マザーテレサ
文字数 1,989文字
『たかしー! ご飯よー!!』
階段の下から、家中に響くような大声が飛んでくる。
『早く食べなさい! 冷えちゃうわよ!!』
「はァい!!」
テレビにかじりついていると、下から第二波が聞こえてきた。僕は仕方なく、やりかけのゲームを手放し、一階のリビングへと降りて行った。
「お、ちょうど良かった。今秋刀魚が焼けたところだよ。ちょっと待っててな」
リビングへ行くと、エプロン姿の父さんがぱあっと顔を明るくさせた。父さん一人だ。良い匂いがする。僕は黙って母さんの
「いただきます」
「いただきます」
しばらくして僕と父さんは夕食と、それから母さんに手を合わせた。
僕が生まれるのと同時に、死んでしまった。
だから僕は生涯、母さんの姿は見えず、その声を聞くことはない……ハズだった。だったのだが……物心ついてからと言うもの、僕にはずっと母さんの『声』が聞こえていた。
どうやら僕には生まれつき、霊感があったらしい。
と言っても、幽霊の姿がはっきり見える訳ではない。たまに妙な声が聞こえるくらいだった。だけどそのおかげで、僕には死んだ母さんの『声』が聞こえた。
声の幽霊。
家族の愛が起こした奇跡……と言えば聞こえが良いが。
聞こえてくるものと言えば、やれ『宿題は終わったの?』だとか、『靴下を丸めて洗濯機に入れないで!』だとか、小言ばっかりなのである。これには僕も参った。宿題も終わらせずにゲームをするのは確かに怖いが、でもそういうことじゃない。この姿なき『声』に反論しても大抵は何も返ってこないが、いつだったか、試しに『少年ジャンプ』を買ってきてとお願いしたら、翌週『少年マガジン』が机の上に置かれていた。確かに母親のようだ。だけど、そうじゃない。
「明日は母さんの命日だな……」
食事中、父さんが俯いたままポツリと呟いた。あいにく父さんには霊感はなく、『声』は聞こえないらしい。
「……明日は、お花買ってこような」
しばらくして、父さんがそう声を絞り出した。僕は黙々と秋刀魚を食べ続けた。
その日の夜のことだった。
僕は部屋の中から聞こえてくる、微かな物音に目を覚ました。いつの間にか窓が空いていて、淡い月明かりが部屋に差し込んで来ている。その月明かりの先に、青白い顔をした女の人が立っていた。
『たかし……』
僕は息を飲んだ。
白いカーテンがそよ風に揺られ、ふわりと部屋の中で踊った。小さく呟かれたその声は、いつも聞いているあの『声』と同じだった。姿を見るのは初めてだった。僕は布団に潜り込んだまま、突然現れた幽霊に目を凝らした。隣に住む大学生のお姉ちゃんと同じくらいで、友達のお母さんより大分若く見えた。そう言えば、母さんが死んだのは、そのくらいの歳だって父さんが言ってたっけ……。
「お母さん?」
僕はのそりと起き出した。幽霊はしばらく黙っていたが、やがて悲しそうに俯いた。
『ごめんね……』
「……どうしたの?」
『お別れを……言いに来たの』
「お別れ?」
幽霊は黙って、首からぶら下げた小さな砂時計を指差した。砂時計の砂が月明かりに照らされて、星の瞬きのように光った。中の青い砂は、ほとんど下に落ちていて、上に残っている『時間』は少なかった。幽霊が、今にも泣き出しそうな顔でほほ笑んだ。
『最後に謝りたくって……』
「お母さ……」
『黙っててごめんなさい。私はあなたの……本当のお母さんじゃないの』
僕はしばらく黙って、幽霊を見つめていた。
……薄々気づいていたことだった。
そもそも僕の名前は『たかし』ではなく『ゆうすけ』だ。よくよく見ると、顔つきも、生前の母さんの写真とは何だか違っていた。
『私、生前どうしても子供が欲しくて……それで、騙すようで悪いとは思ったんだけど……』
幽霊が心苦しそうに声を絞り出した。謝らなければいけないのは、僕も同じだ。僕も、僕の方こそ、彼女が僕を『たかし』と呼ぶから、その間は『たかし』に成りきって過ごしていた。
『貴方の、本当のお母さんには悪いと思っていたんだけど……でもどうしても』
「気にしなくていいよ」
僕は幽霊にそう呟いた。本当はもっと気の利いたことを……今までありがとうとか、本当のお母さんみたいで嬉しかったとか……たくさんのことを言いたかった。でも、それ以上何も出てこなかった。
『……ありがとう』
最後にそうほほ笑んで、幽霊は消えた。
それから静寂が戻った。僕はしばらく部屋の中で突っ立っていた。
死後の世界や、幽霊に一体どんなルールがあるのかは、僕には分からない。でも、今夜でお別れだと、僕にも分かった。もう彼女の『声』は聞こえない。『お腹冷やさないように、ちゃんと布団被りなさい』とか、そんな『声』はもう飛んでこない。
布団に戻った。明日は二人分、お花を買ってこよう、と僕は思った。
