後半

文字数 17,247文字

「さて。そういうわけで、伊吹さんは何をすればいいか分かるかな?」
「制限時間内に池田君よりもLCを高くする……」
「その通り」

 由利はニコニコと笑っているが、ルル子の頭はパンク寸前だった。

 残り時間は数十分。それまでに自分のLCを140,000以上高める。それは、今すぐに十四億円稼ぎ出せと無茶振りされたようなものだった。

「LCを株価のように考えれば分かりやすい。要するにマターは人を企業に置き換えつつ拡大解釈している。本質は単純な金融技術(フィンテック)であり、あっという間に値を吊り上げることもできるんだよ。難しく考える必要は無いさ」

 由利に言われても、ルル子には方法が分からない。アニメや漫画のように気合を入れたらLCが上がるってわけでもないはず。あくまでルル子の価値を上げなければならないのだ。ルル子の頭に思い浮かんだ方法は、今すぐに油田を掘り当てて石油王になるって程度だった。

「で、今すぐにLCを上げるには?」
「スコップを買ってくる」
「うん。違うね。冷静になろう。ヒントは、LC決闘を経済活動として置き換えることさ」

 ルル子はやや考えて、由利の言葉の意味を飲み込んだ。

「お金を借りてくる?」
「その通り。稼がなくても借りればいい。投資や配当が認められているのだから、提携や調達といった手段も認められているのさ。ただ乾学園の場合、銀行にあたる存在はマターだけで、マターは頼んでもなかなかLCを貸してはくれない」由利は由利の出方をうかがっている池田達三人の後ろに行き続けた。「自分の住む町に、ある日外国の巨大企業がやってきて、乱暴にも町の真ん中にビルを建てると宣言した。伊吹さんは町の八百屋さんで、それを阻止したい。どうやって戦う?」
「地元の人たちの力を合わせるかな……」
「そう。そして、後ろを振り返ってごらん」

 ルル子は振り返った。そして気付いた。クラスメート全員が、ルル子に視線を向けている。

 初等部時代からずっと仲の良い友達や、ルル子をGとののしっていた男子。半数近くが、顔に不安をのぞかせていた。中には両手を祈るように重ねて、瞳を潤ませながらルル子を見つめている女生徒までいる。

「投資といっても、LCそのものを移動させる必要は全く無いのさ。同じ目的を持つ者同士で集まり、一時的に一つの集合体になる。それが『LC提携』。小さな魚が身を守るため群れで巨大な魚影を作るように、伊吹さんが陣頭指揮を執り、皆をまとめあげればいい」
「うん……、わかった。やってみる」

 ルル子が協力を呼びかけようとした瞬間。

「私、ルルちゃんを信じるよっ!」

 突然、眼鏡をかけた三つ編みの生徒が立ち上がった。

「さっちん!」

 ルル子からさっちんと呼ばれた生徒は、ルル子にかけ寄ると抱きついて泣き出した。

「私、ルルちゃんにいつも助けられてばかりだもん。ガラスを割った時は一緒に謝ってくれたし、ごはんをこぼした時もルルちゃんは半分分けてくれた。忘れてないから。私のLC使ってっ!」

 ルル子は泣き続けるさっちんをなだめる。その横に由利が並び、頷いた。

「伊吹さん、エアリアルデバイスを開いて」

 ルル子が由利に従うと、由利は両手の指を使い、ルル子のエアリアルデバイスのタップを始めた。投資に関するかなり複雑な手続きを行っている。

「これでよし。さっちん、右手をここにかざして『アライアンス』って言って」

 さっちんが由利の指示に従い「アライアンス」と口に出した。その途端、さっちんのLCが浮かび上がった。29,200LC。さっちんは失敗が多いけど、国語の成績はとても良い。その点をマターからも評価されているんだなと、ルル子は思った。


 さっちんのLCが、教室のLC決闘プライスボードに移動する。


伊吹ルル子 (連) 29,400 LC

「わっ、増えた」
「真ん中にある連結マークが『LC提携』の絆さ。投資すること無く提携している状態。さっちんのLCを減らすこと無く、伊吹さんが借りていることになる。ちなみにLCの数字は上三桁から下が全て切り捨て表示になる。気をつけてね。この状態で伊吹さんがLCを上下させる行動をとると、その影響がさっちんにも現れるから」
「う、うん」

 由利の言葉で、ルル子の身も引き締まる。今は文字通り、さっちんの未来を借り受けているんだ。絶対に期待を裏切りたくはないと、拳を握って気合を入れる。

「ねえ。由利君だっけ。そのLC提携ってやつ、一時的でいいんだよねえ」

 すぐ近くの髪にゆるくウェーブをかけた女子が言った。ルル子の知らない女子だった。数少ない編入組だ。

「いつでも解消できる。池田君とのLC決闘が終わってすぐにでも可能さ」
「じゃあ乗るよ。あたいはリサ。ヒップホップやってんの。ダンスは好きだけど、池田が誘う競技ダンスは考えられない。そいつの出演してた映画見たけど、タイツはいて踊るなんてマジありえない」

 リサもそのまま、さっちんのようにLC提携を行った。


伊吹ルル子 (連) 45,300 LC


 リサのLCは16,000と低かった。だが、リサと由利のやり取りで教室内の流れが変わった。一時的な提携で良いのならと、女生徒が数人動き出した。

「私も以前、体育祭の嫌な仕事を伊吹に代わってもらったことがあるしな」
「風邪で寝込んでる時、ルルが見舞いに来てくれたっけ。あたしが治るのと入れ替わりにルルが倒れて大変だったよね」

