共存予行練習

文字数 9,105文字



 更衣室が冷たい。前から何度も言ってるのに、ストーブ一つつけてくれない。何度か建て増しを繰り返したこの施設は、全館冷暖房とうたっているものの、それは利用者のいるスペースのみ。そりゃそれに越したことはないけどさ、と岩田ユリエは心の中でぼやきながら上着を脱ぎ、左胸に『ハッピーホーム』と刺繍されたピンクのポロシャツに着替えた。これだって、なぜ半袖なのかわからない。ピンクは利用者に目立つようにという理由だけど、どうにも明るくてとても外に着て歩けるものではない。色はいいとしてもせめて冬服も用意してほしい、そこ経費ケチってどうするよ! 時々顔を見せる施設長は、よく知らない高そうな車乗ってるけど、そんな車買う金あるならこっちに回せよ! と、ユリエは再びボヤき、着替え終えた。



 ユリエの勤める『ハッピーホーム』は郊外から少し離れた山あいにある、老人福祉施設、いわゆる老人ホームだ。場所が場所だけに職員間では『姥捨て山』とこっそり呼び合っている。行政からの助成で成り立つ築20年のこの施設は、基本的に日帰りで入浴や食事、レクリエーションを楽しむデイサービス、短期間宿泊のショートステイに、ご家族の介護が困難な方のための長期入所の3つのコースに分かれている。その利用者は120人ほどで、デイサービスの利用者は70人ばかり。とはいえ、それに対応する職員はそれぞれがコースの担当というわけでもなく、シフト制で割り振られている。今日が長期担当なら、明日はデイサービス、といった具合だ。どこの施設でも言われていることだが『ハッピーホーム』もまた深刻な人材不足に悩まされていた。バイトにせよ、正職員にせよ、増加する利用者に対して圧倒的に数が少ない。その上、過酷な勤務内容に辞していくものも多いからだ。そのほとんどが精神を病んで辞めている。



 ユリエがここに務めて10年近くが経つ。専門学校を出て『人の役に立つ仕事がしたい!』という当初の理想は、勤務して半年で崩れていった。認知症が進み、幼児退行、いや別の生き物になったような高齢者の相手をしていく中で、同僚が次々と心折れ、辞めていく中で、ユリエは徐々に感覚が麻痺していった。常識という物差しで測ってしまうからダメなのだ、と働いていく中で悟ったのだ。『これはこういうものなのだ』と割り切るようにした。そうしていくうちに、他にしたいこともなく、幾何かの生きる糧さえあればいいか、と思っていたユリエには、ここがそれほど悪い場所だとは思えなくなっていた。人並みに恋愛もしたが、激務で休みもろくに取れない中、相手と時間を合わせられず自然消滅したこともあったし、2年後輩の職員と付き合ってみたものの、会っても互いに職場の愚痴を言うか、欲望の赴くままに性交を重ねるだけの関係になってしまい、これも長く続かなかった。そして、その後輩は関係が終わってすぐに、職場を去っていった。そのうちユリエは、いつしか施設のベテランスタッフの一人になっていた。老人介護という修羅場を潜り抜けた百戦錬磨の猛者だ。



 将来に対しての焦りや不安がない、と言えばウソになる。時折『いいのかな……』とユリエは思うこともあるが、怒涛の如く押し寄せる業務の波にその思いはかき消されてしまう。こんな場所にいつまでもいたら、結婚も恋愛もままならないけど、スタイルもたいして良くもない、地味な顔立ちの自分に誰が振り向いてくれるのか? それならいつも愛想を振りまいてくれる利用者のおじいさん(と呼んではいけないことになっているが)の方がまだましだ、彼らからしたら、自分はまだ『女の子』らしいのだから。と、ユリエは思っていた。



「はい、では朝礼を始めます」

 ピンク色のファイルを片手にユリエの先輩である、飯倉トヨコが口を開いた。事務所にいる職員は4人。この数で今日のデイサービスを取りまわしていかないといけない。トヨコの口から簡単な諸注意と本日の利用者数が28人であることが告げられる。利用者は、施設の送迎バスで一時間後にはここに到着する。その間に今日の取り組みを決め、清掃や準備を行わないといけない。

「他、何か気になることはありませんか? ない? あるなら言ってよね」

 女手一つで3人の男の子を学校に通わせてるトヨコは、子供に言い聞かせるような大きな声で、職員たちを見回す。ユリエもトヨコには随分と色々なことを教わり、頼もしい先輩として尊敬していた。ただ、少し強引なのが気にはなっていた。

