妄執

文字数 9,531文字

『妄執』



 押し入れを開けると彼女が立っていた。
 高校の頃の同級生で、その時の姿のままピクリともせずに虚空を見据えている。何故か服を一切纏わず、髪だけは記憶にあるまま二つに結われていた。
 あまりの異常性からすぐさま幻覚だと気づいた。ただ、本当にそうだったらいいのにと思った。
 どういう訳か、押し入れを開けたら立ち上がった、ではなく開けたら押し入れの前に立っていた。
 目の前で手を振ってみたり、声を掛けてみても彼女は微動だにしなかった。まるで人形だが、しっかりと自立し細かい箇所まで生々しい。最初に人形を想起させたのは、機微が人間とほぼ違わないのに身体を近づけても一切の熱を感じなかったからである。どうやら、呼吸自体もしていないようだった。
 幻覚症状に一切の心当たりはなかったが、取り立てて不都合もないのでそのままにすることにした。
 開いたカーテンから差す、真昼の陽光が照らす彼女の肢体を前に胡坐をかいて相対する。性欲とも異なる、奇妙な気持ちが湧いてくる。
 学生時代。あれだけこの目に焼き付けたいと焦がれた身体が、妄想を越えて目の前にある。いや、妄想のまま具現化している。不満はなかった。
 最後に会ってから十何年と過ぎている。今の彼女は、私が最も望んだ姿では恐らくない。それは自らの身すぼらしさを省みれば想像に容易かった。
 私は労せず青年の頃に望んだ光景に立ち会っている。不気味さより、己の執念が報われたことを喜んだ。
 
 そのまま何時間と見つめることも出来ると、時間も忘れて過ごすと思っていたが、存外三十分もすれば飽きが来た。欲しくて注文していた玩具が忘れた頃に届くような感覚だった。
 その間も彼女の様子は変わりなかった。据わった両の目と、何処を見ているのか掴めない視線。瞳だけではなく、口からも彼女の感情は読めなかった。湿っぽくて、散らかっている男の部屋に佇むそんな彼女はどこかチグハグに見えた。
 反応のなさは、まるで電柱に話しかけているようで馬鹿らしくなり、構わず飯でも買いに行こうとアパートの鍵を取った。家族以外の人間を残して家を出る、という行為は私にとって未知の体験だった。友人もいなければ伴侶だって勿論いない。不安が一瞬よぎるがまたすぐ霧散し、家を後にした。
 これは私の妄想が作り出したものであり実在しない。恐らく私以外には見えないものだと思った。全てが異常であることが根拠であり、彼女は人ではない。
 妄想の延長だ、と思ったところで私はふと思った。
 彼女の好物を、私は知らなかった。
 
  ■
 
 学生の頃に好意を持った女がいた。
 今はこうして自室で物言わぬ木と化しているが、当時はれっきとした人であった。
 彼女は双子姉妹の片方、姉で。同学年にはほぼ同じ顔をした妹がいた。喜怒哀楽全てが同じ顔の造形をしているはずなのに、何かがこの姉妹の境遇を全く異なるものにした。
 妹は奔放で、勉学にやや厳しいものがあることが些細に思える程、運動神経が優れていた。何より、人から愛された。姉たる彼女を説明する場合、『その逆』と一言付け加えるだけでいい。そういう二人だった。
 誰しも妹の方を好いた。姉の方は、いないも同然だった。
 その中で私のみが例外で、姉の方を好いた。理由は第二に顔、第一に境遇だった。
 悲運で悲惨な境遇を想像した。常に比べられる人生を第三者の立場から憂いた。そう考えれば考えるほど、教室の隅で黄昏る彼女の表情に深みが増したような気になっていた。
 全ては憶測に過ぎないが、彼女の持つコンプレックスに魅せられた。
 感じずにはいられないだろうと思った。
 同じ顔で取り巻く環境が、ああも変化するというのはどういう気持ちになるのだろうと考えた。何かを成せなかった際、容姿の悪い人間はそこに取り付く島がある。努力不足を覆い隠せる程の大義名分だ。時と場合によっては不条理さえ絡みついてくる。
 だが彼女はどうだろう。持たざる者が安易に持てるものを、彼女は持ちえない。悲しい程に彼女の顔は整っている。その不幸と美しさは私を虜にした。
 大きな瞳、薄い唇(唇の色はやや赤みが薄いことも魅力だった)横顔は顎にかけて綺麗なカーブを描いている。そんな恵まれた資質こそが彼女の不幸であり、彼女自身には深く刻まれた象徴かと思うと私は自身が昂ぶる気持ちを抑えることに難儀した。
 そんな彼女だからこそ、私という数少ない筈の理解者に巡り合えた喜びを前に絆されるだろうという打算も確かにあった。
 そんな彼女が、当時の容姿のまま、衣服も身に纏わず私の部屋に佇んでいる。
 買い物袋をぶら下げて、すっかり壮年に近づいている私は、そんな昔のことを思い出していた。



