第1話

文字数 36,519文字

 結城拓海は、平日の放課後を、町の図書館で過ごすことが多い。自宅には戻らず、小学校から直接、図書館へ向かう。図書館までは、歩いて十分ほどの距離である。石塀で囲まれた平屋が建ち並ぶ区域を抜けていくと、やがて、煉瓦造りの建物が見えてくる。
 もともとここにあったのは、器械製糸の工場だったそうだ。戦時中は、朝から晩まで、繭から生糸がつくられていたのだが、操業停止に伴い、工場が取り壊されて広い駐車場になり、倉庫だけを残してリノベーションされた、という経緯がある。外観はいかめしく、レトロではあるものの、中はモダンで、とても綺麗だ。図書館の成り立ちは、まだ十歳――小学四年生――の拓海にとって、全く馴染みのない過去の話だけれど、それなりに有名なエピソードであるらしい。図書館の敷地内にカフェがあるというのも幸いして、週末は、なかなかの賑わいを見せている。図書館は三階建ての建物なのだが、ほとんどの蔵書は一階に集められており、二階には子供たちの遊び場や授乳室があって、三階は職員の事務室や会議室になっていた。
 駐車場を横切り、エントランスから中に入ると、拓海は窓際の閲覧スペースに向かった。椅子に腰掛けて、ランドセルから教科書とノートを取り出す。まずは宿題を終えてから、ゆっくり趣味の本を読むというのが、拓海の習慣だった。遊びの誘いがあればそちらを優先するものの、そうでないときは、雨の日も風の日も、拓海は図書館に足を運んでいる。クラスの友達には、真面目で勉強熱心な子だと思われているようだ。しかし、彼自身は、そんな立派なものではないと考えている。本を読むことは確かに好きだけれど、どちらかといえば、真っ直ぐ家に帰りたくない、という気持ちのほうが強かった。母と姉、それから拓海の三人暮らしなのだが、家の中は、いつも重苦しい雰囲気が漂っている。夏休みの間は、ずっと憂鬱だった。学校にいるほうが、まだ気が楽なので、二学期が始まって、ほっとしたくらいだ。拓海にとって図書館は、時間をつぶすのにもってこいの場所なのである。
 漢字の書き取りを済ませ、算数の問題を解き終えた拓海は、書架の間をうろついた。ここ最近は、「子供のための哲学」という本を読むのにはまっている。全部で十冊のシリーズものなのだけれど、「自由とは?」とか、「生きるとは?」といった、はっきりとした答えのない疑問について、様々な提言がなされている。それぞれは五十ページほどの薄い本であり、文字も大きく、イラストもふんだんに使われているのだが、内容が内容なだけに、自分だったらどんな答えを導き出すだろうか、と物思いにふけってしまうので、一冊を読み終えるのにも、結構な時間がかかる。おそらく、対象としている子供の読者に、物事を深く考える力を身につけさせるための本なのだろう。今はようやく、折り返し地点の五冊目に到達したところだ。
 確保しておいた自分の席に戻ると、閲覧スペースの利用者が増えていた。拓海の席は、長机の一番端だったのだが、新聞を広げている年配の男性や、幼い子供を膝の上であやしている女性の向こう側に、中学生の少女が座っていた。中学生だとわかるのは、彼女の着ている制服が、この町の中学校のものだからである。
 本を読むふりをしながら、拓海はその少女を観察した。彼女は長机に置かれたハードカバーの本に目を落としており、ページをめくるたびに、頬にかかった髪を払うような動きをした。髪の長さは肩口あたりであり、物静かで落ち着いた雰囲気を持った少女である。図書館という静謐な場所にふさわしい少女であるように、拓海には思えた。
 時折、姿を見かける彼女のことが、拓海は気になっていた。彼女が整った顔立ちをしているというのもあるけれど、それ以上に気になっているのは、彼女の学生鞄の中身だった。読書を中断しているときなどに、彼女は鞄を開けて中を探り、控えめな微笑みを浮かべている。どうやら、思わず笑みがこぼれてしまうような大切なものを、彼女は鞄に入れて携帯しているらしい。お守りか何かだろうか。たとえば、拓海のクラスの女子たちは、好きなアニメのキャラクターグッズを、禁止されているにもかかわらず、こっそり学校に持ち込んだりしている。だが、そのような振る舞いは、大人びた印象の彼女には、全く似合わないという感じがする。
 彼女が大きく伸びをした瞬間、目が合いそうになったので、拓海は慌てて本で自分の顔を隠した。彼女はなめらかな動作で椅子から立ち上がると、学生鞄を持ち、ハードカバーの本を脇に抱えて、書架のほうへ向かった。彼女は拓海の席の後ろを通り過ぎていった。彼女の靴音が自分に近づき、そして遠ざかった。悟られないよう注意しながら、拓海は彼女のあとを追った。
 書架の陰から、彼女が本をもとの場所に戻すのを見届けた。彼女が図書館の外に出て行くのを待って、彼女の読んでいた本が何だったのかを確認した。早鐘を打つ自分の心臓をなだめるには、情報が必要だった。つまり、彼女の情報である。彼女のことであれば、何でもいいから頭に入れておきたい、と拓海は思っていた。こういった感情を、クラスの女子たちに対して抱いたことはなかった。自分の中で、彼女の存在が大きなものになり始めているということを、拓海は実感していた。
 彼女が読んでいたのは、分厚い植物図鑑だった。大きくて見やすいカラー写真に、小さな文字で詳細な解説が付けられている。序文によると、日本に生息している野草について、網羅的にまとめた図鑑であるようだ。現在、日本には、およそ七〇〇〇種類の植物が自生しており、そのうちの四割――約二九〇〇種類――が、日本固有のものらしい。周囲を海に囲まれて複雑な地形をしていることと、幅広い気候帯や四季があることが、日本に多くの種類の植物が生息している理由だという。
 彼女は、何か植物を育てようとしているのだろうか。何枚かページをめくってみたあとで、拓海は図鑑を棚に戻した。拓海にとって重要なのは、図鑑の内容ではなくて、彼女がこの図鑑に関心を示していたという事実だった。彼女があの細くて白い指でこの図鑑に触れたのだと思うと、非常に価値のあるもののように感じられた。いっそ借りていくのもいいかな、と考えたのだけれど、残念ながら、背表紙に「貸出禁止」のシールが貼られていた。図書館には、利用者が借りられる本と、館内での閲覧のみ許されている本の二種類がある。この図鑑は、どうやら後者のようだった。
 近くにあった窓の外を見ると、もう、暗くなり始めていた。帰宅が遅くなると、母と姉が、必要以上に心配する。それに、今日は高橋さんが家にやってくる日だった。母も姉も、高橋さんのことを絶対視している。高橋さんに対して、拓海が少しでも反抗的な態度を取ろうものなら、すぐさまたしなめられてしまうだろう。
 正直なところ、気は進まないが、家に帰らなくてはならない。さあ、帰ろう。口に出して言ってみた。その言葉を、誰かが聞いているわけではない。一種の自己暗示である。要するに、自分を鼓舞しているのだ。あの家が、自分の帰るべき場所なのだ、と。
 閲覧スペースに立ち寄り、ランドセルを背負って、エントランスのほうに向かう。そのとき、彼女の座っていた席の端に、何かが放置されているのを発見した。何だろうと思い、手に取って広げてみる。それは、タオル生地のハンカチだった。色は薄いピンクで、小さな花の刺繍があり、縁には白のレースがあしらわれている。
 彼女のものに違いない、と拓海は思った。スカートのポケットに入っていたハンカチが、何かのはずみで外に出たのだが、彼女はそれに気づかないまま、帰ってしまったのだろう。図書館の職員に渡せば、持ち主に返却してもらえるはずである。だが、しかし……。
 しばらくの間、拓海はそのハンカチを見つめた。


 拓海が家に戻ると、母が夕食の準備に精を出していた。特別感を演出するためか、ダイニングキッチンのテーブルに、普段とは違う模様のクロスがかけられていた。今朝の時点では床に置かれていたたくさんの段ボール箱も、すっかり片づけられている。段ボール箱の中には、母が通販で購入した、使いもしない健康グッズや一度着ただけで満足してしまった衣服などが入っていたはずだが、一体、どこに隠したのだろう。あるいは、捨ててしまったのかもしれない。父が残してくれたお金で、また、母が無駄な買い物を繰り返すのだと思うと、気が滅入ってくる。ただいま、と母の背中に声をかけると、おかえり、の一言もなく、「高橋さんに失礼のないようにね」と早口で言われた。年甲斐もなく、妙に可愛らしい意匠のこらされたエプロンを身につけた母は、ややきつめの化粧をしていた。
 拓海は階段を上り、二階の自室に向かった。クラスの友達が、何度か家に遊びに来たことがあるけれど、彼らは拓海の部屋の広さに、終始、驚いていた。小学四年生に割り当てられる一人部屋の広さの平均が、果たしてどれくらいなのかは不明だが、持て余しているのは確かである。勉強机もベッドも本棚も、全て壁に寄せられており、部屋の中央には、何もないスペースがぽっかり空いている。
 机にランドセルを置き、ベッドに寝転ぶと、おそるおそる、といった感じで、ドアがノックされた。ノックの仕方で、ドアの向こうにいるのは姉だとわかった。返事をしないでいると、静かにドアが開いて、浮かない面持ちの姉――結城紗友里という――が中に入ってきた。もっとも、彼女が沈んだ表情をしているのは、いつものことなのだが。
「何? どうかしたの?」
 渋々、体を起こして、拓海はそう尋ねた。姉はそろそろと寄ってきて、ベッドの脇に腰掛けた。彼女は拓海の二つ上――小学六年生――なのだが、線が細く、身長も拓海と同じくらいである。二人で外を歩いていても、まず姉弟だとは思われないだろう。
「今日はね、わたし、頑張るから」
「頑張る?」
「うん、わたし、頑張るから」
 姉は小さなキーホルダーを握り締めていた。もともとは、ペットボトルのお茶か何かのおまけについていたものであり、くすんだ緑色のカエルの頭に、銀色の輪っかが付属している。何ということはない代物ではあるけれど、それは姉のお気に入りだった。ポケットに入れているだけでも安心するらしく、彼女はそのキーホルダーを、よく持ち歩いていた。
「高橋さんのこと?」
「そう、高橋さんにね、話しかけられても、きちんと返事、するつもりだから。お母さんに、拓海を見習って、紗友里もしっかりしなさいって、言われたの。大丈夫、うん、わたし、頑張るから」
 ところどころつっかえながらも、自分の言葉にうなずくようにして、姉は喋った。幼い子供がこういう話し方をしているのであれば、そこまで違和感はないのだけれど、姉の場合、それが今でも直っていない。流暢に話していたかと思うと、いきなり口を閉じて黙り込み、周囲をきょろきょろし出したりする。母に連れられて、病院通いをしていたこともあったのだが、結局、原因はよくわからなかった。自分の世界に入り込んでしまう傾向のある姉は、学校も休みがちで、一日中、家にこもっていることが多い。幸いというか何というか、勉強ができないわけではないので、母もそれを容認している。おそらく、姉は今日も学校に行かなかったのだろう。意図して登校時間をずらしているので、本当のところはわからないが。
