第1話

文字数 1,760文字

先日の土曜日、釣りから帰ってシャワーの後の遅いブランチを食べながら新聞を読んでいたら、ふとある記事に目が留まった。

紙面の3/4くらいをぶち抜いた記事のタイトルが「ロックじゃねえ!」
メインは俳優の松重 豊氏へのインタビューだった。
そもそもは今年(2024年)の1月にその新聞の投書欄に掲載された「今も聞こえる ロックじゃねえ!」を松重氏が読んで感心し、出演するNHKの番組で朗読した。

ちなみにもとの投書は次の通りで投書したのは22歳の大学生の女性。

<今も聞こえる ロックじゃねえ!>
小学校を卒業して10年近いが、今も時折「ロックじゃねえ!」というしゃがれた声を思い出す。
ロックミュージックが好きで、エレキギターを抱えて教室に来ることもあった、6年生の時の担任だった先生の声だ。
その先生は、よく怒った。
眼鏡もスーツも平凡だったけれど、全力で怒る姿も、怒る基準も、他の先生と違った。宿題を忘れても怒らなかったが、うそをついて言い訳をすると怒った。掃除中に誤ってガラスを割っても怒らなかったが、それを黙っていると怒った。
怒りが頂点に達した合図が「ロックじゃねえ!」だ。
先生の叫んだ「ロック」は、この場合は、音楽ではなく、正直さとか、揺るぎのなさとか、そういう意味だったと思う。昔も今も、私は「ロック」になりたいとは思わない。だけど、自分の信念に反したことをしてしまった時、逆に何もできなかった時「ロックじゃねえ!」という先生のしゃがれ声が聞こえる。


私はこの手の話にめっぽう弱い。
投書の文章もとても良いが、記事のはしっこには55歳になった先生が現在勤務している愛知県の小学校の教室でエレキギターを抱えて破顔一笑している写真が載っていて、「小学生に『ロックじゃねえ!』はほぼ通じない。でも、言い続けて良かった!」というコメントも粋である。

松重氏はこの投書を最初は笑いながら読んでいたのに、最後は号泣したそうだ。
記者は松重氏に号泣の理由や「ロック」とは何かをインタビューしていくのだが、氏は韜晦もあってかなかなか明確には語らない。

私が推察する「ロック」とは、投書の中でも触れられていたような「譲ってはならない自らの基準」に「やせ我慢の美学」をプラスし、少しの「滅びの美学」が隠し味になっているんじゃないかなと思う。

孔子は「渇しても盗泉の水を飲まず」と意地を通したし、吉田松陰も赤穂浪士と密出国に失敗した自分に対し「かくすれば かくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂」と詠んだ。
ロック野郎は今も昔も生息しているのである。

しかし現実社会の中でロック野郎を通し続けるのは大変だ。
人生においては正念場の戦いは一回限りではなく、むしろ泥沼のゲリラ戦のような毎日が長く続いているような気もする。

以前、会社の同僚がカラオケでMr.Childrenの「イノセント・ワールド」を歌い終わったとき、
「近頃じゃ夕食の 話題でさえ仕事に 汚染(よご)されていて
様々な角度から 物事を見ていたら 自分を見失ってた
入り組んでいる 関係の中で いつも帳尻 合わせるけど 」
の部分は身につまされるよなぁ~としみじみしていた。

確かにどんな組織のなかでも単に「言えばよい、突っ走ればよい」というものではなく、共感と理解が獲得できなければ事は成就しない。しかし、そう言って単なる妥協を重ねていけばロック魂は摩滅していく一方である。

1980年代半ば、私は働いていた会社の広報部に異動になった。
歓迎会の2次会の席で部長が「かっこよく生きろよ。」と私に言った。
続けて「広報部は会社の中では総務部から独立して新しくできたばかりの部だ。職務権限だってあまりない。会社の中には単なるPRセクションだと思っているやつも多い。」
「また、なにか問題があると「新聞沙汰にならないよううまく対応してくれ」と言う前近代的な役員もいなくはない。」
「でもなぁ、広報は会社の情報を発信するだけじゃなく、社会の常識と会社の論理のギャップをいち早く感知する受信アンテナを高くして社内にフィードバックする仕事のほうが大事だ。」
「だからバランス感覚と硬軟織り交ぜた突破力でかっこよく仕事しようぜ。」
とむしろ自らに言い聞かせるような口調で話してもらった。

ここにもロック野郎が確かにいたなあと懐かしく思う。

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