岩斬り侍
文字数 1,844文字
巨大な岩を前に、男は刀を抜いた。
中年の侍である。ろくに髷も結っていないざんばら髪。伸びた前髪の間からのぞく相貌が、暗く光っている。
山中だった。崖の下。
岩は、太さも高さも、侍の数倍はある。その岩肌には、無数の刀傷がついていた。
侍は、抜いた刀を振りかぶると、刀身を岩肌に叩きつけた。硬い金属音がして、刀が弾かれる。岩肌に新しい刀傷がついたくらいで、岩自体には何の変化もない。ただ、泰然としてそこにある。
侍は深いため息をつくと、ゆっくりと山の麓に向かって歩き出した。
「佐沼清十郎さまですか?」
山の麓の町を歩いていた侍に、そう声がかけられた。侍がそちらの方を見ると、若い女子 が一人、思いつめた表情で立っている。
「なんだ」
侍――清十郎は物憂げに応える。
「お願いがあります!」
いきなり、その女子は頭を下げる。
「両親の仇を、討っていただきたいのです!」
女子は、おしげと名乗った。
彼女の話によると、両親が山賊に殺されたらしい。その仇を討ってほしいのだという。
「なぜ、俺に?」
「口入屋でお聞きしました。この辺りで一番腕が立つお侍様は、岩斬り侍と呼ばれる貴方だと」
「岩斬り侍、か」
清十郎は口の端を歪める。
「お願いします!」
おしげは再び、頭を下げた。その肩が震えている。
その震えを見つめながら、清十郎は小さな声で、
「報酬」
「え?」
「報酬は用意してあるのか」
「あ、は、はい」
おしげは懐から銭袋を取り出した。
「五百文か」
中を確かめ、清十郎は言った。大金である。
「よかろう。その山賊の拠点は」
山賊の拠点は、一つ山を越えた先の窪地にあった。
「物見櫓 か」
「はい」
山賊の砦には物見櫓が立っていた。
「あれのせいで、領主様も手が出せずにいるのです」
「ふむ」
清十郎はあごをさすり――やおら、山の上方へと移動を開始した。
「どうするのですか?」
「黙って見ていろ」
ほぼ山頂までやって来ると、静かに清十郎は刀を抜いた。辺りには、当然ながら木々がある。大人二人でやっと丸抱えできるような太さの大木。
清十郎の手が動いた。
風。
次々と旋風 が巻き起こる。その風が収まった時、不意に、辺りの木々が傾いだ。
「行くぞ」
「え」
おしげが呆然としている間に、辺りの木々がなおも傾ぎ――やがて倒れた。
一本や二本ではない。数十本の巨大な木々が、山裾を転がり落ちていく。その先にあるのは、山賊の拠点。
「これで拠点はほぼ壊滅だ。生き残りを始末しに行く」
山賊たちの悲鳴が、遠く聞こえてくる。
おしげは、ただ呆然と清十郎の背中を見送った。
清十郎の言った通り、山賊の拠点はほぼ壊滅状態だった。生き残りは数人に満たない。
「が、崖崩れか?」
「いや、落ちてきたのは木だけだ。それも、なにか鋭利なもので斬られたような……」
「狼狽 えるんじゃねぇ!」
山賊の頭目の一喝が飛ぶが、そうそう騒ぎは収まらない。
そこへ。
ゆっくりと清十郎が現われた。
「な、なんだぁ、てめぇは!?」
山賊たちの誰何の声には応えず、清十郎は駆けた。その途上にいた者が、一人、二人、と倒れていく。ついに、立っているのは清十郎と山賊の頭目だけになった。
「や、やるじゃねぇか」
それでも、頭目の声にはかすかな余裕がある。彼は、銀色の甲冑をまとい、同じ色の盾を腕につけていた。
「これは西洋の鎧装束よ。刀じゃ斬れねぇ」
ふん、と清十郎が鼻を鳴らした。
そのまま刀を振りかぶる。
「それは、あの岩よりも硬いのか?」
清十郎はそうつぶやくと、一歩踏み込み、刀を振り下ろした。
盾で受け止めて反撃する算段だったのだろうか。山賊の頭目は盾で清十郎の刀を受け止めようとして――そのまま真っ二つに斬り裂かれた。
どう、と倒れ込む山賊の頭目。
後方に、かすかな息づかいを感じて清十郎が振り向くと、おしげが追いついてきたところだった。
「終わった」
清十郎の言葉に、おしげは小さくうなずく。その顔色は冴えない。仇を討ったとは言っても、もう両親は戻ってこないのだ。
「お前は運がいい」
ぽつり、と清十郎が言葉を漏らす。
「刀で斬れるものが仇だったのだからな」
十数年前。
山道を歩いていた時に、崖の上から落ちてきた巨大な岩に潰されて、清十郎の両親は死んだ。
それ以来、清十郎は刀でその岩を斬り続けている。むろん、成功したことはない。
依頼をこなした翌日も、清十郎は山に登り、あの岩に相対した。