「別に、無理して頑張る必要なんかないんじゃない? あんまり思い詰めると、ほら、かえって、上手くいかなかったりするしさ。それに、ぼくを見習えって言われたみたいだけれど、きっと、母さんは、そこまで深く考えてないよ。その場の思いつきで、ちょっと口に出してみただけじゃないかな」
「そんな……」
 拓海としては、姉を気遣ったつもりの発言だったのだが、どうやら失敗だったらしい。姉は自分の決意を否定されたと感じたのだろう、もう目が潤み始めている。
「だって、高橋さんに嫌われちゃいけないって、お母さんが……」
「ああ……、ごめんね、ぼくが悪かった。姉さんも一生懸命なんだってことは、充分、わかっているつもりだよ。だから泣かないで、姉さん」
「わたし、泣いてなんか……」
 拓海は姉の隣に移動し、彼女が落ち着くまで、背中をさすってやった。全く、これでは、どちらが年上かわからない。クラスの友達にも、姉を持つ子がいるけれど、その子の姉は、もっと毅然としていた。拓海は時々、姉のことを、守らなければならない妹のように感じてしまうことがある。
 午後七時を過ぎた頃、スーツ姿の高橋さんがやってきて、夕食の時間になった。テーブルの上に並んだ、たくさんの料理を前にして、「これはすごい」と高橋さんは目を丸くした。「このビーフシチューなんて、朝から煮込んでいたんだからね」と母は得意げに言った。四人掛けのテーブルに、高橋さんと母、拓海と姉の組み合わせで、向かい合って座った。拓海の対面の高橋さんが腰掛けているのは、生前の父の指定席だった。食事の最中に、高橋さんはスーツの上を脱いで、ワイシャツの袖をまくった。母はその様子を、うっとりと眺めていた。
 高橋さんが、初めて家に来たのは、一年ほど前のことである。母からは、父が大学に勤めていたときの教え子だ、と紹介を受けた。以来、月に一、二回のペースで、彼を家に招き、食事の時間を共に過ごす、ということが続けられている。休みの日に、隣町のショッピングモールまで、高橋さんと母、拓海と姉の四人で、一緒に出かけたこともあった。母は、病気で天国に旅立った父の代わりを、高橋さんに務めてもらおうと考えているようだ。高橋さんの年齢を聞いたことはないけれど、おそらく、三十歳くらいではないか、と拓海は見積もっている。そうなると、母とは十歳くらい、年の差があるということになる。
 隣の席の姉は、明らかに緊張しており、先ほどの宣言はどこへやら、黙々とシチューを口に運ぶばかりだった。こうなってしまうと、もう、まともな受け答えは期待できない。仕方がないので、姉に注意が向かないよう、拓海は高橋さんの話に興味があるふりをして、様々な質問をした。わざわざ、自分の席から身を乗り出すという演技をしながら、である。
 高橋さんは、隣町にあるデイサービスセンターの職員だった。デイサービスセンターというのは、介護が必要な高齢者に対し、リハビリや食事、入浴などのサービスを提供する施設のことだ。高橋さんは、そこで働く人たちの取りまとめをやっているらしい。「困っている人たちの手助けをする、立派な仕事をしているのよ」と母は言った。姉が高橋さんとコミュニケーションを取れないのは、母のその説明を、まともに受け止めてしまったせいだろう、と拓海は思う。つまり、姉は高橋さんに対して、委縮しているのだ。
 なるほど、立派といえば、確かに、立派な人なのである。高橋さんは、日々の業務に加えて、非営利団体が行っている、路上生活者たちの支援にも関わっているそうだ。具体的には、炊き出しや夜回りなどのボランティア活動である。「デイサービスの仕事にも関わってくることだから」と高橋さんは言うけれど、普通の人には、なかなかできることではない。
 尊敬に値する人物だ、というのは、頭ではわかっているつもりだった。しかし、拓海の中に、どこか釈然としない気持ちがあるというのも、これまた事実なのである。近いうちに、母は高橋さんと再婚することになるのだろう。だが、父以外の人物を、父として迎え入れることに、どうしても、抵抗がある。高橋さんのことが、疎ましく思えてならない。それでも、波風を立てたくないがゆえに、表面上は、そつなく振る舞ってしまう。物分かりのいい子のふりをしてしまう。そんな自分に対して、拓海は嫌悪感を覚える。
 夕食を終えてにこやかに帰っていく高橋さんを、すっきりしないものを抱えつつも、拓海も玄関先でにこやかに見送った。今日もちゃんと話ができなかった、と嘆く姉をなだめ、夕食の片付けを始めた母を手伝い、ようやく自室で一人になると、どっと疲れが押し寄せてきた。ベッドに横になると、そのまま眠り込んでしまいそうだったので、椅子に座り、机の上に置かれていたランドセルを開けた。
 ランドセルの中には、折り畳まれたハンカチが入っていた。拓海はそれを広げて、顔に押し当てる。彼女に声をかけてもいい理由が、今、ここにあるのだと思うと、倦んだ気持ちも晴れていくような気がした。ハンカチは、こっそり洗って彼女に返すつもりだった。彼女は喜んでくれるだろうか。微笑む彼女の姿を想像すると、胸がいっぱいになった。
 そう、このハンカチが、自分と彼女を結び付けてくれるのだ。


 拓海が図書館で彼女の姿を目撃したのは、ハンカチを拾ってから、ちょうど一週間後のことだった。その間に、月が変わって十月に入り、上着なしでは肌寒いと感じられるくらい、朝と夜はぐっと冷え込むようになった。
 より正確にいうなら、彼女がいたのは、図書館の中ではなくて、図書館の敷地内にあるカフェの中だった。先月見かけたときは夏服だった彼女は、衣替えをして、冬服を身にまとっていた。彼女の存在に気づいた拓海は、図書館の窓際にある閲覧スペースの、空いている席を確保した。カフェは全面ガラス張りであり、図書館に隣接する形で併設されていたので、そこからカフェの中の様子をうかがうことできた。
 彼女は一人ではなかった。対面に座っているのは、彼女と同じ制服姿の少女だった。彼女の友人だろうか。お世辞にも、痩せているとは言い難い体格であり、ほっそりとした彼女と比較するのが、ややためらわれるほどである。彼女は時折うなずきながら、友人の話を聞いていた。
彼女はともかく、彼女の友人のほうは、何だか興奮しているようだった。何を話しているのかは、もちろん聞き取れなかったけれど、長引きそうだな、というのはわかった。声をかけるのは、彼女が一人になってからにしよう、と拓海は考えた。彼女のハンカチは、ランドセルの中に入れてあった。彼女に会ったときのために、毎日、持ち歩いていたのである。
 ひとまず宿題を済ませても、二人の話は、まだ終わっていなかった。彼女の友人のほうが、身振り手振りを加えながら、彼女に何かを訴えかけている。拓海は「子供のための哲学」シリーズの一冊を棚から持ってきて、それを読みながら、時間をつぶした。「家族とは?」というのが、その本のテーマだった。本を開くと、最初のページに、「家族って、本当に大切なもの?」という疑問文が、大きなフォントで書かれていて、どきっとした。母と、姉と、高橋さんと、それからもちろん、父のことを、拓海は考えた。
 父が心臓の病気で亡くなったのは、拓海が小学一年生のとき――三年前――だった。葬式が終わるとすぐ、母は大手の人材派遣会社に登録し、概ね半年のスパンで、様々な職場を渡り歩くようになった。三人で暮らしていくには、母の稼ぎだけでは厳しかったが、大学の医学部で教鞭を取っていた父は、給料も良く、貯金も充分あったため、これまで、生活に困ったことはない。
 母と高橋さんが知り合ったのは、臨時の事務職員として、母がデイサービスセンターで働き始めたことがきっかけだったらしい。「結城さんって、あの結城先生の奥さまだったんですね」と高橋さんは驚いていたそうだ。しばらくして契約が切れ、母はデイサービスセンターを離れることになったが、その後も「いいお付き合い」が続いている、というわけである。「いいお付き合い」といった表現をしたのは母であり、だから、高橋さんに対して強い思い入れがあるのは母のほうなのだろうな、と拓海は想像している。高橋さんのほうは、もう少し俯瞰しているというか、姉や拓海の反応を気にして、いまだに距離感をはかっているような印象がある。
 あれこれ考えている自分に気づき、はっとしたときにはもう、目の前に彼女の姿はなかった。拓海は大いに慌てたが、当の彼女と彼女の友人は、レジで会計を済ませて、カフェを出ようとしているところだった。まだ充分、追跡は可能である。拓海は読んでいた本を棚に返すと、ランドセルを背負って、図書館の外に出た。
 つかず離れずを意識しつつ、拓海は二人のあとを追った。平屋の間の細い道を抜け、T字路の手前までやってくると、二人は互いに手を振り合い、左右に別れた。彼女は左へ。彼女の友人は右へ。右は駅前に向かうルートだが、左はこの町を貫くように流れている川に近づくルートである。
 当然、拓海は道を左に折れた。ここで彼女を呼び止めても良かったのだが、そうしなかったのは、このまま彼女についていけば、もしかしたら、彼女の家がどこにあるのかがわかるのではないか、と思ったからだ。もちろん、わかったからといって、それ以上、特別な何かを望むつもりはなかったけれど、彼女に関する情報が増えるということは、拓海にとって、大きな喜びだった。
 幅の広い川の上に、頑丈な鉄橋がかけられていた。車の行き交う二車線の道路の脇に、歩行者のために区切られた部分があり、彼女はそこを進んでいく。車がそばを通るたびに、橋全体が、上下に揺れるような感覚があった。
 橋の真ん中あたりで、彼女は手すりに寄りかかり、橋の下に目をやった。伸び放題の野草が、川辺のあちらこちらに、まだらに生い茂っている。何だろう、と拓海は思った。橋の下に、何か気になるものでもあるのだろうか。
 橋を渡り切ったところに、コンクリート製の階段が設けられていた。悪天候の際は、むやみに川に近づかないように、という注意喚起の立て札があったが、彼女はその横を通り過ぎ、階段を下りていく。拓海はいったん、彼女の追跡を中断した。鉄橋を引き返し、彼女の向かった先に何があるのかを、上から確認しようと思った。しかし、彼女はちょうど橋の真下にいるらしく、手すりから身を乗り出すようにしても、よく見えない。
 そうこうしているうちに、彼女が橋の上に戻ってきた。彼女はそのまま、橋の向こうへと歩いていく。どうしようかと迷った末に、ハンカチの件は、また次の機会があるだろうと考えて、拓海は階段を下りることにした。
