第5話 夢を思い出して

文字数 3,293文字

 今後の方針が定まったあとの二人は、特に何か話し込めるような話題が見つかることもなく、そのまますぐに店を離れることになった。お会計は全て津野田が支払おうとしたが、津野田がもたもたと財布を取り出している間に佐村が済ませてしまっていた。佐村は、実は四年前に玉の輿に乗っていて金はむしろ持て余しているのだ、と言って笑っていた。

 時刻は午後五時頃である。津野田と佐村は夕食を共にする話にもならずに、そのまま駅に向って歩き始めていた。駅周辺は賑わいを見せているが平日ということもあり、そこまで飽和状態ではない。一軒ばかりで威勢良く肉の匂いを漂わせている焼き肉店にも空きがあった。だがコーヒーを飲んだばかりの二人には響いていなかった。

 ジメジメとした鉄道橋の下、少し匂う駅の裏口側、気が付けば二人はそんな所に辿り着いていた。目の前には多少年季の入った改札口がある。津野田の地元にもあるような地味な風景であったが、都内らしくそこでは人影が絶えなかった。津野田と佐村が少し立ち止まろうとも、それを怪しむ駅員はいなかった。唯一、蛾が二人を茶化していた。ベージュともグレートもつかない色合いの、どこにでもいるような蛾である。

「これからどうするんですか。」

 蛾を目で追いながら津野田と佐村は、ほとんど同時にそう言っていた。お互いに顔も見ていなかったが、たまたま偶然二人の声は重なったのであった。だが二人はそれを笑い合う事もせず、神妙な沈黙を漂わせていた。

 先に、佐村が答えた。
「私はもうすぐ公演があるので、それに向けて練習をしてきます。といいますか、今はその練習を少し抜けてきているだけですので。」

 津野田はそれに対し、お時間を取らせてしまって申し訳ないと言った旨のセリフを口にしていた。ほとんど反射的に話していたセリフであったので、津野田が真に申し訳ないと思っていた訳ではなかったが、それによって人間関係は取り繕われていた。

 すると、佐村が何か言いたげに津野田の横顔を見上げた。つまりは、お前も質問に答えなさい、というものである。津野田は佐村の視線にすぐ気が付いたが、その真意を理解するのには数秒ほど時間を要した。そして津野田は慌てたようにして口を開いた。

「僕は、一度銭湯に戻ろうと思います。」
「銭湯?」
「東太さんの実家です。」
「東太君の実家、銭湯だったんだ。意外ですね。」

 津野田は最初から銭湯の息子としての東太しか知らなかったので、その事実を意外に思う佐村の感覚は理解出来なかったが、そう言えば自分も東太が舞台俳優をやっていたと知った時には少し驚いたものだと思い出して、黙った。蛾は飛んでいる。

「津野田さん、」
「はい、何でしょう。」
 蛾に動じずに佐村は言った。
「一つお願いがあります。」
「僕に出来る事であれば。」
「私の舞台は見に来ないでください。」

 津野田は、一瞬自分が何を言われたのか理解出来なかった。目の前に居る初対面の女に、人妻に、口説いた訳でもないのに、気の触るような話はしていなかった筈であるのに、何故か舞台を見に来ないで欲しいと言われたのである。津野田は驚いて思わず佐村の顔を凝視した。だが佐村の方は全く動じておらず、ただ真っ直ぐと改札の上の方に視線をやり、次の電車の到着時刻を伝える電光掲示板を眺めていた。

「別に津野田が悪い訳じゃないんです。ごめんなさい。」
「では、どうして。」
「昔の話ですけどね、東太君には夢があったんです。」

 佐村は薄らと目を細めて、遠いようで近い過去を、たった四年程前の日々を思い返していた。東太がまだ生きていて、佐村と一緒の劇団で活動していた日々である。東太の演技は下手すぎず上手すぎず真面目すぎず緩すぎない、ある程度の基準は満たした問題の無いだけのものであった。だがそれで十分だった。少なくともあの劇団にいる以上は。

