009)【兆候】

文字数 2,080文字

六月の新月は、完成した新店舗へ小野木が旅立つ日だった。

顧客と同行する前に、現地へ一人で乗り込んで下調べをするためだ。
アテンドする年代より少し前の時代を知っておくため、同行で訪れる年の五年前へ向かう。

新月当日は、普段はモニタールームに待機する山下も『時の扉』まで出向いていた。
単独では初めてとなるタイムトラベルを心配しているのだ。

「無理はするな。辛くなったら、予定より早く帰国しても構わない」
「分かってます」
心細さを微塵も感じさせない笑顔で、小野木は答えた。

「山下さん。帰国したら、僕とスパーリングで勝負してください。単独トラベルの成功記念ってことで」
「いいぞ」
「本当ですか!」

「そんな格好の小野木と、二人だけで話してると、また変な噂が広まるわよ」
そう言って、遥花が現れた。

小野木はこの間のように、上半身裸で腰布を巻いた姿だった。

「久谷さん。僕が帰国したら、山下さんが飲みに連れて行ってくれるそうです。久谷さんも一緒に、奢ってもらいましょうね」

「そんな約束してないぞ。それに、俺の奢りか?」
「そりゃそうでしょ」
遥花と小野木が口を揃えて言い、三人で顔を見合わせて笑い合った。

山下は二人を置いてモニタールームへ向かった。
師弟関係の、二人だけの時間が必要だと思ったのだ。

十分ほど、遥花と小野木は話していた。
小野木は終始、満面の笑みだった。

この後、別のアテンドの予定がある遥花は、古代ギリシャのドレスを来ている。
普段にも増して美しい姿だった。

最後にと言う感じで、少し照れながら差し出した小野木の右手を、遥花が力強く握り返していた。
あれでは雰囲気が台無しだなと、山下は温かい気持ちで二人を眺めていた。

遥花が退室したのを確認した小野木が、モニターの先にいる山下へ笑いかけた。
「準備OKです!」
「幸運を祈る」
山下はマイク越しに答えて『時の扉』を起動させた。

モニターが紅梅色の光で満たされ、小野木は旅立って行った。

まさか小野木が、次の新月になっても帰って来ないとは、この時は思いもしなかった。
山下も他の誰も、きっと、小野木自身でさえも。



「私を今すぐ、ティカルへ行かせてください」
古代ギリシャから帰国したばかりの遥花が、検査施設のモニター越しに、山下と部長の早瀬へ訴えた。

「それは許可出来ない」
早瀬がいち早く反応した。
「何かの病原菌に感染しているかもしれないんだぞ。とんでもないことになると、君にだって、分かるだろう」

「分かってます。だけど。このまま何も出来ないなんて」
項垂れた遥花の顔が画面の下へ消えた。

「小野木君の捜索は、部隊を編成して、今日中に現地へ向かわせる。今は、その結果を待ってくれ」
山下は冷静に告げていたが、気持ちは遥花と同じだった。

小野木は現地で、何らかのトラベルに巻き込まれている。
助けを待っているはずだと、皆がそう思っていた。

「でももう、命があっても、未来へは戻せないのでしょう?」
遥花が泣き顔を上げた。

新月から新月への、月の満ち欠けのサイクルの間に帰りそびれてしまったら、未来への扉は閉ざされてしまう。
過去で新月を迎えてしまったら、その者には現代へ帰る術が無くなるのだ。

例え、次のサイクルで違う誰かが現地へ赴いても、出発した時と同じ人数でしか過去からは戻れない。
『時の扉』は旅立った時の、生命体の数を認識して現代へ受け入れるシステムになっている。

「必ず、方法は有る」
山下は自分へ言い聞かせていた。

山下も遥花も完全に打ちひしがれていたが、後になって振り返ると、この時は僅かだが、まだ希望があったと思い知る。

小野木捜索部隊は、出発してから一週間もしない内に戻って来た。
そんな早い捜索打ち切りは、山下に悪い予感しか与えなかった。

捜索隊は一枚の紙切れを山下へ提出した。
現地の植物を原料にして作られた、粗い紙に書かれた文字を読んだ時、山下は破り捨てる衝動を抑えるのに必死だった。

「付近の捜索は一通り行いました。ですが、自ら失踪したと思われますので、拠点の近くにはいないと判断して、早々に打ち切りました」
「それでいい。手間をかけた。ゆっくり休んでくれ」

通信を切ると、山下は机に拳を打ち込んだ。
「何故だ。一体、何があった」

『私は戻れなくなりました』
紙切れには一言、それだけが書かれてあった。

覚悟の失踪なら、生存している可能性は高い。
それはそれで『T・T・T』組織としては厄介な事態だった。

過去に存在してはならない人間を『T・T・T』の失態で、過去へ残してしまうことになる。
小野木は『T・T・T』にとっての、犯罪者になったのだ。

余計なことをする人間というのは必ず存在するもので、小野木失踪の件は、山下が沈黙していても本部へ情報が入っていた。

七月末に、本部から小野木の抹殺が発令された。

璃子がインターンシップへ復帰したのは、そんな頃だった。

山下はすぐに小野木の失踪について、璃子へ知らせた。
失踪する兆候みたいなものを感じなかったか聞くためだった。

璃子はかなり驚いていた。
兆候どころか、あの小野木さんが、遥花さんから離れるなんて考えられないと語った。

それには山下も同意見だった。
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