第1話

文字数 4,820文字

 奪ってほしい。
 何でもいい。自分の人生の全てを捧げられるような何かに、心ごと奪い去ってほしい。
 そんな何かを、ずっと探している。

 ボゥーー、と汽笛の音が鳴り響いた。
 何秒かしてゆっくりと車体が動き始め、車窓が流れていく。
 開け放った窓から入る風が心地いい。春風に触れたワンピースの裾は踊るようにはためいている。ワンピースと一緒に顔にかかってうざったい前髪も後ろへ流れていく。
 今まで滞在した街が春になり、線路を覆う雪が消えた。一年間住んだ街は自然が美しかったが、そろそろ都会の風が恋しくなってきた。私の旅はいつも都会と田舎を行ったり来たりしている。
 ぼんやりと、次に行く街について考え始めた。次にたどり着く街はどんな街だろう。おいしいご飯はあるだろうか。どんな花が咲いているのだろか。新しく出会う人たちは、どんな顔をして、どんな声で笑うのだろう。
 全部が気になる。
 でも今は車体と春風に揺られて、眠気で頭がいっぱいだ。
 後のことは、次に目覚めたときに考えよう。
 そうして瞼をつむると、水に潜るようにしてゆっくりと意識が沈んでいく。
 いままでの旅の思い出を夢で見た。
 深海の色をしたサファイアを売る行商人。可憐な桜色をした花。ガラス細工のフクロウの形をした大きな時計。金髪の物語を売り歩く旅の作家。天の川の星の一粒を飴に変える子供。ルビーを砕いたような火星の輝き。雨の一粒を覗く虫眼鏡。頭蓋の半分がダイヤモンドでできた大金持ちの娘。氷の中で姿をとどめた巨人の瞳の化石。雲よりも白い翼をもつ天使の少女。薔薇のように赤い舌を持つ蛇。水晶の結晶を飲み込んで立葵の花を吐き出す芸者。愛されると琥珀色の水になって溶けてしまう黒いヒル。
 どれも素敵な思い出ばかりだ。
 けれどどの思い出も、私の心を奪うには至らない。
 次の町ではどうだろうか。
 私の心を奪い去ってくれるだろうか。
 汽車は進んでいく。ボゥーーという間延びした汽笛が聞こえた。
 春の匂いがする。

さわやかな日差しで目が覚めた。車窓は若葉の生い茂る竹藪の中を進んでいる。草木の穏やかな匂いが頬をかすめた。列車は都会とは反対方向に進んでいるようだ。おや?と思いつつ、ひとまずは身を委ねてみる。切符を買ってくれたパン爺さんは、そろそろボケてきたのだろうか。
からからと列車の中を台車が近づいてきた。押しているのは人外の若者だ。
「お飲み物、どういたしますか?」
 目の前の彼は翡翠色のエプロンを身に着け、その下に真新しい白いシャツを着ている。全身が毛に包まれており、眠たそうな印象の顔からはぴょこりと小さい猫のような耳が生えている。台車を押す大きな手のひらにも毛は生えており、指(爪?)は細長く固そうで群青色に鈍く光っている。全体的にずんぐりむっくりした人外の彼だが、印象的なのはその体毛だ。人外にしては長毛の種類で、夜から切り取ったような美しいつやのある黒色をしている。顔の周りは短く切りそろえて清潔感を出しているが、肩より下は緩くウェーブがかかっておりふわふわに見える。思わず飛びつきたくなる衝動を必死に抑えた。
お茶をお願いします、と答えつつも、私の視線は彼の毛皮にくぎ付けになっている。お茶を置いて彼が去ってしまうまで私はひたすら毛皮を凝視する変態だったはずだ。