 川辺の野草は、拓海の背丈よりも高かった。邪魔なものはかき分けるようにして進み、彼女がいたであろう場所までやってくると、橋を支えるコンクリートの太い柱のそばに、木を組み上げてつくられた、古い小屋が建てられていた。いや、こんなところに住居を建てるわけがないから、小屋というよりも、倉庫と表現したほうがいいのかもしれない。緩やかな流れの川からは少し離れたところに、秘密基地のような、朽ちかかった倉庫があった。
 拓海は倉庫に近づいた。彼女がわざわざ倉庫に立ち寄ったのは、ここで密かに動物を飼っているからではないか、と考えた。彼女は鞄の中に、たとえば、給食の残りのパンなどを入れていて、それを餌として動物に与えているのではないか。
 犬や猫がいることを想像しながら、拓海は倉庫の中をのぞいた。しかし、暗がりの向こうには、意外な動物が潜んでいた。
 人間だった。
 汚れた衣服を身につけた男性が、汚れた毛布の上に寝転がり、カブトムシの幼虫みたいに、背中を丸めている。一瞬、死んでいるのかと思ったが、男性は浅く呼吸を繰り返しており、どうやら、体を休めているだけのようだ。わずかに開いた口元から見えている歯が、異様に白かった。男性のそばには、水の入ったペットボトルと、チョコレート菓子の箱が置かれていた。
「あなたは、私に用があるのだと思っていたのだけれど……」
 拓海が立ちすくんでいると、ふいに声をかけられた。
 両手で鞄を持った彼女が、拓海の後ろに立っていた。
 数匹の蝶が、彼女の周囲を飛んでいた。
 何だか、彼女が引き連れてきたみたいだな、と拓海は思った。


 並んで道を歩きながら、彼女の話を聞いた。彼女が橋の下の倉庫を見つけたのは、全くの偶然だったらしい。ある天気のいい休日に、彼女はこの近くを散歩していたのだが、橋の上を通ろうとしたときに、強い風が吹いた。その際に、彼女がかぶっていたつばの広い帽子が舞い、風に乗って飛ばされた。あっと思ったときにはもう遅く、帽子は橋の下に消えていった。
「幸い、帽子は川辺に落ちていたから、難なく回収できたわ。でも、帽子を拾い上げたときに、どこかから、獣のうめき声のようなものが聞こえてきたのよ。私は辺りを見回して……、そうして、近くにあの倉庫があることに気づいたの」
 その声の主が、例の男性だったというわけだ。毛布の上に身を横たえた彼は、空っぽのビニール袋を弄びながら、歯ぎしりをしていたそうである。数十センチほどの距離を置いて、彼女は彼と向かい合った。彼は濁った瞳で彼女を見上げたが、言葉らしい言葉を発することなく、ただ唸るばかりだった。
「気がつくと、私はコンビニで買ったばかりのスナック菓子を、彼に差し出していたわ。彼は私からそれを奪うと、おぼつかない手つきで袋を開けて、ものすごい勢いで食べ始めたの。ぼろぼろと、食べかすをまき散らしながらね」
 路上生活者の類なんでしょうね、と彼女は言った。つまり彼は、いわゆるホームレスなのよ、と。それからというもの、彼女は時折、あの倉庫を訪れて、男性に水や食べ物を与えているそうだ。図書館で植物図鑑を眺めていたのも、人間が食べられそうな野草について調べるためだったのかもしれない。不思議なことに、男性は、彼女が足を運ぶと、必ず倉庫にいるらしい。まるで、彼女が来ることがわかっているみたいに。
「一体、どうして、そんなことを?」
 拓海は尋ねた。善意に駆られての奉仕であれば、賞賛されるべき行動なのかもしれないが、彼女の様子からすると、そういうことでもなさそうだ。彼女の態度からは、男性に対する配慮や労わりの情が、全く感じられないのである。
「そうね……、まだ小さかった頃に、大人たちには内緒で、犬を飼っていたことがあるの。姉と二人でね。そのときのことを、思い出したからかもしれないわ」
「でも、だからといって……」
 犬と人間では訳が違う。どうも煙に巻かれている気がして、拓海はさらに質問を重ねようとしたが、「ここが私の家なの」と彼女が立ち止まった。二人は、とあるマンションの前まで来ていた。
「結城拓海君、ここまで送ってくれてありがとう。ハンカチのお礼は、いつかするつもりよ。もし、私があの男性を飼い慣らしている理由を、あなたが本当に知りたいのなら、橋の下に来てもらうしかないわね。あなたの目で見たことを、あなたの頭の中で整理して、あなたなりの結論を導き出すのが、あなたにとって、一番いいはずだから」
 ではさようなら、と言って、彼女はエントランスを真っ直ぐ進み、マンションの中に消えていった。拓海は彼女の背中を見つめていたが、彼女は一度も振り返らなかった。
 彼女が自分の名前を呼んでくれたことに、拓海は感激しながら帰宅したが、ほどなくして、彼女の発した言葉の意味が気になり始めた。「飼い慣らす」というフレーズを、彼女は使った。つまり、彼女は自身を飼い主に、男性を愛玩動物に見立てているのだ。彼女は男性を、自分の支配下に置こうとしているのである。
 人間が人間をペットとして扱うというのは、一般的な感覚からすると、常軌を逸した行為だった。はっきり言って、異常である。しかし、そのようなことをやってのける彼女に対して、拓海は抗えない魅力を感じた。彼女は、単なる本好きのおとなしい少女ではなかった。自分の中に、こんな嗜好があるとは知らなかった。彼女が、そのことを気づかせてくれたのだ。
 それ以来、図書館で彼女を見かけた日は、彼女と二人で、橋の下の秘密の場所まで行くようになった。図書館の中では、決して声をかけない。目を合わせて、お互いにうなずくだけであり、そろそろかな、というタイミングで、連れ立って外に出る。図書館を待ち合わせの場所にすると決めたわけではないのだけれど、自然と、そのようなルールができていた。
 橋の下の倉庫は、男性の根城として使われているようだった。どこかから拾ってきたのだろう、全て壊れていたけれど、携帯ラジオやドライヤーに加えて、なぜかDVDプレイヤーまで置かれていた。倉庫の奥には、雑誌や文庫本が積まれており、男性は、時折、それらに目を落としていた。彼が言葉らしい言葉を喋ることはなかったが、そのようなとき、ああ、この場所にいるのは、確かに人間なのだな、と拓海は思った。犬や猫では、人間の書いた文章を理解できないからである。
 彼女が差し出す食べ物を、男性は全て口にした。スナック菓子だけでなく、パンやおにぎりなど、コンビニで買えるものを、彼女は与えていたが、あるとき、男性の前に、ドッグフードが置かれたことがあった。缶詰ではなくて、大きな袋に入った、ドライタイプのドッグフードである。あぐらをかいていた男性は、どろりとした目で彼女を見た。
「食べなさい」
 彼女は短く命令した。それはあなたのために用意してあげた餌よ、と。すると、男性はその言葉を待っていたみたいに、袋を開けて、ドッグフードをほおばり始めた。おそらく、食べられたものではないのだろう、男性は顔をしかめて咳き込んだが、それでもドッグフードをむさぼることをやめなかった。その様子を、拓海は興味深く見つめていた。彼女と男性の間に、確かに、主従関係ができ上がっているのを感じた。橋の上で、カラスが鳴いていた。「あれを捕まえて、切り落とした足を食べさせてみようかしら」と彼女が真顔でつぶやいた。
 やがて彼女は、コンビニで購入したものにひと手間加えた食べ物を、男性に食べさせるようになった。たとえばそれは、ちょっと見たところでは、普通のサンドウィッチなのである。しかしそのサンドウィッチには、トイレの洗浄剤がたっぷりと染み込んでいるため、具を挟むパンの一部が、不自然に変色している。違和感を覚えないはずがないのだけれど、彼女に差し出された悪魔の食べ物を、男性は口に運んだ。涙とよだれと鼻水を垂らしながら、しかし彼は、サンドウィッチを完食した。彼女の用いたトイレの洗浄剤は強い酸性だったから、彼の喉や食道は、サンドウィッチが通過したことによって、ひどく焼けただれてしまったはずである。毛布の上に倒れ込んだ彼は、細かく体を震わせていた。彼が気を失って動かなくなるのを見届けてから、拓海と彼女は倉庫を離れた。
「拓海君、わかる? これはね、実験なのよ。人間による支配を、人間という生き物がどこまで受け入れるのか、その境目を見極めようとしているの」
「ええ、わかります。次は、こんなことを試してみるのはどうですか?」
 彼女が喜ぶかもしれないと思い、ネットで調べて頭に叩き込んだ知識を、拓海は披露した。それは、かつては日本でも行われていたという触れ込みの、シンプルな拷問方法である。対象者の体を縛って動けなくした上で、視界をアイマスクなどで奪い、一定の間隔をおいて、額に水滴を垂らし続けるのだ。たったこれだけで、対象者は理性を保てなくなるらしい。水滴で額が濡れたら、ちょっと拭えばすむ話だが、体を縛られているので、それはできない。不快な状態が、あまりにも長時間続くと、人間という生物は、精神を破壊されてしまうそうである。拓海が説明を終えると、「あなた、なかなか見どころがある子ね」と彼女は目を細めた。彼女の笑顔を見ることができて、拓海は幸せな気持ちになった。
 図書館から橋の下へ、そしてマンションの前までついて行き、そこで別れるというのが、お決まりの流れだったが、その日は違った。「拓海君、少しお茶でも飲んでいかない?」と彼女に誘われた。一も二もなく、拓海はうなずいた。太陽は西のほうに沈みかけていて、帰りが遅くなると母に注意されるかもと思ったが、そのように考えたのは、彼女の誘いに応じたあとのことだった。


 悪天候のために延期になった小学校の運動会が、十月の最後の土曜日に、ようやく開催された。その日も朝から曇っており、一日を通しての降水確率は四十パーセントということで、いつ雨が降り出してもおかしくない天気だったが、灰色の空は、何とか閉会式まで持ちこたえてくれた。
 生徒たちは、紅組と白組に分かれて、様々な種目で競い合った。徒競走や玉入れや綱引きといった競技を、拓海は無難にこなしたが、姉はクラス対抗リレーのときにバトンを落として、観衆から励ましの声援を受けていた。クラスの友達には、「あれって、お前の姉ちゃんだよな?」とからかわれた。普段の学校生活では、姉の存在を意識することはほとんどないのだけれど、こういった全校行事の際は、そうもいかない。顔を真っ赤にして走る姉の姿を目の当たりにして、拓海は恥ずかしくなった。
 運動会には、母だけでなく、高橋さんも来ていた。お昼の休憩時間には、母がつくったやたらと豪華な昼食を、四人で食べた。失態をさらしてしまった姉は、「みっともないから、もうあんなミスはしないでちょうだいね」と母に釘を刺されていたが、高橋さんには、終始、気遣われていた。彼に頭を撫でられて、姉はやはりひどく恐縮していた。まずますうつむく姉を見て、母は渋面をつくった。
 午後のプログラムは、応援合戦から始まることになっていた。応援合戦だけは、紅組と白組ではなくて、学年ごとに生徒たちを分けて行われる。そのための準備を促す放送が流れたのをきっかけにして、生徒たちは、ぞろぞろと校舎のほうへ向かった。応援合戦に使うための道具を、取りに行くためである。グラウンドを横切るように歩いているときに、姉が近づいてきて、こんなことを言った。