 仲間こそ力。池田のオーラに押されていたルル子の友達は、由利と共に戦うルル子から勇気を貰ったらしい。乾学園初等部卒業時点の生徒の平均LCは、およそ30,000LC。ルル子の協力者たちは皆、平均値よりもLCが低かった。

 だが結局、六人目のLC提携で、ルル子のLCは池田を抜いた。


伊吹ルル子 (連) 151,000 LC


池田幸 141,000 LC

「やった! 由利君、上回ったよ!」
「いや。まだまだこれからさ」

 喜ぶルル子達に、由利の対応は冷たかった。いつの間にか由利は自身のエアリアルデバイスを使い、集中しながら何かを操作していた。ルル子は覗こうとしたが、偏光機能がかかっていて見えなかった。エアリアルデバイスをカスタマイズするには、ややLCが消費される。

 由利はLCがマイナスなのに、なぜそんなことができるんだろうと、ルル子は不思議に感じた。

「おほほほっ。かわいいわね、伊吹さん。その程度であたくしに勝ったつもりなのかしら?」
「むっ。池田君、あなたの負けです。おとなしく降参したらどうですかっ」
「あら。随分と強気になったわね。けど残念」

 池田の後ろでエアリアルデバイスを操作している来島が前に出た。

「残念って、どういう意味なの」
「自惚れるなよ伊吹。愚かな奴だ。LCの提携方法を知るのが由利だけだと思ったか」

 その時。池田のエアリアルデバイスが開き、来島と井川が右の手のひらをかざした。

「アライアンス!」

 二人からLCが浮き上がる。井川が15,400LC。来島が16,900LCだ。それが、池田のプライスボードに吸い込まれていく。


伊吹ルル子 (連) 151,000 LC


池田幸 (連) 173,000 LC

「フッ。これで逆転だ。残念だったな」
「うぐぐっ……」

 ルル子が歯噛みをして悔しがっていると、井川がルル子に近寄ってきて、目の前で笑い始めた。

「ぶひゃひゃひゃひゃっ。残念だったなG。おまえの作った絆なんて、池田君を中心にしたおれら三人に勝てねーよ。まだ足掻くの? うん? 無駄な努力と分かっても、まだ俺達に歯向かっちゃうのお?」
「うっ、うるさいっ。まだ、一人か二人、LC提携してくれる人が見つかれば……」

 ルル子は教室を見回して、ルル子に協力してくれそうな生徒を探した。だが、これ以上は自主的に手を上げる生徒が見つかりそうにない。まだまだ多くの生徒が池田ら三人に怯えているのだ。

 恐れ。様子見。面白半分。傍観者たちは腰が重い。仕方ない、一人ずつ声をかけて説得しようと、ルル子が歩き始めた瞬間、由利がルル子の肩に手を置いた。

「伊吹さん、その必要は無い。君が勝利する鍵は既に手に入れているのだから」
「えっ?」
「落ち着いて考えよう。今の池田君たちを見て、何か引っかかる所は無かったかい?」
「……引っかかるところ?」

 由利がルル子に尋ねると、ルル子の後ろから仲間達も声をあげた。

「うん……。何か変だったような……」
「私も思ったあ。具体的にはわかんないんだけど……」

 落ち着けあたしと、ルル子は心の中で言う。今はみんなのLCも預かっているのだから。経験したことの無い緊張状態の中で集中力が高まっていたルル子は、由利の言葉から、すぐに答えを探り当てた。

「……井川君と来島君のLCが少なすぎる?」

 由利が指で丸を作り、笑顔を見せた。

「そうだね。更に付け加えると……、いや。これは心優しい伊吹さんには指摘しづらい点だろうね。僕から言おう。来島君のLCが少なすぎる」

 ルル子が気付いていたことを、由利はよく通る声で言い切った。由利の指摘は井川のプライドに傷をつけることになる。そのため、ルル子はあえて言わなかったのだ。

 来島と井川。池田に従う二人には、明らかに人材として差がありすぎる。来島はデータ集めやLC決闘に関しては、池田を凌ぐ知識を持つように見える。井川よりはるかに働いており、池田の右腕として大活躍している。対して井川は、ほぼ何もしていない。それなのに、二人のLC差が1500しか無いというのはしっくりこない。

「ところで伊吹さん。現在のわが国で、投資を経験したことのある国民は何割程度だと思う?」
「え? えっと、半分くらい?」
「違うね。二割未満さ。そして、投資により恒常的に利益を得ている者はその半分以下なんだよ。マターが乾学園にフィンテック制度を導入しているのは、投資に対する知識や積極性を植えつけたいという考えもあると思う。ただ、マターの狙いは生徒に届いていない。七十万人全ての学生を合わせても、実際に投資活動を実践している者は一割に満たないらしいからね」

