第十二章 おまけの章

文字数 4,995文字

 秩父近郊には御田植祭を行う神社が他にもあるという情報をもとに調査すると、不思議な神社があった。
 椋神社(むくじんじゃ)のホームページによると、「延喜式神名帳」に掲載された武蔵国秩父郡の式内社である。同名社が秩父郡市内に5社を数え、明治政府はいずれの神社にも式内社と称することを許したという。
 • 椋神社(埼玉県秩父市下吉田)
 • 椋神社(埼玉県秩父郡皆野町皆野)
 • 椋神社(埼玉県秩父郡皆野町野巻)
 • 椋神社(埼玉県秩父市蒔田)
 • 椋神社(埼玉県秩父市蒔田)
とある。

 下吉田、皆野、蒔田、どこかで聞いたような…。いずれも第七章、第九章に出てきた地名である。下吉田には「取方の大露頭」があり、皆野には「前原の不整合」がある。蒔田には「下蒔田遺跡」がある。これらの地に椋神社が配置されたのは偶然だろうか。それとも何かの力が働いているのだろうか。興味深い。

吉田椋神社 
 旧社格は県社。元は井椋(いくら)五所大明神と号しており「いくらじんじゃ」が本来の呼称である。近世になり地元以外から「むくじんじゃ」と読まれることが多くなり現在の呼称になったという。例祭の際に龍勢を打ち上げる秩父吉田の龍勢は有名であり、地元をはじめ各地から見学に訪れる観光客も多い。長い筒状の竹をロケットのように打ち上げる勇壮な祭りであり国重要無形民俗文化財になっている。
 秩父観光協会のホームページによると、「龍勢とは『椋(むく)神社秋の大祭』に奉納する神事として、代々伝承され続けてきた『手作りロケット』のことです。檜にかけて打ち上げる様が、龍の昇天の姿に似ていることから龍勢と呼ばれています。ロケット推進の噴射によって約500メートルの高さまで上昇するもので、土地の古老より構造や火薬の取り扱い方などを伝承した若衆が製造します」とある。火薬製造に関しては、秩父地方は江戸幕府からの要請もあり、さらには祭りには必ず花火が奉納されており、火薬づくりが盛んだった。黒色火薬は硝石(硝酸カリウム)に硫黄、木炭を調合して作るが、日本に硝石の鉱脈はなく、民家の床下の土地から硝石を作る「古土法」という方法が考案され、戦国時代に全国に広まった、といわれている。白川郷とその周辺、忍者などでも作られていたようである。現代の秩父では近隣の高校や大学の協力で火薬づくりの体験授業が行われたと聞く。
 「伝承技術の相違によって二十七流派あり、それぞれが独特の工夫をこらすため、各龍勢も個性的なものに仕上がります。観客が打ち上げの成功を一喜一憂する中、十数分おきに三十数本の龍勢が打ち上げられます。」と説明されている。
 また、明治17年(1884年)10月31日、秩父困民党の決起集会が行われた場所でもある。秩父事件120周年を迎えた2004年には、記念作品映画「草の乱」の撮影が行われた。

中蒔田(ナカマイタ)椋神社 
 主な神事は神楽奉納である。秩父市のホームページによると、中蒔田椋神社の神楽は、「明治初年、秩父神社の神楽師佐野宗五郎は、中蒔田椋神社祠掌設楽一貫に計り椋神社氏子に、秩父神社の神楽を伝授したという。秩父神社の神楽がほぼそっくり伝授されたというのは、蒔田が最初といわれ、早や百数十年を数える。」とあり、市指定無形民俗文化財となっている。

上蒔田(カミマイタ)椋神社 
 主な神事は、3月3日(現在は3月第一日曜日)に行われる例祭としての御田植祭がある。秩父神社でも御田植祭があるが、ここでは規模は小さいが地元に根付いた心温まる神事になっている。
(写真:御田植祭 出典 秩父お祭りカレンダーPROJECT)