 家に戻ると、彼女の姿はなかった。
 やはり一時の妄想だったのだろうか、と考え、何となしに押し入れを開けると彼女は畳まれた私の布団の上で眠っているようだった。実際、呼吸を感じないため『そこに置かれている』という印象が強かった。
 眠るためにここまで移動したのだろうか? 動く姿を、まだ私は観測したことがないため想像し難い。彼女を表現するには、人形というのが最も適切に思えた。ここまで自発的に移動する力も、自意識も、彼女からは一切感じられなかった。
 そこまで考えて、そもそも彼女は私の妄想で作られた荒唐無稽の産物である。無駄だと思った。

 人として認めてはないが、折角なので彼女の分の料理も作ることにした。だからと言ってメニューはいつもと変わらずソース焼きそばで、三分の一は彼女の分として盛り付けることにした。
 テーブルに置いて、ラップをかける。
 起きて食べる今の彼女は想像し難いが、感覚にはお供えものに近いと感じる。
 そんな彼女の分を見つめたまま、自分は構わず食べることにする。美味いとも不味いとも感じない。困ったらいつもこのメニュー、を続けて十年以上経つ訳で何の感慨も湧かない。ただ、他に何を作るか思考出来なかったところを省みるに、自分は彼女の具現化によって想像以上に精神に負荷がかかっていることを自覚した。
 その間も、ついぞ彼女の好物は思い出せなかった。
 色々と記憶を辿ってみても箸にもかからない。仕方なくイメージしてみても、どれも彼女の雰囲気からはかけ離れている。私の想像力の限界を感じた。
 そもそも彼女と会話した記憶自体が曖昧だった。こんな私だから勿論仲良くなんかはなかったが、何処かの機会で会話自体はあった気がしていた。ただ、それが全く思い出せない。
 寄る年波のせいもあるだろうが、今の全裸の状態の彼女の姿が強烈で、今や学生時代の記憶も曖昧になりかけている。
 思い出したい記憶なんてないが、自身の咀嚼音のみが響く部屋で一人いると私なんかでも懐古に浸ってしまう。
 記憶の糸をそうやって辿っていると、満たされた満腹感と共に眠気がやって来た。ちゃぶ台を前にして、座ったままその場に仰向けになってしまう。寝るには早い時間だ。部屋の電気だって付けっぱなしである。布団のことが頭をよぎるが、そういえば今は押し入れの中で彼女がその布団を使用中なのだ。
 一人暮らしのはずなのに、不思議な気持ちだった。
 誰かに配慮する必要もない、シミだらけの汚い布団で、裸の彼女が眠りについている。押し入れの閉め切った戸を見つめながら、そんな彼女の姿を想像した。妄想のはずなのに、現実感がないことが馬鹿らしくなって私はそのまま瞼を閉じた。
 