「ユリさん、ない?」

 トヨコが隣のユリエに声を掛ける。

「え? ないといえばないかな……今日のメンバーだと、そうですね軽く体操してから手遊びとか。カラオケ大会は、この間やったし」

「そうねー。ほら、先輩はないない言いながら今日のプログラム考えてるのよ」

 トヨコは入り口近くにちょこんと立っていた、新人の金岡マミを見た。

「え、はい、そうですね、私もそれがいいと思います……カラオケは」

 先日行われたカラオケ大会は大いに盛り上がったのだが、、歌に熱中するあまり利用者が失禁、見ていた数人もそれにつられて粗相をしたという大惨事があったばかりなので、できるだけやりたくなかったのだ。

「あの……ちょっと、でもいや……」

「なに? マミさん、なんかあるの? あるならはっきり言ってよ」

 トヨコは同僚を下の名前で呼ぶ癖がある。それが親近感を醸し出してるのだが、そのきつい口調が、悪いことをしていないのに叱られてるような錯覚に陥ることもある。

「え、その……」

 昨年の春に入ったばかりのマミは、まだ女子高生でも通用するかのような幼さが残っているし、利用者からすれば、孫、ひ孫のような存在だった。

「いいんですか……」

 頬を赤らめ、目にはうっすら涙を浮かべながら、消え入りそうな声で、マミがうつむく。

「いいから言いなさい、時間ないから!」

 トヨコの言葉にほんのわずかに怒気が含まれていた。

「あの……大橋さんのことで」

「大橋さん?」

 その名前に、ユリエが声をあげてしまった。

「今日、大橋さん、1週間ぶりに来られるじゃないですか……その前から、他の仲間に手をあげたり……噛んだり」

「噛んだ? 誰を?」

 意外な報告にトヨコの声がさらに大きくなった。

「わ、私です、私の肩に……自分がされたから、いいやって……すみません」

 トヨコに反比例するようにマミの声がだんだん小さくなっていく。

「ダメよ、金岡さん、自分がされたこともちゃんと報告しないと」

 マミに、努めて優しくユリエが声を掛ける。

「でも、そうよね……大橋さん、最近言動がおかしいというか」

「あの、僕も見ました。あの大橋さんが? と思いましたが。実際、僕も……」

 マミの隣にいた、ユリエより5歳年下の高橋キョウイチも口を開いた。

「そうね、大橋さんに限ったわけじゃないけど、最近多いよね」

 トヨコが考えるように腕を組んだ。

 そういえば、最近利用者間でも揉め事や喧嘩が多くなってきたような気がしていた。10年近くここで働いてきたが、こんなに頻繁に起こることは今までなかった。



 大橋さんは、麓の町に住む86歳の女性で、バスを使わずに徒歩で来たこともあるぐらい足腰はしっかりとしている上に、よく喋り、笑顔の絶えない女性だった。職員や他の利用者からも慕われる人気者だったが、最近どうも様子がおかしくなっていた。唸り声をあげたり、利用者に手をあげそうになったり、手づかみで食事をしたり。施設としても一度認知症の診断を受けた方がいいのではないか、と家族に相談しようと思ったところに、大橋さんがぱったりと来なくなった。心配したユリエが電話をしたこともあったがその時は繋がらなかった。



「あのね、みんなどんな些細なことでも日誌につけて申し送りをしてくれないと……ともかく、久しぶりに大橋さんが来るんだから、歓迎してあげないとね」

 トヨコがそう言って朝礼は終わり、それぞれ持ち場に就き、準備が始まった。



 だが、大橋さんは来なかった。

 送迎バスが到着し、正面玄関で利用者を迎えている中に、その姿が見えなかった。

「あの、お休みでしょうか?」

 小さな声でマミがユリエに尋ねた。

「そんなはずは……ひょっとして歩いてくるとか?」

 ユリエは『歩いて汗かいた方が、ご飯は美味しいし、お風呂も気持ちいいもの』と、かつて大橋さんが言った言葉を思い出した。でも、危ないからバスを利用してくれ、と何度も念を押したはずだ。また、みんなをびっくりさせるつもりかな? 利用者をぎこちない笑顔で迎えながらユリエはそう思った。