 由利は喋りながら、自身のエアリアルデバイスを巨大化させた。トップページには大きく『学園四季報(スクールレポート)』と書いてある。

 それを見た途端、来島が明らかにうろたえ始めた。

「伊吹さんは、バスケット買いという言葉を知っているかな?」
「よっ、よせ、由利」

 来島が由利に飛びかかろうとした。LC決闘の最中の暴力行為は大きなマイナスになる。池田が首をかしげながら合図すると、井川も戸惑いながら来島を止めた。

「簡単に説明しよう。バスケット買いとは、資本をダブつかせた大口の投資家が、個別の銘柄ではなくて、銘柄群が属する集団にまとめて買いを入れる投資手法さ。鶏一羽には投資する意味は無いが、鶏卵工場には投資価値が生まれるようなものでね。乾学園にもマターがバスケット買いを入れる基準があるんだよ。それは『部活の総在籍者が百人を超えた』瞬間。その途端、投資対象の価値が何倍にも上がる」

 由利が四季報(レポート)を指でスライドさせた。ページがめくれてモーションが止まる。表示されているのは、第四ダンス部会計、投資家一覧表。

「一定のLCを支払うと、最新のデータを見ることができる。それが投資家のバイブルとも言えるこの学園四季報さ。ここの一番下を見てほしい」

 そこには、来島頼の名前と、30,000LCという数字があった。

「そして、これが現在の第四ダンス部の総在籍者数」

 その総人数。そして、ルル子のクラスメートの数。

 クラスメートの大半を加入させると、ちょうど百人を超えるラインだった。

「インサイダー取引じゃねえかよ!」

 男子生徒の一人が、激怒しながら立ち上がった。

「汚ねえぞ来島。俺達をダシにして自分だけ大儲けしようとしてやがったな!」
「共にLCを高めましょうなんて言いつつ抜け駆けかよ!」
「ちっ、違うぞ。俺はダンスを習得する生徒の未来は明るいと純粋に信じた上で投資していただけだ。下心は無いっ」
「それならば、なぜ池田君が在籍している第四ダンス部だけをバスケット買いして、他のダンス部には投資をしていないのかな?」
「ぐっ、それはっ……」

 由利の問いかけに、来島は答えられなかった。直後に、怒りにあふれた男子生徒が数人、ルル子へのLC提携を申し出た。

 残り時間が十分を切った時。ルル子は圧倒的大差で再逆転した。


伊吹ルル子 (連) 293,000 LC


池田幸 (連) 173,000 LC

「来島あっ!」

 井川が髪の毛を逆立てながら、来島に殴りかかった。

「おやめなさい!」

 しかしその時、池田が来島を守るようにして、井川の前に立った。井川は寸前の所で拳を止める。池田は芸能の仕事をしているので顔は商売道具だ。もしも拳を振り抜いていたならば、その瞬間に井川のLCはマイナス転落もありえるほどの大暴落をしていただろう。

「来島さん。あたくしはあなたを親友だと考えているし、全幅の信頼を寄せてます」
「池田君、俺は……」
「良いのです。すべてを水に流しましょう。井川さんもいいですね?」
「でもさあ、きちんとケジメをつけないと」
「私達は既に運命を共にする仲なのです。仮に来島さんが抜け駆けして利益を得ようとも、それを素直に喜んであげるくらいの度量を持ってください」

 池田が井川を説き伏せた。化けの皮が剥がれた来島は、動揺して汗をタラタラと流している。来島も池田を恐れているのだなと、ルル子は感じた。

「二人とも落ち着きなさい。デュエルはまだ終わってません。それに、私達には来島さんが用意しておいた切り札があるじゃないですか。慌てる必要はありませんよ」

 そんなものあるわけねえよ、負け惜しみだ、はったりだと、ルル子の後ろから罵声が飛ぶ。

 ルル子は由利を見たが、由利は今も集中して何か別の操作をしていた。

「伊吹さん。お馬鹿さんなあなたが、仁の力だけであたくしをここまで追い詰めるとは見事です。御輿としては中々ご立派ね」
「あたし、お御輿ほど重くはないもん」
「……とにかく、あなたに人を引き寄せる力があることは認めましょう。そして、その力の源は人を思いやることのようですね。ですが、あなたが生み出せる絆の力は、あたくし達の支えあう信念に勝てるのかしら?」
「どういう意味なの?」

 池田が指を鳴らすと、未だに緊張の解けていない様子の来島が前に出た。

「俺やお前がやっているLC提携ってのは、いわば業務提携。協力と口約束の段階だ。本当の絆ってのは、命を預け合うこと。LCを実際に渡し合う資本提携の段階になってこそ、絆は盟約と呼ばれる黄金の鎖になる」

 来島の目の前に、池田と井川のエアリアルデバイスが開かれた。自身のものと合わせて三人分の操作を来島が一人で行っている。

「由利ならば方法は知っているだろうが、俺達のつながりの深さまでは気付いてないだろう。俺達は『LC交換』と呼ばれる方法で結ばれている。株式でいうならば株式交換だ。一定のLCを互いに持ち合うことにより、決して崩れない関係を作り出す。これは投資にならない業務の提携なので現在のLC値には反映されていない。まさかこのような場面で役に立つとは思ってもなかったぜ」
「持ち合い?」

 ルル子は由利を見た。だが、由利は苦いものを噛んだかのように顔をしかめている。来島の言う通り、由利にも想定外のことが起きているらしい。

「これよりLCを売り、持ち合いを解消する。これが俺達三人の真のLCだ!」

 その時、池田達の頭上に浮き上がったLC値が、黒い↑と共に大きく変動した。


井川茨 59,900 LC


来島頼 91,400 LC


池田幸 178,000 LC

「ゆっ、由利君っ、あれどういうこと?」
「……なるほど。二十五%ルールかな。あれが三人の本当のLCなんだよ。池田君が井川君と来島君の総LC値の二十五%相当にLCを渡して、井川君と来島君が池田君の総LCの二十五%を取得する。こうすることにより、池田君を中心にして、運命を左右するほどの大きな選択を下す時には互いに干渉できるという議決権を得る仕組みさ。更に来島君は第四ダンス部のバスケット買いも解除したようだね」
「その通り。俺はマネージャーで井川はプロデューサー。俺と井川は生涯に渡って池田君をサポートすると既に決めていたのだよ。身を切られる思いだが、このLC決闘は絶対に負けさせない」