 ぼやけた背景に彼女が立っていた。ちゃんと服を着ていた。懐かしい、私の高校は今目の前にある通り制服はセーラーだった。
 自分自身の姿は認識出来なかった。伸ばそうとした腕が動かない。まるで主観で撮られた動画のようだった。
 なのに何故か、私の身体は小刻みに震えていた。
 視界が急に旋回する。彼女の顔が見えなくなった。何かが聞こえてくるが、籠っていて聞き取ることが出来ない。唇の動きが見たい、彼女の顔がもう一度見たいと思うのに、腕同様振り返ることが出来ない。
 その時、私の意思とたまたま同調してかまたも視界が彼女の目の前に戻る。が、しかし。彼女の顔は、顔だけは、黒い濃い霧ですっぽり隠されていて全く見ることが叶わなかった。

 「■■■■■■■■■■■■■」

 視界がどんどん歪んでいく、ぼやけていく、何も見えない、彼女を確認することが出来ない。何かを言われた。けれどその言葉は一向に思い出せなかった。
 
■ 

 朝、起きた私は夢の中で彼女の表情が見られなかったことが気持ち悪く、記憶と整合するために押し入れを開け彼女の顔を確認しようとした。
 押し入れの襖を開けた先には、丸まって寝ているように確認出来る彼女の姿があった。
 幻覚を連日見るというのは不可解だが、理解出来ないのは今に始まった状態じゃない。気にせず彼女を見つめる。すると唇の赤みが全くないことに気づいた。真っ白だった。昨日の時点では薄いながらも赤みがかっていた。肌は青白く、起きる気配はない。
 通常の人間に当てはめれば、これではまるで死体だと感じた。人形だとも思えない、直感に囁く趣味の悪さと居た堪れなさがあった。
 数刻経ち、私はこれを死体だと認識することにした。不可解なことばかりが起きるが、逆に死はこの一連の流れの中で最も人らしいと思えたからである。
 かつては青春の時分、恋焦がれた人ではあったが、与り知らぬところで不慮の災厄さえなければ実在の彼女は今尚健在なのである。この死は私に何ももたらさない。ただ、昨日のまま彼女が具現化したままの状況を考えるとこの死体は下手すればこのままこの部屋を占領することになる。それは面倒に思えた。死体を飾る趣味は持ち合わせていない。かといって、私以外には見えないのをいいことに外に放り出すのも憚られた。
 彼女の生前は居た堪れない。あくまで私の想像ではあるが。その上死後は遺体遺棄、というのは彼女があまりに報われないと感じた。
 私はこの死体を運ぶことに決めた。然るべきところへ埋めようと決めた。
 場所を検討した結果、彼女に関連して妙に覚えのある場所を思い出した。そこが何だったかまでは思い出せないが、そう遠くない。全く見当違いの所へ埋めるよりかはマシに思える。
 そう決めると私は彼女の身体を抱える。彼女が具現化して初めての肌の接触だった。何となく霊的なものを想像していただけに、触れられることは少々驚いた。但し、女子学生の姿であることを考慮してもあまりに軽すぎた。人を抱えてるとは全く思えない。
 部屋の隅に積んでいた空の段ボールへ彼女を入れる。流石に人一人入れるには大きさが釣り合わず、両足がはみ出るが些細な問題だろう。どうせ(恐らく)私以外に彼女は見えないはずなのだから。
 彼女が入った段ボールを担ぐと、私は朝食を取るのも忘れて目的の場所へと向かった。
 