「拓海、わたし、高橋さんが、怖い……」
「怖い? さっき、あんなに優しくしてもらっていたのに?」
 姉は例のカエルのキーホルダーを手にしていた。ランドセルの肩ベルトに括り付けて登校し、学校にいるときは、肌身離さずそれを持っているのである。驚いたことに、姉は寒気に襲われているみたいに、体を震わせていた。どうも様子がおかしいとは感じたものの、「大丈夫、気のせいだよ」と拓海は姉の肩を叩いた。取り合ってもらえなかったことがショックだったのか、姉は呆けたようにその場に立ち止まった。姉の視線を背中に感じながら、拓海は自分のクラスに急いだ。
 いや、今のは間違いなく、姉に非がある。拓海は心の中で、自分に言い聞かせた。移動中に、長くなりそうな深刻な話を始めようとするほうが、どうかしている。リレーのときの失敗を引きずっているから、姉は少し、神経質になっているだけだ。大丈夫、気のせいだ。そう、気のせいなのだ。それ以外に、何か言えることがあっただろうか。やや邪険な対応をしてしまったのは、確かに自分も配慮が足りなかったと思うが、それは、姉と一緒にいるところを、クラスの友達に見られたくなかったからだ。しかしその一方で、学校ではなく、ここが自宅であり、姉の話を聞く時間が充分にあったとしても、つっけんどんな態度を取ったのではないか、という気もした。
 生前の父に、「お前が紗友里を守ってやるんだぞ」と言われたことがあった。気弱で、自分に自信がなくて、いつもびくびくしている姉のことを、父は案じていた。父の言いつけを、曲がりなりにも、拓海は実行してきたつもりである。だが、最近は何となく、姉を慕う気持ちが、薄れてきているように思える。
 そして、自分の心の大半を占めているのは、彼女のことなのだった。つつましやかな外見とは裏腹に、底なしの暗闇を内面に抱えている彼女。彼女の心中を推し量ることは難しく、それゆえに、拓海は強く惹かれてしまう。男性に対して、非人道的な行いを働くとき、彼女の目には光がなく、そこには小さな二つの穴が開いているように感じられる。彼女が姉だったら、どんなにいいだろう、と拓海は思った。大きな妹のような姉ではなくて、時に優しく、時に厳しく、年下の自分を導き、守ってくれる存在としての姉である。
 彼女にも、姉がいるのだという。彼女の家に招かれたとき、家族の話になり、その流れで、拓海は彼女の家庭の事情を知った。
「私はこの町で父と暮らしているのだけれど、母と姉は、隣町に住んでいるのよ。理由は……、そう、簡単に言ってしまえば、両親の不仲というやつね。少し距離を置くことで、自分たちの関係を冷静に見つめ直したい、と父も母も言っていた。でも、まあ、関係が改善されることはないだろうな、と思っていたのよ。ところが、最近、とある事件に、姉が巻き込まれたの」
「事件……、ですか?」
「そう、とある事件にね。それがきっかけになって、父も母も、少し考えを改めたらしいのよ。最近、お互いに、歩み寄る姿勢を見せ始めているの。私や姉には、まだはっきりとしたことを言うつもりはないようだけれど、いずれは、また同じ屋根の下で、生活を共にすることになるでしょうね」
 自分の家族のことなのに、彼女は何だか、他人事のように喋った。嬉しくないのかと尋ねると、「どうして?」と逆に質問を返され、拓海は戸惑った。
「何かが起ころうとしていることを喜ばしいと感じるのは、それを望んでいる人間だけよ」
「でも……、だって、お母さんやお姉さんのことが、好きじゃないんですか?」
「私にとっては、母も姉も、それからもちろん父も、ただ、家族であるというだけなの。それ以上でも、それ以下でもないわ。他の人よりは、多少、近しい関係にあるけれど、好きでもないし、嫌いでもない。好きになる必要も、嫌いになる必要もないと思っているわ。そもそも、そういった感情は、物事を判断する力を鈍らせるから、なるべく、排除するようにしているのよ。もちろん、養ってもらっている身だから、そのことに対して、感謝はしているけれど」
こういったことを、声を荒らげもせず、彼女は淡々と話すのである。整理のついていない何かが心のうちにあって、それを制御できないがゆえに、喚き散らしているのではない。彼女は、全くもって理性的に、家族という存在を定義していた。「家族って、本当に大切なもの?」という疑問文が、大きなフォントで、拓海の脳裏をよぎった。ただし、と彼女は続けた。
「同じ家で暮らすということになれば、今よりも、家族のつながりが強くなるのは間違いないわ。そうなると、私のやりたいことを、実行に移しやすくなるかもしれないわね」
「やりたいこと?」
「ええ。今の私は、その目的のために動いていると言ってもいいくらいよ。それを達成するには何をしなければならないかを考えて、毎日を過ごしている。拓海君、覚えておくといいわ。使命のある人生のほうが、使命のない人生よりも、ずっと張り合いがあるのだということを」
「……もしかして、橋の下の実験も、そのために?」
「さあ、どうかしらね」と彼女ははぐらかした。二人はリビングで向かい合っていたのだが、テーブルの脇に置かれた鞄を眺めて彼女が微笑んだのを、拓海は見逃さなかった。そうか、と拓海は思った。その鞄の中に、使命とやらに関連した何かが入っているのだな、と。
 橋の下の実験、というキーワードから、話題は自然とあの男性のことに移った。どういった経緯があって、彼が今のような状態に陥ったのかを、二人はあれこれ想像した。個人経営のレストランを営んでいたものの、客が入らず店を手放すことになり、他に頼れる人もいなかったので野宿を始めた、というストーリーを拓海は思いついた。何らかの問題を抱えていて自活ができず、両親の世話になっていたが、両親との死別で家をなくしたか、仲違いが生じて家を出るしかなくなった、という来歴を彼女は披露した。可能性としては、どちらもあり得るな、と拓海は思った。高橋さんから、路上生活者の実態について、話を聞いたことがあったからである。高橋さんの説明によれば、福祉に関する法律が充分に整理されておらず、様々な要因が複雑に絡み合った結果、路上生活者が増加しているというのが、今の日本の傾向なのだという。
「あの男性も、いつも橋の下にいるというわけではないと思うの。そうでなかったら、倉庫の中に、あれほど多くのものが置かれているはずがないわ。どこかのゴミ捨て場から見繕って、持ってきているのよ。つまり、歩き回るだけの体力はあるし、気力もあるということよ。それなのに、私からの施しを受け続けている。おそらく、彼の中に、甘えがあるのでしょうね」
「甘え?」
「倉庫で待っていれば、私がやってくるということを覚えて、甘えているのよ。野良猫にえさを与えると、家にその野良猫が寄りつくようになる、という話を聞いたことがあるわ。それと同じよ。食べるものには困らないだろう、という打算があるのだと思うわ。まあ、そういった依存心を利用して、私も色々な実験をしているわけだから、彼を責めるつもりはないけれど」
 彼女のいう「実験」は、どんどんエスカレートしている。しかし男性は、全くそれを拒否するような素振りを見せない。彼女による支配を、ただ、黙って受け入れている。このままだと、「実験」のせいで、彼は死んでしまうかもしれない。そうなってもおかしくないくらいのことを、彼女は彼に対して行っているのだ。
 もしかしたら、と拓海は思う。
 それが彼の望みなのかもな、と。
 拓海には、何だかあの男性が、死にたがっているように感じられるのである。
 

 運動会が終わり、十一月に入ると、高橋さんが関わっている非営利団体――「ほほえみ」という――による炊き出しがあった。場所は、隣町にある森林公園だった。芝生の上にテントを張って、移動式のコンロや巨大な寸胴鍋などの調理器具を持ち込み、温かい食料を提供するのだ。困窮している路上生活者たちの心と体を少しでも癒すというのが、この活動の狙いである。
 高橋さんと母から強く勧められ、拓海も炊き出しに参加することになったが、本当は、協力などしたくなかった。家で本を読んでいるほうが、ずっと良かった。断り切れなかったのは、同じように打診を受けていた姉が、どうしても行きたくないと言い張り、自分の部屋から出てこなかったからである。
 一体、どこで聞きつけたのか、森林公園には、たくさんの人が集まっていた。午前中に、ボランティアの人たちが調理を行い、夕方から配食する、という流れだったのだけれど、お昼過ぎにはもう、テントの前に列ができあがっていたため、予定を早めて、豚汁やおにぎりを提供することになった。
 拓海が手伝ったのは、調理器具のセッティングや、ゴミの廃棄作業だった。それ以外には、特にやることもなかったので、少し離れたところから、せわしなく動いている大人たちを眺めて、時間をつぶした。どうやら、この活動の責任者は高橋さんのようだった。彼は周囲の人たちに細かく指示を出し、炊き出しがスムーズに行われるよう、取り仕切っていた。
炊き出しには、拓海より小さな子供たちも参加していた。おそらくは親の都合で無理やり連れてこられたのだろう、子供たちは皆、憮然とした表情で、所在なさげにしていた。母から彼らの世話を頼まれたこともあり、拓海はテントの近くに放置されていたボールを使って、一緒に遊んでやった。チームを二つに分け、芝生の端の背の高い木にボールを当てたら一点と決めて、サッカーを始めた。子供たちは、最初はおっかなびっくりパスを回していたが、徐々に打ち解けてきて、それなりに楽しいものになった。
 体が温かくなってきた頃、大人たちへの指示も一通り済んだらしく、高橋さんがやってきて、遊びの輪に加わった。大人が一人チームに加わっただけで、パワーバランスは一気に崩れる。高橋さんの強烈なロングシュートは、子供たちを大いに驚かせ、大いに喜ばせた。
 木陰のベンチで休んでいると、高橋さんが隣に座り、「拓海君、今日は来てくれてありがとう」と頭を下げた。「いえ、お礼を言われるほどのことはしていません」と拓海は首を振った。
「本当は、紗友里ちゃんにも手伝ってもらいたかった。こういった活動に参加することは、彼女にとっても、有意義だと思うから……」
「姉にとっても?」
「ああ。色々な人に会って、色々なことを喋って、色々な経験をする。今の紗友里ちゃんに必要なのは、きっと、学校と家を往復する毎日じゃない。彼女は、自分の世界を、もっと広げる必要がある。いや、もちろん、学校の勉強も大切だけど、学校以外の場所でも、学べることは、たくさんあるはずだ。俺は紗友里ちゃんに、そのことを知ってもらいたいと思っているんだよ」