 未来の成功が確実視される池田に、生涯つき従うと既に誓っている。ルル子は来島や井川の忠義心を過小評価していた。LCとは金銭であり人生だ。それを交換して委ね合う。平凡な中等部の生徒には甘くはない覚悟であった。

 池田達三人の加算された真のLCが、プライスボードに反映される。LC決闘(デュエル)の残り時間が百秒を切った時。再び池田がルル子を逆転した。


伊吹ルル子 (連) 293,000 LC


池田幸 (連) 329,000 LC


 ルル子の息が浅くなり、手のひらが汗でべたつく。LC決闘の桁が違いすぎる。一万円を持ち歩くだけで挙動不審になってしまう小心者のルル子には、仮の状態とはいえ約三十億円相当のLCを抱えている今の状況が耐えがたいプレッシャーだった。今ここで椅子に座っただけで自分の背負ったLCが大暴落する気がして、手の先が冷え感覚が薄くなる。

 青天井につり上がっていくルル子と池田のLC値は、教室全体の空気も重くしている。限界まで膨らんだ風船の前にいるかのように、ほとんどの生徒が体を強張らせたまま動かなかった。

「どうです? 臣にして友。あたくしの腹心は中々優秀でしょう」

 しかし、池田だけは場慣れしている。幼い頃から舞台で活躍してきた池田には、教室の緊迫感を楽しむ余裕すらあるようだ。

「どうやら、あたくしたちの勝利のようですわね。中々美味な娯楽でした。敗戦の弁があるなら聞いてあげてもよろしくてよ」
「ちょっとタイムしてトイレに行ってもいいかな?」
「……もう少しだから我慢してくれないかしら」

 ルル子の緊張感の無い要求を池田が拒否した直後。由利のエアリアルデバイスから雄牛のアバターが飛び出し『約定したぜ』と、太い声で言った。

 危なかった。由利の小さな呟きを、ルル子は確かに聞いた。

「由利君?」
「安心して、伊吹さん。それと色々心配をさせてごめんね。現在値だけに注目してしまい、その裏にある情報を見落としてしまう。投資の初心者が陥りやすい悪い点だ。僕が最初から彼らの含み資産までをチェックしておけば、ここまで追い込まれることも無かった」

 残り時間が少ないのに、由利は落ち着いている。質問をしようとしたルル子を、来島の声が遮った。

「フッ。この期に及んでもまだ強がっていられるのか。俺達のLC交換に気付かなかった事が貴様らの敗因だ。もはや打つ手が無いだろう」
「うん。反省した。来島君には勉強させてもらったよ。LC決闘をする時は、値段だけで判断せず、面倒でも賃借対照表(たいしゃくたいしょうひょう)に目を通したほうがいい」

 ルル子は首をかしげた。早口言葉のような経済用語だ。ルル子の知識には無い単語だった。

「賃借対照表ってなに?」
「バランスシートといってね。簡単にいうと、資産と負債を合わせた総資産を知ることができる財務諸表さ。自分のLCを向上させることしか考えない、投資に興味を持たない人には無関係な代物だが、投資家にはとても重要な情報を与えてくれる」

 由利が四季報をめくり、ルル子のバランスシートを表示した。そこには、さっちんやリサ達とのLC提携状況が細かく記載されていた。

「このように、LC変動の外部要因の大半を確認することができるのさ」
「ええい、それがどうしたっ!」

 由利は話に割り込んできた来島を見て、言った。

「僕のLCがなぜマイナスなのか、理由をきちんと考えてみたかな」
「ああん? それはっ、貴様が無能だからっ……」

 来島は焦りをぶつけるかのように叫んだが、直後に口を閉じた。

 来島は自分の誤解を悟ったのだろうと、ルル子は察した。同時に、ルル子もまた、由利という人物を頭の中で再評価しなおした。

 ルル子は直感だけで由利と共に戦うことを決めたが、そもそも最初の疑問である、聡い雰囲気の由利のLCがマイナスという違和感。そのアンバランスな謎についての答えを未だに得ていない。

「LCがマイナスの理由……。バランスシート……。貴様の持つ投資の知識……」

 来島のキツネ目が、大きく見開かれた。

「気付いたようだね」
「まさか、信用取引か?」
「その通り。マターと信用取引の契約をすると、自分のLCを担保にして、銀行から融資を受けるかのごとくマターからLCを借りられるようになる。するとレバレッジを効かせた取引が可能になるのさ。しかし、取引中はマターから信用取引で借りているLCの数パーセントを金利として支払わなければならなくなってしまう。そこの部分だけは借り受けとして赤字になるんだよね。つまりは、自分が持つ全てのLCプラス信用取引で投資活動をしていると、どうしても現在値が赤字になってしまうのさ。池田君たちのLC交換が現在のLCに反映されてなかったように、僕の真のLCはバランスシートを精査しなければ分からなくなっていたんだよ。そしてつい先ほど、僕は取引を決済した」
『由利主税。LCはどうする?』
「そのまま現在値に反映させてくれ。再投資はしない」
『わかった』