刀を抜く。わずかに息を吸い、止める。そして刀を振りかぶり、岩に刀身を叩きつけた。
何度も、何度も。
中年の侍である。ろくに髷も結っていないざんばら髪。伸びた前髪の間からのぞく相貌が、暗く光っている。
山中だった。崖の下。
岩は、太さも高さも、侍の数倍はある。その岩肌には、無数の刀傷がついていた。
侍は、抜いた刀を振りかぶると、刀身を岩肌に叩きつけた。硬い金属音がして、刀が弾かれる。岩肌に新しい刀傷がついたくらいで、岩自体には何の変化もない。ただ、泰然としてそこにある。
侍は深いため息をつくと、ゆっくりと山の麓に向かって歩き出した。
「佐沼清十郎さまですか?」
山の麓の町を歩いていた侍に、そう声がかけられた。侍がそちらの方を見ると、若い
「なんだ」
侍――清十郎は物憂げに応える。
「お願いがあります!」
いきなり、その女子は頭を下げる。
「両親の仇を、討っていただきたいのです!」
女子は、おしげと名乗った。
彼女の話によると、両親が山賊に殺されたらしい。その仇を討ってほしいのだという。
「なぜ、俺に?」
「口入屋でお聞きしました。この辺りで一番腕が立つお侍様は、岩斬り侍と呼ばれる貴方だと」
「岩斬り侍、か」
清十郎は口の端を歪める。
「お願いします!」
おしげは再び、頭を下げた。その肩が震えている。
その震えを見つめながら、清十郎は小さな声で、
「報酬」
「え?」
「報酬は用意してあるのか」
「あ、は、はい」
おしげは懐から銭袋を取り出した。
「五百文か」
中を確かめ、清十郎は言った。大金である。
「よかろう。その山賊の拠点は」
山賊の拠点は、一つ山を越えた先の窪地にあった。
「
「はい」
山賊の砦には物見櫓が立っていた。
「あれのせいで、領主様も手が出せずにいるのです」
「ふむ」
清十郎はあごをさすり――やおら、山の上方へと移動を開始した。
「どうするのですか?」
「黙って見ていろ」
ほぼ山頂までやって来ると、静かに清十郎は刀を抜いた。辺りには、当然ながら木々がある。大人二人でやっと丸抱えできるような太さの大木。
清十郎の手が動いた。
風。
次々と
「行くぞ」
「え」
おしげが呆然としている間に、辺りの木々がなおも傾ぎ――やがて倒れた。
一本や二本ではない。数十本の巨大な木々が、山裾を転がり落ちていく。その先にあるのは、山賊の拠点。
「これで拠点はほぼ壊滅だ。生き残りを始末しに行く」
山賊たちの悲鳴が、遠く聞こえてくる。
おしげは、ただ呆然と清十郎の背中を見送った。
清十郎の言った通り、山賊の拠点はほぼ壊滅状態だった。生き残りは数人に満たない。
「が、崖崩れか?」
「いや、落ちてきたのは木だけだ。それも、なにか鋭利なもので斬られたような……」
「
山賊の頭目の一喝が飛ぶが、そうそう騒ぎは収まらない。
そこへ。
ゆっくりと清十郎が現われた。
「な、なんだぁ、てめぇは!?」
山賊たちの誰何の声には応えず、清十郎は駆けた。その途上にいた者が、一人、二人、と倒れていく。ついに、立っているのは清十郎と山賊の頭目だけになった。
「や、やるじゃねぇか」
それでも、頭目の声にはかすかな余裕がある。彼は、銀色の甲冑をまとい、同じ色の盾を腕につけていた。
「これは西洋の鎧装束よ。刀じゃ斬れねぇ」
ふん、と清十郎が鼻を鳴らした。
そのまま刀を振りかぶる。
「それは、あの岩よりも硬いのか?」
清十郎はそうつぶやくと、一歩踏み込み、刀を振り下ろした。
盾で受け止めて反撃する算段だったのだろうか。山賊の頭目は盾で清十郎の刀を受け止めようとして――そのまま真っ二つに斬り裂かれた。
どう、と倒れ込む山賊の頭目。
後方に、かすかな息づかいを感じて清十郎が振り向くと、おしげが追いついてきたところだった。
「終わった」
清十郎の言葉に、おしげは小さくうなずく。その顔色は冴えない。仇を討ったとは言っても、もう両親は戻ってこないのだ。
「お前は運がいい」
ぽつり、と清十郎が言葉を漏らす。
「刀で斬れるものが仇だったのだからな」
十数年前。
山道を歩いていた時に、崖の上から落ちてきた巨大な岩に潰されて、清十郎の両親は死んだ。
それ以来、清十郎は刀でその岩を斬り続けている。むろん、成功したことはない。
依頼をこなした翌日も、清十郎は山に登り、あの岩に相対した。
刀を抜く。わずかに息を吸い、止める。そして刀を振りかぶり、岩に刀身を叩きつけた。
何度も、何度も。