 高橋さんとは目を合わせず、拓海はそばにあった立て札を見やった。何となくぼやかした文言にはなっていたものの、要するに、この近辺で怪しい人物を見かけたら情報提供をしてもらいたい、という意味のことが書かれていた。
 何かが起ころうとしていることを喜ばしいと感じるのは、それを望んでいる人間だけだ、と言ったのは彼女だったが、まさにその通りだなと思った。高橋さんは、まるで父親であるかのように、姉のことを気にかけている。しかし、果たして姉は、それを望んでいるのだろうか。望んでいるのであれば、高橋さんのことを「怖い」だなんて言わないはずである。
 ひとしきり熱弁をふるうと、高橋さんはベンチから立ち上がり、テントの周囲で食事をとっている人たちに声をかけ始めた。拓海はその様子を目で追っていたが、やがて、集まった路上生活者の中に、見知った顔があることに気づいた。例の「実験」の被験者の男性である。橋の下の倉庫以外で、彼の姿を見たのは初めてだった。
「やあ、伊集院さん。久しぶりですね。元気にしていましたか? この前、お会いしたときは、仕事を探すつもりだとおっしゃっていたけれど、その後、調子はいかがですか……」
 伊集院さん、と呼ばれた男性は、相変わらず汚れた衣服を身に着けており、高橋さんが何かを言うたびに、恐縮したように、ぺこぺこ頭を下げていた。高橋さんへの忠誠を誓うみたいに、かぶっていた野球帽を取って、何度もお辞儀をしていた。あとで質問してみると、高橋さんは「伊集院さん」なる人物と、炊き出しのときに何度も会っているらしく、彼が抱えている事情について、詳しく教えてくれた。
「以前は、電化製品の輸入販売で生計を立てていたそうだよ。伊集院さんは、その会社の社長で、百人以上の社員を束ねていたらしい。でも、あるとき、主要輸入先が相次いで倒産した結果、伊集院さんの会社は、大量の在庫を抱える羽目になった。倒産したメーカーの製品なんて、普通、誰も買わないよね。だから、伊集院さんの会社の業績も、急速に悪化した。最初は、まだ何とかできるはずだと、伊集院さんは考えていたらしいんだ。でも、一年もしないうちに、とうとう会社が立ち行かなくなってしまい、家族のように思っていた社員全員を、解雇しなければならなくなった……」
「ほほえみ」では、路上生活者たちが今の生活から抜け出せるよう、就職をサポートする活動も行っている。職業紹介所への相談や、役所窓口の関係者への取次ぎなどである。伊集院さんも「ほほえみ」の支援を受けて、めでたく町内の給食センターへの就職が決まったのだが、ほどなくして、辞めてしまったそうだ。
「その給食センターは、俺が働いているデイサービスセンターとも、仕事上の付き合いがあってね。そういったつても使って、ようやくまとまった話だったんだけど……、なかなか、すんなりとはいかないものだね。伊集院さんの中でも、葛藤があるんだと思う。だって、もともとは、会社という一国の主として、ばりばり働いていたわけだからね」
 そういえば、と拓海が思い出したのは、倉庫の奥に、様々な電化製品が置かれていたことだった。壊れているにもかかわらず、そのようなものを持ち込んでいるのは、在りし日のことが、どうしても忘れられないから、だったりするのだろうか。
 一時は、人を導く立場――もしかしたら、人を支配する立場、と言い換えても良いかもしれない―――に身を置いていたはずの伊集院さんは、今や、支配される側の人間に落ちぶれてしまい、食料の施しを受けている。おそらく、伊集院さんは、高橋さんに対して、負い目を感じていることだろう。彼が給食センターを辞めてしまったことで、口利きをした高橋さんの面目は丸つぶれである。そのように考えると、高橋さんを前にしてひたすら申し訳なさそうにしていた伊集院さんの態度にも、納得がいくというものだ。
 配食が終わると、テントの解体や調理器具の片づけがあった。地味で疲れる作業のためか、炊き出し活動の参加者はほとんど残っておらず、少ない人数で、後始末をする羽目になった。ようやく帰宅する頃には、すっかり日も落ちており、最後まで残っていた母と拓海を、高橋さんが車で送ってくれた。
 家に到着すると、「一応、挨拶をしておこうかな」と言って、高橋さんは二階の姉の部屋に向かった。「そんなにあの子に気を遣う必要なんてないわよ」と母は不機嫌そうに吐き捨てたが、高橋さんは笑顔をつくって、階段を上っていった。
 高橋さんが家を出て行ったあと、母と二人で遅い夕食をとった。帰宅途中で買ったコンビニ弁当は三種類あり、その中には、もちろん姉の分も含まれていたのだけれど、階下から拓海が呼んでも、姉は二階から下りてこなかった。少し気にはなったものの、「放っておきなさい」と母が言うので、それ以上の追求はできなかった。何だか気難しい顔をしている母を刺激するようなことは、避けたほうが無難だろうという判断が働いた。
 ほとんど会話のない夕食を終えると、拓海は風呂に入り、自分の部屋に向かった。一日のほとんどを外で過ごしていたせいか、疲れがたまっていた。特に足がだるい。だが、部屋の明かりを消してベッドに横になってみても、疲弊しているからこそなのか、かえって目が冴えてしまい、なかなか眠くならない。それでも、辛抱強くベッドの上でじっとしていると、自然とまぶたが下りてきた。。
 拓海がようやく、うとうとしてきたところで、ドアをノックする音が部屋の中に響いた。空耳かな、と思ってしまうくらい弱々しい音だったが、続いて、姉の声が聞こえたので、気のせいではなかったのだとわかった。
「ねえ……、拓海……、起きてる……? 中に……、入ってもいい……?」
 せっかく寝られそうだったのに、と腹が立った拓海は、無視することを決め、ずり下がっていた布団を首元まで上げた。返答がなければ、姉も諦めて自分の部屋に戻るだろうという算段だったが、しかし、彼女はおずおずとドアを開けて、中に入ってきた。
「拓海……? 本当に、もう、寝ちゃったの……?」
 ベッドの脇がきしみ、姉がそこに腰かけたことがわかった。拓海は眠ったふりを続けながらも、薄目を開けて、姉の様子をうかがった。部屋の中は暗いため、姉がどんな表情をしているのかはわからなかったが、いつものようにうつむき気味の姿勢であることは間違いない。
「炊き出しに参加できなくて、ごめんなさい……。わたしが嫌がったせいで、拓海が行くことになっちゃんだよね……。でもね……、今日は、一人できちんと、考えてみたかったの……。自分のこととか……、拓海のこととか……、お母さん、お父さん、それから、高橋さんのことも……」
 少しずつ、姉の輪郭が、暗闇の中でもはっきりとしてきた。両手を握り締めて、胸の前に当てている。おそらく、手の中には、あのカエルのキーホルダーがあるのだろう。
「普通の人だったら、簡単にできることが……、わたしには、とても難しくて……。誰かに話しかけてもらえるのは……、すごく嬉しいと感じるのに……、目を見て返事をすることさえ……、わたしには、できない……。こんな自分が、本当に嫌で……、自分のことを好きになれなくて……。だけど、高橋さんは……」
 姉はどうやら、こちらを向いたようだった。とっさに、拓海は目をつぶった。息遣いが聞こえるほど、姉の顔が近づいた。そうして姉は、あることを、拓海に対して行った。
「それでも……、どうしても受け入れられないことが、わたしにもあって……。だから……、もしかしたら、わたしは、高橋さんに……」
 再び、ベッドの脇がきしむ音がして、そこにかかっていた重みが消えた。入ってきたときと同じように、姉は静かに部屋から出て行った。
 一人になった部屋の中で、拓海は先ほどの姉の行為について考えた。
 それは、一般的な姉弟の間では、まず行われるはずのないことだった。
 姉は拓海の唇に、自分の唇を重ねてきたのである。


 ショッキングな出来事が起こったのは、翌週の金曜日だった。しばらくぶりに、小学校に登校した姉が、夜になっても帰ってこない。この日の夕食は、高橋さんを交えて、予約なしでは入れないという触れ込みの、イタリア料理のレストランに行くことになっていたのだけれど、彼が結城家にやってくる時間になっても、姉はまだ、帰宅していなかった。
 姉が携帯電話を持ち歩いていれば良かったのだが、小学校には、携帯電話を持ち込むことが禁じられていた。姉はそのルールを律儀に守っており、携帯電話は二階の部屋に置かれていたため、彼女との連絡が取れない。心配するというよりも、苛立ちを抑えられない感じでむやみに歩き回る母を高橋さんがなだめ、いよいよ、警察に相談すべきではないか、といった流れになったとき、ダイニングキッチンの固定電話が鳴った。まさにその警察からの連絡だった。
 駅前の交番に、高橋さんの車で、姉を迎えに行った。丸椅子に座ってうなだれていた姉は、ぞっとするほどの無表情だった。部屋の隅には、円柱型の石油ストーブがあり、その上に、銀色のやかんが置かれていた。
 交番で対応をしてくれた警官は、人の良さそうな丸顔の男性だった。姉が道端に悄然と座り込んでいるのを発見し、声をかけて保護したのだという。姉の身に何が起こったのかを、彼はもう聞き出していたが、それをどう伝えるべきなのか、迷っている様子だった。
結局、彼は極めて婉曲的な表現で話をしてくれたのだけれど、拓海の印象に残ったのは、「悪質ないたずら」というフレーズだった。何者かが、帰宅途中の姉に声をかけ、年端もいかない彼女に対して、不埒な振る舞いを働いた。簡単に言ってしまえば、どうやら、そういうことらしかった。
「これは、明らかな犯罪です。許されることではありません。当然、調査を開始することになりますので、娘さんからも、改めて、詳しい話を聞かなければなりません。ですが、それはまた、後日にしたほうがいいだろうと思っています……」
 警官はそのようなことを言って、説明を締めくくった。被害者である姉はもちろんだが、高橋さんと母、それから拓海の三人にとっても、衝撃は大きかった。家に到着するまでの間、重苦しい沈黙が、車中に満ちていた。
 高橋さんとの夕食は、当然、キャンセルになった。「また様子を見に来るよ」と言って、彼は結城家をあとにした。母は姉に、シャワーで体を徹底的に洗い流すことを命じた。姉はその言葉に素直に従った。パジャマに着替えた姉を見た瞬間、ダイニングキッチンのテーブルについていた母は、両手で顔を覆い、そのまま動かなくなってしまった。足元のおぼつかない姉の背中を支えてやりながら、拓海は二階に向かった。そうしないと、姉が階段を踏み外して転げ落ちてしまうのではないか、と不安だった。
 姉の部屋に彼女を導き、ベッドに寝かせた。布団をかけてやり、拓海は明かりを消そうとした。すると、「消さないで」とかすれた声で姉が言った。
「お願い……、明るいままに、しておいて……。暗いと、怖いから……」
「……今夜はもう、眠ったほうがいいと思うよ」
「わかってる。わかってるけど……」
