壱 之 予覚

文字数 1,203文字




 残業のせいで終電に乗り遅れた。

 これでタクシーに乗れば、余分に稼いだお金がとぶ。

 でも夜更けの女の一人歩きは不安だった。

 たった二駅歩くだけなのに、(ほとん)ど人通りのない道は商店街だというのに不気味だった。

 時折、閉じたシャッターが風に揺すられ音を立てる。

 吹いてくる風はこんな時刻でも生暖かい。

 何か出るなら、まず寒気がするからわかると自分を励ます。

 本当に危ないのは、人でないものより、人そのものかもしれない。

 ぶつぶつ文句を言いながら歩き続ける。

 むくんだ足にパンプスが痛かった。

 もし、また帰り際に仕事を押しつけて来たら絶対に断ってやる。

 あんな書類の山はもうごめんだ。

 ガシャンと音が響き肩をビクつかせた。

 腹立たしい。

 どうしてこんな思いまでしなきゃならないの。

 やっぱりタクシーにしようかと迷い始める。

 何かあってから乗ればよかったと後悔したくない。

 だけどこんな時に限ってタクシーどころか車が来ない。

 まだ十一時過ぎだというのに、どうしてこんなに車が少ないのかと(いぶか)しんだ。

 空き缶が転がる音にハッとする。

 商店の途切れる数軒先の曲がり角からそれが転がり車道の中ほどまで勢いよく転がる。

 風はそんなに強くない。

 何なのだと脚を止めた刹那、荒い息を切らした男が追いかける様に飛びだした。

 乱れたスーツ姿の中年男だった。

 男は絶望した表情で左右を見回してこちらを振り向いた。

 一気に駆けてこちらへ来る。

 冗談じゃあない! 関わりたくなんてない!

 (きびす)を返して逃げようとした。

 大声で待ってくれと叫ばれる。

 いいや、待てないと駆けだした。

 ぜえぜえ言いながら、背後から何度も待ってくれと叫ばれる。

 逃げながらスマホで警察を呼ぼうとバッグのファスナーを開こうとする。

 中の何かが噛み込んで途中でファスナーが止まってしまった。

 焦りながら懸命に走った。

 それでもパンプスで速く走れるはずがなかった。

 すぐ後ろから、助けてくれと頼まれた。

 いやだ! 新手の痴漢だと駆け続ける。

 振っていた左腕をつかまれて、振り向かされる様に立ち止まった。

 見つめた男の顔は吹きだした汗か、冷や汗か、(しずく)が滝の様に流れ落ちていた。荒い息をつきかなり走っていたと思った。



 あいつが来る──あいつが来てしまう────たのむ────。



 あいつ? 何が来るのと疑問が膨れ上がる。頼まれても何もできるわけないじゃない。

 さらに面倒なのが来るなら逃げないと、と男の手を振り払った。



 お前は本物なのか──用心しろ────用心するんだ────。



 はぁ!? 私はわたしよ! 本物かってどういう事なのと尋ね返そうとすると、男は不安げな表情で辺りを見回し始めた。

 通りには誰もいない。

 それなのに見回し続ける。

 いきなり男は後退り、遠巻きに横を通り抜け駆けだした。

 唖然と後ろ姿を見つめているとそれが突然に起きた。





 男の先にある自動販売機が崩れだした。





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