 由利が雄牛のアバターに言うと、由利のプライスボードが浮き上がり、由利のマイナスのLCが一気にプラスになった。

 ルル子は由利のLCを当惑しながら声に出す。

「一、十、百……え、なにそれ」


由利主税 301,000 LC


 上昇の停止した由利のLC。それは、クリスタルチルドレンと呼ばれる池田のLCすらも上回っていた。

「なっ、なんだあのLCは!」「何者なの、由利って奴」

 蜂の巣をつついたような騒ぎになった教室の中で、由利がルル子の耳に口を近づけ、大声を出した。

「言っただろう。伊吹さんは僕と組んだ時点で勝利が決まっていたのさ」

 由利がルル子のエアリアルデバイスに右手のひらをかざした。

「アライアンス!」

 由利のLCとルル子のLCが提携される。それが終わった瞬間に、LC決闘の終了時間が訪れた。


伊吹ルル子 (連) 594,000 LC


池田幸 (連) 329,000 LC

『デュエル終了。勝者伊吹ルル子。池田幸の提案は否決されました』

 プライスボードから合成音声が教室に響くと同時に、ルル子は抱きついてきた女子の支援者に押し倒され、もみくちゃにされた。





 小よく大を制す。こうしてルル子は、池田の強権政治の始まりを未然に防ぐと共に、自身がアイドルとして恥をかく未来を阻止することにも成功した。ルル子がおんぶにだっこの状態で、ほとんどの手続きを代行してくれた男は「まぎれも無い伊吹さんの才能だよ。僕の用意したLCだけでは、池田君達に勝てなかった。伊吹さんの求心力があったからこそ、最後には圧勝できたんだ。他人を思いやる人の下には、たくさんの人が集まる。僕もそのうちの一人だったってだけさ」と、きれいに話をまとめて終わった。

 池田らとも和解し、ピリピリした空気も和み、ルル子の平凡な中等部生活はまったりとスタートする。

 はずだった。

『クリスタルチルドレンの池田がGに倒された』

 ルル子のあずかり知らない所で、ルル子の急激なLC上昇という情報は、乾学園全体に広まっていた。ルル子は後にリサから伝え知ることになるのだが、乾学園全体には、投資家タイプの生徒向けに『LC値上がり率ランキング』という情報がリアルタイムで公開されていたらしい。午後にはルル子に対する投資を申し出る者がイナゴのように現れた。

 買いが買いを呼び、マネーゲーム化したルル子のLCは、あれよあれよという間に1,000,000直前まで膨れ上がっていた。

 その影響は、ルル子とLC提携をしていた仲間にまで波及。特にさっちんはミラクルだった。一番最初にルル子とLC提携したさっちんは、ルル子のLC上昇率ボーナスから得た恩恵だけでもすさまじかった上に、ルル子関連銘柄の筆頭とまで呼ばれるほど人気者になった。最もLCが割高だった由利には買いが集まらなかったが、割安だったルル子のLC提携仲間は、ルル子と連動して爆発的に値上がりを続けた。

 大国の大統領の隠し子らしい。闇で武器商人をしているそうだ。国家機密を握っている。マターの開発を統括した天才だとか。やがてルル子に関する冗談のような風説の流布が飛び交い始めた頃。ルル子バブルは弾けて終息に向かった。

 しかし、それでもルル子には何かがある。そう考えた投資家は多いらしい。結局、ルル子のLCは四十万前後で落ち着き、今も少しづつ上下に振れている。

「それは仕手株という現象でね。破綻する心配の無い超低位株を安い段階で買い占めて、値を吊り上げて提灯がつき、大騒ぎになってから売り抜けて利益を得るって戦術さ」

 LCが三十万を超える者しか立ち入りを許されない、乾学園中等部最上階のカフェテリア『セブンピラー』の窓際の席に、ルル子は座っていた。

 目の前にいるのは、生徒会副会長。中等部の始業式で演説をしていた眼鏡の女生徒だった。

 別世界の人間だと考えていた相手だが、池田とのデュエルでルル子の器は磨かれつつ鍛え上げられた。上位のクリスタルチルドレンと一対一で向き合おうとも全く萎縮していない。

「なるほどねえ。話を聞いた限りでは、由利は池田の方針に反発して君に協力したようだが、本心は違うところにあったのかもしれないな」
「はい? そんなはずは無いと思います。由利君は純粋にクラスメートのためを考えて立ち上がったと……」
「甘いな君は。まあ、その甘さが君の長所であり求心力の源なのだろう。人望を持つ者のところには、不思議と優れた部下が集まる。君は劉備のように成り上がる運命なのかもしれない」
「そんな……。買いかぶりすぎですよ。あたしのLCは既に天井に頭をぶつけました。これ以上目立つような出来事は起こりません」

 ルル子とのLC決闘に敗北した池田は、学級委員の立候補も辞退した。空いた席には、なぜかところてんのように押し出されたルル子が座らされ、そのまま今に至っている。

 仕事にも慣れた現在、副生徒会長から呼び出されたルル子は、これが学級委員としての仕事の呼び出しではなくて、池田との騒動の事情聴取であると気付いた。

「あの。池田君との出来事は、副生徒会長には無関係ですよね。そろそろ午後の授業が始まるので戻らないといけないのですが……」
「フフ。噂通りか。君は真面目になったそうだなあ。成績もぐんぐん上がっているようだし。立場が人を作るというが、君はLCに向かって成長するタイプだな」