「具合が悪くなったのかな……」

 マミがつぶやく。

「また噛まれるの怖い? 私もいきなり殴りかかられたとき、その人苦手になったもの」

「そうなんですか?」

「誰だってそうなるわよ。それとも、噛まれた後、彼氏に見られて揉めたとか?」

 意地悪くユリエがそう言うと、マミは顔を赤らめ、エントランスホールへ利用者を誘導するように逃げていった。

 でも、あれは彼氏いない感じよね……ユリエは最後の利用者がバスから降りるのを確認してから、大橋さんが歩いてこないか、しばらく玄関の外で待ってみた。

 バスが駐車場に移動し、しばらくしてトヨコから、家の電話がつながらないという報告が来た。 

「繋がらないって……」

「うんともすんと言わないの、まるで電話線が切れてるみたい」

「大橋さん、携帯持ってないですよね?」

「持ってなかったはずよ、ここでは……」

 ズン。

 小さな地鳴りのような音がした。

「何、今の?」

 ズン。

 再び、地鳴りがした。場所柄、工事用の重機や大型トラックが通ることもよくあるし、そのたびに利用者の外出、散歩に気をつけようという話はミーティングでよくされてきた。しかし、そんな感じではない。

「地震? 地震で落石とか」

「だったら、もっとぐらぐらしない?」

 ユリエの不安を、トヨコが打ち消す。

 ズン、ズン、ズン。

 音は大きく、近くなってくる。そして、正門に、その正体が見えた。

「え?」

 ユリエとトヨコが同時に声をあげた。

 ドラム缶のような胴体に太い手足、首はなくそのまま肩幅と同じぐらいの巨大な頭部が乗ったものがピョンピョン、ズンズンと跳ねながらこちらにやってくる。



 ……まず、人ではない。



「か、かい……」

「怪獣よね? あれ」

 静かに、トヨコが言った。男の子三人も育ててる上に、こんな場所で働いているからか、あるいは子供が怪獣ものが好きだったからなのか、ずいぶんと落ち着いてるな、とユリエは思った。

 トヨコの言った『怪獣』は跳ねるのをやめ、どたどたと太く短い脚を動かして、二人の前に立った。

「あの、今日はそんなアトラクションは……」

「あらぁ、違うわよ、私よ」

 怪獣の大きな、がま口を横にしたような口から、聞きなれた声がする。

「おおはし、さん?」

 ユリエが恐る恐る尋ねると、怪獣は大きな頭をガクンと前に倒した。どうやら『はい』という返事のようだった。

「え、そんなの着て、大丈夫なんですか?」

「熱いし、重いでしょ、それに歩いてここまでなんて」

 ユリエとトヨコの問いに怪獣はぶんぶんと首を横に振った。

「違うわよ、着てるんじゃなくて、怪獣になったのよ。怪獣オオハシタキ! これになってからすごく身軽になって、スキップもできるようになったのよ!」 

 じゃあ、あの怪獣の奇妙な動きはスキップだったのか、それにしても、大橋さんが怪獣に? まず人間が怪獣そのものになるなんてありえない、そもそも怪獣とは、人間が考え出した空想の生き物だ、実在しない、でも目の前にいる。着ぐるみではない、だとすればこんな精巧な作りモノを誰がどうやって? それになぜ高齢者に着せるようなことをするの? 普通こういうのはそれ専門の役者さんがいて………動きを研究するために動物園に行くとか……。

 自分の知る限りの『怪獣』に関する情報がぐるぐると渦を巻き、黒く淀み、そしてユリエはその場に崩れるように倒れた。




 ユリエが目を覚ましたのは、医務室のベッドの上だった。

「疲労……かな」

 デスクに救急箱、それにベッドが置かれた簡素な医務室だ。ユリエは身を起こすと壁にかかった時計を見た。もう昼近い。

 たぶん自分は、気付かないうちに激務に疲れ、歩いてやってきた大橋さんを怪獣と見間違え、倒れてしまったんだ、そう自分に言い聞かせながら部屋を出た。でも、飯倉さんも怪獣を見たはず、それはどうやって説明すればいいの? ユリエは昼食の準備で忙しくなってるだろう、と食堂に向かった。食堂はどこかのカフェのようなおしゃれな作りで、この施設の自慢の一つでもあり、行事の時はイス、テーブルをどかしてホールとしても活用できる場所でもあった。



 食堂に足を踏み入れた途端、ユリエは絶句し、そして大声を張り上げた。食堂の中ほどにあの怪獣が、イスに座ったマミを背後から襲い掛かろうとしていたからだ。

「ぁいやああ! 逃げて金岡さん、逃げて!」

 素っ頓狂な声をあげながら、とにかく武器になるものを、とユリエは近くにあったイスを持ち上げ、怪獣に向かった。何とかしてマミを救わねば、と、普段は出ないような奇声を上げ、走った。