 もう少しここにいてほしい、と姉がねだった。このような状態の姉を放っておくことがためらわれ、拓海は勉強机の椅子を引き、姉のほうを向いて、腰掛けた。
 姉が拓海の部屋を訪れることはしばしばあったけれど、その逆は久しぶりだった。勉強机があり、ベッドがあり、本棚があるところは、拓海の部屋と同じだ。違っているのは、勉強机に乗せられたランドセルの色と、本棚に詰め込まれた本の数だった。何の気なしに、そのうちの一冊を手に取り、ぱらぱらめくってみる。見たこともない漢字が頻出する上に、やたらと文字が小さかった。眺めているだけで、頭が痛くなってくる。どうやら小説らしいということだけはわかったが、自分には、到底、読み通せそうにない。しかし、姉は違うのだ。こんな小難しい本を読める姉が、どうして他人との簡単なコミュニケーションすらままらないのか、拓海は不思議だった。
「帰るときに、普段とは違う道を通ってみようと思ったの」と姉が切り出した。拓海は本を棚に戻して、彼女の言葉に耳を傾けた。学校から家までは、通学路を使えば歩いて二十分ほどの距離なのだが、真っ直ぐ戻らず、いくつかある脇道に入ってうろつくだけで、ちょっとした新鮮さを味わえる。
 塀の上を移動している猫を追いかけたり、道の端に溜まった落ち葉をすくって宙に舞わせたり、といったことをしながら、それでも着実に、我が家に近づくほうへ、姉は歩いたらしい。やがて、よく見知った細い道に出た。あとは、カラス除けのネットで囲われたゴミ捨て場の手前で左に折れ、小さな公園の横を通り過ぎれば、家に着く。本日の下校終了である。
 だが、その公園にいた男性に、「君が結城紗友里ちゃんだね?」と声をかけられたのだそうだ。自分の名前を呼ばれた姉は、反射的に、彼のほうを見た。公園の入口に近いところにあるベンチに座っていた彼は、「結城紗友里ちゃんで間違いないね?」と重ねて問いかけた。立ち止まってしまった以上、自分は結城紗友里であると認めたようなものだ。姉は彼を無視するわけにはいかなかった。
「お母さんが倒れて、病院に運ばれたって、その人は言ったの……。自分はお母さんの古い知り合いで、わたしを病院に連れてきてくれって、頼まれたんだって……。今、思えば……、明らかに怪しいんだけど……、でも、そのときのわたしは……、そういう冷静な判断が、できなくて……。その男の人も、何だか、必死な顔をしていたし……」
 男性に促されて、近くに停められていた車の後部座席に、姉は乗り込んだ。最初、確かに車は、この町の病院がある方角に向かっていたのだという。だが、入り組んだ道を、あちらに曲がり、こちらに曲がり、といったことを繰り返しているうちに、いつの間にか、神社や寺のある区域に入っていた。何だか様子がおかしいと、姉はこのときになって、ようやく気づいた。彼女の疑念を察知したみたいに、狭い道の両側が墓地になっているところで、車は停まった。人気がなく、ひっそりとした雰囲気の場所だった。
 運転席を下りた男性は、姉をシートの脇に追いやるようにして、無理やり後部座席に乗ってきた。身の危険を感じた姉は、当然、抵抗した。しかし、力の差は明らかで、組み伏せられてしまうと、もう、どうにもならなかった。
 具体的に、男性にどんなことをされたのかを、姉は決して拓海に語らなかった。姉にとっては、永遠にも思える不快な時間が続いた。「ひたすら気持ちが悪かった」とだけ、彼女は説明した。
 姉に不名誉を与えたその男性は、彼女を車から下ろしたとき、本当は自分もこんなことはしたくなかったのだ、とつぶやいたそうだ。でも命令だから仕方がないんだ、自分は断れなかったんだ、こうするしかなかったんだ、と。
 車が走り去ったあとも、姉は路上に座り込んだまま、立ち上がることができなかった。やがて日が沈み、街灯の明かりがついたが、パトロール中の例の丸顔の警官に声をかけられるまで、全く動けなかったらしい。長時間、寒空の下にいたこともあって、気づけばすっかり体が冷えており、歯がかちかち鳴っていた。
「交番でも聞かれたんだけど……、男の人の顔も……、車のナンバーも……、車の形も……、何だか……、全然、思い出せなくて……。交番の人は……、もし、このままわたしが……、何も思い出せなかったら……、犯人を突き止めることは難しいかもって……」
 先ほどの母みたいに、姉は両手で顔を覆った。体を丸めて、壁のほうを向く。ごめんなさい、と彼女は言った。こんな私でごめんなさい。迷惑をかけてしまって、ごめんなさい……。
 ――今の紗友里ちゃんに必要なのは、きっと、学校と家を往復する毎日じゃない。
 ――彼女は、自分の世界を、もっと広げる必要がある。
 ――いや、もちろん、学校の勉強も大切だけど、学校以外の場所でも、学べることは、たくさんあるはずだ。
 普段とは違う道を通って家に帰るというのは、おそらく、姉にとっては、それなりの冒険だったことだろう。しかし、その冒険の先に待っていたのが今の状況なのだとしたら、あんまりではないか。
 あふれる感情をせき止めるように、姉は声を殺して泣いていた。姉にかけるべき言葉が見つからず、拓海はそっと部屋を辞した。
「もう、死にたい……」
 ドアを閉めるときに、姉がそうつぶやくのが聞こえた。


 翌日の土曜日に、ある決意を持って、拓海は家を出た。まずは小学校に向かい、そこから、姉が昨日の帰宅時に通ったルートを歩いてみるつもりだった。もちろん、自分が犯人を見つけられるだなんて、思っていない。ただ、姉の行動をなぞることで、何かしらの気づきを得られるのではないか、と考えたのだ。一応、家を出るときに、母には一言、断りを入れた。しかし、どこに行くのかとも聞かれなかったし、いつ帰るのかとも聞かれなかった。ただ、いってらっしゃい、とだけ、母は上の空で言った。
 姉の心情を思うと、とにかく、じっとしていられなかった。ここ最近は、姉をやや疎ましく感じていたというのに、不思議なことだった。姉のことを遠ざけようとしていた自分を、恥じる気持ちさえ生じているのである。やはり、家族だから、なのかもしれない。うっとうしい存在だと跳ねのけつつも、へこたれそうになったときは助け合うべきだという思いが、心の奥底にはあるのだろう。
 小学校のグラウンドでは、この町のサッカークラブの子供たちが、試合形式の練習を行っていた。ホイッスルを首から下げたコーチの男性が、声を張り上げて、色々な指示を出している。拓海はその様子を横目で見つつ、校門の前まで向かった上で、来た道を引き返すことにした。
 小学校は大通りに面しているので、道幅は結構な広さなのだが、離れるにしたがって、徐々に狭くなっていく。オープンを控えた大型スーパーや、セルフのガソリンスタンドの前を歩いて、クリーニング店のある角を曲がると、アパートや一軒家が密集している区域に入る。この辺りは、ぎりぎり車が一台通れるくらいの道幅しかないし、そこら中に脇道が伸びている。上空から眺めたら、蜘蛛の巣のように、細い道が網目状に広がっていることだろう。
 スケボーの練習をしている子供たちや、立ち話をしている主婦らしい女性たちとすれ違った。布団を叩く音や、シャッターを開ける音が聞こえ、加えて、何だか車がバックするときの警告音がしているなと思ったら、道を曲がってすぐのところに、宅急便の配送車の背面がいきなりあらわれてびっくりした。
 そうこうしているうちに、昨日の姉と同じように、よく見知った細い道に出た。カラス除けのネットで囲われたゴミ捨て場の手前で左に折れ、小さな公園の前までやってくると、もう、自宅が見える。公園には、申し訳程度の砂場があり、申し訳程度のブランコがあり、申し訳程度の滑り台があった。遊んでいる子供のいない公園は、何となく、物寂しい印象を受ける。
 思いつくことは、何もなかった。となれば、次に行く場所は決まっている。姉が辱めを受けたという、神社や寺のある区域である。危険かもしれない、という考えが、一瞬、頭をよぎったけれど、すぐに振り払った。そこを避けるわけにはいかないだろう。いったん家に戻り、自転車にまたがって、拓海は再度、出発した。
 目的の区域は、踏切を越えて、個人商店の並んだ通りを抜けた先にあった。近くまでやってくると、拓海は自転車を下り、押して歩きながら、「狭い道の両側が墓地になっているところ」を探した。空に太陽は出ているものの、神社や寺の敷地内にある大きな木々が邪魔をして、光がほとんど届かない。そのためか、晴れているにもかかわらず、周囲の空気が湿っているように感じられた。時折、冷たい風が吹き抜けていき、細い道の端に重なっていた落ち葉が、くるくると円を描いた。
 墓地に挟まれた薄暗い道を、拓海は何度も行ったり来たりした。街灯を見つけるたびに、姉が座り込んでいたのはここではないか、と近寄って、犯人と関連のある何かが落ちていないかを確認した。しかし、めぼしいものを発見することはできず、だんだん、自分の無力さが嫌になってきた。一度座り込んでしまうと、もう二度と立ち上がれないような気がして、それでも闇雲に歩き回っていると、突然、幅の広い道に出た。
 すると、それまでは聞こえていなかった軽やかな音楽が、拓海の耳に飛び込んできた。誘われるようにして、道なりに、音楽がするほうへ進んでいく。拓海と同じ方角へ向かっている人たちも多く、皆、手にチラシを持っていた。どうやら、この町の中学校で、文化祭が開催されているらしい。拓海の通う小学校は、踏切の南側にあるのだが、この町の中学校は、踏切の北側にある。いずれは拓海も、踏切を越えて、その中学校に通うことになるはずだった。
 駐輪場に自転車を停めて、校門のほうに回ると、文化祭実行委員の腕章をつけた男子生徒に、パンフレットを渡された。表紙だけがカラー紙で、他のページは藁半紙というつくりだったが、それなりに厚みがある。パンフレットには、校内のどこでどんなことが行われているのかが記されていた。
 広いグラウンドを横切って、昇降口から、校舎の中に入った。折り紙の輪が飾られた廊下を歩き、目に留まった教室の中を、順にのぞいてみる。おそらく、食中毒の可能性を考慮してのことなのだろう、飲食店の類は一切なかったが、プラネタリウムやお化け屋敷、変わり種でいえばドミノ倒しなど、来場者を楽しませるためのアイディアが見事に形にされており、いずれも盛況だった。
 階段を上り、今度は二階の廊下を歩く。花形の展示や出し物は一階に集中しているせいか、さほど賑わっていない。拓海はもう一度、パンフレットを開いた。用があるのは、廊下を奥に進んだところにある、二年一組の教室だった。そこでは、この町の歴史に関する資料が、公開されているらしい。パンフレットによれば、文化祭のために、図書館から特別に貸し出しをしてもらったそうである。図書館には、利用者が借りられる本と、館内での閲覧のみ許されている本の二種類がある。拓海はそのことを、よく知っていた。