 副生徒会長はルル子を教室に帰そうとしない。なんだかんだと話を引き伸ばしルル子を足止めしてくる。

 ルル子はたしかに成長していた。よく食べよく眠り、授業では決して居眠りをしなくなった。朝は予習とジョギング。夜は復習と護身術中心のトレーニング。心技体とバランスよく自分を研ぎ続けて、生まれ変わったかのように全ての能力が高まっている。生活に誰よりも厳しい規律を取り入れたのだ。

 LCが四十万。それは、生涯年収で四十億円を稼ぎ出すべき人として、ルル子に投資している人がいるということ。

 周りから受ける期待を裏切るわけにはいかない。仲間を失望させたくない。自分のためではなくて、他人のため。クラスメートや自分に投資する人のためにと、ルル子の努力は続いていた。

「まあ落ち着いてくれ。別に君と池田のLC決闘は、私に無関係だったというわけではないぞ」

 椅子から腰を半ば浮かしていたルル子は、副生徒会長の言葉で再び座り直した。

「どういう意味ですか?」
「由利が最後に換金したLCは、私に投資していた300,000LCだ。ようするに彼は、私と縁を切り、君に投資対象を乗り換えたということさ」

 副生徒会長がエアリアルデバイスを開いた。シャム猫のアバターがモニターを拡大させる。言葉を裏付けるかのように、噂で聞いていた副生徒会長のLCから相応の価値が引かれていた。

「由利君は副生徒会長のことを知っていたんですか?」
「ああ。それなりに古い付き合いだ。君は由利が第一学区にいた頃の彼の二つ名を知らないのかい?」
「二つ名?」

 副生徒会長は立ち上がると、腰をひねりながらイナバウアーのように反らし、左手を変な角度に曲げ、薬指と小指の間にある右目だけでルル子を見た。

「不死鳥を孵化させる者(フェニックス・ハッチャー)」

 ルル子は微妙な衝撃を受けた。

 副生徒会長のとっているポーズは、由利がLC決闘が始まる前にとっていたポーズと同じだった。

 このポーズはおそらく、彼自身のきめポーズだったのだ。

 自意識過剰なヒーローが名乗りながらやるような。

 由利君、あなたはそういうキャラだったんだね。ちょっぴり痛い系だったんだね。

 でも嫌いじゃないよと、ルル子は頭の中で由利を応援した。

「さすがに中等部に上がって、彼もそういうキャラから脱却したようだな」

 完全には抜け切っていない。もうちょっと時間がかかりそうです。ルル子は思ったが、由利の名誉のために黙っておいた。

「フェニックスを孵化させる。ようするに彼は、マターにすら見抜けない、額面割れしている埋もれた原石に投資して、その殻を破らせる事を得意とするタイプの投資家だったのさ」

 シャム猫のアバターが肉球を使い、過去のデータを表示させた。そこには、副生徒会長のLC推移がチャートとして載っていた。

「私も元は額面割れ。Gだった。彼から受けた投資を元手に成長したのだよ」

 最安値、LC53。生涯年収、五十三万円。

 副生徒会長の数年前のLCは、ルル子すら下回っていた。

「乾学園で信用取引口座を開設するには、三年以上の投資経験が必要でね。なおかつマターの審査に合格した者だけに認められる制度なんだ。私が由利と出会ったのは、私が初等部六年生で、彼が初等部四年生の時だった。その時点で彼は自身のLCを信用取引でフル回転させながら、薄氷を踏むような投資を繰り返していた。ということは、初等部入学直後からLC投資を経験していたことになる。私を助けた直後にあいつは『世の中を創っていくのはいつだって投資家さ』と笑いながら言ってたが、私の目には、由利は革命家に見えたな。だが、派手に稼ぐと嫉妬を買うもの。第一学区で敵を作り過ぎた事により、彼は急速に変わったと聞いたことがある。それ以降は、自分のLCを低く見せかけ、投資活動が目立たないように工夫を凝らしていたそうだ」
「ということは、普段から信用取引の金利支払いでLCをマイナスに見せていたのは、元から計算の上だったのですか?」
「そういうことさ。相場には『買いは処女のごとく、売りは脱兎のごとく』という格言がある。安い銘柄を買う時は目立たずこっそりと。売り抜ける時は素早く動け。優れた投資家というものは、常日頃から目立とうとはしない。周囲に狙いを見せないように工夫しているものなのだよ」
「へえ……、ん?」

 ルル子はそこで、胸にできた違和感に気付いた。

 もやもやとした爛れた手のようなものが、ルル子の心に絡まってくる。

「先ほどおっしゃられてた、由利君の本心……。ということは、副生徒会長は、由利君はあたしを助けるために動いたわけじゃなくて、処女のごとくこっそりと、あたしのLCを買い占めるために動いたと言いたいんですか?」