 電車に揺られて十分程、丘の上に新興住宅地があった。それぞれが大きな庭を境に並んでいる。所謂高級住宅地に属するところだと察せられた。家構えはどれも洋風で、所有している車種、また道を歩く人が極力少なく、下町のような喧騒もない。
 あまりにも自分とは無縁の場所で、身なりもみすぼらしい、おまけに段ボールまで担いでいる自分は下手したら不審者扱いされても文句は言えまい。スムーズに事を進めようと考える。
 歩を進めると、一目で目的の場所だと解った。白を基調とした壁を赤茶のレンガが縁取る。それなりに、と言うのが憚れるほど大きな家は朧気な記憶と符号する。
 身構えてしまうのを律して、玄関に立ちインターホンを鳴らす。
 時間をほぼおかずして、女性の声がスピーカー越しに響く。何処か懐かしい声で、記憶を辿れば思い出せる声に思えた。
 心ここに在らずと化した私の返答はどうやら聞き取り辛かったらしく、スピーカーの声の主は玄関を開けて私と相対することとなった。
 ドアが開いた瞬間、私は体中に鳥肌が立つのを自覚した。彼女だった。私と同様に年を取った彼女の姿だった。学生の頃から幾分か老けたのに、私は瞬時に気づくことが出来た。担いでいる段ボールの中で息絶える人間が、それなりに年を重ねた姿が目の前にあった。昔ほど端正な顔立ち、きめ細かい肌ではないが、口角を上げた際、えくぼが刻まれる表情には面影があった。
 誤配達を開けてしまった少し離れの住民を装い軽い会話をしていると、昔と明らかに違う箇所が目に入った。彼女の腹は大きく膨れていて、疎い私であってもそれが妊娠であることに気づいた。そこから結婚を想起するのも想像に容易かった。
 彼女が結婚した、という事実が私に言葉を失わせる。彼女の言葉に適当な相槌を打たねばならないのに、身体が震え、上手いこと舌が回ってくれなくなる。段ボールを持つ手が汗ばみ、吸い付く気持ち悪さを覚えた。
 一向に返答してこない私を彼女が訝しげに見て来たので、私は一言謝罪と感謝を述べてその場を早歩きで抜け出すことにした。
 周りの光景が視界に入ってこない、ただ通り過ぎていくように感じる。足の動きもバタついているようで不規則だった。呼吸が乱れているからだろうか。重さを感じなかったはずの段ボールが、今この瞬間だけはやけに重く感じる。
 私は彼女に気づかれなかった。彼女には私しかいなかった筈なのに。
 彼女であって彼女ではないように感じた。私が魅入られ、惹かれた、悲哀さを持つ、救いを待ち焦がれた少女は、今足を踏み入れた家には影一つとして存在していなかった。快活さに支配されているようだった。
 私が彼女に求めていた、今も求めていた彼女らしさは、今ではもうこの段ボールの中に入った死体しか持ち合わせていない。なのに既に死んでるというのだ。
 焦り、急ぎ、頭痛と共に脳内に叫びにも似た泣き声が響く。赤ん坊を想起させたが、実際のものより遥かに不快で、目の前が霞む。

 その時初めて、私は私の求めていた彼女が死んでしまったことに気が付いた。

 足が止まり、耳鳴りのようなノイズが鳴り止む。それに伴って頭痛もいくらかマシになった。息を整えていると、徐々に雨が降り出しているようだった。持っている段ボールに斑点模様がつき始める。はみ出ている生白い両足が気持ち悪かった。
 ここが何処なのか検討もつかないが、彼女の実家から連続性のある住宅街に思える。私はそこまで移動してないと検討をつけた。
 小雨も気にせず歩いていると、目の前にゴミ集積場があった。時刻は夕方。明日早朝に集積に来るであろうゴミ袋がその一画に積まれている。私は雨で濡れて自立性を失いひしゃげ始めている段ボール箱をその一画に落とし捨てた。中身ごと、彼女ごと……死体ごと、廃棄した。
 ゴミ山の手前に落ちた段ボールが地面で完全に原型を失う。崩れた箱の中から死体が転がった。重さを持たなかったはずなのに、地面で鈍い音を立てた。何故かそれは、私自身の両の手にもよく響いてくるように思えた。段ボールが汚れていたのか、私の手の平はタールを塗ったように真っ黒であった。 
 彼女の四肢は元々人の形をしていたとは思えない曲がり方をしていた。何かのアルファベットで喩えられそうだと思うと笑えた。生気の感じられない白さだったはずが、夕陽のせいで火照っているように見える。或いは流血を想起させて無惨にも感じられた。
 全てが馬鹿らしくなって笑っていても、一向に彼女は微動だにしない。
 やはり、これは死体だったのだ。
 数刻眺めた後、無償に空腹を感じたため家に帰ることにした。単に一時の夕立だったらしいことを確認し、手元の端末で自宅までの道のりを確認しつつゴミ山を離れていく。
 ある程度離れたところで人の声が聞こえて振り向いた。どうやら段ボールを捨てるのは日取り的に不味かったらしく、恐らく近所の自治会の婦人が怒りと呆れを露わにしているようだった。
 注視した私は一瞬虚を突かれた。私の視線の先にあったのは段ボールのみで、朽ちているはずの死体はそこから姿を消していたからである。
 


