第1話

文字数 1,999文字

唯さんと出会ったのは、あるエステサロンのエステシャンとして私が勤め始めて、5年目の頃だった。彼女は私より入社が1年早く、4つ歳上の先輩だった。だから、郊外のショッピングモールに新設された店舗に私が店長として抜擢され、副店長として唯さんを紹介された時、正直少し気まずかった。「私はNo.2が向いているんです。」と、唯さんは言った。「面倒くさい事は私がやりますから、店長は稼ぎまくって下さいね。」小柄な唯さんはニコッと笑った。

言葉通り、唯さんは私を支えてくれた。私が店長業務もこなしながら多くの指名客を担当できたのは、唯さんのサポートのお陰だった。新人をフォローしたり、トラブル対応を買って出てくれたり、その他私がお願いしなくても必要な事を見つけて自ら動いてくれた。気付いたらお互いに「唯さん」「和美さん」と下の名前で呼び合うようになっていた。エステサロンと言っても要はサービス業だ。体力仕事な上、慣れない店舗運営はトラブル続きだったが、スタッフ皆が休憩時間だけは確保できるよう、私は心を砕いた。モール内のベンチは混み合う時間帯は座れないし、カフェだとお金もかかる。私は、狭いオフィスの隅に小さなコーヒーテーブルとチェアを置いて、休憩スペースとした。コーヒーメーカーも買った。唯さんは「わぁ、こんなの初めてですよー」と言って、テーブルに置く可愛らしいテーブルセンターを家から持って来てくれた。休憩時間には、コーヒーを飲みながらお喋りした。唯さんの旦那さんと私の彼氏が同郷だったり、好きな映画や小説が一緒だったり、いくつかの小さな偶然も私達の距離を近づけた。当時、実家の母親の体調が思わしくなく、そんな話を唯さんに聞いてもらう事もあった。唯さんは私にとって、頼れる先輩だった。

私が千葉の実家に戻り、自分で小さな店をやる事を決めた時、唯さんは妊娠していて、丁度安定期に入った頃だった。迷惑をかける事はわかっていたが、たまたま良い物件があり、今しかないと思っていた。勇気を出してその話をすると、唯さんはコーヒーカップをテーブルに置いて静かに言った。「すごい。それは絶対やるべきですよ。私、和美さんはいつか独立すべきだって思ってた。」唯さんの目がキラキラしていた。私が身重の彼女の体調を心配すると、「少し忙しい位の方が体調が良いから大丈夫。本社からヘルプも来るでしょう。何の問題もありませんよ。」と言って笑った。

唯さんは、出産後、職場へ戻らなかった。旦那さんがイギリスへ転勤になったのだ。海外に住むのは唯さんの夢だったから、私も自分の事のように喜んだ。私の方も仕事が忙しかったり、結婚したりで、次第に連絡する頻度は減った。それでも年に数回程度はメールでやり取りをした。唯さんが亡くなったのは、私が自分の店を始めてから7年目の春だった。唯さん一家が赴任を終えて帰国した時には、久々に再会できるね、と話していたのだが、タイミングが合わず結局会えないままだった。最後のメールで唯さんは、「最近体調が良くないです。体調が悪いと気力も無くなるからダメですね。」と言っていた。それから間もなく旦那さんからのメールで唯さんの死を知った。癌だった。

お墓は、都心から離れた緑が豊かな丘の上にあった。「自分でここへ来て、この場所を選んだんですよ。」と、旦那さんは言った。自分の死を覚悟し、自分の墓地を自分で選ぶというのはどのような感覚なんだろう。丘を歩く唯さんの姿を想像しながら、私の退職後、大きなお腹を抱えながら忙しく店を切り回しただろう唯さんの姿を、私は頭に思い描いた。あの小さな身体のどこからあんな強さが生まれるのだろうかと、一緒に仕事をした頃もよく思ったものだ。私は涙が止まらなかった。

今年、私は引っ越しをした。2店舗目の店のオープンを機に、実家を処分し、都内にマンションを購入したのだ。荷物を整理する際に捨てられなかった物の中に、唯さんとの思い出の品があった。妊娠初期に体調不良で1か月程欠勤や早退が続いた後、安定期に入った唯さんが「お礼」と称しプレゼントしてくれたシフォンのスカーフ。私が結婚した時にイギリスから送ってくれた美しいテーブルセンター。唯さんから借りて読み、後に自分でも買った本。アメリカ人の若い作家による『コーヒーを飲みながら』というタイトルのその小説は、冬のニューヨークのコーヒースタンドで出会った男女を描いたものだった。厳しい現実を生きる彼らが、そのコーヒースタンドで会話を交わす時間だけ、現実を忘れ癒されるのだ。凍りつくような寒空の下、その小さなコーヒースタンドの空間が温かく感じられて、読む度に心が柔らかくなるような気持ちがした。

あぁ、私にとってのコーヒースタンドは、あのコーヒーテーブルだった。唯さんとがむしゃらに働いたあの時代そのものも。
今年は久しぶりに唯さんに会いに、あの丘を登ってみよう。
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