 副生徒会長は、悪魔のように笑った。

「私の推測だがな。君は単に、出汁に使われただけだと思われる」

 副生徒会長の笑みが、鎖になってルル子を縛りつけてきた。ルル子はそれを払いのけたくて、言葉を連ねた。

「そんなの副生徒会長の邪推でしょう。何か根拠があるんですか?」
「ある。LC決闘の勝利条件さ。由利ならば最初から一人で池田達三人に勝てる戦略を組めていたはずだ。そこに君が手を上げた。目立つことを嫌う由利は、君の立候補をこれ幸いと利用して、協力することにしたのだろう。そうでなければ、LC決闘の対戦を君と池田に限定させた意味が無い。由利と池田が対戦する形でもどうせ最後には勝てたのだろうから」
「うっ、それは、あたしのほうが由利君よりもLCが高かったから……」

 ルル子は口を開きながら、自分の言葉の矛盾に気付いた。ルル子と由利のLC差はおよそ4,000。知識の豊富な由利のことだ。最初から学園四季報(スクールレポート)で池田の総LCに当たりをつけていただろうから、最後は何十万というLCの戦いになると気付いていたはず。たった4,000LCの差なんて無いようなものと知ってて当然だ。

『まあ、LCがマイナスの奴よりは、Gのほうがまだましだわな』

 ルル子はあの時、井川の言葉を聞いて、自分が代表者になることを納得した。だが、たしかに副生徒会長の言う通り、別にルル子を代表者にさせなくとも、由利は勝てたかもしれない。

 いや。勝てていた。あたしがいなくても、由利君ならば。

 ルル子がそう確信できるほど、由利は引き出しの全てを未だ見せていない。

 だが、ルル子は更に抗った。

「いやいや。違いますよ。LC決闘で勝てたのは、あたしを支持してくれた仲間がいたからです。副生徒会長も言ってくれたじゃないですか。あたしには求心力があるって。フェニックス・ハッチャーの由利君は、Gだったあたしに投資価値を見出したからこそ、代表者に立たせて殻を破る手伝いをしてくれた。それに目立つことを嫌う由利君が、たった一人で池田君たち三人と向かい合うわけがないと思います。たぶん、副生徒会長の殻を破らせてくれた正義の投資家である由利君は、今も健在してますよ」
「第一学区の知人から、由利の卑劣な噂話をいくつか聞いている。以前に由利は『自分が稼ごうとするよりも、首輪をつけた犬に稼がせるほうが効率がいい』と言っていたそうだ」
「犬?」
「そう。もしかしたら、君のクラスの中にも、由利から首輪をつけられた犬がいたのかもしれない。君が立ち上がらなかったら、そいつに合図を送り立たせていたのだろう。そしてLC提携で勝利させて、仕手株として化けさせる。君のようにね」
「は? っていうことは……」
「君にLC提携を申し出た仲間とやらは、全てが由利の飼い犬だったと思われる」

 副生徒会長の言葉は、ルル子の呼吸を驚きで詰まらせた。吸い込めるだけで、吐き出すことができなくなる。

 さっちん。リサ。その他の仲間達。自然に生まれ、束ねたはずの絆。あの全ての輝きが偽りだったとしたら。

 ルル子はショックで椅子から崩れ落ちそうになるのを我慢して、副生徒会長と向き合い続けた。

「池田とのLC決闘。立場を断定できるのは、池田に歯向かった君と、はっきりと由利に抗った来島の二人だけだね。自分のLCを隠しながら生活したいと考える由利にとって、来島の肉薄だけは計算外だったと思う。特にラストで来島が第四ダンス部のバスケット買いを手仕舞い、なけなしの30,000LCをLC決闘に放り込んできた事は由利をとても苦しめたはずだ。私に投資しているLCを売りさばける確証も無かっただろうしね。それ以外の生徒は全てが灰色と言えるだろう。池田すらもな」
「それはさすがに……」
「由利は一儲けするために『クリスタルチルドレンが倒された』というニュースだけを作りたかった。ダンスの啓蒙以外の些事に関心の薄い池田は、由利の提案を内密に受けた。ただし忠臣である来島と本気で闘うことを条件としてね。池田にそのような素振りを感じたことはないかな?」

 副生徒会長に言われて、ルル子は記憶を手繰った。

 たしかに一理ある。池田は終始結果を見透かしたかのような享楽的態度であったし、来島の成長を望んでいるようでもあった。

『あなたの申し出、受けてもいいわ。ただし来島さんと正面から闘って勝ってみせなさい』
『ありがとう。けど勝負にならないと思うよ? 君の副官はまだまだ青い』
『色々な経験を積ませたいのよ。それと彼を侮ると足をすくわれるわよ』
『ははっ。谷に落として這い上がらせたいんだね。いいだろう。鍛えてあげるよ』

 由利と池田が楽しそうに密談する光景が、ルル子には想像できた。

 更に、それが事実だった場合、別の疑問が氷解する。

 LC決闘で敗北した池田や来島のLCが下がらなかった点だ。

 Gに倒されたクリスタルチルドレン。その汚名は、池田の確定している輝かしい未来に水を差すはず。それにLC決闘で由利に秘密を暴かれた来島はクラスメートからの評判を大きく下げた。

 しかし彼らのLCは十パーセント以上の下げを見せなかった。

 ということは、だ。

 マターは事前に、池田の負けを予期しており、池田が惨敗した展開のLP変動を既に織り込んでいた。

 その可能性がとても高い……。

 ルル子は頭の中で、副生徒会長の言葉と自分の推理を整理した。LC決闘が全て、由利により動かされたものだとしたら。

 ルル子のあずかり知らぬ所で、由利は仲間(いぬ)を使い、LCを荒稼ぎしていた。

 気持ちの上では由利を信じたい。だが、由利ならば可能だと思える。副生徒会長の言っている、マッチポンプの仕手株相場で利益を得てほくそ笑む。そんな由利の姿も、ルル子は想像できた。