階段の下から、家中に響くような大声が飛んでくる。
『早く食べなさい! 冷えちゃうわよ!!』
「はァい!!」
テレビにかじりついていると、下から第二波が聞こえてきた。僕は仕方なく、やりかけのゲームを手放し、一階のリビングへと降りて行った。
「お、ちょうど良かった。今秋刀魚が焼けたところだよ。ちょっと待っててな」
リビングへ行くと、エプロン姿の父さんがぱあっと顔を明るくさせた。父さん一人だ。良い匂いがする。僕は黙って母さんの
遺影
が飾られた、その横に座った。「いただきます」
「いただきます」
しばらくして僕と父さんは夕食と、それから母さんに手を合わせた。
僕の母さんはもうこの世にはいない
。僕が生まれるのと同時に、死んでしまった。
だから僕は生涯、母さんの姿は見えず、その声を聞くことはない……ハズだった。だったのだが……物心ついてからと言うもの、僕にはずっと母さんの『声』が聞こえていた。
どうやら僕には生まれつき、霊感があったらしい。
と言っても、幽霊の姿がはっきり見える訳ではない。たまに妙な声が聞こえるくらいだった。だけどそのおかげで、僕には死んだ母さんの『声』が聞こえた。
声の幽霊。
家族の愛が起こした奇跡……と言えば聞こえが良いが。
聞こえてくるものと言えば、やれ『宿題は終わったの?』だとか、『靴下を丸めて洗濯機に入れないで!』だとか、小言ばっかりなのである。これには僕も参った。宿題も終わらせずにゲームをするのは確かに怖いが、でもそういうことじゃない。この姿なき『声』に反論しても大抵は何も返ってこないが、いつだったか、試しに『少年ジャンプ』を買ってきてとお願いしたら、翌週『少年マガジン』が机の上に置かれていた。確かに母親のようだ。だけど、そうじゃない。
「明日は母さんの命日だな……」
食事中、父さんが俯いたままポツリと呟いた。あいにく父さんには霊感はなく、『声』は聞こえないらしい。
「……明日は、お花買ってこような」
しばらくして、父さんがそう声を絞り出した。僕は黙々と秋刀魚を食べ続けた。
その日の夜のことだった。
僕は部屋の中から聞こえてくる、微かな物音に目を覚ました。いつの間にか窓が空いていて、淡い月明かりが部屋に差し込んで来ている。その月明かりの先に、青白い顔をした女の人が立っていた。
『たかし……』
僕は息を飲んだ。
白いカーテンがそよ風に揺られ、ふわりと部屋の中で踊った。小さく呟かれたその声は、いつも聞いているあの『声』と同じだった。姿を見るのは初めてだった。僕は布団に潜り込んだまま、突然現れた幽霊に目を凝らした。隣に住む大学生のお姉ちゃんと同じくらいで、友達のお母さんより大分若く見えた。そう言えば、母さんが死んだのは、そのくらいの歳だって父さんが言ってたっけ……。
「お母さん?」
僕はのそりと起き出した。幽霊はしばらく黙っていたが、やがて悲しそうに俯いた。
『ごめんね……』
「……どうしたの?」
『お別れを……言いに来たの』
「お別れ?」
幽霊は黙って、首からぶら下げた小さな砂時計を指差した。砂時計の砂が月明かりに照らされて、星の瞬きのように光った。中の青い砂は、ほとんど下に落ちていて、上に残っている『時間』は少なかった。幽霊が、今にも泣き出しそうな顔でほほ笑んだ。
『最後に謝りたくって……』
「お母さ……」
『黙っててごめんなさい。私はあなたの……本当のお母さんじゃないの』
僕はしばらく黙って、幽霊を見つめていた。
……薄々気づいていたことだった。
そもそも僕の名前は『たかし』ではなく『ゆうすけ』だ。よくよく見ると、顔つきも、生前の母さんの写真とは何だか違っていた。
『私、生前どうしても子供が欲しくて……それで、騙すようで悪いとは思ったんだけど……』
幽霊が心苦しそうに声を絞り出した。謝らなければいけないのは、僕も同じだ。僕も、僕の方こそ、彼女が僕を『たかし』と呼ぶから、その間は『たかし』に成りきって過ごしていた。
『貴方の、本当のお母さんには悪いと思っていたんだけど……でもどうしても』
「気にしなくていいよ」
僕は幽霊にそう呟いた。本当はもっと気の利いたことを……今までありがとうとか、本当のお母さんみたいで嬉しかったとか……たくさんのことを言いたかった。でも、それ以上何も出てこなかった。
『……ありがとう』
最後にそうほほ笑んで、幽霊は消えた。
それから静寂が戻った。僕はしばらく部屋の中で突っ立っていた。
死後の世界や、幽霊に一体どんなルールがあるのかは、僕には分からない。でも、今夜でお別れだと、僕にも分かった。もう彼女の『声』は聞こえない。『お腹冷やさないように、ちゃんと布団被りなさい』とか、そんな『声』はもう飛んでこない。
布団に戻った。明日は二人分、お花を買ってこよう、と僕は思った。