 二年一組の教室は、閑散としたものだった。教室の真ん中に設置された細長い台に、ハードカバーの本がいくつか並べられているだけだ。自由に手に取ってかまわないようだが、訪れた人の対応をするためだろう、教室の隅に机と椅子が寄せられていて、そこに見覚えのある女子生徒がいた。
 彼女の学年とクラスは、以前に聞いたことがあった。なぜかはわからないが、教室に行きさえすれば、彼女に会えるはずだ、と拓海は確信していた。そして、実際、その通りになった。そうか、自分は彼女に会いたかったのか、と拓海は思った。彼女に、話を聞いてもらいたかったのだな、と。
 机に近づき、彼女の前に立つ。彼女は文庫本に目を落としていたが、拓海の存在に気づいて、顔を上げた。一瞬、驚いたような表情をしたものの、すぐに微笑んで、こう言った。
「こんにちは、拓海君。馬鹿な人たちが馬鹿みたいに浮かれるだけのくだらない馬鹿騒ぎにようこそ。こんなやる気のない展示をわざわざ見に来る人なんて、あなたくらいしかいないわよ」
 

 話をしたいことがある、と伝えたあとの彼女の行動は、迅速だった。「だったら、場所を変えましょうか」と携帯電話を取り出して、誰かを呼び出し、具合が悪いから早退する、クラス展示の受付係を代わってほしい、と告げた。電話の相手は何かを言っている様子だったが、「これは決定事項だから、どうぞよろしくね」と彼女は強引に会話を打ち切った。
「あの、いいんですか? そんな、一方的に……」
「問題ないわ。電話の相手は、杉山さんというのだけれど、私以外に、学校で話をしてくれる子がいないのよ。クラスでも、部活動でも、孤立していてね。可哀想でしょう? だから、あの子に私のお願いを拒否することはできないの。だって、私に見放されたら、本当に、あの子は一人ぼっちになってしまうのだから……」
 何でもないことのように、彼女はそう説明した。全くの想像だけれど、その杉山さんとやらを窮地に追い込んだのは、彼女なのではないか、と拓海は思った。一見したところでは、おとなしく控えめな印象の彼女だが、その内面には、恐ろしいほどの冷徹さと残酷さを隠し持っている。彼女のそういったところに、拓海は魅了されたのである。
 会ってから十分もしないうちに、拓海は自転車を押しながら、彼女と一緒に、学校の外を歩いていた。「お昼はもう食べた?」と彼女に聞かれたのだけれど、そういえば、今日は朝から何も食べていなかった。拓海が首を振ると、「なら、それなりの料理が出てくるところがいいわね」と彼女はうなずいた。
「あの、でも、ぼく、お金を持ってきていなくて……」
「大丈夫、私は持っているから」
 学生鞄を片手に隣を歩く彼女は、拓海よりも背が高い。そのため、彼女の横顔を見ようとすると、自然と、顎を上げる形になる。ふいに彼女が振り向いて、「すごいわね、拓海君」と感心したように言った。
「何がです?」
「その自転車」
「え? 普通の自転車ですよ?」
「そうじゃないわ。拓海君、自転車に乗れるんでしょう?」
「それ、すごいですか?」
「自転車という名称に、私は大いに疑問を抱いているの。自ら転ぶ車と書いて、自転車。とても危険な乗り物だわ」
 もしかして、彼女は自転車に乗れないのだろうか。そうなのだとしたら、意外な弱点である。突っ込んで聞いてみようか、それともやめておこうかと迷っているうちに、拓海と彼女は踏切を越えた。自分たちが向かっているのは、どうやら、この町の図書館らしい。確かに、図書館の敷地内には、カフェが併設されている。
 お昼時を少し過ぎていたとはいえ、週末のカフェは、それなりに混雑していた。しかし、受付名簿に名前を書いて数分ほどすると、彼女と二人で、窓際のカウンター席に並んで座ることができた。すぐに店員がやってきて、荷物を入れておくための籠を、脚の長い椅子の下に滑り込ませた。彼女は籠の中に学生鞄を入れると、メニューを手に取って、拓海の前で広げた。「私は、紅茶とホットケーキにするけれど、拓海君はどうする?」と聞かれたので、「じゃあ、ぼくもそれにします」と拓海は答えた。
 注文した紅茶とホットケーキは、すぐに出てきた。胸の前で手を合わせると、彼女は紅茶に砂糖を入れ、ホットケーキにハチミツをかけた。どうやら、拓海が自分から話し始めるのを待っているようだった。
「もしかしたら、あなたを困らせてしまうだけかもしれません。でも、あなたにしか、こんなことは話せないんです……」
 意を決して、事の顛末を、拓海は彼女に伝えた。時折うなずきながら、彼女は拓海の話を聞いていた。彼女の冷静な反応には、拓海の昂ぶった感情を抑える効果があった。思っていたよりもずっと、拓海は落ち着いて話をすることができた。
「とても痛ましいことだわ」
 拓海が話を終えると、彼女はそんな感想を漏らした。紅茶を一口飲み、短く息を吐く。カフェは全面ガラス張りなので、外の様子がよく見える。駐車場の向こうから、コート姿の女性と、ぱんぱんに厚着をした男の子が歩いてきた。おそらく親子なのだろう、二人は手をつないでいる。身長差があるため、コートの女性は、少し斜めに傾いた姿勢だった。
 話を聞いてもらったおかげなのか、ようやく、目の前のホットケーキと向き合う余裕が生まれた。拓海はホットケーキにハチミツをかけて、小さく切り分け、口に運んだ。
「あなたのお姉さんは、ショックのあまり、一時的な記憶喪失に陥っているようね。でも、それが解消されるのも、時間の問題でしょう。しばらくしたら、自分の身に起こったことを、順序立てて、客観的に捉えられるようになるわ。犯人の顔も、乗っていた車の形もナンバーも、きっと、思い出せるはずよ」
「そうだといいんですが……」
「それでは、納得がいかない?」
「え?」
「犯人がつかまったというだけでは、満足できない? 制裁措置を他人の手にゆだねるのでは、あなたの気持ちが収まらない?」
 ナイフとフォークを置き、拓海は彼女の顔を見た。彼女は口を三日月の形にして笑っていた。唇の隙間から、わずかに白い歯がのぞいている。邪悪な微笑みだった。
「ほら、口を開けなさい、拓海君」
 自分の皿に乗っていたホットケーキの一切れをフォークで突き刺すと、彼女はそれを拓海のほうに向けた。言われるがままに、拓海は顔を上げて、口を開けた。フォークの先を軽く嚙むようにして、ホットケーキを受け入れる。もちろん、そのフォークは、先ほどまで彼女が使用していたものである。
「美味しい?」
 邪悪な微笑みを浮かべたまま、彼女はそう尋ねた。ホットケーキにかかっていたハチミツの甘さが、口いっぱいに広がり、その甘さは、全身に行きわたっていくような気がした。何だか、とても危ういものに絡め取られそうになっている感覚があり、拓海は思わず身震いした。


 支払いを済ませて外に出ると、時折吹く風が、強さを増していた。彼女は「さすがにちょっと寒いわね」とつぶやき、学生鞄からマフラーを取り出した。灰色と黒のツートンカラーである。「拓海君、顔を上げてちょうだい」と促されたので、どういうことだろうと思っていると、彼女は拓海の首に、そのマフラーを巻いた。腰をかがめた彼女と顔が接近し、拓海は緊張から息を止めた。
 それから、拓海と彼女は、橋の下の例の場所に向かうことになった。どちらがそうしようと提案したわけではないのだが、自然とそういう流れになったのである。マフラーの内側に顔をうずめて、拓海は彼女と並んで歩いた。「苦しくないの?」と可笑しそうに口元を緩める彼女からは、先ほどの剣呑な雰囲気がすっかり消えており、そのギャップに、拓海は翻弄された。意識して使い分けているのだとしたら、もう、降参するしかないなと思った。
 コンクリート製の階段の手前に、拓海は自転車を停めた。橋の下の倉庫を二人でのぞいてみたが、あの男性はいなかった。「珍しいわね」と彼女は言った。「今まで、こんなことは一度もなかったのに」と。確かに、その通りだった。今まで、彼女とともにこの場所に足を運んだときは、必ずここに、あの男性がいたのである。
「彼のために、餌を持ってこなかったのが、いけなかったのかしらね?」
「あの、そういえば、少し前のことなんですが……」
 先日の「ほほえみ」による炊き出しの際に、例の男性――「伊集院さん」と呼ばれていた――が来ていたことを、拓海は思い出した。昔、電化製品を扱う会社を経営していたらしいといった情報も含めて、そのときのことを、拓海は彼女に話した。「なるほどね」と彼女はうなずいた。
「つまり、彼には、私以外にも、忠義を尽くすべき人間がいる、ということなのね。まあ、薄々、そうじゃないかとは思っていたけれど……」
 倉庫の中にあった携帯ラジオを手に取ると、彼女はそれを地面に落とし、右足で踏みつけた。ポケットサイズのラジオに亀裂が走り、中に入っていた単三電池が勢いよく飛び出した。驚く拓海をよそに、彼女は何度もラジオを踏みつける動作を繰り返し、とうとうそれを粉々にした。
「……ペットのしつけは、飼い主が負うべき当然の義務よね」
 倉庫から少し離れたところに、橋を支える太いコンクリートの柱があったのだが、彼女はそこに寄りかかって、宙を見つめた。真剣な表情で、何やら考え事をしている様子である。どうやら、邪魔をしないほうが良さそうだ。
 何とはなしに、拓海は倉庫の中を物色した。倉庫の左側に壊れた電化製品が寄せられ、右側には雑誌や文庫本が集められている。以前は、雑誌や文庫本の類は、倉庫の奥に置かれていたと記憶しているが、レイアウトが変更されたのは、数が増えたからだろうか。高く平積みされたそれらの山は、ちょっとぶつかっただけで、あっさり崩れた。
 すると、拓海の足元に、あるものが転がってきた。書物の山の上に置かれていたのか、あるいは、ページとページの間に挟まっていたのか。とにかく、見覚えのあったそれを、拓海は拾い上げた。そして、その拾い上げたものが、なぜここにあるのかということを考えた。
 真っ先に思いついた可能性は、頭に血が上るようなストーリーだった。しかし、それはあくまで可能性である。それしかあり得ないように思えたとしても、まだ、推測でしかない。深呼吸をして、冷静に、冷静に、と自分に言い聞かせていると、ふいに、彼女の声が耳に届いた。自分を呼んでいるのかと思ったが、それにしては、声が小さい。何だか、誰かと言葉を交わしているような感じである。
 倉庫の中で見つけたものを握り締めて、拓海は外に出た。学生鞄を足元に置いて腕組みをした彼女と、地面に膝をついている男性の姿が、同時に目に入った。男性はこちらに背中を向けていたが、体つきからして、例の「伊集院さん」であることは明らかだった。冷静に、冷静に、と重ねて自分を諭しつつ、二人のいるところへ近づく。彼女はともかく、「伊集院さん」が拓海に気づいた様子はなかった。
「……勘違いしないでちょうだい。どこに行っていたのかと、私は尋ねているのよ。別に、謝罪を要求しているわけではないわ」
