1話完結です

文字数 6,914文字

 人に名前を聞かれたら、相笠(あいがさ)志郎(しろう)と答えている。若い頃、水鏡霊障相談事務所の所長、水鏡(みかがみ)に拾われてから改名した。色々あって、昔の名前は捨てたんだ。

 胡散臭いと思われるだろう。それくらいでちょうどいい。何せ、私は自称霊能力者のアラフォーだ。依頼主がこっちの世界を知らないなら尚更、マイナスからゼロを目指した方がお互い気楽に付き合えるだろう。

 今回もそのつもりだった。だが、実際に蓋を開けてみれば、年に一度あるかないかの、厄介かつ面倒臭い依頼だった。依頼人に名指しされた時点で気付くべきだったのだ。


 現場付近に駐車した私は、水鏡と依頼人のやり取りを思い出した。

「ご安心ください。うちにいる二人の霊能者は、他所で解決できない難事件をいくつも解決に導いた凄腕です。特に彼。あなたもご存じの、相笠(あいがさ)志郎(しろう)の名前をこの業界で知らない人はいません。彼は必ずあなたの力になります」

 ご新規さんには若くて美人と評判の彼女は、依頼人に向かって爽やかな笑みを浮かべると、そう言ってハードルを限界まで引き上げた。

 それからというもの、私は依頼人に期待され過ぎて胃が痛い。溜息も出るというものだ。

 しかし、それも今日で終わる。別行動をしている相棒からはまだ連絡がないが、そろそろ依頼人と会う時間だ。もし彼に頼んだ調査が間に合わなくても、依頼人の彼の家で起っている霊障を取り除けば何とかなるだろう。

 覚悟を決めると、私は車を降りた。

♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 玄関に入った瞬間、甘ったるい鉄の匂いがした。腐った肉に香水を吹きかけて誤魔化したような悪臭に、私は思わずスーツの袖に口と鼻を押し付けた。

 異変は臭いだけじゃなかった。



 何かを啜るような気持ちの悪い音が絶えず聞こえている。

 私が顔を顰めると、後ろから「どうかされました?」と不安げな声が投げかけられた。

 私は振り返り、
「もう一度確認しますが、心当たりは無いんですね?」
 そう依頼主に確認すると、「半年前に建てたばかりです。ある訳ない」と上擦った声が返って来た。



「ところで、このベチャベチャいう音は聞こえてますか?」
 私が聞くと、彼は首を傾げた。何かを啜っていうような、舐めるような不快な音が五月蝿くて、声を拾うのもやっとなのだが、彼には聞こえていないようだ。

 (腐臭が立ち込め、異音のする新築か。あまり長居したくない現場だな)
 煙草を吸いたくなったが、思い留まってライターに伸ばした手を降ろした。たしか依頼人は嫌煙家だったはずだ。

 (ただでさえ面倒な案件だっていうのに……)
 そう思ったら、溜息が少し口から洩れてしまった。それをどう受け取ったのか、依頼人は怯えたように頭を抱え込んだ。

「ううぅ。やっぱり、駄目なんですね? 前に依頼した霊能者の先生にも言われたんです。ここにはお祓いできない悪霊がいるって。この土地は呪われているんだって!」

「あ、いや。見たところ、やはり原因はそっちじゃないですね」
 私は手帳を取り出し、調査で得た情報を再度確認した。


 家を建てる前、ここは空き地だった。家は半年前に完成したが、その時は何もおかしな事は起こらなかった。
 しかし二週間ほど前から、家の中で異臭がするようになった。調査を依頼しても原因は分からず様子を見ていたが、五日前から家族以外の何者かの気配を感じるようになったようだ。

 彼等を襲った不幸は、それだけじゃなかった。
 二日前、依頼人の娘が入院した。
 右足が焼け爛れるように痛むようだが、検査で異常は見られず、原因は不明。
 私は調査の関係で彼女に話を聞いてみたが、痛みが強く話すのもやっとのようだった。

 依頼人と彼の妻は、どちらかと言えばオカルトを信じるタイプの人間だった。異臭の原因が科学的に分からないと知ったすぐ後、霊障を疑い、霊能者を雇った。
 それが、この依頼をややこしくした問題の霊能者だ。依頼人はそいつに何度かお祓いしてもらったが、全く効果はなかったようだ。最後は、この土地は曰く付きでお祓いできない悪霊がいると説明され、逃げられてしまった。それで困っていたところ、偶然ウチの相談所を知り合いに紹介され、もしかしたらと相談してみたらしい。


