*7片*

文字数 2,257文字


 七日目の朝、雨が窓を叩く音で目が覚めた。何も、こんな日にこんな雨なんて降らなくてもいいじゃないかと思った。これじゃあ桜はすっかり散ってしまう。潔く、儚く、美しく散るはずだった桜が、その寿命と関係なく散らされる。それを誰が見届けることもできないまま、明日になればもうどこにも桜は残っていない。
 桜のようになりたいと言った美桜さんは、今日、桜とともに散ってしまう。そして、誰も僕にそれを伝えてくれる人はいない。今日、会わないことを決めたのは僕と美桜さんのどっちだったか。


 暗く重い雲から落ちてくる雨粒が、傘を叩いて激しい音を鳴らす。耳に詰め込んだイヤホンから流れる音楽が掻き消されるほどの雨音。それが体に入った妙な力を抜いていく。
 昨日、美桜さんと来た並木道は、これだけの雨だと誰もいない。傘を差したまま、昨日座ったベンチに身を投げた。傘から滑っていく雨や、ベンチに染みていた雨が服をずぶずぶに濡らしていく。体が徐々に体温を失っていく感覚が、却って自分はここで生きているということを実感させた。
「あら、いつかの」
 イヤホンも音楽も雨音も通り越して、柔らかな声が耳に響く。舞うことなく落ちていく桜から視線を逸らし、イヤホンを外しながら声の方を見ると、この前マメという柴犬と散歩をしていたお婆さんだった。
「そんなに濡れてしまって……風邪ひきますよ」
 一度話しただけのお婆さんだが、まるで孫に声かけるような穏やかな声音だったから。眩いものを見るような優しい笑みだったから、頬を伝う雨が妙に暖かい気がして、自嘲混じりに口角が緩んだ。
「どうしてこんな雨の中?」
 僕が立ち上がりながら彼女に訊くと、雨に濡れて身を重くした桜を見上げて言った。
「見届けたくてねぇ。今年はマメと見られた桜だったから」
 本当はあの日の公園まで行きたかったらしいが、この雨の中、一駅先まで歩くのは体力的に厳しい為、近所のここまで見に来たらしい。
「あなたは?」
「似たようなものです。あの人と見た桜はきっともう見納めだと思って」
 情けないほど顔の筋肉が動かなくて、格好もつかない表情をしているはずなのに、お婆さんは全てを見透かしたように笑みを浮かべ頷いた。
「大切とか、愛したような人ではないんです。一週間……六日間、数時間を一緒に過ごしただけの人」
 もともと、愛や恋を必要だとは思っていないし、今でもその考えは変わらない。人の気持ちは変わってしまうし、永く続けられる自信もない。だけど、散っていく桜を美しいと綻び、そんな人になりたいと言った美桜さん。
 あの時、彼女の口から『死』を連想させる言葉を聞いて、あまりにも苦しく八つ当たりをしたが、それは間違いなく美桜さんが桜のような人だったことを示している。
「もっと一緒に過ごしていたかった」
 満開に咲き誇った桜が散るのは、約一週間というのを聞いたことがある。もっと咲いていて欲しいのに、それが叶わない事を皆、知っているからこの時期には桜を見上げ、来年を待つのだ。
 二度と咲かない桜が散るのを、美しいなんて言えるわけがない。言えるわけがないのに。
「美しい人だった」
 その言葉以外、彼女にふさわしい言葉が見つからなかった。
 傘なんて意味がないほど、雨が顔を濡らす。お婆さんは、ただ相槌をうつばかりで何も言わなかったが、心を撫でられたように心地が良かった。
 雨の重さに耐えられなくなった桜が一つ、音を立てて水たまりに沈んだ。


 日曜日が終わる、深夜十二時ぴったり。まるでアラームのように一通のメールが来た。登録していないアドレスだったが、アットマークより前の文字の羅列は美桜さんと同じ。一瞬、生きているのかと思ったが、時間指定で送られたことに気づいて泣きたくなった。
 文章は短かった。
《優輝さん。
 もし、あなたが
 もっと一緒に過ごしたいと思ってくれたなら、
 私の最期の一週間は最高の幸せです。
 友達から始められる日を、
 楽しみにしてますね。》
 別れの挨拶もないくせに『最期』だと言う。
 来年の桜を見に行きたいと強請(ねだ)るように、あるかどうかもわからない来世を約束する。言いたいことがたくさんあるはずなのに、たった数行で終わらせてしまう。
 美桜さんはもう、この世にいない。


 もう彼女は待っていない事を知っているのに、一時間早い電車に乗ってしまった。
 待合室を覗いて、誰もいないことに胸が張り裂けそうになりながら、そこから見える桜の木の下へ向かった。
 暖かい陽に照らされた木々が、冷たい風に吹かれて互いの葉を寄せ囁き合う。一週間前、この並木道ではたくさんの人が集い、青く晴れた空の下で咲き乱れた桜に心を奪われていた。それが葉桜に変わり、昨夜降り続けた雨のせいですっかり緑に染まっている。
 来年の桜が咲く頃、またここに人々は集い、青空とともに淡い色の桜を見上げるのだろう。膨らんだ蕾が花開いたかと思えば、満開に咲き誇り、美しさを失うことなく散っていく。それを見て人は言う。限りある命を咲かせ、潔く散るその儚さが美しいのだと。
 それを美しいと言える潔さが、僕にはまだ足りない。咲いたのなら、見苦しくても枝にしがみ付いていてその姿を見せていて欲しい。
 だけど、桜を愛した美桜さんは美しかったから。二度と咲かない美桜さんは、それでも美しかったから。
「また、いつか」
 桜が散るまでの一週間を、これからはもう少し愛したいと思った。
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