 ふわふわの彼が置いていったお茶はこの地方ではごく一般的なお茶で、春のお茶としても有名だ。桜の花びらとヒメワカシロ蝶の羽と薬草を煎じたもので、今の季節にしか飲めないお茶である。昔、材料に使われているヒメワカシロ蝶を捕ってそのまま食べてしまったことがある。お茶の材料なのだから、食べられると思ったのだ。結果、あまりの苦さにのたうち回った。ヒメワカシロ蝶は火を通さないととても苦いものだと後から知った。知識のきっかけになったいい思い出である。
 しかし調理されたお茶はほんのり桜色をしており、口に含むと優しい甘さが鼻を抜けていく。甘さの奥に薬草のほろ苦さも加わっており、故郷の実家を思い出すような穏やかな味だ。おいしくて一瞬で飲み干してしまった。
 コップの回収には人間の女性が来たが、車内を通る人外たちを一人ひとり目で追ってしまう自分に気が付き、さすがに恥ずかしく思った。それほどまでに彼の毛皮は忘れられなかった。
 意識を別のことに向けるため、窓の外の景色を見回す。
 外は桜吹雪だった。竹藪を抜けて、桜の森に入ったようだ。気が付かなかったが、開け放った窓からは桜の花びらがいくつも舞い降りており、膝の上に散っている。毛皮のことを考えていて気が付かなかった。頭上には星のように花びらがたくさん散っており、花の隙間からは青空が見える。上品な淡いピンクの山桜の吹雪は、まるで雪のようだ。ちらちらと目の前で散り、頬を滑っていく。まるで鬼でも住んでいそうな美しさだと思った。みると、他の乗客も目の前の絶景に息を忘れて見入っている。反対側の座席を見ると、あることに気が付いた。
 向こう側は湖だった。私が見ていたのは山側で、反対は湖になっている。さぞかし湖の青に桜が映えるだろうと、内心ちょっと悔しく思った。
 桜の森を抜けると、青緑色の針葉樹の生える山岳地帯へと進んでいった。山がかなり近い。よく目を凝らすと、峰を歩く人間の姿が見える。すこし山を俯瞰して見ると、ところどころに、山と山の隙間を埋めるようにして、湖が点在していた。はて、こんなにたくさん湖というものは同じ場所に集結するものだろうか。そう考えて、一つの解にたどりついた。今まで見た湖は、数日前に降った雨の水たまりだ。山と山の間の窪地に雨水が溜まっていたのだろう。そう考えると納得がいく。数日前の大雨は、勢いを増した川の水が陸を猫八匹分削ってしまうほどの勢いだった。そんなことを考えていると、ひときわ大きな水たまりの近くを列車が通った。キラキラと日光を反射する水面は、水晶を砕いてばらまいた様に輝いている。すると、水面を巨大な魚影が横切った。小さい頭にぬらりと驚くほど長い首。丸みを帯びた体からは四つの雫の形をしたヒレがゆらゆらと蠢いている。
 なるほど、水たまりに魚はいない。湖だったか。
 今の魚(魚?)を調理すれば、さぞかし巨大な料理になっていただろう。食べきれるだろうか。
口内から湧いて出た唾をゴクリと飲み込む。急に腹が減ってきた。鞄に入れてあった時計を確認すると、もうお昼を過ぎている。列車に乗るために朝早くから出発してきたため、今日は朝ごはんをまともに食べていない。鞄にはいくつか街のみんなが持たせてくれたお菓子やら手料理やらが入っているが、移動の邪魔にならないよう最小限の物しか貰ってこなかった。これ程度でおなかが満たされるとも思えない。どうしたもんか。
カラカラ…と、廊下を滑る台車の音が聞こえてきた。こんなに都合よく車内食が食べられることに神様に感謝する。私は何らかの宗教に信じているわけではないが、こういった時だけでも祈るのは悪いことだと思っていない。
台車が目の前に来る。前の街で稼いだ分のお金は残っていたので、焼き魚弁当を注文しようとした時だ。
「あ」
 あ?