「大丈夫です、岩田さん」

 笑顔でマミがそれを制す。

「だ、だだ大丈夫って、ね、金岡さん……」

 ユリエはイスを下ろし。

「大丈夫ですって、この人は怪獣じゃなって大橋さんですよ、ね」

 マミは笑顔で大橋さんに振り返る。

「そうよ、ねー」

 怪獣も少し高い声で返事をするが、段々状になった茶褐色の胴体にまばらについた松ぼっくりのようなイボイボ、太い手足には灰色の巨大な爪が伸びた、そんな姿で言われても、少しもかわいくはなかった。おまけによく見れば、足の間からは太く短い尻尾も見える。

「どうかしたの? 金岡さん、あなたも疲れて……」

 しかし、よく見れば、怪獣に大騒ぎしているのは自分一人だった。職員は落ち着いて食事の準備をし、利用者は椅子に腰掛け、世間話などをしながら食事を待ってる。椅子を振り上げて奇声を上げるユリエの姿に驚きはしても、もっと驚いてもいいはずの大橋さんと名乗る怪獣には誰も気にしていないようだ。

「どういうこと……」

「だって大橋さんは大橋さんですよ。岩田さんが気を失ってる間に緊急ミーティングして、決まったんです。それに他の方も驚かないし」

「でも、怪獣よ」

「怪獣じゃないです、大橋さんです。怪獣だけど大橋さん。大橋さん、この間噛みついたこと、謝ってくれてたんです」

「そう、なの……」

「あの時はごめんね、ちょっとイライラしてて。だって、怪獣になるなんて思わないでしょ、普通」

「ですよね……」

 認知症の利用者も多いこういう施設では、利用者同士の喧嘩、徘徊、失禁にパニック等々、世間では『ありえないこと』も頻繁に起こる。そんな時ユリエは『これはこういうものだ、これが普通だ』と思うようにしてきた。でも今目の前に起こっている出来事はそんなレベルをはるかに超えている。

「大橋さん……なんでそんな姿に?」

「わからないわぁ、イライラして、時々意識が遠くなって、しばらく休んでたでしょ。ある朝起きたらこんな姿に……」

「はぁ……」

 いくら考えても仕方ない、とユリエはマミと共に厨房に向かい昼食の準備を手伝うことにした。しかし、分からないことが多すぎる。これもまた『こういうものだ』と納得するには時間がかかりそうだった。



『おいしいわあ、今日のご飯、サバ大好きよー』

『本当、いい湯加減だわー、のぼせそうだわ』

『それでね、昨日のテレビで言ってたの、あの俳優さん実は……』



 それから大橋さんは、太い指で器用に箸を使っておいしそうに昼食を平らげ、入浴もいつものように気持ちよさそうに済ませ、デイサービスを満喫していた。他の利用者とも和気あいあいと談笑しているし、笑い声も絶えない。声だけ聞いているといつもの、いやいつも以上に元気な大橋さんだった。しかし入浴の際、ざばぁ、と水飛沫をあげて入浴する姿はまさに『大怪獣、東京湾に現る!』だし、大口を開けて他の利用者と話している時は、このまま相手を食べてしまうんじゃないか、とユリエはその様子を見ながらハラハラしていた。マミはともかくキョウイチやトヨコ、他の職員もいつもと態度を変えることなく大橋さんに接している。誰も大橋さんが怪獣であることに疑問を持たない、それがユリエには異様に見えたが、ひょっとしておかしいのは自分だけじゃないんだろうか、とさえ思っていた。