「えっと。この家が完成したのは半年ほど前ですね。それなのに二週間前まで霊障は起こらなかった。土地の所為だとすると、どうにも不自然です。原因は他にあると考えて良いと思います」

 私が説明すると、依頼人は血走った目で詰め寄ってきた。

「前お世話になった先生に、ここは住んじゃいけない土地だったって言われたんですよ。でも、家を建ててしまったから、今更どうにもできないんだ。だからあなたに除霊を頼んだんだ! あなたが、他の霊能力者が解決できない難事件をいくつも解決した凄腕だって聞いたから!」

 依頼人はその後も、それなのに、土地以外に原因があるって、どういうことだ? 適当な事を言って騙すつもりじゃないだろうな⁉ と早口で捲し立てた。

 私は困った時の定型文を駆使して依頼人を宥めると、内心溜息を吐いた。

 (これだから前任者がとんずらした案件は厄介だ。実力の程は知らないが、どうせ詐欺師だろう。原因が分からないから形だけお祓いしたことにして、状況がヤバくなったから嘘を並べて逃げたんだ)

 今度は溜息が口から洩れずに済んだ。でも状況の悪さは変わらない。
 厄介な事に、依頼人は今もそいつを信じてしまっている。これじゃあ、私が除霊に成功しても信じて貰うのは困難だろう。

 (それに、この家に入った時から感じる纏わり付くような不快感)

 私は耳を塞ぎたい衝動を堪え、聴くに堪えない異音に耳を澄ました。

 



 先程から、ベチャベチャいう音に混ざって「ウミコ」という女の名前が微かに聞こえるようになった。
 知っている名前だ。怪異の正体について、おそらく私の仮説は当たっている。
 だからこそ――。

 (厄介な事になったな。依頼人にどう説明したものか……)

 宥めるのには成功したものの、恐怖と不安のせいで依頼人は苛立っている。
「土地が原因じゃないなら、何だって言うんですか? ちゃんと説明してください」
 そう言って、彼はまた血走った目を向けてきた。

 仕方ないので、私は調査を進める事にした。今はただ、前任者の不正の証拠を探しに行った相棒を信じて待つしかない。

「原因は、おそらく悪縁でしょう」

 愛用の眼鏡をかけ直すと、私はあちら側に目を向けた。物体は消え、魂とそれを結ぶ縁だけが絡み合った、怪異の世界だ。
 長く見続けると引き摺り込まれてしまう。意識を集中し、この家に纏わり付くドス黒い悪縁の元を辿る。どくどくと波打つ血管のようなそれは、リビングに置かれたクマのぬいぐるみへと終結していた。

「これは?」
「娘がバイト先で貰ったそうです」
「いつ頃からここに置いてありました?」
「えーっと……。たしか誕生日プレゼントと言っていたから、二週間前だと思います」

「ちょうど異臭が発生した時期です。失礼ですが、ぬいぐるみの中を見させてもらえませんか?」

「は?」
「原因を特定する為、穴を開けさせていただけませんでしょうか? 必ず元の状態に直すとお約束致しますので」

 依頼主の男は困ったように押し黙った後、「わかりました。娘に確認させてください」と携帯電話を取り出した。
 家族とはいえ、他人の持ち物だ。誰だって許可なく壊したくないだろう。

 しかし、電話をする依頼人の様子を観察すると、彼は娘が誰からぬいぐるみを貰ったのかを聞き出そうとヤケになっているようだった。

 自分の考えの甘さに舌打ちしたくなった。

 依頼人が聞き出そうとするのも無理はない。誕生日プレゼントが霊障の原因だったら、人間関係に何か問題があると考えるのが普通だ。

 確かにこれは悪手だったが、他にあのぬいぐるみの危険性を伝える方法を思いつかない。
 依頼人も依頼人だ。先に壊す許可だけ取ってくれてもいいじゃないかと思ってしまうが、彼の性格上そうはいかないのだろう。

 携帯電話の向こうから、少女の怒鳴るような声が微かに聞こえた。依頼人も厳しい口調で言い返している。会話から察するに、依頼人は普段から娘とどう接していいか迷っているようだ。

 (年頃の娘を持つというのは大変そうだな)
 まあ、私には縁のない悩みだが。

 (……いや、そうでもないな。子育ての苦労は少し分かる気がする)
 そう思っていると、バタンと玄関の戸が閉まる音がした。

 遠慮のない足音が近づいて来る。リビングの入口へ目を向けると、書類の束を持った若い男が現れた。思った通り、足音の主は私の相棒、夜雲(やくも)柊仁(しゅうじ)だった。
 彼はパーカーのフードを上げると私を睨め上げてきた。しかし、彼は特別怒っている訳じゃない。機嫌が良い時の方が珍しいのだ。問題は、彼が火の付いた煙草を銜えていることだ。

