第1話

文字数 1,998文字

 川端通と東大路通の間にある路地を僕は河原町を目指して走っていた。右手を見上げると御所からどす黒い煙が立ちのぼり、焦げた臭いが僕にまで届いてきた。街中の至る所から消防車のサイレンが鳴り響いていて、他にも火の手が上がっているようだった。
 交差点に差し掛かると、軒下に身を潜めて様子を伺った。通りに犬派の自警団の姿が無いことを確認し、僕は急いで交差点を渡ろうとした。
「待って!」
 女の声と同時に腕を引き戻された。その時、足元の植木鉢がパァンと弾け飛んだ。
「シュウ!ボーっとしてないで早く!」
「まりあ?」

 まりあは僕のはとこだ。同い年で小さい頃は一緒によく遊んだが、高校に進学したあたりから疎遠になっていた。久しぶりだったが、ショートカットと小麦色の肌は昔と変わらなかった。
「大文字山にスナイパーがいるわ」
「スナイパー?」
「もうここは危ないから別の道を行くわ」
 僕らは京都大学の立て看板に身を隠し、大文字山から死角になるよう歩いた。
「シュウはこれからどうするの?」
「河原町から阪急で高槻に帰るよ。まりあは滋賀に帰るのか?」
「うん。でも、JRは山科まで行かないから京津線を使おうと思って」
「JRがどうしたんだ?」
「トンネルが爆破されたって噂よ。猫派に」
 そんなはずがない、と言おうとして僕は黙り込んだ。言いたいことはあったが、それを言うべき状況ではなかった。

 三条に辿り着くと、まりあは駅へ鉄道の状況を確認しに行き、僕は物陰で待機した。
 三条大橋は自警団によって封鎖され、通過するには検問を受ける必要があった。鴨川河川敷には武装した自警団が等間隔に並んでおり、洛中に入るのは困難に思えた。
 電機店のテレビには犬派のリーダーが映し出され、「一連の爆破テロは猫派の行為と断定」というテロップが走っていた。捜査機関でもないお前がなぜ断定できるんだ、と思った。これまでもこいつが流布してきた猫派に対する憎悪と中傷―それも嘘に基づくものだ―をメディアは無批判に垂れ流し、不人気な連立与党は窘めることすらしなかった。

 駅から戻ってきたまりあは首を横に振った。
「全然駄目。電車は蹴上で止められてるみたい。それにJRも阪急も大山崎より西は行けないって」
 他の交通手段も似たようなものだろう。途方に暮れて京都駅の方向を仰ぐと、京都タワーが煙を出して燃えていた。

 僕はポケットに入っていた紙片を取り出した。困った時はここを頼れと母さんが手渡したものだ。
「何が書いてあるの?」
「よく分からないな、ナントカ通りとか東入ル上ルとか」
「それ、京都の住所でしょ!」
 まりあは僕の手から紙片を取り、
「とにかく行ってみよう」
 と声を弾ませた。

 まりあに連れられ、古民家がひしめきあう細い路地にやって来た。紙片が指し示す交差点を探して僕らは歩いた。
「あのさ」
「何?」
「まりあは犬派だろ」
「そうよ」まりあは躊躇なく答えた。「私の家は伏見にルーツのある犬派一家なのよ」
「猫派と行動するのは不味いんじゃないか」
「今の犬派がやってることに私は賛成しないわ。犬派も猫派も昔は仲良くやっていたし、今頃になって対立を煽るなんて意味無いわ。シュウはどうなの?」
「僕の家は猫派だけど、そんなに熱心じゃないし、猫派の集会に参加したことも無いさ。それでも最近の差別的な扱いはおかしいし、何とかしなきゃと思うよ。でも、爆破は間違ってる」
 少しずつ蛇口を開けるように僕は慎重に言葉をひねり出そうとしたが、それ以上はとどめてきたものが溢れ出そうだった。
「ここよ」
 まりあが指したのは、歩いてきた路地よりさらに狭い、人がすれ違うのも難しい路地裏だった。
「犬派も猫派も変な熱病に侵されているのよ。こんなことやったって何も残らないわ」
狭く薄暗い路地裏を抜けると、そこには小さな神社の祠と、その傍らに神主が立っていた。
「えらい長いこと逃げはったんやね」
「そうなんです、ここを頼るよう母が」
「知ってるで。ここを通る人が何をして何を話すか、みぃんな格子窓から覗いてるからね」
 そう言って神主は祠の鍵を開けた。
「ここには地下トンネルがあってな、本能寺の変で信長が逃れてきたのを使うてるんや」
「そんなものがあったとは」
「滋賀の方に行けば、平和堂の真下にたどり着く。滋賀県内の平和堂全店舗は中立地になってるから会員カードがあれば誰でも匿ってもらえるで」
「私は助かるけど…」
 まりあは申し訳なさそうに僕を見た。
「早よ逃げなはれ、この調子やと京都は先の大戦以来の焼け野原になってしまうわ」

 地下トンネルに照明は無く、しんとして物音ひとつ立たなかった。行く先を懐中電灯で照らしてもほとんど何も見えない。ここを滋賀まで歩くとどれほどかかるのだろう。
 まりあが僕の手をぎゅっと握った。子供の頃はこうやって二人で冒険に出掛けたものだった。僕はまりあの手を握り返すと、出口の見えない暗闇を歩き始めた。
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