第1話

文字数 1,920文字

前方から強烈な光が近づいてくる。視界を奪われた俺が目を細め、合わせたピントの先に彼女はいた。バターイエローのシフォンシャツに合わせるは濃紺デニムのバギーパンツ。厚いコートを脱ぎ捨て、すっかり春仕様となって待ち合わせの駅前に現れた彼女は、羽化して羽ばたく蝶さながらだった。

艶めくネイルはいちごシロップのグラデーション、見て見てとばかりに俺の前でやたらと手をひらひらとさせる。その度に、チェリーブロッサムのフレグランスに鼻先をくすぐられる俺は逐一いいね、と反応する。嬉しそうに笑顔を見せる彼女は今日も、完璧に彼女だった。

一緒に美術館に行き、現代美術の巡回展をみる。美術になど興味がないが、彼女がこういうのを好きなことくらい、名探偵俺様はリサーチ済みだ。腰に手を当てたり首をかしげたりして、いちいち作品の前でわかったような風を装う彼女は見ているだけで飽きなかった。
彼女がトイレに行っている隙に、ミュージアムショップで今観てきた作品たちの絵はがきを買う。合流して表に出る。彼女とあてもなくブラブラするだけで、俺はこの世の春を知る。

しばらくして俺は異変に気づく。彼女の足取りが重い。どうやら腹が減ってきたようだ。俺様ともなると、機嫌が悪くなる前の、機嫌が悪くなっていくぞオーラの時点で彼女の機嫌を察知できる。
「昼メシどうする?」
飲食店の立ち並ぶ地下街の方へ歩を進めながら問うてみる。んーと口を真一文字にして彼女は考え込む。自称グルメな俺であろうと、小洒落たカフェやイキったレストランなどは専門外だった。蕎麦粉のクレープやサラダやグラタンやラタトゥイユなんかがごちゃつくワンプレートなどを望まれてはお手上げだ。俺は彼女の視線がどこへ向いているのかを盗み見る。ある店先で、ちょっと暖簾の奥を覗き込むようにしたのを見逃さない。
「牛丼か、ハンバーガーか、……ラーメン、とかは?」
ラーメン、のところで彼女の顔がぱあっと輝く。やはり、俺の見立ては間違っていない。

ラーメン屋に入ると彼女は慣れない様子でキョロキョロとするから、俺は彼女の代わりに食券を買ってやる。麺の硬さやニンニクの量などを説明したのち、まとめて店員に告げる。餃子用の小皿の中にタレとラー油を配合し、水をくみ、割り箸を割り、彼女の前にセッティングしたところでラーメンが運ばれてくる。
「いいにおーい。いただきます!」
当然初めからそこに準備されていたかのように何の疑いもなく、彼女は俺の置いてやった箸でラーメンをすすり、タレをつけて餃子を食べ、コップの水をごくりと飲んだ。満足そうに、鼻の穴をふくらます。俺が小さな妖精となって、全てお膳立てしてやったことなどには一ミリも気づかず、至福の時を満喫している。なんて愚かしくも可愛いのだ! 俺は溢れるよだれをスープと共に流し込む。

食べ終えた彼女に俺は美術館で買った絵はがきをそっと差し出す。
「え! 嬉しい!」
彼女はそれでなくとも大きな瞳をさらに大きくして絶句する。
「どうしてわかったの? これ、私が欲しかったやつ!」
おいおい見くびられては困る、俺を誰だと思ってるんだ、そこいらの秘密警察も真っ青の、彼女専用ストーカ……じゃねえ、探偵だぜ。
ミュージアムショップの売り場の前で立ち止まり、彼女はじいっと絵はがきを凝視していた。さりげなさを装ってはいたが、俺には全部お見通しだった。
一枚一枚絵はがきをめくっては、ため息をついたりにまにまと笑ったりしている。それからひとまとめにしたそれらを胸の前に抱きしめるようにして彼女は引き寄せた。
「ありがとう! 部屋に飾るね」
こっちがありがとうだよ、彼女の笑顔に飛び出そうになった台詞を、すんでのところで俺は飲み込む。

店を出てまたあてもなくブラブラする。彼女は目をしぱしぱとさせてあくびをする。眠そうだ。満腹になると眠くなるだなど、まるで子どもではないか。俺は公園に行って、空いているベンチを目ざとく見つけたなら彼女を座らせる。彼女の隣に腰を下ろし、辺りを見渡す。足元には菜の花の絨毯、雪柳の壁の上では桜が満開だ。
風が彼女の髪をさらっていく。腹を突き出し、無防備に春に絡め取られていく彼女は俺のたわいもない話に頷き、笑い、「楽しいね」と言った。
彼女の体温が伝わってくる。熱を帯びて、茹だっていく耳たぶや頬は、本物の子どものようにさくら色に染まる。

大人になんてならなくていい、ただ、ずっと俺の隣で笑っているならそれでいい。
肩の力をすっかり抜いて、彼女が俺にもたれかかる。だらりと腕を放り出し、手のひらを天に向けてゆうらゆらと揺らしている。まるでその上で何かを転がしているかのようなその動きを、俺は満たされた気持ちで見つめている。
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