 歩き疲れた私を出迎えたのは一切口の付けられぬまま冷えて、乾ききったソース焼きそばだった。
 季節柄、常温放置し続けたものを食べるのには若干の抵抗があったが、不幸にも代わりに食べられるものがこの家にはありそうもない。何より、今の私は無償に腹が減っていた。買いに行く、という選択肢も浮かばぬ程に空腹であるし、帰路でそれに気が付かぬほど枯渇と飢餓感に支配されていた。
 蛇口から直接大量の水を含んだ。息も絶え絶えになり、苦しさで涙が滲む。ソース焼きそばに口を近づけると、ソースの黒塊から異臭が漂っていた。今の私には些末な問題に思えて喰らいついた。程ほどに腐り始めている筈が、味そのものを感じなかった。
 無我夢中で頬張っていると、先ほど会話した彼女の変わり果てた姿を思い出した。加齢による容姿の変化に関しては、私も同様なので寛容になれる。あれ程までに快活な雰囲気を出しているのは予想外ではあったが。
 気がかりだったのは、当時と変わらない彼女の声だった。若干低音を含むようになってはいたものの、過去を思い起こさせるには充分であった。聞き慣れた、彼女の声だった。
 だからこそ、私は彼女との一切を思い出した。思い出してしまった。

 数奇なことに当時も今日のような夕方だった。
 当時の私は意味もなく自転車を走らせるのが趣味と化していた。何も気合いの入ったバイクなんぞというものではない。ただの一般的な自転車で、下校の折、充てもなく程ほどに遠くの地まで走らせるのを楽しんでいた。正確に言えば、大して楽しくはなかったのだが。
 目的地がないため方向は直感で走り進めた。やれ車通りの少ない道を選んだら、今度は逆を選択してみたり。遠くへ見える建物を目指して走らせてみたりした。
 此処でなければ何処へ行ってもよかった。何処かへ行き着きたいという気持ちに当時の私は駆られた。
 その日、私は丘の上を目指してみよう。そう思い選択した。
 そこで出会ってしまった。ある家を通り過ぎようとした際、偶然に鉢合わせた。自宅に入ろうとする彼女と目が合ってしまったのだ。
 私自身としては学生らしく運命なんぞを感じてみたりもした。校内にいても話しかけることが出来ないでいただけに、この二人きり、という状況には可能性を感じざるを得なかった。
 私はそこで勇気を振り絞ることにした。生来内向的な私は、そういう機会に恵まれないし、向いてもないという自覚があった。つまり、らしくもないことをしたのだ。
 自転車に跨りながら、声が上擦る私に、彼女は玄関の前で一歩も動かず私を訝し気に見据える。
 彼女が、静かに口を開いた。
 
「え? ストーカー?」

 彼女の言葉が冗談の類に思えて私は笑ってみせる。相反して、彼女は玄関のドアノブを握る力を更に強めたように見えた。
 私は否定してみせる。しかし彼女の態度は一向に軟化しなかった。私は、ひょっとしたら彼女は私のことをクラスメイトだと認識してないのではないか、と推測した。
 そう思い私は簡潔に自己紹介を済ませた。私の意に反して彼女の表情は段々と強張っていったが、それでも頷く様を見て認識はされてるのだな、と少し嬉しく笑顔になった。
 すると彼女は少し言い辛そうに、目を逸らしながら私に言葉を告げた。
 
「その貼り付けたみたいな笑顔、気持ち悪いからやめた方がいいよ」

 そう言うと、彼女は自宅の中へ入っていった。正確には、私が失った意識を取り戻した時には彼女は目の前からいなくなっていた。茫然自失だった。聞き間違いかと思ったが、何度思い返しても、あの言葉は私への否定だった。今までの私すら否定してみせた。
 ふらついた足取りで自転車を押し、その場を去る。
 目下目の前で起きた出来事が信じられず、認められないためその時の心配はストーカー疑惑が本当に晴れたかどうか、だった。
 