 彼女は男性に対してそう言ったが、彼は「すいません、すいません」と繰り返すばかりだった。地面にぶつかるのではないか、というくらいの勢いで、何度も頭を下げている。どうしようもないわね、と彼女は首を振った。
「……結城紗友里という名前に、聞き覚えはありませんか」
 男性の後ろに立つと、自分でもぞっとしてしまうくらい、冷淡な声が出た。彼は土下座をするのをやめて、拓海のほうに顔を向けた。
「母が倒れて病院に運ばれたと言ったのは、本当ですか。自分もこんなことはしたくなかったのだと言ったのは、本当ですか。命令だから断れなかったと言ったのは、本当ですか……」
 視線をさまよわせる男性に向かって、拓海は問いかけた。拓海の手の中には、カエルのキーホルダーがあった。くすんだ緑色のカエルの頭に、銀色の輪っかが付属している。
 昨夜、姉の部屋を訪れたとき、勉強机の上に、彼女のランドセルが置かれていた。姉は学校に行くとき、カエルのキーホルダーを、ランドセルの肩ベルトに括り付けている。だが、彼女のキーホルダーは、果たして、その場所にあっただろうか。
 あったかもしれないし、なかったかもしれない。少なくとも、記憶にはない。ゆえに、自分が手にしているこのキーホルダーが、姉のものであると決まったわけではない。犯人に襲われたとき、姉は抵抗したようだけれど、その際に車内に落ちたキーホルダーが今ここにあるのだと、決めつけることはできない。
 しかし。
 彼は、笑ったのである。
 まるで、こちらの機嫌を取るみたいに。
 自分にとっても不本意だったのだと、こびへつらうように。
 へらへらと。
 気がつくと、拓海はその顔を蹴り飛ばしていた。
 彼は横向きに倒れ、頬を押さえた。
 丸めた体を、細かく震わせて。
 しかしそれでも、笑うのをやめない。
 口元から見えている歯が、異様に白かった。
 彼が反撃してくる様子はなかった。
 追い打ちをかけようと思えば、かけられただろう。
 だが、その先が続かなかった。
 怒りと悲しみに打ち震えるばかりで、それ以上のことは、拓海にはできなかった。
「……あなたのお姉さんに屈辱を与えたのは、そこに転がっている無様な肉の塊だった。どうやら、そういうことみたいね、拓海君」
 彼女はそう言うと、学生鞄の中を探り、あるものを取り出した。
 倒れたままの男性を踏みつけて、無理やり、うつ伏せの体勢にする。
 彼は無抵抗で、彼女にされるがままになっていた。
「実験は、打ち切りということにしましょう。本来であれば、こんなところで使うはずではなかったのだけれど……、仕方がないわ。拓海君には、ハンカチを拾ってもらったお礼を、まだ、していなかったものね」
 彼女は、逆手で握り締めたそれ――刃渡り十五センチほどのナイフである――を、男性の背中に向けて、勢いよく振り下ろした。
 ぐげっ、という呻き声がしたかと思うと。
 力が抜けたみたいに、男性の体が弛緩した。
 彼女の動作には、一切、ためらいがなかった。
 何度もシミュレーションを行っていたかのような鮮やかさで、彼女は男性を、あっさり亡き者にしたのである。
 ゆっくりと、彼女は男性からナイフを引き抜いた。
 傷口からあふれ出した血が、男性の衣服に染みをつくっていく。
 ナイフについた血を、彼女はタオルでぬぐった。
 おそらくナイフをくるんでいたものなのだろう、それもまた、学生鞄の中から取り出されたものだった。
 なぜ、彼女は学生鞄の中に、ナイフを隠し持っていたのだろう。
 なぜ、何の躊躇もなく、それを人間に突き立てることができるのだろう。
 そして、そのような恐ろしいことをやってのけてしまう彼女に、なぜ、自分はこんなにも、惹かれてしまうのだろう。
 なぜ――。
 一体、なぜ――。
 よく晴れた空の下で、強い風が吹いた。
 ざわざわと音を立てて、野草が揺れた。
 色々な「なぜ」が頭の中を駆け巡ったが、しかし、その答えは明確な言葉では表せなかった。
「……拓海君、しっかりしなさい。これで終わりじゃないのよ。そもそも、この肉の塊に、あなたのお姉さんを襲うよう命じたのは、誰だったのかしら? 賢明なあなたであれば、容易に仮説を立てられるはず。あとは、情報を集めて、裏付けを取るだけよ。そうでしょう?」
 彼女は拓海を真正面から見据え、ナイフの先を拓海に向ける。
 彼女の目には光がなく、そこには、小さな二つの穴が開いているようだった。
 対照的に、太陽の光を受けて、血の付いたナイフの側面が、白く輝いた。 
 自分の為すべきことを理解した拓海は、そのナイフを、彼女から譲り受けた。


 家に戻ると、ダイニングキッチンのほうから、母の声が聞こえた。どうやら、誰かと電話で話をしているようである。玄関のドアを静かに閉めて、拓海は廊下を進んだ。こっそりダイニングキッチンの様子をうかがってみたが、そこにいたのは、やはり母一人だった。窓のほうを向いて、椅子に腰掛けている。姉の姿はない。おそらく、二階の自分の部屋に引っ込んでいるのだろう。
 拓海が帰ってきたことに、母は気づいていなかった。固定電話の子機を耳に当て、声のボリュームは抑えているものの、母が感情的になっているのは明らかだった。
「……あなた、私が悪いって言うの? そんなはずないわ。ええ、紗友里には、間違いなく伝えたわよ。私たちが、これからも一緒に暮らしていくためには、あなたが――紗友里が――その身をもって、奉仕をする必要があるんだって。それこそが、出来損ないのあなたが私たちのために役に立てる、唯一の方法なんだって。だから、いつそういうことがあってもいいように、きちんと準備をしておきなさいってね。……だったら、どうして拒まれたのかって? 知らないわよ、そんなこと。とにかく、私はあの子に、きちんと説明したんだから、そのあとのことは、あなたと紗友里の問題でしょう? ちょっと、何? どうして私が怒鳴られなくちゃいけないわけ? 納得がいかないわ……」
 彼女から受け取ったナイフを手に持ち、母に近づく。
 それをくるんでいたタオルは、テーブルの上に置いた。
 炊き出しがあった日の夜のことを、拓海は思い出す。
 眠ったふりをしている拓海に対して、姉は口づけを行ったのだ。
 そのとき姉は、こんなことを言っていたはずである。
 ――普通の人だったら、簡単にできることが……、わたしには、とても難しくて……。
 ――こんな自分が、本当に嫌で……、自分のことを好きになれなくて……。
 ――それでも……、どうしても受け入れられないことが、わたしにもあって……。
 あの告白には、どのような意味があったのか?
 姉のいう「どうしても受け入れられないこと」とは、何だったのか?
 ずっと気がかりだったが、今、その答えが、わかったように思う。
 その件について、母がどのような関わり方をしていたのかも、だ。
「……電話の相手は、高橋さんだよね?」
 振り返った母は、拓海の姿を認めた。どうしてあなたがここにいるのか、といった驚きの表情である。しかも、拓海はその手に、ナイフを握り締めているのだ。これ以上は無理だろうと思えるくらいに、母は大きく目を見開いた。
 拓海は椅子を引き倒した。
 悲鳴を上げて、母が倒れる。
 母の手から子機が落ちて、床に転がった。
 すかさず、母の体を蹴って、腹這いにさせる。
 自分の身に何が起きているのか、母はよくわかっていないのだろう。
 母の体を床に押さえつけることは、簡単だった。
 あとは、背中にナイフを振り下ろしさえすれば良かった。
 彼女が手本を見せてくれたように、である。
 だが、母はなかなか死ななかった。
 髪の毛をつかんで引っ張ると、苦しそうに、まだ呼吸をしている。
 拓海はさらにナイフを押し込んだ。
 ナイフの柄の部分にかかとを乗せ、自分の体重をかける。
 母はようやく、おとなしくなった。
「……もしもし? 聞こえますか?」
 子機を拾い上げて、電話の向こうの相手に呼びかける。返ってきたのは、やはり高橋さんの声だった。
「拓海君か? どうしたんだ? 何だか、ものすごい音がしたようだけど……」
「知りたいのだったら、ぜひ、こちらにお越しください。高橋さんのために、現場は、そのままにしておきますから」
「え、何だって? 現場?」
「伊集院さんに車を貸したのは、あなたですね? 彼はあなたに対して、負い目を感じている。従わせることは、難しくなかったはずです」
「……は?」
「手に入らないのだったら、いっそ、汚して貶めて、屈辱を与えてしまおうと、そう考えたわけですか?」
「……何の話をしているんだ?」
「最初は、本当に、母に魅力を感じたのかもしれません。だから、母に近づいた。でも、結城家との交流を続けていく中で、あなたの中に、別の目的が生まれた。そうして、ある計画を練った。まだ子供といって差し支えない年齢の少女を自分のものにする、という計画です。母があなたに惹かれているのを利用して、あなたは母にまで、その企みに協力させた。全く、異常なことです」
「拓海君、何を馬鹿な……」
「後ろ暗いところなんか自分にはない、と主張するのであれば、今、ぼくが口にしたことは、聞き流していただいて結構です。ただ、警察が同様に聞き流してくれるかどうかは、ぼくにはわかりませんけれど」
 電話の向こうから、こちらの出方をうかがうような気配が伝わってくる。挑戦的な物言いをしたのは、拓海の作戦だった。高橋さんの不安を煽って、会って話をしなければ、という気にさせるのである。拓海があえて言葉を続けずにいると、「すぐに行く」と短く言って、高橋さんは電話を切った。
 高橋さんが家に来るまで、三十分はかかるだろう。母と同様に、彼も始末する必要があるが、その前に、姉に声をかけておこうと考えた。
 二階に上がり、姉の部屋のドアをノックする。返事がないので、ドアを開けてみたが、姉はいなかった。試しに自分の部屋ものぞいてみたものの、そちらにもいない。どこかに出かけているのだろうか。しかし、昨日の姉の様子からして、外出をするような気分になったとは、到底思えない。おそらく、家の中にいるはずだ。
 それにしてもどこに、と考えたときに、悲しい予感がした。
 階段を下り、浴室に向かう。
 思った通り、明かりがついている。
 今度はノックせず、ドアを押し開いた。
 浴槽の中に、姉がいた。
 浴槽の端には、カッターナイフが置かれている。
 それで、手首を切ったのだろう。
 浴槽には、半分ほど水が溜められていたが、姉の手首から流れ出した血で、真っ赤に染まっていた。
 ――もう、死にたい……。
 姉の声が、拓海の頭の中に蘇る。
 カッターナイフを手に取り、姉に顔を近づけた。
 まぶたを閉じて、まるで眠っているような感じである。
 声をかければ、今すぐにでも、目を覚ましそうな。
 今度は、拓海のほうから、唇を重ねた。
 姉の唇は、あの日の夜と同じように、冷たかった。
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