『 の 』

文字数 4,279文字

 「春はあけぼの…」などと最初に言い始めた奴は出てこい…と俺は思う。
春っていうのは日の出の頃合いでも早朝でも夕暮れでも夜でもない。春は何と言っても『雨上がり』が良い。とても良い。
水気を纏ってひんやりと静まった空気の中に、不意に綻んだ花の蕾の香りがほんの一粒転がって、それがサラサラと、美しい鈴の音色になる。だけども注意深くしておかないと見落としてしまいそうなくらい些細な、微細な、繊細な息遣い、なのに確かな気配…。それはとっても懐かしくて待ち遠しくて、何だかもう俺自身が土の下で目覚めたばかりの新芽のような気分でいる。というような心のソワソワが「春」の醍醐味であり本質なのではないかと俺は思うんだ。それでいて草木はまだしっとりと濡れているんだから、まあ最高だよね。やっぱ春は雨上がり!
「ねえ、そう思わない?」
と俺は水割りを勢いよく飲み干し隣の北村に問う。が、そこに北村の姿はなかった。そこに座っていたのは、先程までカウンターに並んで一緒に飲んでいたはずの同期の同僚ではなく、見知らぬうら若い女性であった。
人は本当の想定外に出くわすと本当の絶句を体験する。しどろもどろに目を泳がせ、思考は高速でフル回転するも、一向に次の言葉を継ぐことが出来ない。
――あ!思い出した。
北村は帰ったのだ。地元の方に雪予報が出て、電車が止まるかもしれないから早く帰ってこい、と奥さんに言われたとかで早めに帰路についたのだった。
「お前また飲み過ぎんなよ、気を付けて帰れよ~」
「おお、じゃあな。あ、そうだ北村、俺明日銀行立ち寄りなんだけど朝に来客入れちゃってさ、悪いんだけど…」
なんてやり取りもちゃんとして北村の背を見送ったではないか…。
広い店ではない。この一連の様子を目にした他の客達が、事情を理解するのは容易であろう。今や店内は、嚙み殺し切れない笑いに満ちていた。
羞恥で顔がカアアッと燃え上がり、後頭部と背中にドシュッと汗が噴き出す音が聞こえた気がした。
これは恥ずかしい。だが、だがだが、ここはバーである。お酒を飲む社交場である。きっとこんなのよくある話のはずだ。落ち着いて今の出来事をテキスト化してみれば、案外どうってことはないかもしれない。
…バーで酔った挙句に「春は雨上がりがいいよね」とか訳わからん持論を、知り合いと間違えて全くの別人に、しかも見知らぬ若い女性に向かって、それもかなり悦に入った感じですこぶる上機嫌で語りまくった…
…これ駄目なやつだ、早々に帰ろう、そうだよ今すぐ帰ろう、そんでもうこの店には二度と来ないことにしよう。「マスターお会計!」と言おうとしたそのとき…

「夏は?」
驚いたことに、そう返答したのは北村のいた席にいつの間にか座っていたその女性だった。
「…ふぇ?」
だから俺の口から宇宙人のオナラみたいな素っ頓狂な声が出た。
「春は雨上がりでしょ?夏は?」
美しい、それこそ鈴の音色のような声。
「な…つはー、あ、夏は、ですね…え?え??」
想定外に次ぐ想定外で今や俺の言語能力はブッ壊れていた。なのに彼女の、隣席の女性の口元に鈴は鳴り続けた。

私はどちらかというと夏のほうが「雨上がり」が似合うと思う。
雨の雫を身に受けて、花も枝葉も一際に、色濃く深く鮮やかに照り、さざめさざめく水際に煙る。
仄か土の香、微かな木の香、木漏れの陽に命もえそぼるを想う…
「ね?夏こそ雨上がり。そう思わない?」
俺は一瞬でその声に、言葉に魅入られていた。
「思います!心底で思います!魂の中心の中核の部分で賛同します!全身全霊で同感です。何でしょ、もう素敵が過ぎる…」
正直俺は舞い上がっていた。目の前の人物に気に入られたくて仕方ないとき、俺はこんな風に薄っぺらい言葉が湯水のように湧く。いや、噴射する。が、また鈴がなる。
「紫陽花、雛菊、水芭蕉、夏って雨上がりが似合う花が多いと思わない?」
「だから思いますよ!間違いない!雨が似合う花だらけサマータイム!おい雨しか降んな夏!なんてね、え?あの、何か飲みません?俺奢りますよ、飲みましょう?てか奢らせて下さいよ!」
正直俺は、自分でも驚くほど舞い上がっていた。理性がもう舞い散っていた。
俺と彼女はそれから一緒に飲んで話した。他の客も「何だもともと知り合いか」とつまらなそうに自分達の会話に戻った。とても楽しかった。
「それでさ、お姉さ…そいえば名前って聞いたっけ?」
俺は彼女の名前を知らないことに今更気付き、先ず自分から名乗ると、彼女はぽつり、
「なぎこ」と答えた。

 *

次の日から俺は毎晩あのバーに通った。同僚の北村と間違えて話しかけてしまったことがきっかけで知り合った女性、なぎこに会うために。が、あの夜以来彼女とは会えていない。
「最近来ないよねえ、ほら何て言ったかな、きなこちゃん?うなぎちゃん?こやぎちゃん?
いたじゃん何か詩人みたいに綺麗な言葉の、ちょっと不思議な雰囲気のさ…いたじゃん。」
毎晩来てはいるが、もしかしてどこかで入れ違ったかと、マスターに尋ねた。
「なぎこさんですよね。そうなんですよ、あの方、あれから一度も見えませんね。」
こんな会話を繰り返して、その夜で一週間が経っていた。