『お飲みなさい。落ち着くわよ』

 副生徒会長のアバターのシャム猫が、新しく運ばれてきたミルクティーを示して、ルル子に声をかけてきた。首輪には『チェシャ』と名前が彫られている。ルル子が使っている初期設定のままのラッコとは全然違う。動きが滑らかで解像度も高く、高貴で妖艶な雰囲気だ。

 垂らされたミルクが作る渦のように、ルル子の考えはうまくまとまらない。ミルクティーに口をつけて息を吐き、その熱で胸を落ち着けた。

「こんな小話がある。『世界で一番賢い奴が、どこにいるか知ってるかい。ウォール街で戦争や革命を起こしながら利益を得ているのさ。二番目の奴もそう。三番目から七番目あたりまでは、そのおこぼれを頂いてる。八番目あたりまで落ちてしまうと、自己主張を始めて大国のトップに立ったりしてしまう』。いつだって大衆は、自分が動かされているということに気付いてないのだよ」

 副生徒会長は長い髪をかきあげながら、エアリアルデバイスを閉じた。話を終えるつもりのようだ。

 ルル子の頭の中は未だに麻痺している。

 全ての出来事に意味があったのかもしれないが、無かったのかもしれない。

 全ての結論が出せないと悟った不安。ルル子はマターの悪意を知った時と似たような感覚だと思った。

 乾学園というウォール街。それを統括するマターという世界。

「恐いですね。未知の自然に放り出されたみたいです」
「その通り。投資とは恐ろしく、相場とは数字で成り立つ自然のようなものなのさ。秋の山は豊潤な恵みもたらし、冬の魚は脂を多く蓄えている。知識を持ち敬う者に、自然は恒久的な実利をもたらす。しかし、時機や備えを誤ったまま踏み入ってきた驕れる者に、自然は容赦なく死という鎌を首にあてる」

 由利はかつて、ルル子に言った。他人を思いやる人の下には、たくさんの人が集まると。

 そのセリフは、頭の弱い獲物にはたくさんの獣が寄ってきて、いずれはかじり殺されてしまうと言い換えることもできる。

 乾学園。この場所では本能をLCとして目視できる。多数の羊と一握りの狼が住まう弱肉強食の世界。

 本能だけで形成された野生という場所では、毎日のように善良で罪のない草食動物の赤ん坊が犠牲になっている。

 あたしは由利君の何を知っているというのだろうか。恋心だけに流されてしまい、彼は善良であると盲目的に信じてしまっていた。

 いや、信じていたかっただけなのだ。

 由利君が肉を食べる側ではないと、無垢なままに願っていたあたしは、まるで群れからはぐれた家畜。

 学生という庇護下の世界で万能と思いあがり、ひとときの開放的状況に浮かれて、凍った湖の上ではしゃぎ回り、転んで骨折する直前のロバのようなもの。

 その瞬間。ルル子の心から甘えが抜けた。

 同時に、胸に芽生えた野望への飢餓から、灼熱の闘志が注がれてくる。

「レゾンデートルを手にしたか。邪魔な殻を砕いたようだな。どうやら君は、劉備ではなく曹操なのかもしれない」

 副生徒会長がルル子の頭の上を指さしている。

 見なくてもルル子には分かった。LCが上昇して、黒い↑が出ているのだろうと。

 ルル子は決意した。マターに逆らうのではなく、マターをルル子の意で染めようと。

 掟と秩序を築く。そして学園に濁り無き統制を布こう。

 穏やかなる治世。清らかなる世界を目指して。

 弱者は力で抑え込み、強者は謀略で飲み込もう。

 不可避の敵は罠にかけて膝を折らせる。

 難敵ならばそそのかし潰し合わせる。

 志ある者は配下に従え、わたしの正道への随従(ずいじゅう)を許そう。

 LCを集め続け、この学園を尊き理想郷へと変えてみせる。

 孤独は恐れない。ただ上を向き進むのみ。

 別れ際。副生徒会長はルル子の背中に言った。

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登場人物紹介


伊吹ルル子   第七学区中等部の新一年生。ドジでおっちょこちょいだが優しくておもいやりがある。甘すぎる性格のためマターから落ちこぼれと評価されている。




由利主税   別の学区からルル子の学区に転籍してきた新一年生。正義感の強い眼差しでカリスマ性が高い。しかしLCがルル子より下という謎の生徒。





池田幸   ルル子のクラスメートで、クリスタルチルドレンと呼ばれるLC上位の男。プロのダンサーであり、存在感もスター級。作中では登場しないが、使用しているアバターは象。




来島頼   池田に参謀として従うキツネ目の男子生徒。抜け目の無い性格。興奮すると口調が若干ポエム調になる。





伊田茨   池田に従う懐刀。短気で口が悪い。周囲に対して常に喧嘩腰。初等部の頃からルル子をいじめているが、ルル子は伊田を扱いやすく感じている。





生徒会副会長   第七学区中等部の入学式で演説をしていた女生徒。表情は乏しく機械のように喋る。LCは1,000,000を超えており、男子生徒のファンも多い。






マター   ラテン語で母親を意味する、コンピューターの並列思考ネットワーク。学生の未来を概念的に予測して数値化し、LCとして公開している。



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