第1話

文字数 919文字

 「帰んの?」
 煙草の煙を燻らせながら、気だるそうに聞いてきた男を一瞥する。その男は俺から返事が来ないことを疑問に思っていないのか、気にせず煙草を吸っている。
 「ああ。明日も仕事があるからな」
 「ふーん…じゃあ泊まってけば?」
 その言葉に対する特別な意味はまるでない。
 俺はこの男が泊まらせるつもりが全くないことを知っているし、向こうも俺が泊まる気がないということをよく知っている。
 一応声をかけとこう、という社交辞令だ。なので、俺も何か答える訳でも無く身支度を整える。
 「煙草1本くれ」
 「…あ〜、ほらよ。あとライターも」
 「ありがと」
 ジッポライターの蓋を弾き、煙草に火をつける。煙を吐き出しながら、ベッドの縁にゆっくりと腰を下ろした。
 2人して何も言葉を交わさずに、ただただ煙草を吸う時間だけが流れる。お互い恋人同士でもないから事後の甘々な雰囲気などは一切ない。
 逆にこういうところが楽だからこそ、この男との関係も続いているのだろう。
 吐き出した煙が天井まで昇っていくのを見届け、灰皿にぐりぐりと吸殻を押し付ける。念入りにこの行動をしてしまうのは、昔からの癖が抜け切っていないせいなのかもしれない。
 灰皿の横に置いていた腕時計を手に取り手首にはめる。少しきついくらいが丁度いい。
 「じゃあ帰るわ」
 鞄を手に取り玄関へと向かう。どうやら見送ってくれるらしく、煙草を咥えながら後を着いてきた。
 「風呂ぐらい入っていけばよかったのに」
 「んな事言ってぇ…一分一秒でも早く出て行って欲しいくせに」
 「そんな訳ねぇだろ。ずっといて欲しいって思ってるぜ、俺は」
 顎に手を掛けられ強制的に上を向かされる。こんなに分かりやすい嘘でも信じてしまいそうなほど、惹き込まれる目をしていた。
 一体それでどれほどの数の人を堕としてきたのだろうか。
 「ハハ、どーだか。人たらしの言うことは信用出来ねぇな」
 フッと小さく鼻で笑い、男の手を払い除ける。男の方は振られちゃった、とでも言いたげに困った顔で笑っていた。まぁそれも嘘なのだろうが。
 「じゃあ、また」
 「おう」
 煙草の煙を吐き出してヒラヒラと手を振ってくる。それに適当に返しながら、足早に家から出て行った。
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