第1話

文字数 3,000文字

 NHK-BSの『ワイルドライフ』が好きである。
 最近の動物番組はアフレコや擬音を入れて、動物の生態を面白く見せようとしていて、その視聴者に媚びた浅ましさが、どうも心中穏やかでない。野生動物は、ペットとして買われている愛玩動物とは別次元の、過酷な自然環境で生き抜いき、一歩進む度に、ピコンピコンと足音が鳴ることもないし、獲物に逃げられたときに、「お前が愚図だから逃がしたんだ」と仲間を罵ることもない。被食者は命の危険を晒しながら日々の糧を得て、捕食者は何度も狩りを試みては苦渋を味わっているのである。野生動物はファンタジーのなかで生きているわけではない。
 そういう理由から、『ワイルドライフ』が描き出す、野生動物の世界が、現実に肉薄している点で、自分の感性にぴったりと合うのである。すぐ目の前で肉食獣の狩りが行われているような臨場感。巣のなかにまでカメラを入れて、生まれたばかりの猛禽類の雛を接写。鯨がイワシの群れを追い詰めると、大きな口を開けて真っすぐにジャンプする雄姿。どうやって撮影しているのかと、素人では想像のつかないカメラワークに、思わず溜め息が出てしまう。ついつい晩酌の量も多くなる。今までの動物番組とは格がちがうのである。さて繰り広げられる野生動物たちのドラマを見ていて、その行動の不可解さに、深く考えさせられる場面があった。それが今回のテーマである。

 瞠目したのは、バッファローがライオンに襲われる場面と、シマウマがワニに沼のなかへと引きずり込まれる場面。前者では何頭かライオンがバファローの尻に爪を立てて喉仏に食らいつき、まさに息の根を止めようとしている瞬間、仲間のバファローが助けに来て、ライオンの腹に角を指して高く放り投げていく。バファローが仲間意識の強さからライオンに突進していく姿は、その友愛の深さに感動すら覚えてしまうほど。しかし少し俯瞰で見ると、何か気に障ることがあって、その腹立たしさのあまり、ライオンに一撃を加えたと見えなくもない。いつもライオンの食事になっている我ら草食動物だが、いつまでも食べられる側とは思うなよ、あまり図に乗っていると痛い目に合うぞと、一発奮起したような凄まじい怒りなのである。
ナレーションでは、「ライオンがバッファローを捕まえるのは、かなり危険な賭けです。気性の荒いバッファローは、仲間意識が高く、逆にライオンを襲って瀕死の重傷を与えることさえあります」とNHKらしく感情を抑えて、冷静に伝える。バッファローの仲間意識は、ライオン相手でも怯まない強靭なものなのかと、見ている私も思わず頷いてしまうのだ。
 
 さて一方のワニに襲われるシマウマとなると、仲間意識という感情がまったくないのである。水を求めて飲み場に到着したシマウマは、沼地を囲むようにして水を飲むことに集中している。その沼地にはワニが潜んでいて、獲物を捕らえようと、様子を伺っているのも気がつかずに。その虚を突いて、ワニがシマウマを襲撃し、逃げ遅れた一頭が足を喰いつかれて、沼の中心へとずるずると引っ張られていく。難を逃れたシマウマたちは、慌ててワニの襲撃が及ばない丘へと走り去るのだが、一分もしないうちに、また水飲み場へと帰ってくる。餌食となったシマウマが、哀れな声をあげて救いをもとめているのを横目にして。あいつには悪いけれど、ワニに捕まったのは俺じゃなくてよかったよと、ほっとした安堵さえ浮かべている。
 肉食動物の餌食になるのは自然の摂理で、喰われてしまったものは、ただ運が悪いだけというのが、シマウマの流儀みたいである。バッファローのように反撃しようとは、露の先ほど思わない。ナレーションは「野生の世界では、水をひと口飲むのも、危険と隣り合わせです。いつまたワニが襲ってくるかもしれません」とバッファローの時と同様に、沈着冷静に語る。

 このふたつの場面を目の当たりにして、バッファローは情が篤くて、シマウマは薄情だという短絡的な結論を導いてはいけない。バッファローがライオンに逆襲ができたのは、自身の身体がライオンよりも大きく、しかも致命傷を与えることが可能な立派な角をもっている。それが有史以来、脈々と続くライオンとの関係から、こちらから反撃をすれば仲間が助かる見込みが、かなり高いと経験値から知っている。そのような判断から行動に出ているだけではなかろうか。一度もその経験がなければ、早々に救いを求める仲間を置き去りにして逃げだしていたはずである。
一方のシマウマは、ワニに襲われた仲間を救おうとしても、成功した経験が無に等しく、助けに行っても道連れになったことしかないから、瞬時にして安全な場所へと逃げるのではないのか。そして仲間が贖罪の羊と化した時間だけは、ゆっくりと水が飲めるということも、経験から知っている。だから薄情に見えても、心のなかでは仲間に対して深く詫びているかもしれないのである。
 ある意味、自然界で生き抜いていくということは、確率の問題である。犠牲になる確率が高い生き物ほど、数多くの卵や子供を産み、大人になるまでの個体を残そうとする。反面、肉食獣や捕食者となる食物連鎖の頂点に近い生物ほど、少産でも大人になる個体を十分に残せる。バッファローとシマウマのどちらが多く子どもを産むのか知らないが、一生のうちに産む数はシマウマのほうが多いのではなかろうか。

 さて我ら人間は、自然の法則からは、少々アウトローな存在で、他の生物に捕食されることは稀だし、発情期が一年中あるものの、至って少産である。そんな我々に自然界のような生死を決する場面に直面したとする。
 たとえば戦場で負傷した仲間を見捨てて、自分だけは退却するのか。もっと身近な場面としては、電車で女性が多数の男性に囲まれて嫌がらせを受けているのを目の当たりにして、あなたは勇気をもって立ち向かうことができるか。台風下で濁流に呑まれて流されていく見ず知らずの人を救済しようと、氾濫した河に飛び込むことができるか。
 哀しいことに人間は、バッファローであったり、時にはシマウマであったりと、その状況を判断したうえで行動するはずである。そこには本能的な行動ではなく、思慮深い計算したうえでの行動。そう考えると、人間はとはいったい何なのかと考えずにはいられない。野生動物のように経験を受け継いで本能的に行動はできず、あくまでも個人的な経験からしか、行動するか否かを導き出せない。その行動に至るまでの緻密な判断は、ときには打算的であったり、ヒロイズムであったり、向こう見ずであったりと、一切の法則性はないだろうし、すべては個の判断にゆだねられている。
 結局のところ、人間は進化していないのではないか。社会を形成するうえで多様なルールを決めていくが、実際のところは個人的な生き物で、悪にでも善にでもなってしまう個体。無垢のまま生まれた存在と言えば聞こえはいいもの、社会に属さなければ生きていくことができない、不自由な生き方を強いられているとも言えるのかもしれない。つまり人間は社会性なしでは生きられないのである。

 ワイルドライフ。自然の摂理から遠ざかってしまった人間が好んで観るというのも、矛盾めいた黒い笑いを感じるが、人間という野生を忘れた動物に、本能というものが存在するのかと、深く考えさせられる番組である。

(了)
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