「東太君ね、常に焦ってるみたいだったんです。大きな舞台とか映画のオーディション受けて落ちてまた受けて、でも私達には結果しか言わないの、また駄目だったんですよ~って。いつの間にか一人で大きな壁に挑戦して散ってた。」
「……。」
「困るのよね、事前に言ってくれないと。だってもし受かってたらスケジュールとか大変じゃない。それにそんな事が続いていくうちにね、この劇団あんまり好きじゃないのかな~踏み台にして出て行きたいのかな~なんて、ちょっと思うようになったんです。別に良いんですけどね。そういうもんですし。」

 舞台の世界に詳しくない津野田は東太の行動がどう捉えられていたのか分らなかったが、とりあえず納得した風に頷いておいた。

「で、ちょっと東太君に聞いたんですよ。将来は何になりたいのって。お互いもういい年した大人だったんですけどね。何故か私はそういう聞き方をしていたんです。でも東太君の方はそれに違和感を得なかったのか普通にスルーして、そして、いたって真面目な顔で言ったんです。『一番大きな舞台でスポットライト浴びたい』って。いや、一番大きな舞台ってどれ?何基準?って思ったんですけど。」

 演劇に関する教養が皆無である津野田は一番大きな舞台と聞いた瞬間に、豪奢な彫刻の柱が立ち並ぶイタリアとかフランスとかギリシャとか欧州の歴史的文化財の舞台上で燕尾服を着用して、テノールだとか言う美声を響かせる津野田を想像した。演劇とミュージカルの違いは知らなかったのである。そしてその後、シェイクスピアがどこの国の人だったか忘れてしまっていた事に気が付いた。

「東太君の夢、ずごい漠然としてて途方もなく大きかった。でも彼はとても熱心な目をしていたから、下手に茶化せなかった。意気込みは認めてたんです。でもだからこそ、東太君が結局夢を成し得ずに死んでしまった事が、何だかすごく、虚しいんですよね。私まで少し不安になってくると言いますか……」

 津野田はここでようやく、佐村が言わんとしていることが理解出来た。

「分りました佐村さん。僕は東太さんを預かっておきますし、貴方の元に連れてくることもしません。貴方は貴方の道を進んでいくと良いと思います。僕は、舞台にはあまり詳しくないですしやろうとも思っていませんから、僕は、大丈夫です。」

 津野田はポケット越しに東太を握りしめていた。東太は固く冷たかったが、すぐに津野田の手の熱により温くなっていった。佐村はその位置をチラリと見やったが、すぐに目を逸らして明後日の方向を向いた。

「ありがとうございます。我儘を言ってしまってごめんなさい。」
「謝らないでください。東太さんは押し付けられた訳ではないんですから。」
「そうですよね、それじゃ何だか、あんまりですもんね。」

 佐村は津野田から目を背け続けていた。胸に大きなつっかえが残り、目が少し充血していたのである。東太が死んだという知らせが入ってきたとき、佐村は周囲の人と同様に泣かなかった。しかしながら、この津野田という男の遅すぎる登場には、流石に悔しさを覚えたのであった。ただ彼女の声は聞き取りやすく凜としていて、一切の震えがなかった。

 誰も構いやしなかったが、駅構内で二人だけが神妙な雰囲気の最中にいた。だが不意に全ての流れを断ち切って、佐村が言った。
「東太君、昔みんなに創作パスタを振る舞ってくれたことがあったんです。彼の部屋に大勢で押しかけたのもアレが最初で最後だった。」
「はぁ。」
「みんな美味しいって言ってました。東太君のいないところで東太君の話題が上がるときには、必ずパスタの話も付け加えられる位にはみんなの印象に残ってました。私も、また食べたいってずっと思ってたんです。」

 この時にはもう佐村は笑顔を浮かべていた。そして津野田の方を見やって言った。
「私も、東太君ともっと仲良くしておきたかったな。」


 その後、津野田と佐村はホームで分かれ、それぞれ違った方向の電車に乗っていった。佐村はそのまま稽古場に戻り、いつも通り何も変わらない生活に戻っていった。津野田の方はそのまま新幹線に乗り込み、自由席に空きがなかった為デッキで立ち尽くしながら、高速で去って行く東京を眺めていた。
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