「ちょっおい柊仁! 依頼主は嫌煙家だと伝えただろ。しかもここ、新築だぞ。臭いが付いたらどうする」
「チッ。この腐臭より遥かにマシだろうが」

 依頼人に聞こえないよう小声で注意すると、柊仁は舌打ちして携帯灰皿を取り出した。
 そして邪魔だと言わんばかりに、脇に抱えていた資料の束を私に押し付けてきた。

「面倒な仕事押し付けやがって。アンタの読み通り、前任者はクソ野郎だった。土地に関する資料を片っ端から漁ったが、霊障の原因になりそうな物は何もなかった」

「そうか! ありがとう、助かった。ちょうど依頼人の説得に苦戦していたところだ。よく間に合わせてくれた」

「へぇ。よかったな。あの前任者、いや詐欺師か。逃げ足が速くて捕まえるのに手間取った。アンタはアイツの口の軽さに救われたな」

「て、手荒な真似はしてないだろうな?」

「詐欺師に情けをかけたかって? ははっ。俺にそんな優しさがあると思うか?」

 柊仁は、面倒だが俺向きの仕事だったよ、と一笑すると、鋭い切れ長の目をぬいぐるみへ向けた。

(くせ)ぇ。贈られた奴は相当

らしいな」
 想いに含みを持たせた彼は、私が止める間もなくポケットから出したカッターナイフでぬいぐるみの腹を裂いてしまった。

「あーあ……やってくれたな」
「ちんたらやってるアンタが悪い」

 柊仁が腹を裂いた時から腐臭と異音が酷くなっている。依頼人には悪いが、このまま調査を続行させてもらおう。

依頼人は壊れたぬいぐるみを二度見して、「えっえ!?」と目を白黒させた。
私は依頼人に深く頭を下げると、柊仁の横からぬいぐるみの中を覗き込む。中に入っていたのは、干からびた兎の後ろ足だった。

「柊仁、これはラビッツ・フットじゃないか? 確かある国では幸運のお守りとして伝わっていたはずだ。流石に最近は本物の兎の足を使う事はないようだが」

 しかし、どう見てもこれは本物の足だ。しかも綿の間から覗く切断面は荒く、素人の仕業だと直感した。そこから糸状の虫が湧き出している。

 柊仁がこちらに向かって片手を突き出して広げた。意図を察した私は、鞄から使い捨てのゴム手袋を出して渡してやった。柊仁は相談所にいる誰よりも呪物の扱いに長けている。これを無効化する方法を思いついたのだろう。

「アンタの言う通り、これは幸運のお守りだ。けどな、今は呪いの塊だ。願いと呪い、元はどちらも人の念だ。幸運を願う気持ちが反転すれば、不幸を招く呪いに変わる」

 柊仁が腐った兎の足を摘まみ上げると、それを見た依頼人がひぃっと呻いた。しかし、柊仁は特に気にする様子もなく、手のひらに乗せた兎の足にいくつか囁き念を込めると宙へ放った。
 兎の足がくるりと回転し、落ちていく。床に落ちたと思った瞬間、足は力強く床を蹴り飛ばして跳び、この空間から消えてしまった。いや、元の持ち主の元へ帰ったのか。

「呪詛返しか。これで依頼人は助かったが……」

「人を呪わば穴二つ。呪いってのはそういうもんだろ。報いは受けるだろうが、死にはしねぇよ」

 そう言って柊仁は手袋を外して私に押し付けると、不満げな表情で天井を指差した。家に充満していた腐臭は消えたが、不快な音はまだ収まらない。早く何とかしろと言いたいのだろう。

 私はゴミを鞄にしまうと、代わりに握り鋏を取り出した。

 あちら側へ視線を向けると、ぬいぐるみに意識を集中させて腹の穴を覗く。その瞬間、ぬいぐるみの腹からゴポゴポと血の塊が溢れ出した。そして、どす黒く変色した綿の中に男の顔が浮かび上がった。兎のような目をしており、熊のような牙が生えそろっていた。開いた口からは涎が流れてベチャベチャと不快な音を立てている。おそらくこれが異音の原因だろう。

