美しさのあと

文字数 1,904文字

たとえば、さきほどまでの嵐もほとんど街を変えませんでした
礫のような雨も、狂ったように街を揺らした風も、雷の破壊の音も
それらの過ぎたあとに残ったのは、濡れた美しいアスファルトの黒と、その色に似た夜ばかりでした

ただそれだけでした
ならば、あまりにおおげさでした
また何も変わらない

圧倒的な力や、その無慈悲は
ひととき神妙な面持を我々に与えるけれど
悪習のついた人々の、我々の奔流を堰き止めることはない

わかっていた
わかっていたはずだ
わかっていても

地を穿ち
空を割る強烈なその音
今度こそなにか変わるのではないかと

不自然を自然に
ひとを生き物に
プラスチック製の街を森に
 

わたしは待ちました
ただ待つばかりで
夜が来ました


新たな空気の圧力が扉を重くしていました
変わらぬ景色と上質の蒸気
腕力にまかせて外へ出たわたしは、まず安堵し、そして安堵したわたしに大いに失望しました

あの強い雷光の色は
街を抜ける風のあの甲高い音は
その美しさや激しさは、すでに失われてしまいました

美しさのあとには
ほとんどなにも残りませんでした
それはいつもそのようでした


わたしの帰省に際して、わずかなあいだ離れることさえ寂しがったあなたも
こどものようなあなたのあの涙も
人間が美しく在り続けられないのをしばし忘れさせたけれども


遠くではもう雨音が
風のうねりが
雷鳴が


洗練された狩りのように
静かに穏やかに
わたしたちの背後に迫っていました

慈悲なく矢は射られました
わたしたちはまったくの無防備で、鏃がこちらに向いたときさえ
そのときさえ、わたしは、あなたは


苦しみはなく
目を明きました
褪せたよい日の思い出にあなたがありました


女の面影が定かでなくなるように、わたしの文学の膂力も衰えて往きました
森は街に侵食されていました
ただそれを眺めていました

わたしの目の前で
うつくしい木々が倒れて逝きました
木挽きの歌は、努めてあかるく歌われました

抗えぬ力の在ることには在るようだけれど
悲しみの多くは、悔恨の多くは
ただ、わたしの怠惰でした


嗚呼、自分をただしくする前にそれを表現できたならば
あわれにうずくまるわたしを愛せたならば
言い訳ばかりだ


選ばないことを
選んだのではなかったか
わたしは


餓鬼の飢えが
求めるちからが
わたしにない

天も地もわからぬということが、わたしの人生にはありませんでした
わたしを抑えつける重力がつねに在りました
それは愛でした

わたしにはいつでも堕つべき大地があり
足場もなく飛び続ける恐怖を
わたしは知らない

彼らの
彼女らの
それが自己愛に起因したとして、たしかにわたしは愛のなかで育ちました

まったくの善意、まったくの愛
そういうものはあまり見ないけれど
わたしのこころがそれを求めつづけるのを、知らないふりもできませんでした

わたしの内にだって無償の愛を見つけないのに
自己愛の延長にだけ
いとしい他者を見つけるのに

嗚呼、でも
母のわたしへの愛は表現できません
母ですらそれをよくわかっていないようだから

吐き気がする
嫌悪している
あらゆる言葉が空虚になるほど感謝している


母の好きな青と白の花を探して
こどもは走っていました
夜にも昼の光が射していました

あなたは風のように走りました
林を抜けるときにできた傷は
次の林へ入るまえに癒えていました

あなたには善も悪もなく
みなぎる生命のために鼓動はつよく
太陽光にあふれた世界を我が物にしようとひたすらに走りました

充実した昼と夜は
老いた少年のひととせよりかずっと長く
あなたは明日のほうへ向けて走っていました

小さな
新しい
野性の生物

脚は疲れを知らず
意思は澱むことなく
あらゆる危険は彼から逸れて往くも、彼はそもその危険を知らず

憶することなく花を手折る
その純真が
粗暴が

それが人間でなかっただろうか
これに人間を見るべきでなかっただろうか
しかし、わたしはいまだにこれをわからずにいます


嗚呼、しかし、なにを書きたいのだったか
わたし自身になにを言いたかったのか
書き始めたときの思いはどうであったか

もう思い出せません
いまこれを書いているあいだはほんとうだけれど
すぐにそうでなくなります

これを書いているあいだすら
ほんとうでないとしたら
それは絶望です

そしてこれは美しさの跡です
書いているわたしは、話しているわたしよりずっと誠実です
ただ嵐のようにひとときの美しさです
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