 *

そうして明日で二週間が経とうという夜にもなると、俺は半ば苛立っていた。
「ねえマスター、マジでさ、なぎこちゃんの連絡先知らない?それかさ、知ってる人いないかな?」
「そういうの個人情報ですから、お教えできません。それに、マジで知りませんし、なぎこさんと親しくしている様子の方も思い当たりませんね…」
本当にあの夜、ただの気まぐれにいらっしゃっただけかもしれませんよ?とマスターはグラスを拭きながら言った。

 *

だからだろうか、仕事で大きな失敗をした。ミスを回収するために、一人オフィスに残って仕事をした。自分のデスクの真上だけ照明を点灯する。暗いオフィスでそこだけがぼーっと浮かび上がる。

闇の水底に沈む 淡い光の繭の中
たった一人の孤独より 君に焦がれる孤独のほうが
ずっとこの身を焼くのです

などと感傷的になっていた割りに、何故か仕事は捗った。
キーボードを叩く音が時計の秒針を追い抜き、やや落ち着いた雨音に並んだ。
予報通り、夕方は豪雨だった。定時で上がった連中は盛大に降られ、運転見合わせになった路線もあったようだが、この分だとじきに止むだろう。と言っても、
「もうこんな時間か…」
何とか日付が変わる前に仕事を終えることが出来た。
今日は真っ直ぐ帰ろう、と俺は思った。

が、習慣とは本当に恐ろしいもので、何気なくぼーっと帰路についた俺は、20分後、あのバーのドア前に立っていた。しかも…しかもだ、
「臨時休業かーーーーーい!」
ビル全体の害虫駆除があるらしい。マスターもその旨昨晩の内に伝えられそうなものだが…。参ったな、もう電車がない。
俺は途方に暮れていたが、ふと背後の足音に振り返った。
…夢だろうか、これ夢なんだろうか…、実は俺はまだオフィスに居て、終わらない残業に疲れ果てとうとうデスクで寝落ちしてしまった…それでこんな夢を見ているのだろうか…。
「なぎこ…さん。」
「こんばんわ」
駆け寄って抱き締め、そうになる衝動を何とか抑えるのに苦労した。
「雨上がりだからいるかなって思って、でもお店、お休みなんだね。」
彼女は俺の背中越しのドアを覗き込みながら言った。
そう言えばもう雨はすっかり上がっていた。
「あれから結構まあまあ頻繁に来てたよ~。」
「そうなの?」
…正直俺は発狂寸前だった。
落ち着け俺、落ち着きはらえ俺…まず相手の言い分を聞こう。その上であまりにも理不尽だなと感じたら、そのときはまあ発狂くらいしてもいいかもしれない。でも待てよ、そもそも会えなかった、連絡が取れなかったからといって彼女を怒れる立場なのか俺は。そういう関係なのか俺たちは。いいや違うだろ。常識的に考えて違うだろ。ただ会いたい、またお話したいという一方的な感情だけで毎晩店に張り付いていた俺のほうが異常だ。というか改めてテキスト化したら俺めっちゃきもいだろ!
などと俺が言葉に詰まり、葛藤と自己嫌悪に忙しくしていると、彼女が奇妙なことを言った。
「全然連絡くれないから忘れられちゃったのかなって思ってた。」
「ん?」
「ライン交換したよね。」
正直俺の頭の中はまるでパニック映画だった。
ちょっと待ってくれ、ちょっとだけでいい、待ってくれ、連絡先交換した?初めて会った日に?
「交換、したっけ?」
落ち着いた風を装って、スマホを取り出し画面を繰っていく。一人一人名前を確かめながら指を滑らせた。
ある名前で指を止めた。
「もしかしてこれかな!?」
「それだよ?」
…なんで登録した時に分かりやすくリネームしなかったのか…
「これ、なぎこって読むの?!」
「そうだよ?」
(ごんべん)に若いと書く。承諾のダクという字だ。字面の地味さから、どこかの営業先のベテラン事務員の連絡先かな、とか思っていた。
「え、てか清原(きよはら)さんなの?清原諾子(きよはらなぎこ)さんなの?」
「ううん、きよはらのなぎこ。」
「の?」
「の」
「『の』がはいるの?」
「そう、苗字と名前の間にね。」
「そっか、苗字と名前の間に『の』がはいるんだね…」
「そうなの、『の』が入るの」
「何で?」
「さあ、何でだろう。」
正直俺はもう考えるのが面倒になっていた。

 *

二人とももう電車がないので、店を離れ、コンビニで暖かい飲み物とお酒とおつまみを買って、近くの公園をぶらぶらと歩いた。すこし肌寒かった。
「ここに来たのも忘れちゃった?」
彼女が俺を見上げながら問う。
いや、覚えている、思い出した、というか今まさに思い出している真っ最中だ。更新データをダウンロードしていくように世界が塗り替わる…。アップロード完了とともに俺は顔色を変えた。青ざめながら赤面する、と言うよく分からない色合いに。したたか酔って朧になった記憶は、何かのきっかけが呼び水となって、やがて堰を切った情報の激流となって意識の表層に押し寄せる。
なぎこと初めてあった夜も確かにこの公園の、まだ固い蕾の桜の下を歩いた。が、そのときはすでに夜ではなかった。ホテルを出るともう東の空が薄く白み始めていて、遠くのビル群が、だんだんと輪郭を取り戻し街を成していく。その影が切り取った空の雄大な世界の巨大な切片に、一筋、そう一筋の紫の雲が細く流線形に、俺たちの始まりを告げるタイトルロールのように、たなびいた。

何という美しさだろう。俺はなぎこの手をとり言った。
「本当だね。やっぱ、春はあけぼの。」
「でしょ?」
得意げに微笑んだその頬に差したのは、恥じらいの朱か、朝陽のオレンジか…
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