第1話 罪とは何か……

文字数 1,999文字

人生には、思いもしない事が起こる瞬間がある。


今、男は背中を刺されている。

通り魔に遭ったのである。――まさか、という気持ちだった。


背中に、激しい痛みが走っていた。振り返るが、そこに犯人の姿はない。

「大丈夫ですか?」

人通りのない暗い夜道で、誰かが男に声を掛けた。若い男が近付いて来る。


助かった――という程ではないが、男はそれに似た気持ちになった。

「すみません。背中を刺されたように思うのですが、どうなっているか見てもらえませんか?」
犯人の姿はないし、とにかく自分の今の状態を、男はハッキリと知りたかった。


確かに、後ろから何かがぶつかって来たような感覚があったのだ。

そして、今も痛みがある。

「そうですね。刺されてますね。妖精に。」

「妖精?」

「はい、妖精です。聞いたことありませんか? 最近、そういう人が増えているって言いますけど。――妖精に、襲われる人がね。」
そんな話を、どこかで男も耳にしたことがあるように思ったが、すぐには受け入れられなかった。

そんな話、子供たちがするお遊びの作り話にしか思えない。


だが、冷静に悠長に考えている場合ではないので、男は痛みを堪えながら――話を進めた。

「妖精は、今も後ろにいるのかな?」

「いますよ。小さいですけど、あなたの血を吸っていますね。このままだと、あなたは死にます。」

「血を、吸ってる?」

妖精って、そういうものなのか……? 


このままだと死ぬ――その言葉が、男の耳に強く響いた。


男は、自分が考えている妖精と、別のものの話をしているのかと思って、頭が混乱した。

何かの生き物の――幼生ということも、考えられる。

「はい、妖精は体から悪いものを吸い出してくれるんです。だから、ほとんど大人しか襲いません。つまり、襲われた人は……大人だということですね。」

「詳しいんだな。知っていたら教えて欲しい。どうにか出来ないのか?」

「出来ませんね。運が良ければ、吸われた血の代わりに、妖精の血が補給されて、体は生き残れるかもしれません。体と、記憶だけはね。」

青年の声は聞こえていたが、男は頭が朦朧としてきていた。

手の先も冷たくなってきているように感じられて、本当に命の危機を覚えた。


妖精の話なんてされたから、

男は茫然として何をすることも忘れていたが、

急に怖くなってきて、後ろにいるという妖精を振り払おうと、

必死に手を動かした。

「あははっ。そんな事しても無駄ですよ。相手は妖精なんですから。」

そんな声を聞きながら、男は倒れた。

顔に触れるアスファルトが、温かい。そう感じたのを最後に、男は意識を失った。

「はっ! 何だ……?」

男は、目を覚ました。どれくらい時間が経ったのかは分からない。


一瞬、状況が分からなくなったが、すぐに青年の声を思い出した。


青年の話が嘘だったのか、間違いだったのか、男は生きていた。

息も出来ている。男は、ゆっくりと体を起こした――。


体が、冷たくなっていくような感覚が、体に広がっていった。

「生きてる、よな?」

男は、地面に倒れていたので、服に着いた埃や砂を手で払い落しながら、呟いた。

それから、周囲に視線をやった。

「あれ、もしかして……元の意識があるんですか?」

まだ、青年がそこにいた。

街灯の明かりを背後から受け、青年は男に妙なことを聞いてくる。

「元の意識? どういうことかな?」
「へえ、珍しい。悪いのは、体に流れる血だけだったってことですね。オジサンなのに、意外と心は純なんですね。体は、変わってしまっていますけど。」

「どういう意味だい?」

「それは、鏡を見れば分かりますよ。見た目は人間のままですけど、その体にはもう人間の血は流れていませんから。」

男は、青年の言っていることが理解できなかった。

仮に、それが本当だったとして、どうしてこの青年がそんなことを知っているのかと、思った。

「適当なことを言って、大人をからかっているのか?」

「もう、刺された背中は大丈夫ですか? 僕の言葉を疑うなら、自分で探偵みたいに調べてみたらどうですか? 今の自分の姿を確認したら、そういう気持ちになるんじゃないかと思いますよ?」

男が言ったことに対して、青年はそう微笑んで返すと、そのまま立ち去ろうとする。


男は、混乱していたのもあって――不安になり、青年を呼び止めた。

「待ってくれ! 君の連絡先を、教えてくれないか?」

青年は振り返ると、男に歩み寄って来て、

男の頭の後ろに手を置くと、突然キスをしてきた。


まさか、そんなことをされるとは思っていなかったので、男はよけることが出来なかった。

「これで、俺の居場所くらいなら分かるでしょう。」

そう言って、青年は立ち去った。

男は、訳も分からぬまま、青年の背中が小さくなっていくのを見送ったのだった。


頭の中に、センサーでもあるみたいに、

青年の姿が視界から消えても、どちらに向かっているのかが分かる。


そんな妙な感覚に、男の意識は少しずつ冷静になっていった――。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色