 秩父市のホームページによると、「上蒔田椋神社の田植神事は、春の農作業に先がけて、神社境内を神田に見たて、氏子の代表12人の神部によって実際の農耕順序に従って苗代づくりから本田の田植まで、田植唄や祝唄をうたいながら農作業を模擬的に行うものである。」とあり、県指定無形民俗文化財となっている。
 祭りとは本来こうした姿をしているのではないだろうか。御田植祭の際には竜神を迎える。秩父神社では秩父今宮神社の龍神池から竜神を招くが、ここでは近くの丹生神社から招くようである。丹生神社の情報は極めて少なく椋神社の参道から鳥居が見えるとか徒歩2分とかの情報しか得られなかった。「埼玉県秩父市蒔田に鎮座。蒔田椋神社御田植祭の一部がこの社で行われている。神社の詳細は不明。」と写真とともにブログに書かれていたのが唯一の情報であった。

○御田植祭によって、秩父に春が訪れる
 春まだ浅く、雪が残る頃、ときには雪の舞う中で、上蒔田椋神社にて御田植祭が行われる。
 毎年氏子から選ばれる十二人衆は、まず配膳の儀で祝い酒を酌み交わし、赤ら顔になってから田植えの所作を演じる。(写真:配膳の儀 出典「秩父市上蒔田椋神社の御田植祭」散歩日和)


祝い酒にほろ酔い、皆ご機嫌になって、浮かれて、陽気に、祭りのめでたさを盛り上げる。明るい笑い声が上がるほどに、楽しく騒ぐほどに、縁起が良いとされるのだろう。また、陰暦2月3日の寒さに対し、酒で身体を温める必要もあったのだろう。
 上蒔田の御田植祭は豊穣の予祝であり、秩父の厳しい冬の間に待ち望んだ春の初めを告げる、めでたく喜ばしい祝祭なのである。

 この雰囲気は秩父神社の御田植祭にはない。いわば、秩父神社の御田植祭は神事であり、上蒔田の御田植祭は祭りなのである。
 秩父神社は秩父の総鎮守として、御嶽の竜神を迎えるという最重要神事を行う使命と責務を負っている。習俗を正しく伝承する役割もあるのだろう。
 それに対し、上蒔田の御田植祭は地元の人々が自分たちのために行う、ひたすらにめでたい祝祭である。そのおかげで、習俗の伝承など必要がなかった当時の農村の情景をそのまま今に伝えてくれる。けして変えてはならない大切な大切な祭りである。

○なぜ上蒔田に御田植祭が残ったのか(写真:蒔田から見た武甲山 出典 ジオパーク秩父)


 おそらく、古く稲作が始まった頃は、秩父のそれぞれの田んぼで御田植祭が行われていたのだろう。それが歴史の中で廃れ、最後に秩父神社と上蒔田椋神社の二箇所だけが残ったのではないか。
 秩父神社に御田植祭が残ったのは、秩父の総鎮守であり、地底湖の竜神との絆であった場所なので、自然である。
 では、上蒔田椋神社に御田植祭が残ったのは何故か。おそらく、上蒔田が古から秩父一の米どころだった故だろう。秩父には「嫁にいくなら太田か蒔田」という言葉も伝わっている。他にも、自然条件が厳しいほど神事が重んじられる故、また山間で他の文化に上書きされ難かった立地条件なども理由の一つと考えられる。
 もしかしたら、上蒔田椋神社も、柞の森の遙拝殿(現在の秩父神社)と同じく、地底湖の竜神とつながる絆なのかもしれない。各地の御田植祭が廃れる中で、地底湖につながるこの二箇所だけは何としても続けなければならないと守り抜かれてきたのだろう。

○丹生神社の水脈
 上蒔田椋神社も御嶽(武甲山)を御神体としている。御田植祭の中で種蒔きの所作を演じる際、二名の作家老は神種の入った笊を捧持して、先ず御嶽(武甲山)に向かって一拝し、振り向いて本殿に一拝する。
 御嶽を御神体としつつ丹生神社に水乞いにおもむくということは、丹生神社の水源が御嶽につながっていることを暗示している。
 丹生神社は、御嶽と竜神池(現在の龍神池)を結ぶ直線の延長上にある。おそらく、地底湖につながる水脈は丹生神社の水源までのびているのだろう。すなわち、丹生神社の水脈はもう一つの「神の道」なのかもしれない。
 丹生神社と竜神池(現在の龍神池)を結ぶ直線は、大蛇窪とそれているように見える。これは、地底湖がそれだけ巨大に広がっていることを示すのではないだろうか。