 その後の人生は、ずっと失敗続きだった。
 今思えば、私の人生はその時止まったのだと思う。
 


 腹を満たし彼女の言葉を思い出していた。
 大人になった今思えば、彼女の言葉は何気ない一言だったに違いない。たかが学生に後の人生まで引き裂こうだなんて考えがある訳もなく、単純に、私へ最も嫌悪感を表現出来るものがあの言葉だったのだ。
 私の人生は恐らく彼女の介在の有無に関わらず、ロクでもなかったであろう、という予想は出来る。この言葉一つですべてを彼女のせいにするつもりもなかった。
 だがあの時は、彼女を心の底から●り●そうと思った。私の欲求が好意にも勝った瞬間だった。
 それをしなかったのは良識や分別によるものではない。
 憐みからだった。
 私には、彼女のその言葉は彼女自身のことも言い表していると次第に思い、面白い皮肉だと感じたからだ。
 自然な振る舞いをしているだけで、勝手に愛され人が群がり、集団が出来る妹。
 対して、努力して他人の顔色を伺わねば好かれることもない、取柄もない姉。
 彼女が私を憐れむ以上に、私は彼女を憐れんだ。
 それは今に対しても言える。彼女はもう私のことなんか忘れたようだったが。これまでに散々否定され続けた人生を送ってきたはずなのに、それすら忘れて幸せな家庭を目指そうとしている。不幸の才能を持っていたはずなのにそれを放棄しようとしている。否定されるのが怖くて消極的な性格をしていたはずなのに、私抜きで幸せになろうとしている。私はそこにいないのに。私は、彼女の真の理解者だと思っていたのに。
 つまり、彼女は折れたのだと気付いた。
 あまりにも辛すぎる人生が耐え難く、孤高を諦めたのだ。
 真の理解者たる私も否定して、彼女は彼女自身であることを辞めて社会に溶け込んだ。憐れな彼女は私を喪い、私の中の彼女は死んだ。
 そう思うと、清々とした。
 だが私は、彼女のことを考えるほど、私自身を客観的な視点で見ることから逃れられなくなった。
 真に憐れなのは、私が唯一理解の出来た人を喪った私自身ではないだろうか。
 私の人生に於いて、彼女は唯一無二だった。他人への興味が著しく欠如している私にとって、彼女の不幸な生い立ちを夢想し、シンパシーを感じ、そんな私だからこそ彼女の唯一の理解者だと自負することが私の人生にとって唯一の昂奮だった。
 私以外に彼女を理解し、あまつさえ、彼女の根底さえ覆してしまう人間が私以外にもいた、という事実に、私の中の何かが音を立てて瓦解してしまった気がした。
 
 そこまで考えて、私は消えてしまった妄想の彼女のことを思い出し押し入れを開けてみた。中には誰もおらず、私の布団が畳まれてしまわれていた。
 きっと彼女はここに寝て、昨日一晩を過ごし、死んだのだろう。
 考えたところで、もう彼女は出てきてくれなかった。
 私は襲ってきた眠気に耐えきれず、そのまま屈んで布団の上で丸くなった。今夜は疲れた。もう、このままここで寝てしまうと思った。彼女の残り香を少し期待したが、相変わらずかび臭い私自身の臭いでしかない。そもそも、私は彼女の香りだと認識出来るほど、彼女に近づいたことがなかった。
 考え出すと夜が長引きそうで辞めたいのに、意に反して思考は益々螺旋を描いていく。
 その時私は、妄想の彼女が何故何も身に纏っていなかったのかを推測した。

 それは、私は彼女に対して。
 彼女で性的欲求を満たす想像しかして来なかったからではないだろうか?

 そう気づくと途端に意識が落ち、眠りについた。そして私は逆流した吐瀉物で喉を詰まらせ、そのまま起きることはなかった。
 
  
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