらしい。ただその従者は、姿を現さず人を襲う様子もなかった。それがシャドウだったのかもしれない。
人間の姿も知性もそのままの、異質な者。シャドウは事務所に二人がいない時を狙って、やって来たのだろう。
「分かんねえのは、なんで人の姿取ってんのかだ」
「ナイに聞けばいい。そうだろう、ナイ?」
来さんが自分自身に問い掛けた。他の人には奇妙な独り言に見えるところだけど、私や視矢くんにはお馴染の光景になっている。
「……さあ。ボクは、知らない」
表情と口調の変化で、ナイが出てきたことが分かる。頑として黙秘するナイに、来さんが入れ替わり立ち代わりして口論が続いた。
互いに言い合う両者を止めようにも、私も視矢くんも口を挟むタイミングが掴めない。
「隠し通すつもりなら、二度とスイーツは……」
「やめてよね、そういうの!」
ついに来さんが切り札を出した。好物のスイーツを取り上げられることが、ナイにとって一番の痛手。邪神の力はナイの方が上でも、最終的に来さんに軍配が上がる。
ナイは仕方なく肩を落とし、こちらへ向き直った。
「シャドウはね、クトゥルフと直接契約した。だから人間だった時と変わらないし、強い力を持ってるよ。少なくとも、シヤじゃ敵わない」
ナイの説明に、視矢くんはぴくりと眉を動かした。
通常、契約は信者が『邪神の血』を使って代行して執り行う。そもそも生ある者が邪神と対峙するなど不可能に近い。
従者になる契約は、邪神に身と心を捧げる証。異形の従者たちは、人だった頃持っていたすべてを失った。経緯はどうであれ、邪神と契約を交わした以上、シャドウも相応の代価を支払ったに違いない。
「……シャドウは、何と引換えに契約した?」
クトゥルフの話をする時はいつも、視矢くんは怖いぐらいに憎悪を露わにする。
「家族かな」
「最低野郎……!」
ナイがあっさり口にした答えは、クトゥルフに家族を殺された視矢くんには残酷すぎる。苦しそうに顔を歪め拳で壁を叩く彼に、私は掛ける言葉が見つからなかった。
視矢くんは、風の邪神ハスターと契約した。その際どんな代償があったのか。手放したものは、きっと決して小さくはない。
(視矢くんも “従者”……?)
シャドウのように、一見人間と変わらない従者がいる。邪神と契約した者が従者だというなら、そういうことになる。心によぎった考えを追い払うように、私は胸のペンダントをぎゅっと握り締めた。
ここ数日の雪と雨が止み、久しぶりに憂鬱な天気から解放された。
いつものごとく、来さんと視矢くんは不在。事務所の食材をチェックすれば、案の定買い置きが尽きかけていて、たちまち今日の夕食に困りそうだった。
午前中のうちに事務仕事を片付け、私は午後一番で出掛けることにした。客足の少ない時間帯なら、ゆっくり買い物ができる。
事務所から歩いて行ける距離にスーパーがあるのは、非常に有難い。私は野菜や肉類を一通り買い物かごに入れた後、マーマレードが切れていることを思い出し、青果コーナーへ足を向けた。どれにしようかと、瑞々しいオレンジを手に取って吟味する。
「マーマレードにするなら、甘夏かな。柚子でもいい」
「あ、なるほど」
決めかねている私の後ろで、誰かがそんなアドバイスをくれた。反射的に相槌を打ってから、はっとして背後に立つ人の顔を見上げる。
「……ソウさん?」
果物の棚を覗き込んでいるのは、スーパーの店員ではなく、メタルのように艶やかな白い髪の持ち主だった。驚いて思わず落としそうになったオレンジを、白髪の彼は難なく受け止め、陳列棚に戻した。
ソウさんの目立つ容貌は店内で異彩を放ち、買い物中の主婦たちが時折ちらちら視線を寄越してくる。
「あの……この間は、助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
私が前回言い損ねたお礼を伝えると、ソウさんは胸に片手を当て、どこかの騎士みたいに恭し気にお辞儀した。芝居がかった仕草に驚いているうちに、あっという間に私の手から買い物カゴが奪われていた。唖然とする私に、ソウさんは薄く笑って言う。
「この後、少し付き合ってくれないか。話がある」
「え? でも私今勤務時間で」
「スポンサーの呼び出しに応じるのも、仕事のうち。TFCの内部機密の件で、ちょっとね。きみも後ろ暗いところがあるだろ」
含みのある口調で囁かれ、ぎくりとした。もしかしたら不正アクセスの件かもしれない。
買い物カゴを取り戻そうとしても、ソウさんは返してくれず、要するに荷物持ちをしてくれたわけではなく、返して欲しければ従えという交換条件だ。
シャドウと名乗る従者が事務所に現れた旨は、TFCへ報告を上げた。もちろん、シャドウがソウさんのターゲットだというのはTFCの極秘情報であり、私たちは知らないことになっている。
データを盗み見た事実が明るみに出たら、来さんの立場や事務所の存続が危うくなってしまう。なんとかしなければ、と考えを巡らせながら、私は上の空でソウさんが持つカゴにオレンジを放り込んだ。