 変わり果てた姿だが、男の顔には見覚えがあった。この家に来る前、私は霊障の原因について調査を進め、いくつか仮説を立てていた。彼はその内の一つ。依頼人の娘「ウミコ」の、顧客の一人だ。

 ウミコは両親に隠れていかがわしいバイトをしていた。私が接触したとき、彼女は厳しい両親の目を盗んで、ちょっとしたスリルを味わいたかったのだと白状した。顧客の情報を引き出すことには成功したが、その時彼女のバイトを黙っていることを条件に、バイトから足を洗うことを約束させたから、ぬいぐるみを壊す理由を依頼人にどう説明したものかと悩んでいた。

 (結局、調査の為だと押し切ってしまったな)

 私はぬいぐるみにハサミを向けると、異形の怪物と化した悪縁を断ち切った。刹那、少女を貪ったこの男の記憶が視界にチラついた。男は金が絡む関係だという事を忘れ、まるで初恋を拗らせた少年のように浮かれていた。このぬいぐるみも、元は彼女を喜ばせたい一心で買ったようだ。彼女にとってはスリルを得る手段だったのだろうが、彼にとっては本物の恋だったらしい。

 (そういえば、依頼人の娘の名前には、『兎』の字が使われていた)

 二人の間に何があったかは知らないが、男の愛は、兎の足を切り落とす程の憎悪に変わったようだ。
 しかしこれは……。一番の被害者は、何の罪もないのに足を切られた兎かもしれない。


 私は意識をあちら側から、こちら側へと浮上させた。
 もう異音は聞こえなくなっていた。

 青白い顔をした依頼人に向き直ると、私は悪縁による霊障を取り除いた件の他、前任者の不正の件も一緒に報告を済ませた。呪については明かさず、ぬいぐるみが曰く付きになった原因は知らない方が安全だと伝えた。

「最後に、このぬいぐるみについて、ですが。こちらの連携不足でこのように壊してしまい、大変申し訳ございませんでした。すぐ修理致しますので、十五分ほどお時間をいただけませんでしょうか?」

 糸も針も綿も用意してある。自慢じゃないが、私はこういった細かい作業が得意だ。この程度十分とかからないだろうが、念のため長めに見積もらせてもらった。

 しかし、依頼人はブンブンと首を横に振った。
「いっいらない! いりません! そちらで引き取って焚き上げてくださいませんか⁉」

 真っ青な顔をした依頼人に押し付けられ、私は渋々腹の裂けたぬいぐるみを抱えて車に戻ることになった。
 助手席にぬいぐるみを乗せようと思ったが、柊仁が乗り込んできたので後部座席にぬいぐるみを寝かせた。腹から綿が飛び出していて哀れだ。事務所に戻ったら直してやろう。

 運転席に戻ると、助手席に座ったまま後部座席を眺めていた柊仁が不思議そうな顔を私に向けた。

「さっき修理するとか言ってたが、その後で焚き上げるんだよな?」
「いや、悪縁も呪いも消えたんだ。焚き上げる必要はないだろう」

「は? アンタ、まさか……あれを、飾るつもりなのか?」
「ハハハ。何言ってるんだ。私にそんなファンシーな趣味はない。水鏡のデスクにでも飾ってもらおう。たしか彼女は、こういった可愛いもの、嫌いじゃなかったはずだしな」

「アンタ、あの婆さんに何か恨みでもあんのか?」
「何か問題か? 可愛いクマだと思うけどな」

「いや、見た目の話じゃねぇよ。曰くとかそういうの……」
 柊仁は何かを思い出したかのように両手で顔を覆って空を仰いだ。
「そういえばアンタ、曰くとか全く気にしないタイプだったな」

「どうした柊仁? 急に仰け反ったりして、具合が悪いのか」
「……なんでもねぇよ。早く帰ろうぜ」

「そうだな」
 私はエンジンをかけると車を発進させた。

「そういえば柊仁、お前ここまでどうやって来たんだ? タクシー使ったなら、経費で落とさないと損だぞ」
「詐欺師に送らせた。テメェの尻拭いをしてやるんだ、これくらい安いもんだろ」

「そうか。前任者が運転できる状態だと分かって安心したよ」


 後日、前任者への度が過ぎた事情聴取と無断で水鏡のデスクに置いてしまったぬいぐるみの件で雷が落ちるのだが、この時の私達は知る由もなかった。

 ちなみに、片足を切られた兎についてだが。柊仁と私で呪が跳ね返った飼主の様子を見に行った際、保護させてもらった。今は水鏡の家で大事にされている。


(終わり)
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