第1話

文字数 1,999文字

一 プロローグ
 「いらっしゃい。どうぞ」
 私がその店のドアを開けると、カウンターの中に、白い口髭を蓄え、黒い丸い眼鏡をかけた体格のいいマスターの優しそうな笑顔が視界に入った。店は丸フラスコのような形で、細い手前がカウンター席、奥の丸い部分に小さいテーブル席が三つある。全体に広いとは言えず、入り口から全てが見渡せる。奥のテーブル席に高齢の男女二人、カウンターの一番奥にも一人の客がいた。全員が申し合わせたように私を一瞥し、一瞬空気が停滞したようだったが、またすぐに各自の世界に戻り、同時に空気も動き出した。
 私は一番入り口に近いカウンターの席に座った。
「おすすめのカクテルはありますか?」
「マティーニかな」優しそうな笑顔だが、どこか寂しそうな表情でマスターが答える。
「じゃあ、お願いします」マスターは頷いて、下を向いた。
私は鞄から煙草を取り出して、火を点けた。
「どうぞ」マスターがもうカクテルを差し出した。
「早いですね」それに対しては彼は微笑んだだけだった。そして、
「煙草はやめた方がいいよ」そう、さりげなく呟くように言った。その途端、二回目の煙を吸い込んだ私はひどく咳き込んだ。
「ごほっ・・・そのようですね・・・」点けたばかりだったが、とても吸い続ける気になれず、灰皿で煙草をもみ消した。
「以前にいらしたことありましたっけ?」マスターがこちらを見て聞く。
「いえ、ここは初めてです」
「そうでしたか」マスターはやはり寂しげな笑顔を見せる。マティーニを口にしながら、軽い世間話が始まった。私が小さい雑誌社の記者をしていること、今は仕事が休みで暇なこと、など・・。

二 マスターの話
 カウンターの向かいの壁に可愛い柄の浴衣が掛けてあった。今は冬なのに。
それを見つめていた私を見て、マスターが小声で話し出した。
「ところで、この話聞いたことありませんか?」
私が記者ということを知って話してみたのかもしれない・・。

―私の店に常連の若い女性がいたのです。Aさんと言っておきます。時々店も手伝ってくれたりして気遣いの良い、他のお客さんにも人気がある方でした。でも、ある日、客の中に悪酔いした男性がいて、その連れの女性客も一人では介助が無理だと言って、一緒にその男性が帰るのを手伝うことになったんです。止めておけって忠告したんですけどね。どういう経緯になったのか、その後、客の男か女のどちらかが飲酒運転をして、その車に同乗させられたようで、事故で車は大破しました。Aさんは意識不明の重体でした。客の男女は軽傷で済んだんです。その後、車に残っていた足跡から運転していたのは女だったと判明した。女は刑務所へ入りました。男は泥酔状態で後部座席に寝ていただけで、判断できる状態では無かったということで無罪になりました。女性は出所したあと、姿をくらました。被害者に保証もせずに。Aさんは婚約したばかりで、その翌日にはその方とこの浴衣を着てお祭りを見に行く予定だったんですよ。私は何だか悔しくてね・・・-

 私は浴衣を見て涙が出た。この事件を記事にしてもいいかと、マスターに確認して、店を出た。

三 エピローグ
「途中までご一緒していいですか?」店を出ると、カウンターにいた高齢の男性が声を掛けてきた。
「あ、ええ」彼も話を聞いていたらしく、何かを知っている様子だ。
「あなたお名前は?私はB総合病院の名誉院長の牧と申します」
「ユキです」
「あなたの部屋を見てみるといい。そして感想があれば明日、同じ場所にいるので来てください」彼はそう言うと去って行った。
 狐につままれるとはこういうことだろうか。
 とにかく、いつもの部屋へ入る。そして、書斎。
そこには壁一面に週刊誌の記事が張り付けられていた。先ほどの話がすでに記事になっている。日付は三十年前の十月の記事。
机に手紙が広げてあり、それを読んだ。
 ―ユキさん、あなたが回復することを信じて、同僚であった私が事件の理不尽さを世間に訴えようと記事にしました。あの時、周りの皆が加害者のことを許せなかった。だって、反省の色が少しも見られない。でも、記事にしたところで、彼らの受けたダメージは些細なものだった。だから、あなたの婚約者でもあったマスターは、出所後姿を消した加害者を探し出し、制裁を加えてしまった。もちろん罪を償って、数年後に店を再開しました。
その目的は一つ。あなたの記憶が戻ってくれるのをずっと待っているんです。あなたは毎日、あの店を訪れて、そして、忘れて、また繰り返す。まるで思考が回廊に迷い込んでしまったように。私や、皆はあのバーを、記憶のベースとして、あなたの思考が回廊から出るのを待っている。主治医だった牧先生も診療を引退してからもあなたを見守っている。いつか、あなたが昔好きだったマティーニを自分から注文する日を期待して―
 私は喉を触った。気管切開の跡の窪みはカサカサしていた。

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