第1話 眠る街

文字数 2,000文字

 とある山奥の鄙びた温泉街。その舗装されていないなだらかな坂道に、年季の入った二階建ての木造家屋が立ち並んでいる。看板を見るにどれも宿屋なのであろうが、扉はぴったりと閉じられており、人の気配が感じられなかった。通りにも全く人が歩いておらず、来る場所を間違えたかと訝しみながらも先に進んで行くと、軒先を箒で掃いている壮年の人柄のよさそうな男に出会った。手や顔に刻まれた深い皺が、その表情とは裏腹に決して平坦ではなかったであろう彼の人生を偲ばせる。どうやら彼はこの宿屋の主人のようである。温泉街なのになぜこんなに人気がないのか聞いてみると
「あぁ、この時間はみな寝ているのでしょう。」
と事もなげにそう言った。随分とみな寝るのが早いのだなと思いながら、温泉について聞くと主人は
「この時間には温泉は閉まっております。一泊してから行くのが良いでしょう。」
と言う。確かにどこの宿屋も閉まっているみたいだったし、この主人が噓をついているようにも見えなかったので、ここは素直に彼の言うことに従った。一階は食堂に主人の居間を兼ねているようで、私は二階に案内された。中は思ったより薄暗く、物静かだった。辺りには湿った埃っぽい空気が漂っている。案内された部屋は存外広々としており、奥には大きな窓があった。
「あなたの他に泊まっていらっしゃるお二方は、どちらも寝ております。どうぞお静かに。」

 翌朝、太陽の光と小鳥の鳴き声で目が覚めた。気持ちの良い朝だ。随分と長く寝ていたように思える。私は朝食を取りに一階へと向かった。食堂には誰もいなかった。客はおろか主人もである。ご飯の用意すらされていなかった。みんな寝ているのだろうか。私は首をかしげつつも、ひとっぷろ浴びようと温泉へと向かうことにした。街中は昨日に引き続き、全く人の気配がなかった。いくら山奥の小さな街とはいえ異様な静けさである。どの家の扉も、まるでなにも語るまいとするかのように固く閉ざされていた。温泉は二十分ほど道なりに歩いた先にあった。「××温泉」の看板が掲げられた幾分立派な門は、他の家屋と変わらず隙間なく閉ざされていた。もう太陽は山を越えて高くまで昇っている。私は狐につままれた気持ちで宿屋に戻ることにした。

「おや早いお目覚めですね。」
宿屋では主人がご飯の支度をしている最中であった。
「ご主人。いま温泉の方に行ってきたのですが、こんな昼間だってのに閉まっていたんです。どの家もみんなそうです。今日は祝日かなにかですか?」
「いえ、みな寝ているのだと思います。そろそろ起きてくる頃だと思いますが。」
「昨日もそう聞きましたが、みんな寝ているなんてことありますか。もう昼間ですよ。」
「あぁ、確かに初めてここに来た方には不思議かもしれませんね。この街の住人はみな一日の大半を寝て過ごすのです。もちろんお客様も。この街には心身に深い傷を負った者が、傷を癒しに訪れます。壊れた体を治すには、永い時間がかかります。壊れた心を治すにはさらに。そのためには長い眠りが必要なのです。」
「そんな馬鹿な。」
「いえいえ、みなさまこの街に三日もいれば、ここの生活に慣れていきます。それに住人のほとんどはよそから来た者です。私も含め。」
そういうと主人は袴を捲って見せた。そこにあったのは義足だった。戦争の最中地雷を踏んで吹き飛んでしまったのだという。
「ここは深い傷を負って立ち直ることの難しい者が、最後に辿り着くいわば理想郷(ユートピア )のようなものです。あなたもその一人のようだ。」
「私がですか?」
「はい、体ではなく心にです。心の傷は見えない分、痛みに鈍感ですから。どうです、よろしければ少し長居されては・・・」
その時ぎぃぎぃと二階から誰かが降りてくる音がした。現れたのは三十代半ばのやや肥満気味の大男であった。ひどく眠たそうに緩慢な動きで食堂の椅子に座った。私の存在などまるで目に入っていないらしい。
「遠慮しときますよ。ここは私が住むにはいささか上等すぎる。」
荷物をまとめて帰ろうとする時、主人は思いついたかのように私にこう尋ねた。
「戦争の方はどうですか。まだ続きそうでしょうか。」
「えぇまだまだ続くでしょう。いつの間にか終わることを忘れてしまったかのようです。」

 帰りのバスに揺られながら、あの温泉街での出来事を思い返していた。この話は新聞のネタにはなるまい。私は使うことのなかったカメラを撫でた。ただそれよりも私は、ずっと宿の主人の言葉が胸に引っかかっていた。彼は心身の療養には永い時間が必要だといった。しかし私にはどうにもそうは思えなかった。彼らは自分の体や心がもう二度と治らないことを知っていて、その現実から目を背けるためにこんな人里離れた山奥で長い時間眠っているのではないだろうか。地雷で吹き飛んだ足がもう二度と生えてくることはないように、一度壊れてしまった心だってもう二度と治ることはない。
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