第1話

文字数 2,229文字

 海岸の岩に打ちつける波は、時として数日にわたり海辺のホテルを振動させるほどになる。飛沫も遠くまで霧状に飛び、あたりを濡らす。立ち上がった波を透かして眺める空は美しく、この島ラパヌイ(イースター島)が、地球上の人が住む島の中で、もっとも他から隔絶していることを強く感じさせてくれる。
 ここでは感傷的になりたければ、どこまでも感傷的になることができる。てごろな溶岩を見つけて腰をおろし、草をちぎりながら風に飛ばす時。急傾斜な小山に登り、草原の向こうに海を見る時。そして、遠くを見つめるモアイの体にそっと手を触れる時。
 ああこのモアイたち、巨大で、単純で、優美で、明快な、謎。初めて車を走らせた時は、君たちがそこに倒れていることに気づかなかった。突っ伏して動かぬ者たち。その黄色味がかった肌に慣れてくれば、そこここにいる者たちに眼が行くようになる。遺跡は死んでいて、そして、生きている。モアイ抜きでこの島を語ることはできない。
 しかし、ラパヌイには他にも多くの興味深い遺構がある。それがどのくらい古いものであるのかは、難しい問題であるけれど、少なくとも現代とのつながりをほとんど失っているように感じられる遺跡たち。ウミガメの岩絵、地面に露出した岩盤に線刻された実物大のウミガメは、表現の巧拙は別として、ほのぼのとしている。絵があるかもしれないという心構えをして観察すれば、あちこちの岩絵が見えてくる。彩色壁画が残る洞窟もある。そこで行われたという食人儀礼の伝承の話を聞いていたので、見学しながら背中がぞくぞくするような感じがした。
 ラパヌイでは、普通に盛り上がった山をマウンガと呼び、山頂に大きな凹みがある山をラノと呼ぶ。島の南端にあるラノカオは、直径が1kmを越えるとても大きなラノである。フランスのクストー船長が潜水艇で調査したというラノカオの火口湖へ向かって斜面を下る。音のしない暗い水辺。それにしても何故にこんなに恐怖を覚えるのであろうか。草が生えているのは浮島で、湖自体は実はとても深いという知識から来る恐怖なのであろうか。それともただ単に、音もせず、動くものもない水面近くの暗い光景が、恐怖を呼ぶのであろうか。水辺の岩に線刻画が彫られていた。何を表現しているのか判読はできないものの、ここにも人の営みがあったのだ。早々に戻ることにして、火口内壁の急斜面を登っていると、グアバを摘む人の話し声が聞こえてきた。人の領域の外から内へと戻ってきた気がする。
 一方、島の東の方に位置するラノララクの水辺は明るい。南側からは近づきやすいこの火口湖の縁に立つと向こう岸にもモアイが見える。モアイを生み出したこの山は、木が生えておらず草と岩の明るい山。しかし、そのいちばんの頂きである、マウンガ・エオに立つと、足元は外側へと崩れ落ちている。ここからの落下は本当の落下、相当の距離を落ちてしまうだろう。その頂のいちばんの先でさえ、岩には丸く削った穴があいている。人の手が加わっているということだ。
1000体におよぶモアイがこの地で生まれ、あるいは生まれかけたまま放置された。仮設なのであろうか山麓に立てられた者も多い。運ばれる途中に放棄されたかのような者もある。島内各地のアフ(石造基壇)に運ばれたモアイたちは、今はアフに接して倒され眠っている。復元された者以外には、アフに立ったままのモアイはいない。
 ラパヌイには、ラノカオやラノララクほど有名ではないが、他にもいくつも山や丘がある。
 マウンガ・トアトアは、いつも発掘現場へ向かう車の目印であるかのように、進む道の傍らに急斜面の山体を見せていた小さな丘。トアトアという何かしらゆかしい名前、そしてゆかしい形。とても急ではあるけれど、登ること自体はさほど苦労しない。ラノララクと同じ質の岩からなり、誰が立てたのか山頂には旗が風に震えていた。尖った山頂に立つ私はまさしくお山の大将である。
 マウンガ・テレバカはラパヌイの最高峰とはいえ、裾野の長いゆるやかな山。川のないラパヌイでは、距離は長いけれど、今立っているここからまっすぐにその山頂をめざして歩いていくこともできる。深い草が足にからみつき、たくさんの尖った種をズボンに刺しつけるけれど。それでも傾斜はゆるく、歩いていくことは別に難しいことではない。進んで行けば常にテレバカの頂きは眼前にあり、優しい斜面が続いている。でも、頂きが近づくにつれて少し困惑する。頂上部には、いくつもの小さな丘が並んでいてどれが最高峰なのかがわからないからだ。でも、丘のそれぞれはかわいいもので、あれこれと順に登ってもかまわない。残念なことにこの最高点も高さが少し足りないために、島をぐるりと海が取り囲んでいるところは見ることができない。
 ラノララクの東にあるポイケは、てっぺんにのみ木が生えていて、誰かの頭のようなかわいい山。山体は大きく、この島の一端のでっぱりすべてを占めている。ぐるりとまわってジープで登ると、山頂には小さなアフがある。頂きの中心は、わたしも火山だよと言いたげに、少し窪んでいる。
 風の島ラパヌイで、数千キロの海原を駆けて来た風を、からだ全体に受けながら丘を登った遠い思い出。あの丘もこの丘も訪れた、でも、こっちの丘やそっちの丘は行くことができなかった。ひとつひとつの場所にしっとりとした思いを寄せたこと、島で過ごした日々の記憶は貴重な財産として私の中に残っている。
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