「ねえ、散歩いかない?」

 おやつの時間も終わり、帰りのバスの時間まで利用者がそれぞれ自分の時間を過ごしている時、ユリエは大橋さんに声を掛けられた。



「……私みたいなのが増えると思うの」

 中庭のベンチに腰掛け、大橋さんが言った。

「怪獣……いえ、大橋さんみたいな人が?」

「怪獣でいいわよ、だって怪獣だもん。最近多いでしょ、キレる老人とか。イライラして怒鳴ったり暴れたりするのって、決まって私らみたいな年寄りじゃない?」

「確かに……」

 そういえば、宿直勤務の時、テレビのニュースで高齢者がコンビニで店員相手に大立ち回りを演じたニュースが流れてたっけ、とユリエは思い出した。

「あれね、たぶん怪獣になるのよ。年寄りは死ぬか、怪獣になるか、なの」

「は? 聞いた事ないですよ、そんな話」

「そりゃ、これから起こることだもの。私、怪獣になってから何となくわかったの。仲間が増えそうだなって。今そういう時期なんじゃないかなって」

「どういう時期なんですか?」

 声は大橋さんだが、潰れたような平らな頭部に、瞳のない黄色く大きな目をらんらんと輝かせてる怪獣の話なんかどこまで信じていいのかわからない。

「私もよく知らないけど、誰かがそうしてくれたのかしら。でもラクよ怪獣は。前よりも元気になったし、体の悪いところが全部消えたみたい」

「そう、ですか。でも、怪獣なんですよ、元に戻りたいと思わないですか? 周りが面白がったり怖がったり、ひょっとしたら警察も……」

「その時は、話し合うわよ。今は私だけだけど、そのうち増えてきたら、国も考えるでしょ。それでも私らを邪魔するなら……」

 大橋さんの黄色い眼がカッと光りだした。怪獣やヒーローものに全く疎いユリエもそれが攻撃の前触れだということは何となくわかった。

「だ、ダメです、施設内でビームはダメです!」

「わかってるわよ、冗談よ。できればこんなもの使いたくないわよ。そういえばこの前ね、お部屋でこれやって、電話壊しちゃったのよ」

 大橋さんが、ユリエに微笑んだ。とはいっても端から見れば怪獣が大口を開けて、人間を食べようとしているようにしか見えなかったが。

「このままボケて、ひと様に迷惑かけながら死んでいくよりも、怪獣になったほうがいいわよ。あなたもそのうち分かるわ、たぶん」

「『あなたも』って? 私も怪獣になるんですか?」 

「わからないけど、私ぐらいの年になればそうなるかもね。その時分かるわよ」

 怪獣大橋さんが、再びニヤニヤと笑った。



 その日、大橋さんはバスに乗らず、朝と同じようにピョンピョンと跳ねるように帰っていった。このまま帰してもいいのだろうか、という思いもあったが、ここにいたところでどうにもならない。



 大橋さんの言ったことは本当だろうか? このまま老人が怪獣になっていくのだろうか? なんとなく不安になってきたユリエは、最近気性が荒くなった入所者のチェックをするようにと、宿直担当の職員に言いつけて、帰宅した。

 ひょっとしたら大橋さんのようなケースがまた現れるかもしれない、と思いユリエは夜のニュースをチェックしてみたが、幸いそのような報道はまだなかった。

 本当に大橋さんは怪獣になったのか、自分だけが怪獣に見えたのでは? いや、飯倉さんだって金岡さんだって、ちゃんと大橋さんを『怪獣』として認知していた。じゃあ、利用者さんたちは? ひょっとしたら、あれが自然な姿、自分たちもああなるんだと知っていたのか? それはいつ、誰が教えたんだ? 

 布団の中で今日のことやあれこれを考えながら、ユリエはいつしか眠りについていた。



 翌朝、出勤したユリエを見つけると、血相変えて宿直担当が駆け寄ってきた。

「306号室の高山さんが!」 

 高山さんといえば、重度の認知症で、家族に捨てられるようにここに来た利用者さんだ。

 職員が振り返り指さした先には、全身剛毛に覆われ、頭部に一対の角が生えたゴリラのような怪物が立っていた。

「おはようございます、岩田さん。この人様子が変ですよ?」

 怪獣が、ぱたぱたと犬のように短い尻尾を振りながら、頭を下げた。

「おはようございます。彼にはまだ説明していなかったもので」

 ユリエも、軽く頭を下げた。

「そうでしたか、402号の山田さんに中島さんもそろそろ……」

 そろそろ目覚めるんだ、怪獣として。



 大橋さんの言ったとおりだった。『これはこういうものだ』と思うしかない。人間は年齢を重ねると怪獣になっていく。ひょっとしたら自分も、金岡マミも怪獣になるかもしれない。でも、こういうものなのだ。高齢者が増えすぎて、死を迎えることに加え新たな選択肢が増えただけなのだ、そうなんだ。慌てふためいてるこの宿直職員にも教えてあげないとね。



 それに、大橋さんはもう来ないような気がした。怪獣という新たな人生を迎え、彼女は自由気ままに暮らすだろう。仲間も増えることだ、寂しくなんかない。でも、ここのお風呂は利用しにやってくるかも。

 

 いずれこの国は、怪獣だらけになるのだ。



 ユリエは、更衣室へ向かった。

 
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