「はっさくだと、苦味が残るが」
そんな風に指摘され、狼狽えてソウさんの目線の先を追う。甘夏を入れたつもりで、手に取っていたのは、はっさく。私が動揺しているのを察しただろうに、ソウさんは素知らぬ顔をしている。
「詳しいんだね。ソウさんもマーマレード作ったりするの?」
「言ってなかった? 俺は料理が趣味だって」
そういえば、初めて会った日、ソウさんは事務所に手作りのクッキーを持ってきてくれた。TFCのエリートは、意外にも家庭的な一面があるらしい。
ぐずついた天候のせいで既に薄暗いとはいえ、二人が帰る時間にはまだ早い。どうしたのかなと首を傾げつつ、おかえりなさいと言葉を掛ける。
こちらの様子を確認し、二人は顔を見合わせ頷いた。
「小夜、大丈夫だな。従者は?」
「先程まで、ここにいただろう」
「え? 従者なんていなかったけど……」
視矢くんと来さんに矢継ぎ早に問われ、私はきょとんとした。今までここにいたのは、シャドウと名乗った少年、もとい青年で。よくよく記憶を辿って、あっ、と思い当たる。
なぜシャドウに見覚えがあるような気がしたのか。来さんがアクセスしたTFCの極秘データの中に、彼の姿があったためだ。
パソコン画面で見た少年は、今日事務所に来たシャドウより若干幼かったものの、確かに面影はある。そして同一人物あれば、ソウさんのターゲット、つまりは従者。
「で、でも、あの人ちゃんと “人間” だったよ?」
シャドウから瘴気は感じられず、外見も中身も確かに人間だった。ブヨブヨした黒い異形ではなく、かつて遭遇した従者とは全然違う。
従者は人間の姿を保てないと思っていたので、にわかに信じられなかった。それでも私に感じ取れなかっただけで、来さんと視矢くんは事務所に従者の気配を察して普段より早い時間に帰って来たのだから疑いようがない。
「最初は依頼人だと思ったの。全然危険な感じじゃなくて……」
「小夜はそいつと話したのか」
戸惑う私に、二人の心配げな視線が向けられる。
「特には何も。私に会いに来たって言ってた。それと、二十歳だって」
「なんで、歳なんか聞いてんだよ」
「え、流れで」
視矢くんに呆れ交じりに聞かれ、思い返してみる。実際そんなどうでもいい話しかしていないし、顔見せ以外に他の目的があったなら私の方が知りたい。
「名前は教えてくれなかったけど、シャドウって呼べって言われたよ」
「シャドウ? 中二っぽいな」
眉間に皺を寄せた視矢くんが、私と同じ感想を口にする。
「多分、俺に付いてた奴と同じ奴だな」
「ああ。私の方も、何度か気配を感じた」
視矢くんたちにも正体不明の従者が付きまとっていて、二人は早くから、瘴気で存在に気付いていたらしい。ただその従者は、姿を現さず人を襲う様子もなかった。それがシャドウだったのかもしれない。
人間の姿も知性もそのままの、異質な者。シャドウは事務所に二人がいない時を狙って、やって来たのだろう。
「分かんねえのは、なんで人の姿取ってんのかだ」
「ナイに聞けばいい。そうだろう、ナイ?」
来さんが自分自身に問い掛けた。他の人には奇妙な独り言に見えるところだけど、私や視矢くんにはお馴染の光景になっている。
「……さあ。ボクは、知らない」
表情と口調の変化で、ナイが出てきたことが分かる。頑として黙秘するナイに、来さんが入れ替わり立ち代わりして口論が続いた。
互いに言い合う両者を止めようにも、私も視矢くんも口を挟むタイミングが掴めない。
「隠し通すつもりなら、二度とスイーツは……」
「やめてよね、そういうの!」
ついに来さんが切り札を出した。好物のスイーツを取り上げられることが、ナイにとって一番の痛手。邪神の力はナイの方が上でも、最終的に来さんに軍配が上がる。
ナイは仕方なく肩を落とし、こちらへ向き直った。
「シャドウはね、クトゥルフと直接契約した。だから人間だった時と変わらないし、強い力を持ってるよ。少なくとも、シヤじゃ敵わない」
ナイの説明に、視矢くんはぴくりと眉を動かした。
通常、契約は信者が『邪神の血』を使って代行して執り行う。そもそも生ある者が邪神と対峙するなど不可能に近い。
従者になる契約は、邪神に身と心を捧げる証。異形の従者たちは、人だった頃持っていたすべてを失った。経緯はどうであれ、邪神と契約を交わした以上、シャドウも相応の代価を支払ったに違いない。
「……シャドウは、何と引換えに契約した?」
クトゥルフの話をする時はいつも、視矢くんは怖いぐらいに憎悪を露わにする。
「家族かな」
「最低野郎……!」
ナイがあっさり口にした答えは、クトゥルフに家族を殺された視矢くんには残酷すぎる。苦しそうに顔を歪め拳で壁を叩く彼に、私は掛ける言葉が見つからなかった。
視矢くんは、風の邪神ハスターと契約した。その際どんな代償があったのか。手放したものは、きっと決して小さくはない。
(視矢くんも “従者”……?)