 人外の青年が口を開いた。見ると彼は先ほど会ったふわふわの彼だった。私の視線は再び毛皮にくぎ付けになる。
 しかし、「あ」?「あ」ってなんだ。
「んん…、失礼しました。焼き魚弁当と焼き肉弁当、サラダ、どれに致しますか?」
 先ほどの失言をなかったことにしたいのか、わざとらしく咳払いをしている。どうしたんだ。
 ひとまず焼き魚弁当を注文してレシートを貰う。
 この列車は三六五日運航しており、止まることはない。どこ行からどこ行き、などと決まっていないため、車内食は無料ではない。
香ばしい焼き魚の匂いが香り立つそれにかぶりつこうとした時、突然人外の青年が私の前の席に座った。
「失礼します」
 などと悠長なことを言っているが、私はお腹がすいている。弁当を食べさせてくれないなら、いますぐその毛皮をモフらせてくれ。
目の前のふわふわの彼は私が二つの強大な欲望と戦っていることなどつゆ知らず、じっ…と私を瞳に焼き付けるように見ている。本当にどうしたのだろうか。
 先に口を開いたのはふわふわの彼だった。
「…僕の毛皮を見ていた人ですね」
 ‼
 ばれていた!さすがに視線が露骨すぎたのだろうか。もっと自然に、流れるような動作で相手を凝視する術を体得する必要がある。わたしは極東の島国に「ニンジャ」という不思議な術を使う一族がいることを思い出した。
気まずい空気が流れる。
ひとまず謝っておこう。いやな気分にさせてしまっていたら申し訳ない。
「不快な気分になられていたら、申し訳ございません」
頭を下げるとふわふわの彼は焦った様子で「いやいや!そういうことじゃなくて!」とふわふわの腕をぶんぶんと振り回した。
 そういうことじゃない、ということは、どういうことなのだろう。
「僕は自分の毛皮が好きじゃないんです。人から褒められたこともなくて。だから、僕の毛皮に興味をもってもらえて、とても嬉しかったんです。」
 震えた。
 まさか、こんな魅力的な毛皮が、褒められたことがない?信じられない。彼の周りにいる奴らは全員目が節穴なのだろうか。私は彼に彼自身の毛皮の良さを力説した。自分の毛皮の素晴らしさを理解してもらいたかった。
「まずは毛皮のふわふわした肩から全身にかけての毛の流れが素敵だと思います。柔らかさと艶のどちらも兼ね備えた素晴らしい毛並みです。どこぞの獣畜生では再現できない手入れの行き届いたウェーブの毛皮はまるで絹のようで滑らかで美しい。そして色も夜の闇の中を泳ぐような穏やかで上品な紺色をしています。立ち姿も毛皮の柔らかい部分が光に透けて大変きれいでした。なによりその毛皮には、一人の少女を虜にするほどの魅力がありますよ」
 ふわふわの彼はぽかんとした顔で私の話に聞き入っていた。しまった、引かれてしまっただろうか…。
「驚きました。そこまで僕の毛皮を褒めてくれた人は初めてです。嬉しかった。ありがとうございます。僕、ルルって言います」
 ルルは半分泣いているように見えた。そこまで嬉しかったのだろうか。
「リリーです」
「リリーさんは、どうして旅をしているんですか?」
 私は今まで一度もルルに旅をしている、と言ったことは無い。別に隠すつもりもないが、どうしてばれたのだろう。
「旅行者にしてはしっかりした靴と、鞄が小さいので、移動に徹しているのだと思いまして。あとは勘です」
 勘、というのは、たくさんの旅行者や旅人の相手をする吟遊鉄道に従事するゆえ、身についたものなのだろうか。
「リリーさんは、次に行く場所は決まっていますか?」
 決まっていない、というと、ルルは嬉しそうに顔をほころばせた。笑うとナマケモノのように目元が下がる。
「もしよければ、『砂の孤島』という駅で降りてみてください。僕の実家がある場所ですが、穏やかでとてもいい場所です。僕は今日で休暇なので、もしよければ案内できますよ」
なるほど。たしかに目的地が決まるのはいいことだ。しかも案内までしてくれるという。断る理由はなかった。
「それでは、『砂の孤島』で待っていますね。あっ、そういえば、昼食前に失礼しました。もうお弁当、冷めてしまっていますよね」
 ようやく気が付いたか。これはもうその毛皮を私に提供してくれないことには気が済まない。
「これ、サービスのサラダです。僕のおごりなので気にしないでください。それでは」
 席を立ったルルの背中を初めて見たが、腰の辺りからふわふわの尻尾が伸びていた。大きさは私の手のひら五個分くらいだろうか。またもや私の視線はルルにくぎ付けになる。
 焼き魚の弁当は冷めてしまったが、サービスのサラダと新しい目的地と、ルルという目の癒しを手に入れることができたのならば、安いものだと思った。
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