 なお、丹生神社の御祭神は丹生大神であり、八大龍王の御神徳とは何の関わりもない。このことからも秩父神社の水乞い神事は八大龍王に歪められていることがわかる。

○なぜ田んぼではなく、神社の境内で行われるのか
 日本各地の田の神降ろしは、田んぼで行われることも多い。秩父は山間で耕地が狭いために田んぼで行うことが難しく、皆が集まれる広い場所で、複数の集落が共に行ったのではないか。

○なぜ本殿の向きが逆なのか
 種蒔きの所作の際、作家老は武甲山に一拝した後、「振り向いて」本殿に一拝する。遥拝殿であれば、武甲山を遥拝する向きと本殿に拝する向きは一致するはずである。
 おそらく、この地域に点在していた社が合祀された時、神体山信仰を出雲神信仰に塗り替えるために向きを変えられたと考えられる。

○藁の竜神はどうなるのか
 上蒔田椋神社御田植祭由緒は、田の神上げについて言及していない。では、藁の竜神は秋の収穫後どうなるのだろうか。日本各地の田の神春秋去来を見ると、いずれも秋祭りで田の神上げを行っているようである。おそらく、上蒔田椋神社でも秋祭り(9月)に田の神上げが行われているのではないだろうか。

皆野椋神社
 皆野椋神社のホームページによると、皆野椋神社は、「蓑山の頂きに神のなばります(お隠れになる)蓑山神社を奥宮にして、当地域の里宮としてお祀りされています。蓑山の中腹には、上流からの湧水で生じた龍神池があり、あらゆる命を育む水を司る龍神様をお祀りしています」とある。
 又、神楽(皆野町指定無形民俗文化財)や獅子舞(埼玉県指定無形民俗文化財)も神事芸能として行われている。(出典 皆野椋神社HP)


 秩父今宮神社の神体山として竜脈で繋がる武甲山があるように、椋神社では蓑山に椋神社奥社蓑神社を配し、中腹に龍神池と善女龍神雷電神社を配し龍神祭りを行っている。秩父今宮神社と同じ形式を踏襲しているように思える。
 多少穿った見方をすると、秩父で行われている龍神祭や御田植祭の神事が、皆野周辺の椋神社に分散されて行われているような印象を受ける。
 ひとつには、秩父今宮神社は八大龍王の修験道に代わられ、秩父神社は妙見神社に代わられた歴史がある。そこで、元となる神事を他所で残したかったではないかと想像される。それが、生き写しのように執り行われる椋神社の御田植祭であり龍神祭りではないだろうか。
 もう一つの見方としては、秩父までは来られない遠方の人々のために、椋神社で秩父の祭祀を行ったのではないかともみられる。

 観光資源としてのお披露目神事ではなく、素朴な、本来の神事の姿が感じられる椋神社の神事を絶やすことなく続けられることを切に願う。秩父には本来の神事の姿を踏襲しながら永らえている他の神社も多々ある。氏子の方々やその家族、子どもたちの尽力で成り立っている。神楽や祭りに参加する学校や学生や若者も見受けられるが、街を出ていかざるを得ない若者も多いと聞く。
 秩父に限ったことではないが、せめて若い時に地域の神事に参加することで、若者の意識の中に郷土や地域の思い出が残ればいいと思うのだが。全国的にも消えつつある祭りや神事が多々ある。後継者問題や風紀、騒音などの問題もあるが、周辺地域の高校生や中学生、小学生に参加してもらうことで、神事や伝統芸能を若者に知ってもらい、一緒によりよい祭りにしていくようにできないだろうか。

 と、地元の人たちだけに負担を強いるような解決策を身勝手に振り回すのは心苦しい。
 しかし、秩父の観光が、近場で、温泉に入って、美味しいものを食べて、遊んで、パワースポットに立ち寄って、お土産を買って帰る、だけではさみしいし、人の心に残る旅にはならない。わざわざ秩父に来なくても地元でできてしまう。人を呼ぶ事業としても長続きしないだろう。有名避暑地や有名温泉街などの衰退例もある。
 秩父には古(いにしえ)から続く文化と伝統がある。哀しい歴史もあった。艶やかな時代もあった。いいものを残し、残そうと思えるいいものを、正しく、誠実に継承して、発信して、知ってもらい、体感してもらう。帰りに、秩父に来てよかった、心が癒されたと思ってもらえるような旅を提供できればいいのではないだろうか。
 武甲山、地底湖、竜神、祭祀、祭り、自然、伝説…みんなで秩父の財産を守りながら地域の発展を考えていければ衰退しないと思うのだが。

2024224 

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