シャドウのように、一見人間と変わらない従者がいる。邪神と契約した者が従者だというなら、そういうことになる。心によぎった考えを追い払うように、私は胸のペンダントをぎゅっと握り締めた。
ここ数日の雪と雨が止み、久しぶりに憂鬱な天気から解放された。
いつものごとく、来さんと視矢くんは不在。事務所の食材をチェックすれば、案の定買い置きが尽きかけていて、たちまち今日の夕食に困りそうだった。
午前中のうちに事務仕事を片付け、私は午後一番で出掛けることにした。客足の少ない時間帯なら、ゆっくり買い物ができる。
事務所から歩いて行ける距離にスーパーがあるのは、非常に有難い。私は野菜や肉類を一通り買い物かごに入れた後、マーマレードが切れていることを思い出し、青果コーナーへ足を向けた。どれにしようかと、瑞々しいオレンジを手に取って吟味する。
「マーマレードにするなら、甘夏かな。柚子でもいい」
「あ、なるほど」
決めかねている私の後ろで、誰かがそんなアドバイスをくれた。反射的に相槌を打ってから、はっとして背後に立つ人の顔を見上げる。
「……ソウさん?」
果物の棚を覗き込んでいるのは、スーパーの店員ではなく、メタルのように艶やかな白い髪の持ち主だった。驚いて思わず落としそうになったオレンジを、白髪の彼は難なく受け止め、陳列棚に戻した。
ソウさんの目立つ容貌は店内で異彩を放ち、買い物中の主婦たちが時折ちらちら視線を寄越してくる。
「あの……この間は、助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
私が前回言い損ねたお礼を伝えると、ソウさんは胸に片手を当て、どこかの騎士みたいに恭し気にお辞儀した。芝居がかった仕草に驚いているうちに、あっという間に私の手から買い物カゴが奪われていた。唖然とする私に、ソウさんは薄く笑って言う。
「この後、少し付き合ってくれないか。話がある」
「え? でも私今勤務時間で」
「スポンサーの呼び出しに応じるのも、仕事のうち。TFCの内部機密の件で、ちょっとね。きみも後ろ暗いところがあるだろ」
含みのある口調で囁かれ、ぎくりとした。もしかしたら不正アクセスの件かもしれない。
買い物カゴを取り戻そうとしても、ソウさんは返してくれず、要するに荷物持ちをしてくれたわけではなく、返して欲しければ従えという交換条件だ。
シャドウと名乗る従者が事務所に現れた旨は、TFCへ報告を上げた。もちろん、シャドウがソウさんのターゲットだというのはTFCの極秘情報であり、私たちは知らないことになっている。
データを盗み見た事実が明るみに出たら、来さんの立場や事務所の存続が危うくなってしまう。なんとかしなければ、と考えを巡らせながら、私は上の空でソウさんが持つカゴにオレンジを放り込んだ。
「はっさくだと、苦味が残るが」
そんな風に指摘され、狼狽えてソウさんの目線の先を追う。甘夏を入れたつもりで、手に取っていたのは、はっさく。私が動揺しているのを察しただろうに、ソウさんは素知らぬ顔をしている。
「詳しいんだね。ソウさんもマーマレード作ったりするの?」
「言ってなかった? 俺は料理が趣味だって」
そういえば、初めて会った日、ソウさんは事務所に手作りのクッキーを持ってきてくれた。TFCのエリートは、意外にも家庭的な一面があるらしい。