第3話 ファミレス珍事

文字数 2,811文字

 今日も順調に仕事のストレスが溜まった水曜日。会社の最寄駅を一駅分通り越してデパートへ。デパコスのリップを幾つか試し、マスクに色移りしない、発色良し艶あり鮮やかなピンクのスタッフさんオススメ品を購入した。

 口紅ならブランド物でもそんなに高価じゃないのがありがたい。まぁ消耗品だから当たり前か。気分良く左手にブランドロゴの入った紙袋を下げて、さーて家路に着く……。

 ドーン!!

 肩をとんでもない(ちから)で押されて回転しながら吹っ飛び階段を転がりつつ私は死を予感した。
 ……なんてのは冗談、その場で軽く尻もちをついただけ。

「すいません、スマホ見てました!」

 慌てた様子の声。差し出された手を取らず、私は自力で立ち上がった。普段からパンツスーツで良かったと思う。スカートだったらモロ見えだ。

「大丈夫ですけど、ちゃんと前を……、アキト?!」

 目の前には、2年前に別れた元彼が立っていた。真ん中分けの黒髪に、太いくせに頼りなく下がった眉毛のせいでやたら優しそうに見える顔。濃紺のスーツ上下は吊るしっぽい。先端が尖った焦茶色の革靴を履いている。

「なんだ、エリカじゃないか」
「なんだとはなんだ。そっちの前方不注意なんだから謝りなさいよ」
「さっき謝った……ハハハ。変わらないなぁ」

 彼が腹を抱えて笑うのを見て、私も付き合っていた頃のことを思い出した。いつもこんな風に、毅然とした態度や正論を唱えては彼に茶化されてたような気がする。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「この駅使ってるのか? 一度も見かけたこと無いんだけど」
「今日はデパートに寄ったの。定期の区間外だからお財布的には一駅戻りたいところかも」
「なら歩こうか。僕は定期じゃないし、たまには運動しないと」

 半ば強引に腕を取られ、地下鉄を退出させられた。なぜ元彼の運動に加担しなければならないのか全く分からない。

「一人で歩けばいいよ。私は電車で帰るから」
「まあ、そう言うなって。減るもんじゃなし」

 私の帰宅後の時間はこのやり取り中にもドンドン目減りしているのだが。さっさと帰ってゾンビドラマの続きが観たいのだが。一駅戻りたいなんて言うんじゃなかった。

 大学二年生の秋に人数合わせで呼ばれた合コンにて出会い、半年付き合ったが手を繋ぐ程度で終わった男。確か名字は渕上(ふちがみ)……いや、森下(もりした)だったかな。とにかくそのくらいの薄っすらな記憶しかない。もう二度と会うこともないだろうと、別れた時にメッセージアプリの連絡先からも削除してしまった相手。

「……腹、減ってないか」
「夜だからね、そりゃ()いてますよ。だから早く帰りたいの」
「じゃなくて、ここ寄ってかない? (おご)るよ」

 彼はドンと痩せっぽちの胸に拳を当て、店の看板を指差した。奢るという言葉に一瞬心が色めき立つも、そこは安さを売りにしたファミレスチェーン店。ふぅむ……。

「奢りなら、食べていこうかな」
「よーし入ろう。ぶつかっちまったお詫びだ。なんでも頼んでくれ」

 多分セットでお腹いっぱいになるからなんでも頼めるわけではないと思いつつ、アキトと連れ立って入店する。かなり混んでいるが、ちょうど一席空いていたので待ち時間なしで座ることが出来た。

 注文用タブレットの表層に指を滑らし、なるべくお高めのセットを探す。やはり安さが勝負の店であり、ハンバーグのセットだけでは千円を超えない。というか千円を超えるセットが無い。肩の痛みの分と貴重な夜の時間を奪った分、彼のお財布にダメージを与えてやりたいのだが。

「ワインも()っす。こんな安くて採算取れるのかしら」
「取れてるから、全国にあるんだよ。僕、先に選んでもいいかな」

 タブレットを渡した瞬間、アキトは数回タップして注文を終えた。多分、このチェーン店の代名詞であるドリアを頼んだのだろう。

「まだ悩んでていいよ。でもごめん、テーブルにパソコン広げたいな」
「あぁ、はい。どうぞ」

 タブレットを浮かせてあげると、彼はマットブラック色のパソコンを開いてテーブルに置いた。キーボードでなにやらカタカタ打ち込み、タッチパッドを操作している。

「仕事?」
「うん。……あ、ごめんちょっと電話出る」

 黒のビジネスバッグから振動しているスマホを取り出して耳に当てた。背面にラベルが貼られているから社用携帯だろう。相手は上司か取引先か、基本丁寧語の中に謙譲語と尊敬語が頻出する。

 私がセルフサービスの水2人分を()いで席へ戻ると、彼はちょうど通話を終えたところだった。

「ふぅ。たまに早く帰れたと思ったらこうだよ」
「アキトって何の仕事してるの?」
「エンジニア……プログラマって言った(ほう)が分かりやすいかな。上流工程だから営業みたいなもんだけどね」
「なんだか大変そう。会社出てから仕事の話するとか正気とは思えないわ」
「前は完全リモートだったし、今でも週2でリモートなんだ。パソコンさえあればどこでもオフィスって感じ」
「そんなの絶対嫌だ……」

 ちょっと可哀想になったので、ハンバーグセットにワインで手を打ってやることにした。注文を済ませ、タブレットを充電台に立てかけておく。

 ようやくひと仕事終えたらしく、アキトはパソコンを閉じてバッグにしまう。その時、彼のスーツのポケット部分が鳴動した。

「えー……げ! やばい!」
「何が?」
「ちょっと僕、外に……」

 突然、横から現れた細く青白い手によってグラスが持ち上げられる。(またた)きをする()もなく、グラスから放たれた水がアキトの髪の毛と顔をびっしょり濡らした。

 水かけ犯の女は何も言わず、店を出ていこうとする。

「ヒロコ!」

 大声を上げて、アキトはビジネスバッグを抱え、立ち上がった。慌てて金髪ポニーテールの女を追いかけようとするが、足を止めてバッグから財布を取り出し、一枚抜いた札をテーブルの上にペシンと投げつける。

「ごめん! 釣りはとっといて!」

 彼は大急ぎで店を(あと)にした。

 急展開に()いた口が塞がらず。しばらく唖然として、意識が戻ってきたのでテーブルの上の札を両手で持ち上げて確認する。……い、いち万円札! 慌て過ぎて間違えたか、それしか持ち合わせがなかったか。私は心の中で先ほどの彼のセリフを復唱した。

『釣りはとっといて!』

 なんて素敵な言葉。なんて幸せな言葉。嬉しくて、あの日曜日の暴言以降は記憶から存在を抹消していた男に、メッセージアプリの通話機能で発信した。

『おう、今から配信するんだ。その(あと)かけ直すよ』
「そう……。今、位置情報を送りました。30分以内に来ると、なんでも好きなもの食べ放題でございます」
『なんだってぇ?! えーと……ああ、ここなら分かるよ。今から30分だな、走ってく!』

 通話が途切れた。5キロはあるのに、アイツ走って来るのか。

「ハンバーグセットのお客様ぁ」
「私です」
「シチリア風ドリアとミートソースのお客様ぁ」
「私です」
「ワインの……」
「それも私です」

 首を(ひね)りながら、ウェイターさんは去っていった。
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